3.旦那様の願いについて
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オフィーリアの妊娠が発覚してから、数ヶ月が経った。
その頃には、彼女の腹は目立ち始め、子が胎内で主張を始めた。
昼下がり、ローランドはオフィーリアを求めて庭園の休憩所へ赴く。邸内に彼女がいない時は、十中八九そこである。
休憩所の屋根下に足を踏み入れたローランドは、オフィーリアを見つけ静かに相好を崩した。
視線を卓へと移せば、妊婦の心得本が積まれている。そこから、彼女は腹の子どもと真剣に向きあっているのだとわかる。それが自分と彼女との子だからこそ、ローランドにとって喜びは一入だった。
現在、本を読んでいたらしいオフィーリアはすやすやと眠っている。大腿に掛けられたひざ掛けの上で、開かれた本のページが風の悪戯によってぺらぺらと捲れた。
季節は夏。汚れた大気によって太陽の光は少しばかり弱まり、屋根の下ということもあって少し暑い程度で比較的過ごしやすい。だからこそ、夏とはいえ妊婦が身体を冷やしてはいけないと、ローランドは彼女の大腿の本を閉じて卓に置く。ついで、ひざ掛けを腹が覆うくらいまで掛け直した。
オフィーリアのすぐ傍にしゃがみ、彼女のふくらんだ腹に顔を寄せる。そうして、目を閉じた。
優しく囁く言葉は、お腹にいる子に向けて。
「……幸せになるんだよ」
脳裏に浮かべるのは、亡き両親の姿。ローランドの知る限り、愛し愛され、いつでも、どんなことがあっても幸せそうに笑う二人。――そんな夫婦に憧れた。
次は、笑みを苦笑に変えて言葉をつぐ。
「君は、ちゃんと後先考えて行動するんだ」
この言葉は、後悔から。オフィーリアに恋をしてから、常に付き纏う悔い。そんな思いを、自分の子どもにはしてほしくはなかった。
オフィーリアとの婚約が決まった時に、身分を除いた彼女とちゃんと向き合っていたなら。彼女自身を知ってから初夜を迎えたなら、きっと今のような結果にはなっていなかったかもしれない。
*** *** ***
ローランドの両親は政略結婚であったが、元々幼馴染の間柄であった。
父の初恋は母、母の初恋も父と、奇跡的な巡り合わせのもと結婚に至る。
亜麻色の髪を持っていた父は、家族を守る心の強さを有していた。すべてを包みこむ包容力は、今のローランドが敵うはずもない。
瑠璃色の瞳を持っていた母は、明るい人だった。いつも笑みを絶やさず、すべてを受け入れ丸くおさめるしなやかさを秘めていた。
ローランドには姉一人、弟一人がいるけれど、姉弟と喧嘩をすることはあっても、家族は円満だったといえる。ローランドだけではなく、姉弟も両親と、自分らが育った家を愛していたから、姉はオルコック伯爵家が有利になるよう侯爵へと嫁いだし、弟は弁護士を目指した。
しかし意外にも、姉弟の中で最も両親の愛に焦がれていたのはローランドだった。姉は社交界を知ってから妙に大人び、愛を客観的に捉えていた。性的なことには彼女自身倫理観が厳しかったから、そういったいざこざはなかったものの、良くも悪くも両親譲りの美しい容姿が花を渡り歩く男をも寄せ付けてしまったらしい。また、弟は跡を継ぐ予定になかった為、愛する平民の娘と早々に婚約した。
ゆえに、恋に焦がれるばかりだったのはローランドであったのだ。
やがて、ローランドは愛を求めて社交界へ足を運ぶようになる。本気の恋、一生に一度の恋、最愛に憧れ、何人かの令嬢と付き合った。最初は誘われるままに、恋の駆け引きを知ってからは楽しむように、いつかは彼女を命懸けられるくらいに愛せるだろうと信じて付き合いを続けた。
ところが、何日、何ヶ月と逢瀬を重ねても、心が満たされることはなかった。
駆け引きを仕掛けてくる彼女達。愛を請われるから囁くのに、いつしか気持ちの篭らない形だけの関係だと―― 一時の快楽だけの関係なのだと――感じたのは、いつだってローランドの心が彼女達に揺さぶられることがなかったから。
――本気で愛せる人など現れるのだろうか。もしかしたら、両親や弟のように相思相愛になれる人が見つかることの方が奇跡なのではないだろうか。……いや、まだ素晴らしい女性が現れていないだけだ。
気がつけば、そう思うようになっていた。
――そんな時だった。
突然飛び込んできた、両親の訃報。馬車による事故死。
あまりに突然のことで、悲嘆に暮れる前に放心してしまった。ぼんやりと想ったのは、両親一緒で良かったのかもしれない、ということ。
互いがいればすべて乗り越えられるという程に愛し合う夫婦が、離れ離れになるなど考えられない。最愛の人を失って、平常心のまま寿命を迎えられるとは限らない。
