2.旦那様の葛藤について
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月明かりが窓から差し込む。明かりはそれだけ。満月のせいか、オフィーリアの素の肌は青白いほどに透き通った色をしていた。
疲労を滲ませ眠るオフィーリア。
薄らと開いた淡紅の唇に、ローランドはそっと口づけた。そうして、まだ朱の差す頬に触れ、なぞるように首筋へと指を滑らせ最後に髪を梳く。栗色の長い髪を指に絡ませ、唇を落とす。拍子に、薔薇の香りが鼻腔に届いた。
「……私のオフィーリア」
呟く声は、夢の中にいるオフィーリアに届かない。それでも、幾度となくこの言葉を彼女に捧げてきた。恋情をもって、何度も。
滑稽なもので、ローランドは妻に愛の言葉を紡ぐことができない。「愛している」も「好き」も、気持ちを拒まれてしまった後を考えれば、逃げ道を絶たれない言葉ばかりを彼女に囁いてきた。自分でも、あまりに臆病で愚かだと思う。
それでも、婉曲すぎる言葉とさりげない日常の行動によって、いつか気持ちが届くことをひたすらに願った。
やがてオフィーリアの感触を満足するまで堪能すると、ローランドは身を起こす。手を伸ばした先は、寝台に備え付けられた小さな引き出し。そこから、藍色の小瓶を取り出すのだった。
*** *** ***
オフィーリアは独り、化粧台の前に佇む。
彼女が見下ろすのは、手の中にある青い小瓶。既に中身はなく、小瓶は洗ってあるからただの瓶に過ぎない。けれど、元々は避妊薬が入った小瓶であった。
日中であっても、日が傾けば薄暗くなる一室。オイルランプに火は灯されていない為、窓辺に背を向ければオフィーリアの姿は逆光ゆえに陰った。
彼女は俯き、両手で小瓶を握りしめて口元にあてる。――不安で不安でたまらないのだ。
オフィーリアが使用していた避妊薬は、表では出回らない薬である。そも、宗教家は教義の為に、貴族や政治家は富国強兵の為に、世の中は堕胎や避妊に否定的だ。それでも海綿を使用した避妊法も淑女らは隠れて行っているが、オフィーリアはローランドに知られず避妊したかった。だから、飲み薬に頼った。
だが、オフィーリアが”避妊薬”として使用していた薬は、堕胎薬とも言い換えることができる代物。オフィーリアはこれまで月のものに狂いがなかったから、恐らく子を殺すようなことにはなっていないだろう。それでも、定期的に服用することで妊娠を避けてきた。
決して人に言える行いではない。教会は神の意向に背いたとするし、世間は国の為に産まなかったことを責めたてる。オフィーリアが誰かに相談などできよう筈もなかった。
「わたくし……」
不安でたまらない。心が揺れる。押し潰されそうなほど、胸が苦しい。
初夜を除いて、結婚してからずっと避妊してきた。けれど、その薬は三ヶ月前に尽きた。つまり、三ヶ月前から避妊はやめているということ。
それなのに、まだ妊娠の兆しは見られない。
もしかしたら――と嫌な考えばかりが浮かぶ。薬に頼ったがゆえに、身体を壊したのではないだろうか、と。子を産めない身体になってしまったのではないか、と。
「わたくし……どうしたら……」
そんなオフィーリアが頼れるものは、既に限られていた。
「……オフィーリア、また増えてないか?」
寛ぐ為の部屋である応接間に現れたローランドが、いたる所に並べられた置物を摘んで言った。ちなみに彼が今摘んでいるのは、親指二本分ほどの大きさをした蛙の置物である。
ローランドは蛙を目線まで持ってくると、なんとなく揺すってみた。
「だだだ旦那様! なっ、なっ、なんてことを!! 効果がなくなったら……呪われたらどうするのですか!!」
それまで椅子で落ち込むように蹲っていたオフィーリアが突如立ち上がり、猛然とローランドへと駆け寄ったかと思えば、瞬時にして蛙を奪い取った。眦を吊り上げ、ローランドを睨みつける彼女のそんな姿は珍しい。
目を丸くしたローランドは「す、すまない」と気圧された。
けれど、ローランドの言葉は最もなもので、日々応接間と寝台に置物が増えていくのだ。それも蛙だけではなく、河馬も。彼からすれば不思議で仕方がない。蛙も河馬も、ローランドにはまったく可愛らしくも洒落ているようにも見えないから。集める魅力がわからない。
首を傾げる夫に、オフィーリアはそっと蛙を並べ直してから「お話があります」と告げた。
卓を挟んで、椅子に座る二人。
ちなみにこの卓にも、オフィーリアの意向で蛙と河馬の置物が並んでいる。
