確信
晴れた一日だった。
しかし、寒さは相変わらずで、時折、一陣の風が吹きぬけていくような日。
「可愛いはずなのに、な」
少年は、膝の上に小さなリスを抱えながら、呟いた。自分には、ただの毛玉としか感じられなかったからである。
少女と出会ってから一週間も経っていないある日、少年は、一緒に上野にある動物園に来ているのであった。
動物好きの政府上官が、自分勝手な都合で開けていたようだった。そんな政府の態度に腹を立てたが、自分もここに来ている身であるが故に、あからさまな反発はし難かった。
リスを脇に置いて、身体を伸ばしていた少年の隣では、少女がベンチに腰かけて少年と筆談を試みようとしていた。
『キミは、どこをどう傷つけられて触覚を失った?』
「え、あぁ。掘でマシンガン連射してたら、いきなり空から黒い物体が落ちてきたんだ。避ける暇もなくて、脳天直撃だった。気付いたらこんな様だ」
『なるほど。それは、おそらく不発弾』
しかし、どう気を使っても話はどうしても戦争のことに傾いてしまう。
なぜ、少女がまだ少年のそばにいるのか。
それは、少女の身内もまた全員徴兵されてしまったからである。帰っても何もない、誰もいない、それならいっそのこと自分と同じ境遇の少年といよう。そう考えたらしい。
幸いなことに、少年の家には未だに家族が使っていた布団があった。二人は、自らの身内の穴を埋めるように、風呂に入る時以外は、いつでも一緒にいた。なんと寝るときも一緒だった。
少年にとって、もう少女は、もうすでに家族同然であった。少年は、戦場にいたときと比べものにならないほど、心を落ち着かせることが出来た。
二人はリスのエリアを立ち去ると、ワニのエリアに行った。政府上官用に作られた簡易なものだったので、柵も木製の頼りないものだった。
なるほど、それは見るからに凶暴そうなワニであった。
しかし、少年は、闖入者に激しく威嚇するワニが怖くなかった。背中一つ一つの、無数の短刀を思わせる棘を逆立て、その牙を鏃のように鋭く光らせ、逆光に照らしている。
生物的本能に従えば、例外なしに逃げ出すような光景を前にして、少年は身じろぎ一つしなかった。赤ん坊を見ているような目で、ワニを眺め回した。威嚇しても怯まない闖入者に、ワニは見るからに困惑していた。早い話、少年は、生物的本能さえも失いかけているのだ。
しかし、ワニの方も立派な肉食ハンターである。先程の困惑なんてどこへやら、槍のような牙を剥き出しにして、柵にかじりついた。柵は、まるで小枝のように、悲鳴にも聞こえる音を立てて崩れ去った。あとに残ったのは、木屑ばかり。
とある生物学者いわく、本当に獰猛になった肉食動物は、銃を持った人間の比にならないくらい、恐ろしい、とか。
そんな、食物連鎖の頂点近くまで上り詰めた猛獣は、今にも、か弱い人間である少年と少女に噛みつきそうであった。
少年は一歩前に踏み出した。ワニは、その足音を合図にするかのように、持ち前の俊敏さで、少年に噛みついた。
いくら訓練されたとはいえ、人間である少年は、その速さに反応して避けられるはずもなく……。
……だが、華麗にガードした。自らの左腕で。
ぶしゃああぁぁぁぁッ!!