だから、例え残された家族が悲愴に胸が締めつけられても、これでよかったのだと、想った。
大切な家族を失ったローランド。喪失感と悲痛に襲われるが――幸か不幸か、彼には悲しみに沈む時間がさほどない。
オルコック伯爵の急逝。つまり、跡継ぎであるローランドはすぐにでも伯爵位を引き継ぐ必要に迫られたのだ。
両親を失ったことによる心の空白を埋めたのは、使命感。両親と姉弟と共に過ごした、ローランドの幸せの象徴である家を守りぬかなければという、決意。
オルコック伯爵家に多額の負債はなかったが、今以上に家を繁栄させるには伝手や家格が十分とはいえない。父の伝手は義理で維持できたとして、それは父の力でしかない。その伝手とて、相手方が父を知らない次代に爵位が譲渡されれば、関係は絶えてしまう可能性すらある。
従って、ローランドは新たな関係作りと、父の伝手を維持させる為の材料を求めた。
――これだけの理由から、彼は伯爵家の中でも家格の高いアレクサンダー伯爵家の娘 オフィーリアと結婚を決めたのである。
そも、婚約時、ローランドはオフィーリアのことを名門伯爵家の娘であり、夜会で見かける普通の令嬢という印象しか持たなかった。
他の淑女と変わらぬ化粧を施し、華やかなドレスで自分を演出する娘。特別劣っているわけでもなければ、際立って美しいわけでもない。普通の、どこにでもいる女性。それが、ローランドにとってのオフィーリアであった。
その印象が良くも悪くも一変したのは、初夜での言葉を聴いてから。
『私は、中身のない外見ばかり繕うようなお嬢様を愛せない』
ローランドが口にしたこの言葉に、悲劇のヒロインのごとく自己憐憫に浸って泣くか、もしくは気位の高さゆえに怒るかすると思った。むしろ、そうするのが当たり前の言葉だとすら考えた。
けれど、ローランドの予想に反し、彼女は不思議そうに首を傾げて問う。
『ですが、内面の美しさは、どのように出すのです?』
ローランドはこの反応に驚くほかない。彼女の反応は、予想のどちらとも違ったのだ。
直後に過ぎった感情は、苦々しさ。楯突かれたかのような気持ちに、苛立ちが過ぎる。しかも、反駁されるとは考えていなかったから、咄嗟に答えが浮かばなかった。それが、悔しい。
――この時から、ローランドにとってオフィーリアは”普通”ではなくなっていた。
だが、この時の彼は、その事実に気づくことなく告げてしまった。
『私は君を愛せない。義務として子さえ生してくれるなら、後は愛人でもなんでも囲えばいい』
そして、オフィーリアは声を弾ませるのである。
『さすが……さすがですわ、旦那様! その見事な発想、わたくし考えも致しませんでした!!』
『わたくし、旦那様がどんな方だとしても、政略結婚とはいえ夫婦になった身、愛する努力をしようと思っておりました』
『ですが、それこそ間違いだったのです! 思えば、母は「愛する人を絶対に放してはなりません」と、それはそれは刷り込みのように口にしておりました。その言葉は、母の願いでもありました。そしてわたくし、実は恋物語のように愛し愛される恋愛に憧れていたのです……!』
『賛成致しますわ、旦那様! 結婚しても、愛を諦めなくても良いとは、なんたる名案!! さすが旦那様! 素晴らしいですわ!!』
――この時、ローランドは己の矜持をずたずたに切り刻まれた気がした。
彼はオフィーリアを心のどこかで見下していたのだ。自分に相応しい娘は、こんな”普通”の娘ではない。もっと”素晴らしい”娘なのだと思い込んでいたがゆえに。
ローランドはこれまで、傲慢にも愛されることが当たり前のことだと考えていた。それは思い込みというよりも経験からくるもので、元々容姿に恵まれていたし、受け継ぐ爵位も貴族の中で下層というわけではなかったから、実際に女性が自然と寄ってきた。
ゆえに、たくさんの女性を知っていると――知り尽くしていると思っていた。あとは運命の女性が現れるだけだと。
そも、ローランドはオフィーリアの父であるアレクサンダー伯爵から縁談を持ち掛けられ、頷いたに過ぎない。ローランドはオフィーリアが自分に好意を抱いていたから、親交があったわけでもないオルコック伯爵家に、アレクサンダー伯爵家が縁談の打診をしたのだろうと推測していた。そうでなければ、オフィーリアは家々の繋がりの為、オルコック伯爵家のようなアレクサンダー伯爵家よりも家格が低い家ではなく、家格の高い家へと嫁ぐものだ。
けれどその驕った考えを木っ端微塵に打ち砕き、「こちらから願い下げ」と言うかのごとく約束を交わしたオフィーリア。
知らない世界の一面を覗いてしまったような、迷子になったかのような心境に陥り、唖然とする他なかった。
――自分の知る世界は狭かったのだと、後になって彼は悟る。