不思議そうに目を瞬き、蛙を見つめるローランド。一方、オフィーリアは睫毛を伏せ、隠し持っていた紅色の小瓶を卓に置いた。
「……これは?」
問うローランドに、オフィーリアは静かに答えた。
「媚薬です。アンジェリーナ様からいただきました」
刹那、ローランドの目は驚きに見開かれる。
「媚薬って……」
困惑するローランドを見つめながら、オフィーリアは苦笑した。
「わたくし達、もうすぐ結婚してから一年と半年になりますわ。……けれど、まだ子が出来ておりませんでしょう? 気遣ってくださったアンジェリーナ様が、わたくし達夫婦の為に用意してくださったのです」
「……アンジェリーナ様というと……侯爵夫人、か」
オフィーリアは眉宇を顰めるローランドを見て、やはり女の身で媚薬を出すべきではなかったかと後悔する。娼婦のように汚らわしくも淫乱だと思われたかもしれない。それでも、オフィーリアは提案せずにいられなかった。
ローランドを真っ直ぐに見据える。
「旦那様、約束を憶えてらっしゃいますね?」
ローランドは更に顔を歪めてから、低い声音で頷いた。
「……ああ。子を産めば、愛人を囲ってもかまわないと、言ったな。……好きな男ができたのか?」
目を眇める夫に、オフィーリアは首を横に振った。
「いいえ、そうではありません。しかし、わたくしの役目は子を産むことです。そろそろ周囲もせっつく頃でしょう。……アンジェリーナ様は、この媚薬には効果があるとおっしゃいました。旦那様、一度試してみませんか?」
「却下」
ローランドは躊躇いもなく一刀両断する。そうして、言葉をついだ。
「侯爵夫人が勧めたかもしれないが、なにか副作用があったらどうする? 薬に頼る必要はない」
「ですがっ」
焦りを見せるオフィーリア。けれど、ローランドの無表情でいて、瞳の奥に凍りつくほどの圧を見て口を噤んだ。
ローランドはゆっくりと腰を上げオフィーリアの隣まで移動すると、彼女の頭を抱き寄せた。
「……オフィーリア、さっき蛙に呪われると言っていたが、もしかしてこの置物は子が欲しくて並べたのか?」
すると、オフィーリアは数拍後に渋々頷く。
「……メイド達に、多産のお守りだときいたのです」
つまり、藁にでも縋る思いだったのだろう。察したローランドは小さく笑い、慰めるようにオフィーリアの頭を撫でる。
「焦らなくていい。だから、もう少しだけ待ってみよう?」
まるで諭すような物言い。オフィーリアは眉尻を下げて首肯した。
*** *** ***
夜の帳が下り、星が瞬く時刻。
オフィーリアの裸の肩を抱き、ローランドは首筋に顔を埋める。
オフィーリアはぐっすり眠っている。今日も、疲労が色濃く浮かぶ。
ローランドは顔を上げると彼女の顔にかかる髪を指に絡め、頬を撫でるように掻きやる。それでも起きない彼女を見つめて、切なげに目を細めた。
「……オフィーリア」
呟く彼の片手には、藍色の小瓶。――中身は、避妊薬。ただし、オフィーリアが使用していた堕胎薬とは違い、性行為をした後に中を洗うことで妊娠を防ぐ殺精子薬だ。オフィーリアの身体にできる限り負担がない方法かつオフィーリアに避妊が知られない方法は、それしか見つからなかった。
使い続けてきた薬。それはローランドがオフィーリアへの恋心を自覚してから、ずっと。
その為に、オフィーリアが疲れ果て深い眠りに沈むまで、手加減なしに毎度抱き続けてきた。――そのことを、オフィーリアは知らない。
ゆえに、オフィーリアは子ができないことを悩んでしまった。
――初夜、オフィーリアは言った。
『わたくし、旦那様がどんな方だとしても、政略結婚とはいえ夫婦になった身、愛する努力しようと思っておりました』
『ですが、それこそ間違いだったのです! 思えば、母は「愛する人を絶対に放してはなりません」と、それはそれは刷り込みのように口にしておりました。その言葉は、母の願いでもありました。そしてわたくし、実は恋物語のように愛し愛される恋愛に憧れていたのです……!』
『賛成致しますわ、旦那様! 結婚しても、愛を諦めなくても良いとは、なんたる名案!! さすが旦那様! 素晴らしいですわ!!』
その言葉は、ローランドの胸に刺となって刺さったまま。
傷が疼けば、避妊薬を握る手に力がこもる。
――自業自得だと、理解していた。あの時は、政略結婚した夫婦に愛が育まれるなどと思っていなかったから、初夜で告げた言葉を最善の言葉だと信じて疑わなかった。
今になって――後悔と胸苦しさに襲われる。
