第三章 行雲流水 3.
3.
顔を合わせてから二日間、文若は妙才の調練に付き合っていた。
調練場の土の上に、文若が何本か線を引き、数人の兵士たちに陣形を示すと、全員ぱっと散って行った。
「軍事は、俺の専門じゃないんだがな……」
手に持った棒切れを回しながらぼやく文若を、妙才は軽くいなす。
「俺の何倍も、兵法に詳しい奴が何を言うか」
「兵法に関する書は、片っ端から読んだからな。実践するとどうなるのか、気になるところではあったが……」
妙才は、心得たという風に頷く。
「だったら、俺に付き合えばよかろう。幾らでも試させてやるぞ」
「それもそうだな」
文若が考えながら同意したところに、孟徳の声が聞こえてきた。
「お前たちの気が合うとは、意外だったな」
感心したような声だったが、中にからかう響きがあった。
妙才は軽く、
「やかましいわ」
と返して、そのまま兵士たちとの調練に加わった。
戦の準備に忙しい孟徳は、文若や妙才と食事を共にする時もあったが、調練場に顔を出したのは二日ぶりだった。
初日と比べ、士気も動きも明らかに上がっている兵士たちの様子を、孟徳は満足そうに眺めた。
「使いものになりそうだな」
「あと半月もあれば、格好は付くと思う」
「後から来る兵士の、見本となってもらわんとな」
「今の様子なら問題ない」
文若は頷いて、請け合った。
孟徳が来て、一時たった頃、屋敷から使用人が駆けて来た。
「殿!」
男は孟徳の前に膝を付くと、前に屈んだ孟徳へ、何事かを耳打ちした。
孟徳は頷き、文若を振り返った。
「文若。すまんが一緒に来てくれ」
「分かった」
文若は即答した。取りあえず己がここでやれることは終っている。
妙才は兵士たちと少し離れた場所にいた。
そちらをちらっと見やって、文若は孟徳の後に続いた。
屋敷へ戻り、普段孟徳が執務を取っている部屋に入ると、旅装の若い男が二人を待っていた。
膝を付いて平伏した男に、孟徳は「顔を上げろ」と鷹揚に言った。
上げられた線の細い顔に、文若はどこか見覚えがある気がした。
「お久しぶりでございます、曹操様、荀彧殿」
掛けられた声は、見かけと異なり女性のものだった。
文若の脳裏に、はっと閃くものがあった。
「洛陽を出た夜に会った……!」
女の顔の線が、月明かりの下に見たおぼろげな記憶と重なった。
今は男装をしているが、洛陽脱出の夜、孟徳に案内された荒ら屋で会った女だった。
(あの時は老婆で、今度は若い男か)
次会う時は老爺かもな――文若は興味を持って女を観察した。
こうして明るい所で見ると、目元の涼やかな、美しいというより凛々しい顔立ちの若い女だった。
呂伯奢の屋敷で見た、孟徳の下で働く闇のような男たちと、どこか似た雰囲気がある。
文若が己の認識を更新したところで、孟徳が口を開く。
「お前があの後、洛陽で見聞きしてきたことを、俺たちの前で話せ」
「はい」
女が心もち頭を下げた。
「董卓将軍も麾下の兵士たちも、街の掌握には飽いたようです。洛陽は、表面上は落ち着きを取り戻して、市なども開かれております。ただ商人の囲い込みや、利益の大部分が、将軍の元に吸い上げられる仕組みなどは、より強固になっていると言ってよいでしょう」
よどみなく語った後、一息ついた女は二人を見て、
「呂布という武将の名を、ご存じでしょうか?」
と尋ねた。その名に反応したのは孟徳だった。
「確か、丁原の養子が、そんな名前じゃなかったか」
「丁原というと、執金吾(洛陽の警備長官)の?」
文若の言葉に、孟徳が頷いた。
「思慮は浅いが、勇猛果敢ではあったな。似たような養子を迎えたと、以前ちらっと耳に挟んだ覚えがある」
つまり、丁言が養子にしたのも、思慮が浅くて勇猛な人物だということか……文若が納得していると、女がさらりと凶報を告げる。
「その丁原殿が殺害されました。下手人は、呂布奉先。元、丁原殿の養子で、今は董卓将軍の養子です」
文若は目を瞬いた。
今聞いたばかりの、簡潔な言葉に籠められた、幾つかの新しい情報と、頭の中にあった情報を照らし合わせる。
「つまり、董卓が呂布を唆したのか?」
文若の呟きに、孟徳が応えた。
