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第一章 魔都脱出 1.

 中平六年(189年)秋。洛陽。

 百五十年の長きに渡り、栄華を極めた後漢の都は、今や、夷狄の兵士に容赦なく蹂躙され、民の泣き叫ぶ声で塗り固められた。

 壊れた食堂の暗がりに、ひっそりと座っていた男が、手にした酒を呷り淡々とつぶやいた。

 

「この世の地獄だな」


 中心にある宮城も、例外ではない。

 むしろ全ての騒乱のみなもとである玉座は、血が乾く暇もなかった。

 そして現在、その玉座に在るのは、皇帝でも皇太子でもない。


「まだ血が足りぬな」


 大極殿の前にある広場では、その言葉に呼応するように、官吏や武官の首が次々と刎ねられていた。

 辺境で夷狄から国を護っているはずの地方将軍が、その巨漢を玉座に預け、この処刑を睥睨している。

 将軍の、主であるはずの皇帝は、その隣に座らされていた。

 皇帝はまだ十にも満たず、眼前で繰り広げられる惨劇に、小さく細い体を震わせている。

 皇族、宦官、文官、武官、と、あらゆる反対を力で押し切った将軍に逆らえるものは、宮城のどこにもいなかった。

 将軍が辺境から連れてきた異形の兵士たちが、獲物を求めて徘徊しているだけだ。

 帝を護る任にあった武官たちは、既に殺されるか逃げ出すかしていた。

 朝廷で政務を執っていた文官たちも、半分は殺され、残り半分も明日の我が身の保証などはなく、振り回され嘆くしかなかった。


「時間切れだな」


 刻一刻と悪くなっていく情勢を頭の中で集積し、分析し、振り分けながら、荀彧文若じゅんいくぶんじゃくはつぶやき、宮城内を早足で移動していた。

 宮城は広く、作りは複雑だ。

 新参者には、まず見つからぬであろう道を選んでいる――が、玉座が力で奪われて以来、いつどこからか、血に飢えた兵士が現れるか分からない状況だった。


「焦げ臭いな……」


 文若は鼻をひくつかせ立ち止まり、今しがた通った回廊を振り返った。

 煙が空に上がっているのが見える。

 方角から書庫のある辺りだと推測すると、文若は近くにあった大柱を拳で殴りつけた。

 複雑な紋様を施された柱はびくりともしないが、衝撃を吸収したはずの文若の手も、痛みを訴えなかった。

 感情が昂ぶり過ぎて、痛みを感じる余裕がなかった。


「ケダモノどもに、記録することの価値なんて分かるわけはないが、分かるわけはないが……腹が立つ!」


 分かるのならば、『ケダモノ』ではあるまい。

 本当に重要な木簡や、石に刻まれた碑文は、宮城の奥深く、たやすく人を寄せ付けない場所に隠してある。


(それでも……!)


 たとえ滅びた文明の詩文の一節とて、文若にとっては宝玉より遥かに価値のあるものだった。


「石と違って竹も布も燃えるし、燃えたらもう誰にも読めないんだぞ!」


 宮城へ来て良かったと、唯一感動した、貴重な文献の数々を思い出すと涙が出そうになる。

 文若は唇を噛みしめ、些か乱暴に足を急がせた。

 見えない何かを踏みつけるように、踏みにじるようにして、足を前へ前へと進めた。


「……腹が立つ、ああ腹が立つっ!」


 口元からは絶え間なく、荒い息と、怒りに満ちた呪詛の言葉が溢れて来る。


(どこもかしこも馬鹿ばっかりで、腹が立つったらない!)