――あんな言葉、言わなければよかった。何故あんな言葉を吐いてしまったのか。もし言わなければ、オフィーリアは愛する努力をしてくれたかもしれないのに。
ローランドは想う。
オフィーリアはきっと、跡継ぎを産むという義務を果たした後、外に愛を求めてしまうだろう、と。彼女はきっと、ローランドを愛することはないと、心の片隅で感じながら。
だから、オフィーリアに恋をしてからずっと避妊薬を使った。彼女を約束という義務で束縛したかった。彼女が少しでも愛を示してくれるまで――そう言い訳して、約束の期限を伸ばそうとした。いつか、いつかきっと成就すると、思い込むように信じて。
けれど、オフィーリアは子ができないという不安に揺れていた。
それもそうだろう。女性からすれば、子ができない身体というだけで離縁となり得る。離縁した後、どんなに好きな男性が現れても、子を産めない女性が再婚して妻におさまることは難しい。後妻ならば話は別かもしれないが。
彼女の状況を知りながら、ローランドはあまりに自分勝手で傲慢な行為をしてきたのだ。
それでも、オフィーリアを失う恐怖ゆえに、悪魔の囁きに耳を傾けてしまった。
「私のオフィーリア……」
オフィーリアの体温を感じたくて、抱きしめる。布で隔たれることのない体温を感じて、心の空洞が少しだけ埋められた気がした。
きつく抱きしめたからだろうか。腕の中のオフィーリアが身じろぎし、睫毛を震わせた。やがてうとうとと虚ろに目を薄く開いた彼女は、ローランドの瑠璃色の瞳をとらえると掠れた声で言葉を紡ぐ。
「……旦那様」
「すまない……起こしたか」
オフィーリアの背にまわされた手の中に藍色の小瓶があると悟られないよう、さり気なく枕の下に隠してローランドは謝る。
そんなローランドにオフィーリアは優しく微笑むと、「ねぇ、旦那様」と真っ直ぐ見つめた。
オフィーリアの焦げ茶色の瞳が揺れることはなく、陰を秘めたその色が彼女の考えを隠してしまう。
オフィーリアの言葉を待つローランドに、彼女は穏やかな声音で囁いた。
「もし……もし、わたくしに子ができなかったら……迷わないでください。躊躇わないでください。……離縁も、やむなしだと思うのです」
直後、ローランドは目を見開いた。息をすることも忘れるくらいの衝撃が、全身を駆け巡る。
だが、オフィーリアはどこまでも優艶に笑みを刻み続けた。
ローランドには、彼女の考えがわからない。彼女の気持ちがわからない。
(どうして……どうして、そんなことを笑って言える?)
女性として辛い言葉だということくらい、ローランドにだってわかる。オルコック伯爵家のことを想ってのことだと、理解している。
しかし理性とは別の場所が、深い傷を負う。ローランドにとってオフィーリアの言葉は、この夫婦関係が政略結婚の延長でしかないと知らしめるようで、顔を歪めずにはいられない。その表情を隠したくて、再度オフィーリアを掻き抱いた。
苦しくて、悲しくて、やるせない。気持ちが届かないことがもどかしい。どうして、という気持ちが胸の内に渦巻く。
喉の奥で詰まる言葉を、なんとか搾り出した。
「……そんなことは、考えなくていい。心配、しなくてもいいんだ」
まずはローランドが避妊薬の使用をやめればいい。それでも子ができなかった時に考えれば良いこと。
枕の下に隠した小瓶が、今は厭わしい。彼女をここまで追い込んでしまった自分があまりに愚かだと自覚する。
悔やむローランドの心を知らないオフィーリアは、ローランドへと身を寄せて小さく笑声を漏らした。
「旦那様はお優しいのですね」
(――そうじゃない)
ローランドは泣くように顔を顰めた。気持ちを抑える為、奥歯を噛みしめる。
――何故だろう、と彼は想う。傍にいればいるほど、オフィーリアが遠く感じる。
言葉などなくとも、気持ちは通じると想っていたのに。それは大きな誤りではないかと、疑念が過ぎる。
それでも、ローランドは愛を紡ぐことができなかった。彼女に愛を拒絶されることに怯え、恐れ続けてしまったから。
それが大きな過ちなのだと、この時は気づきもせず。
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この夜から、ローランドは避妊薬の使用をやめる。
結果、幸いにも半年後にオフィーリアの懐妊が判明することとなる。
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