鮮血が、コンクリートの地面に、無秩序に舞う。ワニは、返り血には慣れきった、といった様子で、ますます少年の左腕にむしゃぶりついた。
皮膚が破け、肉は裂ける。
血管が弾け、骨は砕ける。
食物連鎖を、身を持って感じさせる一瞬であった。
動物園の柵の外、一人の少年と、彼の腕にかぶり付くワニ、口を押さえて目をこれでもかというほど見開く少女。
ところで、ワニは、一度捕った獲物は二度と離さないという。例え獲物を同族のワニに千切られ、盗まれたとしても、どこまでも追いかけ、追い付き、殺してでも奪い返す。
が、ワニのそんな習性などどこ吹く風、己の血や肉を目の当たりにしても、少年の目は、どこまでも冷静の一色であった。
猛禽類の目で、自分を傷つけるワニを見据え、睨み付けた。
少女はますます焦る。引き離そうとする。ワニの顎がますます引き締まって離さない。
ところで、ワニが獲物を決して離さない理由をご存知だろうか。それは、獲物を確実にねぐらへと持ち帰り、家族に届けるためだという。ワニは、家族のためならば、自らの命さえ惜しくはないのだ。
そしてこの少年、ワニに負けず劣らず、自分の命さえ怪しい状況下で、一目惚れした少女を気遣う勇気があった。少女の手が噛みつかれまいか心配し、華奢で、きめ細やかな少女の手が、自分の血で汚れるのを恐れた。
少年は、空いている右手で、少女の手を制した。そして、間髪いれずに、その手をそのまま一気に降り下ろす。少女も、自分を匿ってくれた少年の危機に、すごすごと引き下がりはしなかった。少年にほんの遅れを取りながら、続けて手を降り下ろす。
ずごッ……!!すごッ……!!
鮮血が、再び冬の空に舞った。肌寒い風に煽られ、そこらじゅうにへばりつく少年の血痕に被さるように、辺りを濡らしていく。
このどす黒い血は、少年のものではなかった。そして、人間のものではなかった。
誤たず、少年の指がワニの右目に、少女の指が左目に、突き刺さっていた。その指は、吸い込まれたかのように正確だった。人間の指が、凶器に変わった瞬間だった。
ワニが、けたたましく冬の空一杯に叫声を上げ、踏ん張ろう、踏ん張ろうとして、ついに地へと崩れ伏した。
少年の左腕は、グロテスクな中身を外界にさらしながらも、異物を取り除くことに成功した。
一心同体そのものの阿吽の呼吸でワニを沈めた二人は、一斉にその指をずぼっと引く。
そして二人は、うん、と深く頷き合った。
少女の屈託のない、天使のような笑顔に、少年は一種の感動を心に広がらせた。血液の量はみるみる内に増え、脈拍は、倍近くにもなっているように感じた。
少女に対する想いは、ただの恋だけに留まらなくなっていた。会ってからまだ一週間も経っていないのにも関わらず、そこには確かな信頼関係が芽生えていた。何らかの言動が起こる度、見違える程に絆が固くなっていくように感じた。類は友を呼ぶと言うが、同じ境遇という条件は、恋を呼びつけ、友をも呼びつける。
見ると、少女も少年に負けないくらいの達成感と感動を顔の筋肉で表現し、ほっと安堵のため息をついていた。
『大丈夫?随分とひどい怪我。心配』
その手帳は、少女の小さな手についた血で、どろどろに汚れてしまっていた。
「気にするな。前に言っただろう。どんな傷を負ったって、痛くはない」
少年は一仕事終えて満足そうな顔をし、どこからか取り出した風船ガムを、ひょいと口に放り込んだ。腰の位置から放ったのにも関わらず、それは、きちんと舌の上に乗った。手慣れた技だった。
『でも生命的に危険。帰って手当てする』
少年は、当たり前のように、少女の言葉に頷いていた。
少年と少女は、来た時よりもさらに近い位置取りで肩を並べ、その足で帰った。ときどき肩が軽く触れては、少女がぴくっと反応し、少年はそれを見て薄笑いを浮かべる。通りすがる人は、赤黒い鮮血を極寒の中に滴らせては真っ白な雪を染め上げる少年に怯え、ふと視線を動かして捉えた美少女に息を飲んだ。極めつけに、少年は、腕の骨が空気に触れているにも関わらず、呑気に風船ガムを膨らませている。色々な意味で、異様な二人組であった。
その時、なにかがふわりと視界をかすめた。
「ん?」
見上げると、幾千もの白い雪が空から舞い降りてきていた。
あの日を同じだ。少年が帰国した日も、雪が降っていた。
「雪だな」
少年が言った瞬間、少女の顔もぱぁっと華やいだ。
それに合わせて、少年の心も幸福感にあふれる。
ここは、雪に感謝。
雪の中歩き続ける少年と少女は、いつの間にかぴったりと肩を寄り添わせていた。
『これでよし。数日間はじっとする』