「きっちり跡継ぎを決めておかなかったジジイも馬鹿だし、嫁憎しで首を突っ込んできたババアも馬鹿だし、辺境からケダモノどもを、わざわざ呼び込んだ野郎も馬鹿すぎる!」


 ジジイは皇帝、嫁は皇后、ババアは皇太后、野郎は皇子の叔父にあたる可進大将軍である。

 ケダモノは自ら選らんだ、新たな皇帝を隣りに侍らせ、玉座についている并州刺史(地方長官)の董卓将軍を指している。

 別に誰かに聞かれるのを警戒して、言い換えているのではない。

 文若の頭の中ではこの宮城の主、つまりこの国の主たちは、常にその呼び名で記録されていただけである。


「馬鹿者どもは馬鹿者どもらしく、馬鹿馬鹿しい奴らに殺されたのは条理だろうが、刎ね飛ばされる頭があんなら、少しは先のことも考えて行動したらどうなんだ!」


 宮中に仕える上級の文官らしからぬ言葉遣いで、次々と毒を吐きながら文若が目指している場所は、平素なら官吏たちが仕事をしている一角だった。

 長い廊下の先、目的の執務室の扉は、文若を待っていたかのように開け放たれていた。

 文若が中へ入ると、荒れた部屋には、ただ一人だけが残っていた。

 毅然と背筋を伸ばし、手にした竹簡に男――荀攸公達じゅんゆうこうたつは、黙々と墨を入れている。

 程なくして手が止まり、静かに筆が置かれた。

 おもむろに顔を上げた荀攸は、文若へ向き直った。

 荀攸の持つ、人を落ち着かせる穏やかな雰囲気と表情が、この修羅の中でも変わらないことに、文若は心秘かに感嘆した。


「文若殿」


 落ち着いた声音で名を呼ばれ、文若は、ほっと息をつくと口を開いた。


「公達殿、幾らなんでも潮時です」


 いつの間にか、きつく握り締めていた手をゆるゆる解いて、文若は続けた。


「もう都はダメです。城外の一族にも、洛陽の周囲から離れるよう指示を出しました。我々も引きましょう」


 宮廷で、『黄門侍郎』を勤める荀攸は、文若より八つ年長の親族だった。

 文若が皮肉を交えぬ丁寧な言葉を遣う、数少ない相手でもある。

 三カ月ほど前、文若を都へ呼んだ時と同じように、荀攸は扉外の状況にそぐわぬ、おっとりとした眼差しで文若の顔を見つめていた。


「公達殿?」


 焦れた文若が、再び撤退を促そうとしたのを見計らったように、荀攸は落ち着いた微笑みを唇に浮かべて、きっぱりと告げた。


「文若殿、私はここに残ろうと思う。貴方だけで脱出して下さい」

「何を言われる?!」


 予想しなかった言葉に目を剥く文若へ、荀攸は言い聞かせるように言葉を継いだ。


「私は可進大将軍に召されて、この朝廷に入り、禄を食んだ者です。将軍は必ずしも清廉な方ではなく、私欲のために身を滅されました……ですが、この国を思う気持ちは本当でした」


 荀攸は悲しげに目を細めたが、文若は心中で眉を顰めた。

 文若の知る限り、可進の所業はとても国を思う高官のそれではない。

 ……とはいえ、人品骨柄を知るほどの時間はなかったので、とりあえず荀攸の述懐を尊重して、文若は黙っていた。


「一度は主と決めてお仕えしたお方です。そのお志だけでも継ぎたいと思います」

「お気持ちは分かりますが、しかし! 今の朝廷で、それが通りましょうか?」

「確かに難しいでしょう。無駄な行いになるかもしれません。ですが、漢帝国の家臣の一人として、できうる限りの努力はしてみるつもりです」


 幾ら文若が言い募ろうと、荀攸は柔らかく微笑むのみだった。

 そんな荀攸の反応に文若は唇を引き結び、仕方なく肩を落とした。

 荀攸は、一族の中でも貴重な尊敬できる人物だった。

 こうまで荒廃した宮城に、一人で残すわけにはいかない。


「分かりました。では、私も残りましょう」


 だが文若の言葉に、終始穏やかだった、荀攸の声が一変した。


「それはなりません」


 断固とした拒絶に、文若は目を瞬いたがすぐに反論した。


「何故です? 私だって、同じ漢帝国の家臣の一人です。それに何より、公達殿を見殺しにして一人で逃げることなどできません!」


 言いつのる文若に、冷徹な声が返った。


「文若殿、あなたは今まで何のために、学問を学んでこられましたか?」


 糾弾されるように訊ねられ、文若は思わず返答に詰まった。


「それは……」

「度重なる『孝廉』の推挙を断り、出仕を拒み、長い間に亘って諸国を歩いて見聞を広めておられたのは、何のためですか?」


 すんなりと、「腐りかけている漢王室のため」とは言えない文若に対し、荀攸は畳み掛けた。


「この乱世を終結させ、困窮する民を救う。それが幼き時よりの、あなたの望みだったのではないですか?」


 そんな崇高な望みじゃない――頭に浮かんだ言葉は、なぜか喉に絡まって唇から出てこなかった。


「ならば、このような所で命を懸けるような行いは、天命に背く仕儀になりましょう」


 荀攸はさらりと、このような所――つまり今の宮廷には、乱世を終結させるだけの力がないと認めた。

 それでも残ると言うのだ。

 文若は爪が食い込むほどに、自らの手を握った。


「それはっ……!」


 ようやくのどから出た声は、きっぱりとした荀攸の言葉に遮られた。


「それに、はっきり言ってしまえば、あなたがここに残っていてもできることは一切ありません。まだ朝議に入って日も浅いあなたでは、この先の事態に対応しきれるかどうかも、はなはだ疑問です」


 足手まといになるだけだと言われ、文若は口惜しさに唇を噛む。

 やがて荀攸は、立ちすくむ文若の肩に軽く手を載せた。


「それに私も、むざむざ死ぬ気はありませんよ?」


 文若は顔を上げて、荀攸の顔を見た。

 荀攸は元のように穏やかな表情で、文若を力づけるように微笑んでいた。

 しばしの沈黙の後に、文若は口を開いた。


「本当ですね……?」


 縋るような問いかけに、荀攸は確りと頷いた。


「最後の最後まで、生への望みは捨てないと、ここであなたに誓いましょう」


 ……正直、真偽の程は分からなかった。

 だが、荀攸の声は重く、文若の中に落ちていった。






 ―――――――――――




 *黄門侍郎…皇帝に近侍するこの官職(郎官)

 *孝廉…毎年国郡ごとに優秀な人物を官人として推挙する制度


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