「おそらくそうだろうな」
「丁原は董卓と結んでいると聞いていたんだが」
文若は洛陽にいた時は確かにそうだったはずだ。だからこそ執金吾としての地位も保障されていた。
だが孟徳はあっさり「昨日の友は、今日の敵だ」と言い切った。
「特に珍しくもない話だろう。……まあ、養子に殺されて、その養子が敵の養子になる、という展開は少し新しいが」
おもむろに腕を組んだ孟徳も、頭の中を整理しているようだった。
文若はまだ床に膝を付けたままの女に、丁寧な言葉遣いで尋ねた。
「呂布とはどのような人物か、分かりますか?」
女は文若を見上げ、一拍間を置いた後、よどみない口調で答えた。
「勇猛な武将です。市中見廻りの際、董卓将軍の部下を十人まとめて葬り、将軍に気に入られたと聞いています。五原(蒙古)出身で、馬を能く使う人物だそうです。旗下に招く際、董卓将軍は呂布に汗血馬を与えたとのことです」
汗血馬とは、一日に千里を走ると言われるほどの名馬を指す。
「養父を、裏切ってもおかしくないほどの馬ではあるか……」
満更でもなさそうな孟徳に、文若は頭の中で呂布の人物像を作成しながら口を開いた。
「もし本当に、馬が惜しかったのだとすれば、その辺りから人となりが分かるな」
「あまり外れてはいないと思うぞ」
と文若に返して、孟徳は再び女に話を促した。
「官吏たちの様子は、どうだ?」
孟徳の質問を聞き、反射的に文若の肩がひくりと揺れた。
「大方の首は刎ね尽くしたようで、董卓の言に、表立って逆らう者はおりません。が……その分だけ地下で、秘かに謀略が進められているようにも見えます」
公達殿、何頚殿――今も、宮城で戦っている同胞の名を思い浮かべ、文若は無事を祈る。
「……そうか、その辺りの観察は怠るな」
「はい」
話の区切りがついたところで、女は懐から布に包まれた書簡を取り出した。
「これは私どもの仲間が洛陽近くで、荀彧殿を探していた小者から、直接に預かった物です」
孟徳は、驚いている文若に顎を向けた。
「詳しいことを話してやれ」
「はい」
女は文若に向き直り、再び一礼する。
「七日程前、都の外門近くで行き会った一団の中に、荀家の家僕と名乗る者がいたとのことです。荀彧殿が洛陽から出た後、私共の主の元に身を寄せている旨を話し、こちらをお預かりして参りました」
見ず知らずの相手の話をよく信用したな、と文若は眉を顰めたが、すぐに理由に思い当たった。
「何頚殿か!」
女が頷いた。
「何頚殿から荀家に、荀彧殿が曹操様の所にいると、連絡が行っていたようです」
孟徳は素知らぬ顔で、執務机に載っている地図を眺めていた。
文若は女から書簡を受け取り、中を開いた。
書かれていた文字は、間違いなく長兄の筆蹟だった。
中には、都に近い穎川は危ないという文若の忠告に従って、一族で故郷を後にしようとしたこと。
その矢先に、同郷の出である現・冀州牧(長官)の韓馥から、護衛を兼ねた、迎えの一個小隊が来たという話。
以前から定めておいた疎開先でなく、そのまま冀州へ向かったこと。
文若にも、こちらへ来て欲しい等という話が、細々(こまごま)書かれていた。
読み進めていく内に、文若は己の顔が強張っていくのを感じた。
(韓馥がただの親切心で、穎川まで迎えを寄こす訳はない)
読み終えて顔を上げると、気遣うような視線に気づいた。
文若は苦笑を浮かべながら、孟徳に書簡を差し出した。
「心配を掛けてすまない。一族の者は皆無事だ。だが、少し面倒なことになったようだ」
手渡された書簡を一読して、孟徳がぼそっと呟いた。
「同郷出身なら、お前の家の事情も、お前のこともよく知っているだろうな」
「以前から、仕官の誘いはあったんだがな……」
文若は、『もっと、きっぱり断っておけばよかった』と、掌をきつく握りしめた。
「実力行使だな」
「そういうことかもな」
わざと、冗談めかして言ってくれた孟徳の気遣いに、文若も口の端を上げて応じた。
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※潁川:予州に所属する郡。地図で行くと冀州はその上の上あたりです。