「おう、ありがとう。………………こんな人間としての欠陥品のために」
そんな自虐の台詞に、少女は頭を激しく横に振った。髪とマフラーが、必死に頭についていこうと左右する。
少女の手当ては、快適かつスムーズであった。軍に加入するとき、女性ならば最低限の医療技術を習得せねばならず、覚えていたそうだ。
少年は、自らの左腕を見下ろした。痛いという感覚は皆無。ただ、包帯に滲む赤いものが見えるだけ。
少年は、実際の話、無茶苦茶どきどきしていた。少女が自分の腕に触れる柔らかさや、夢中の余り少年の首筋に当たる甘い息は感じていない。だが、視界に映る、自分のために必死になっている少女の顔だけに、心を震わせた。それだけ、少女の美貌は魅力的だった。それと同時に、少女の性格面での魅力も、容貌に負けず劣らず伝わってきた。
そして我をも忘れ、あふれてくる感慨に浸った。
少女の手当てを受けられるなら、どんな怪我をしても構わない、そう思うほどに。
「ありがとう」
少年はたまらずに、重ねて二度目の礼を言った。少女は、顔の前で照れたように手を左右させ、嬉しそうにはにかんだ。
#
ぱんっ、ぱんっ……。
少女が、大ぶりの太鼓を、平手打ちで叩いていた。
「だから、コイン入れないと動かないし、タイミング良く押さないと点数取れないってば。ほら、これ使え」
太鼓、コイン…。そう、彼らは今、ゲームセンターにいるのだった。
少年の声に、少女の叩く手が、はたと止まる。
そして少年の投げたコインに気づくと、茶髪を振り乱しながら、飛んでくる一枚のコインを受け………取りこぼした。
「あっ…。太鼓の下に」
少女がキャッチ出来ると踏んで、コインを投げて寄越してしまった自分に責任があるのかもしれない。
コインは不運にも、太鼓の下に潜り込んでしまう。
少女は、手でコインの軌道をなぞるように、転がる先を追いかけた。が、必然的に、その真っ白な両手は、太鼓の淵と床の隙間に、すぽっとはまってしまった。
むぐむぐぅーっ…。
少女は抜けなくなった手首を抜こうとしてもがき、ついには諦めたのか、さらに奥に手を伸ばしてコインに触ろうとする。
まるで子どものように、可愛らしい。本当に、癒される。
なんて考えてたら、本人に悪いか。
しかし、何とも目を向けづらい。ただの可愛らしい小学生とは、まるっきり違うのである。その、スリーサイズが。
少女は、今日は比較的暖かいから、と言って(書いて)、少年の家から家族のスカートを借りていたので、おまけにその中身も丸見えである。
うわァ……。
少年は慌てて鼻を押さえた。
片思いの少女の下着を見れば、いくら少年でも、男なら誰でもそうなるに違いない。そう、違いなかった。
………………?
そんなことを思って笑みを浮かべていると、少女が不思議そうな表情で振り返り、小動物風に首を傾げた。
………………可愛すぎる。そして、まだ下着が丸見えであることに気づいていないところが、目に毒である。
「ほら、これ」
これ以上直視したら、本当に変態みたいだ。少年は堪らなくなって、次なるコインを、今度はしっかり機械の穴に投入してやった。
そして、未だにもがもがしていた少女に目も向けられなくなって、いまだ包帯の取れない腕で、少し太鼓を持ち上げてやる。
少女は痛そうな赤い跡を残したまま、その手で頭をかきかき、しまいには恥ずかしくなってしまったのか、照れ笑いを漏らした。
その可愛さに思わず少年の顔がほころぶ。
「まずはバチを持って、曲を選ぶんだ」
少年は下心を隠すように、大股で少女の背後に回ると、ぐっと彼女な両手首を掴んだ。まるで、親が子どもに箸の持ち方を教えるように。
「どの曲がいいんだ?」
カッ、カッと太鼓の淵を叩き、画面にずらっと並ぶ曲名を横にスライドさせながら、少年は問うた。
一方少女の方はというと、手首の行方を少年に任せながら、少年との極度な密着に、顔を紅潮させている。もちろん少年は気付いていない。
そして恥ずかしそうにその柔らかそうな脇を縮こませながら、とん、と優しく太鼓の面に触れた。
しかし太鼓は、少女の照れを理解出来るはずもなく、場違い、ある意味では場相応の音量で、ドンっ!と効果音を重ねた。
「この曲知ってるのか?」
ふるふる…。少女は盛大に首を降った。
なぜこの曲を選んだ…。
そう思った少年だが、もしかしたら、これらの曲を一つも知らなかったのかも知れない。その辺は、ろくに趣味の時間も与えてくれなかった親たちと、軍事教官に責任がある。
少年は包帯の残る腕をポケットに突っ込み、近くの両替機に寄りかかった。
始まるドン!