これまでの経験だけを基準にし、女性とは駆け引きをするものだと認識していた。
一方、オフィーリアを愛することはないと思い込んでいたこの時のローランドは、いつか愛する女性の為に、危険な存在を遠ざけようと思っていた。その忠告が、『子を産めば、愛人を囲っても良い』という旨の、あの約束。もちろんそれも、恋とは異なるがある種の駆け引きをしたつもりでのことだ。
――オフィーリアは、どこまでもローランドの予想を裏切る存在だった。
彼女は約束に頷いたあの時の姿勢を崩さない。伯爵夫人としての義務はしっかり全うするし、夜の行為も拒むことはない。ローランドがパブへ情報収集に行っている時も、寂しく邸で待つことはせず、淑女の茶会へ足を運んで自らの伝手で情報を集めてくる。そしてその情報を逐一ローランドに報告した。オフィーリアの情報は、存外オルコック伯爵家の役に立った。
けれど、ローランドの傷つけられた矜持は傷を負ったまま。彼女が好意を少しでも見せたなら慰められただろうが、彼女はそんな素振りを一切見せることはない。それは、閨の時であっても。
――彼女には、いつだって駆け引きは通じなかった。ローランドの期待する結果がもたらされたことはなかった。
そうして、ローランドはどこか諦めるように、オフィーリアに駆け引きを持ちかけることをやめた。
それまで、女性の前では常に気を張り、紳士でいることで余裕を演出してきた。が、駆け引きが不要ならば無理に余裕を見せることもないから、彼女の前では偽ることもやめ、自然体で接するようになった。
こうなって初めて気づく。
これまでローランドは、寄ってくる女性ばかりを相手にしていた。そういった女性達は、積極的であったり、目線だけで誘うような意図を示唆したりと様々であったが、共通点は女性側が皆ローランドに好意を抱いていたということだ。
だからこそ、どこで押し、どこで引くかという恋の遊戯が可能であった。――しかし、相手が好意を示していないのならば、どうなるだろうか。
――少しずつ、少しずつオフィーリアへの興味が湧いていった。
ローランドはそれまでオフィーリアを”普通”と表現してきたが、”普通”とはなんだろう、と考えるようになった。
疑問を抱いてから、オフィーリアを観察するようになる。
そして、今更ながら気づく。彼女の笑みが、どんな時も本物ではないということ。仮面のように、いつも同じ。心のない笑み。そこに、楽しさや嬉しさは滲まず、かといって苦痛も浮かばない虚無的なもの。
――いつしか、彼女の本当の笑みを知りたくなった。
彼女はどんな風に笑うのだろうと、この目にしたくなった。彼女に笑ってほしいと、思った。その笑みを、自分に向けてほしいと、願うようになった。
その時になって、ローランドは自分が恋に堕ちたのだと自覚する。あまりに遅い初恋。相手は、拒絶したはずの妻。ローランドがそれまで想像していた抽象的な”素晴らしい”運命の相手とは違うけれど、”特別”で、掛け替えのない運命の人だった。
一挙一動の度にローランドの心を揺さぶり、喜びも切なさも与えてくれる――そんな存在は、オフィーリア唯一人。
ローランドの心は、オフィーリアに占められている。なのに、オフィーリアの心は、ローランドのものではない。――それでも、オフィーリアは紛れもなくローランドの妻なのだ。彼女の心がどこにあったとしても。
だから、ローランドは「私のオフィーリア」と彼女に囁く。自分のものだと実感する為に。オフィーリアの心が欲しい、そう願うのはローランドがオフィーリアを愛しているからだと伝えたくて。
だから、庭園の散歩に誘う。毎年の約束をすることで、未来にも共にいたいという気持ちを伝えたくて。
二人の距離を少しでも縮めようと――少しずつ、少しずつ、侵食するように彼女の心に入りたいと、ただひたすらに願いながら。
――だが。いまだ、二人の関係が進展することはない。オフィーリアがローランドを名で呼ぶ事も、ない。
*** *** ***
両親のような恋に焦がれたローランド。
自業自得とはいえ、まさか恋がこんなにも切なく苦しいものだとは思わなかった。幸せなものだとばかり思っていた頃が懐かしい。
決して不幸ではないけれど、心がオフィーリアの心を求めて渇望する。
腹の子には、愛に満たされた家族の中で育ってほしい。いつか、オフィーリアに自分を愛してほしい。隣で彼女の笑みを見つめ、守る権利がほしい。――それが、ローランドの願い。
ローランドはオフィーリアの腹を一撫でし、呟く。
「……だから、お父様も頑張るよ」
その声は、風に攫われた。
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