謎の語尾を残して、画面は暗転し、ゲーム画面に切り替わる。
画面の下の方では、バチを持ち、三角巾を巻いた二足歩行の犬が踊っていた。
少女がおもむろにバチを試し振りする。すると、それに反応した画面の円が、右左、赤青と点滅する。
(んっ……うぅん……あっ…!)
やがて流れてきた赤青の顔マークに、少女は髪を振り乱して戸惑った。
はは……っ。
少年はそんな少女の姿を、ただ微笑ましく見守っていた。
『難しい。やりがいがない』
「確かにやったことがないのなら、これは難しいよな…。よし、やりがいのあるもの………賞品があるもの。UFOキャッチャー!」
………?
少女は再び首を小動物風に傾げた。
『宇宙人捕まえる?』
……………この少女は、思ったよりもバカなのかもしれない。世間知らずすぎる。
「いやいや、違うから。ガラスケースに入った景品を、機械のアームを使って取るゲーム」
ぽんっ、と少女は左手でグーを作り、右手のひらにぶつけた。そして、浮かべた照れ笑い。
そんな少女の一面は、ちょっとおバカなところを打ち消し、何倍ものプラスに変えるほどの威力を誇った。
またしても少年が自分のコインを投入。そして再びかたわらの遊戯機械にその肩を預け、妹を見るような温かい眼差しで、少女の姿を眺めていた。
少女は、ガラスケースに額をぴたっとくっつけ、よだれを垂らさんばかりの勢いで、熊やら猫やらのぬいぐるみを見つめている。
そして、まるで戦場に旅立つかのような意気込みで、息を吐き出し、両手をボタンの上に乗せた。
今度は突然横にスライドしたアームに、少女は身体全体をびくっと縮み込ませる。
少年は、そんな少女の一挙手一投足を、目を細めて、幸せそうに見つめていたのだった。
限りなく確信に近かった。自分は、この娘が好きだと。一目惚れして、それから中身まで好きになってしまったと。ここ最近の少年の脳内は、少女のことで満杯、いまにもあふれてきそうなほどである。少女を眺めていたり、一緒にいたりすると、不思議な、戦場に立つ時とはまた一味違う緊張感を覚えた。会ってからまだ一ヶ月も経っていないけれど、そしてこの少女の身元や経歴はまだ詳しく知らないけれど、それでも何だかときめくのだった。これが……恋というものか、と少年は妙に納得した顔で頷いた。
しかし、現実は戦時中の世界。人が死に、人が死ぬ世の中。このような幸せの時間は、無惨に運命によって摘み取られるのが定めであった。
「おい、どけ小僧」
不意に、ゲームの機械音が鳴り渡るゲームセンター内に、どすのきいた、野太い男の声が響き渡った。
少年は、びくっ、と肩を震わせた後、あわてて声の主を確認。
「どけってのが聞こえないのかァ!?」
その辺に転がっている不良だと思った。しかし、何年前かの日本とは違い、少年がいない間に、そのような不良も徴兵されているはずだと気づく。
振り返った。
立派な軍服を着、きっちりとネクタイを締め、立派な口ひげを残した男性。
将校であった。
さらにその後ろには、いかにも身体が弱くて、毎日上官のゴマをすることばかり考えていそうな、まだ若い軍人が、五、六人。
少年が今まで憎悪の矛先を向けてきた人物たちであった。なぜなら、日本国民が、自分が、そして少女が、戦争に駆り出された元凶となる人物だから。
「…………………どうぞ」
しかし……いや、だからこそ、ここでは何歩か退かねばならなかった。権力の世界では、そのような憎悪が生まれるのが定め。当たり前なことだ、受け入れなければならない。いちいち自分の気持ちに従ってなんかいられないのだ。
そして、そんな風に思ってしまう、自分の欠陥部を憎んだ。
「フンッ」
満足そうに胸を張って通り過ぎる将校を確認し、ふぅっ、と一安心。身体の至るところにしたたる冷や汗が、一気に蒸発したような気がした。
しかし同時に、自分が言えたことではないが、自国民が異国で生死を賭した戦いを強いられているのにも関わらず、将校ら自らはゲームセンターに遊びに来ていることに大きな憎しみを覚えた。動物園も同様。戦時中に開いていること自体、悪である。
しかし、そんな安堵感も憎悪感も、すぐに彼方へと吹っ飛んでいってしまう。
なぜなら、自分はここに一人で来たのはではない。
少年の下手の態度に、ふんっと胸をのけ反らせたまま、威張りオーラを全開にした将校が、真っ直ぐ少女のもとに歩いていくのが見えた。。
冷や汗が、再び身体のあちこちに液化してきているのが、今度ははっきりと感じられなくても分かった。
少女は、落とし口付近で落ちてしまった熊のぬいぐるみに、一喜一憂している様子。UFOキャッチャーに夢中のあまり、ドスのきいた野太い声にも神経を割く余裕がないらしかった。
どン……ッ!
しかし、将校は、直進した進路を曲げなかった。そのまま少女の華奢な肩に、自らの頑丈な胸板を当て付けた。少女の身体は、まるで車にひかれたかのように、空を舞う。
少女の背がまだ地面に付かない内に、少年は状況を把握、自らの取るべき行動を析出し、足を、反射的に一歩前へと突き出す。コンマ何秒とかからなかった。
しかし、将校の方も追い討ちをかけることを忘れなかった。
「おやぁ、気付かなかった。だが、これはここにいた貴様が悪いなァ!ほら、謝れッ」
言うと同時に、小さな山のように盛り上がる筋肉を従えた腕が、少女の胸ぐらへと吸い込まれた。
……!!
まだ身体を起き上がらせていないのにも関わらず、襟をぐいぐい締められた少女の顔は、戸惑いと悶絶が半々を占めていた。やがて口から、空っぽの空気を宙へと押し出す。
「おや、ずいぶん綺麗な女だなァ」
将校は初めて気付いた、といった様子で言い、にやりとした。
「俺の家までついてきたら、許してやろうかなァ」
少女はただただ息苦しさに悶えるばかり。
そこでついに、怒りに身を任せた肉食獣のごとき人影が、脇から高速で将校へと飛びかかった。
将校は、まだ少女の胸ぐらを固くつかんでいて、後ろに迫った少年に気づかない。
……カァァンッッ!!
鳴り響いたのは、肉体と肉体がぶつかり合う轟音ではなく。人の血が遊戯機械に降り注いだ音でもなく。
ただ、少年の拳が、一丁の拳銃に突き当たった音であった。
後ろ姿を見せていた将校の前に、怪しそうな笑みをうっすら浮かべていたのは、将校の後ろにくっついていたひ弱そうな若手軍人である。突き出した手に握られた拳銃で、少年の渾身の掌底を、華麗に受け止めていた。
「貴様、死にたいのか?」
そして、その腕を、そのまま横に薙ぐ。
ガッシャァァァンッ!!
少年は、いとも簡単に、その身体を遊戯機械に強く叩きつけられる。もちろん、痛みは皆無。だが、精神面でのダメージは、絶大であった。
異国人に怯え、自国民には配慮を毛頭も払わず、日本国内に閉じこもる政府上官、その手下。
そんな人道を外れた野郎が、同類の軍人によって傷つけられた可憐な少女に、手を出していいはずがない。
少年は、これでもかというほど胸を震わせた。
同じく軍人たちの勝手な命令によって傷つけられた自分が。そのハンデを逆に利用して、奴らに復讐してやる。
何せ、自分は痛みを感じないのだから。左腕の包帯だって、何の不利にもならない。
少年はまるでゾンビのように、あれほどの衝撃を全身に受けながらも、むくりと頭を起こしてみせた。
その勢いに任せるように、胴、腰、足が前に出、最後に右拳の閃光が走った。
……カァァンッッ!!
しかし、結果は先程と同じ。若手軍人の防御は、本当のプロだ。
しかし、少年もそこまで単細胞ではなかった。固定された拳銃に右拳を残しながら身体を90度倒し、腕の隙間目掛けて体当たりを繰り出した。
若手軍人は片方の腕で拳銃をつかんでいる。それを離せば少年の掌底は再び空を裂き、若手軍人に突き刺さるに違いなかった。かと言って、少年の体当たりは、腕一本では止められるはずもない。
だが、そこでもやはり、戦いのプロは違った。少年のフェイントに惑わされず、凡人なら焦り戸惑うところ、その若手軍人は………笑っていた。
ひょろひょろの体のどこからそんなパワーが出てくるのか、若手軍人は的確に、瞬間的に少年の位置取りを把握、膝を少年の鳩尾にねじこんだ。肉弾戦においてよく使う技である。これに耐えられる一般人などいないはずである。何せ、膝が圧迫するのは表面だけでなく、内臓まで脅かすのだから。
若手軍人は、極めて平静な顔を装っていた。いや、何かを楽しんでいるようであった。
突如始まった戦闘に口を開けて傍観していた皆が、若手軍人の勝利を確信した……手を握り締めながら戦闘を見守っていた少女以外は。
少年を少なからず知る少女は、自分の予想がいとも簡単に当たったことを知る。直後、若手軍人の顔が、天国から地獄に落ちたかのように、笑みが消え、苦痛に満ちていく。
顔のシワの数が限界に達したのを見計らったかのように、若手軍人の細い身体が、先程の少年と比べものにならないほど大きなベクトルで吹っ飛んだ。
少年は、拳を空に突き上げたままのポーズで、その場に立ち尽くした。
……少年は、自分の鳩尾に若手軍人の膝が入ったことを目視するや否や、拳銃に止められたままの拳をぐるんと回し、若手軍人の腹に叩きつけたのである。少年は拳銃を握る若手軍人の手首の筋が、油断により緩んだのを見逃さなかったのだ。
膝蹴りによって片足立ちになっていた若手軍人がその閃光を捉えられたはずはなかった。
捨て身の一発であった。しかし、それがこの肉弾戦に勝つための近道であると言えた。
飛ばされた若手軍人のひょろ長い体躯が、UFOキャッチャーのガラスケースを、人をいとも簡単に傷つける凶器へと生まれ変わらせる。ガラス片は、スノーダストのように一面に四散した。
それは立ち尽くす少年の頬をもかすり、そこから、つー、と一筋の血液が流れた。
少年の顔に、感情など絶無であった。
自分は、政府上官の人道の無さを非難していたが…。人を攻撃して傷つけているのは、自分も何ら変わりはないではないか。
少年は自分自身に絶望したような気分だった。欠陥品は、いつまで経っても欠陥品なのだ。
そして何より、同じ境遇から出会った少女に、自分の人を傷つける姿を見せたことに、申し訳がたたなかった。
途端、全身の筋肉が抜けたように、少年の拳がだらんと下がった。力なく首を90度横に回転。その視線の先には、神妙に目を瞑った少女の姿があった。
「……ごめん」
少年は、他にかけるべき言葉を探し当てることは出来なかった。
『なぜ謝る。キミは、私を助けた。ありがとう』
「え……。いや、自分はそんなんじゃ……」
少年は、不意に少女に思いがけない感謝の言葉をかけられ、こんな状況下にも関わらず、不覚にも心臓をわしづかみされたような感覚に陥って俯いてしまった。
少年が人を傷つけてしまったことは、故意なのか成り行き上なのか、二人とも口にしない。
しかし、両者口の端を、1センチも上げようとはしなかった。
「悪いが、貴様は雑魚を一匹倒しただけだぞ?俺に勝ってから勝利を称えた方が何倍も賢明だ」
これこそがその原因であった。
……っ。
少年と少女は同時に下唇を噛んだ。人の命を軽く扱うのが、世の中の習慣として広まってしまったは、この将校が一因であると、確信できた。
しかし、少年は負ける気など毛頭もしないのであった。少女からの『ありがとう』が、未だに脳内をぐるぐるしていた。恋というものは、時に人の人格さえも変えるのだ。
少年は将校に掴みかかろうとした。
ガチャっ。
将校は、感情もなしに拳銃を構えた。いつでも撃てる体制だ。
彼からは、人の心というものが微塵も感じられなかった。だからこそ、少年の右手はさらに加速した。
ほう、と将校がちょっとした驚きを表すと、まるで実験用モルモットでも殺すかのような躊躇い加減で、迷いなく引き金を引いた。
少年は、持ち前の反射神経で、咄嗟に身を反らした。現役軍人をも凌駕するスピードであった。
しかし、心臓に正確な狙いを付けられた銃弾は、完全に少年の身体から逸れることはなかった。近距離ゆえに、威力も削がれることなく、銃弾は虎となり竜となり、少年の腹の肉をえぐり取る。
将校は、口の端をにやり、とつり上げ、嫌らしい笑みを垂れた。
直後、将校の目はこれでもかというほどに見開かれることとなる。目の前に鬼を見張るような表情だった。
将校の目には、銃弾をその腹に受けてからの少年の右手が、もう一段階加速したように見えた。いや、実際そうだったのかもしれなかった。
ぐわ……っ!
少年の右手が、将校の胸襟へと、まるで弾丸のように吸い込まれていった。
乱れる髪で少年の目と鼻は隠れてしまう。
空白の一秒間。
バァゴォンッッッッッ!!
少年は、空いた方の手、痛々しそうに包帯が巻かれた左手で、憎き将校の顔面に掌底をぶち込んでみせた。
すぐに、ゴツい将校の頬を、紫色のあざが覆った。
将校は抵抗しようと試みた。
バァゴォンッ!!
しかし、少年の左拳が、その速度をはるかに上回った。
見るに耐えなかった。
少年の拳が再び、胸ぐらを掴まれて固定された男の顔面に突き刺さった。
バァゴォンッ!バァゴォンッ!バァゴォンッ!……バァゴォンッ!!
何度も何度も。目も向け難い暴力は、止まらない。
今となっては、二人の顔に表情というものが微塵も感じられなくなっていた。
無言で暴力を振るい、無言で暴力を振るわれる。暴力とはいつでもそうであった。抵抗というものが存在しない。
幾度も幾度も殴り付けたのち、吹っ切れたように、少年は最後の蹴りを繰り出した。
身体中にあざを広げ、血液を付着させた男の瀕死体は、無力に吹っ飛ばされる。まるで道路に飛び交うビニール袋のような儚さを感じさせる。
しばし無言の時間が流れた。髪に完全に隠れてしまった少年の表情は、今ではすっかり見ることができない。
すると、他の若手軍人たちが、思い出したようにびくっと身体を震わせ、回れ右をした。
そして、閻魔でも見たかのように、蜘蛛の子を散らして逃げていった。若手軍人と将校の気絶体も、ずるずると引きずられていく。
……。
再び、ゲームセンター内を、沈黙が支配する。
居心地が悪くなった、とでも言うように、少年が顔を上げた。ばさっと前髪が跳ね上げられた。
……その顔は、涙で溢れていた。
しかし、少女の潤んだ視線に気づくと、手のひらで顔をごしごし。
今度は、にっこりと微笑んだ。
少女も微笑み返すと、少年に走り寄り、大胆に抱きついた。
少年は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに少女を抱き返した。
少女の服にもじわりと血が移ったが、気にした様子も無い。
そこに言葉はなかった。
文字もなかった。
しかし、先程までの沈黙とは違った。まるで、以心伝心を思わせるような沈黙であった。
そこに永遠の時間が流れているようにも感じられた。




