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わたくしの旦那様は素晴らしいのです  作者: 梅雨子
蛇足的続編(※必ず、本編のあとがきをご覧になってから閲覧くださいませ)
7/13

1.旦那様の相談について

.



 オルコック伯爵邸の食堂は、華美過ぎない装飾の施された、品のよい一室である。白に翡翠色を一滴垂らしたような色味の壁、そこに掛けられた風景画、そして展示される骨董品、それらすべてが一級品でありながら落ち着いた空間を演出する。

 中央に位置する食卓は十人分ほどの大きさゆえに、食事するオフィーリアとローランドの距離は近い。顔の機微もわかるし、声もちゃんと聞こえる。

 オフィーリアは野菜と肉をじっくり煮込んだスープを口に含む。野菜の甘みと肉の旨みが出たスープは、濃厚ながらもくどくない味つけでお腹にやさしいから朝に最適だ。

 そうして料理を楽しんでいた彼女だったが、ちくちくと突き刺さる視線が気になってたまらず、仕方なく視線を上げた。

「……なんでしょう、旦那様?」

 ローランドへと視線をやる。けれど彼は、オフィーリアと目があった瞬間にそれを逸らし、黙々とパンを食べ始めた。

「……いや」

 ローランドらしくない歯切れの悪い言葉。初夜に、あまりにも率直な忠告をした彼とは思えないほどだ。

 まるでローランドの皮を被った他人――と、そこまで考えたオフィーリアはついローランドを凝視してしまったけれど、彼は相変わらず居心地悪そうに視線をパンに落として黙々とそれを食べていた。

(あー……そんなにパンばかり食べていたら、口内の水分がなくな――)

 案の定、ローランドはパン屑にむせ、慌てて水分を口にしたのだった。


 そんな朝の風景は、ここ最近ずっとのことである。むしろ、朝どころではなく、一日に何度もローランドは物言いた気な顔をしてオフィーリアの視界をうろつく。オフィーリアからすれば、実に不可解なことこの上なかった。




 いつもと同じ、庭園の休息所でオフィーリアは本を読む。

 空は灰色。雨は降りそうにないのが救いだろうか。

 ミルクティーを飲み一呼吸おいてから、ページを捲る。今読んでいるのは、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』。数多の誤解から生じるすれ違いを描いた恋愛小説である。

 そこに登場する人物の高慢なほどの矜持に自分を重ね、主人公のどこまでも強い心に焦がれた。

 すると、本に影が差す。少し黄ばんだ紙にできた淡い黒に目を瞬いて、オフィーリアは顔を上げた。

「あら、旦那様」

 にこりと笑む。彼女の”にこり”という笑みは、いつだって感情を表に出さない為のもの。

 オフィーリアの隣に佇むローランドは、「……邪魔をしてすまない」とこれまたやはり視線を彷徨わせて言った。

 そんな夫を見て、オフィーリアは思う。

(やっぱり、最近の旦那様はおかしい)

 なにか言いたいことがある――という表情でオフィーリアを見つめたり、傍をうろついたりする癖に、彼女本人にはなにも言わないのだ。それがオフィーリアにはなんとももどかしい。

 口を開けたり閉めたりを繰り返すローランド。まるで餌を求める魚のようだ。

(……言いたいことがあるのなら、おっしゃればいいのに。そんなに言いづらいことなのかしら)

 そう思いながら見つめ続け――はっ、とオフィーリアは思い至った。

(まさか、鼻毛が出ている、とか!?)

 それは言いづらい。あまりに言いづらい。と、オフィーリアは妙に納得しながら、口元を隠すように鼻をおさえた。一応、鼻も啜っておく。

(た、多分、大丈夫……かしら)

 それでも顔を斜めに伏せたのは乙女心。

 一方、ローランドはしどろもどろに魚を真似ていたかと思えば、突然真剣な顔をしてオフィーリアを見据えた。顔は心なしか赤く染まっている。

「オフィーリア!」

「え、あ、はいっ」

「あ……あ……」

 apple――と続いても、オフィーリアは驚かない。どもり方が、まるで発音の練習のそれなのだから。

 まるで教え子に接する女家庭教師ガヴァネスのようにローランドを見守っていると、ローランドはようやっと再び口を開いた。

「あ――明日、寒いだろうかっ」

 オフィーリアは目を瞬く。ついで、首を傾げてみせた。

「……どうでしょう? 一応、暖かい上着を用意しておいた方が無難かもしれませんね」

 そう答えてみたところ、ローランドは手で額を覆って俯いてしまった。その理由が、もちろんオフィーリアにはわからない。

「……いや、違うんだ」

 呟き否定するローランドだが、一体なにが違うというのか。困り果てるオフィーリアに、再々度ローランドが語りかける。

「そうではなくて。私が言いたいのは……す――」

「す?」

「すぅー……」

「すぅ?」

 そこで急に、ローランドは目を丸くし、口元を手で覆った。顔色はなぜか赤から青に変色していく。ごくり、と唾を呑み込んだ彼は、少しずつ口角を持ち上げて笑みをつくった。

「すき――っ腹に酒は、悪酔いする原因だと思うんだ……」

「……。…………そう、ですね」

 ちなみに、今オフィーリアが飲んでいるのはミルクティー。酒ではないゆえに、ローランドの発言はまったくもって脈絡がない。

「旦那様?」

 オフィーリアが声をかける。今日の彼は、いつも以上に様子がおかしいとしか思えない。

「あの、旦那様。お酒でも飲まれたのですか?」

 ローランドの発言から、なんとなくそう問うたが。

「いや、違う! そうではなくっ」

 否定が返ってきた。

 それからローランドの表情は、切なげに歪んでいった。ついで出てきたのは、喉の奥から搾り出したような、弱弱しい声音。

「気に、しないでくれ……私のオフィーリア……」

「はぁ」

 ぽかん、とオフィーリアがローランドを見つめる中、彼は踵を返して行ってしまった。


 ちなみに、邸に戻ったオフィーリアがメイドに向けて言った第一声は「……鼻毛、出ているかしら?」だったりする。




***   ***   ***




 翌日。

 客間にはローランドとユーインの二人きり。しんみりと茶を飲む音が響く。

 ローランドは椅子に座った状態で、組んだ手を額にあてて俯いていた。その姿は、絶望か、苦悩している人の図である。他方、ユーインは呆れ含んだ生温かい目でローランドを眺めた。

 ローランドは目を瞑り、思い返す。

 ――オフィーリアとの心の距離を縮めたくて、彼女を散歩に誘った。彼女が鈴蘭を好きだと言ったから、庭に植えて、毎年共に見ようと伝えた。

 ――けれど。

「……オフィーリアとの距離が縮まった気がしない」

 あの時、彼女はなぜか悲しそうに笑んだのだ。

 ――夜、オフィーリアを抱く度に、彼女を”私のオフィーリア”と呼ぶ。昨日だって昼間に呼んでみた。

 最初は、愛の告白が恥ずかしかったから、そう言葉にした。その後は失望が怖くてそういい続けた。自分から拒んだというのに、自分こそが約束を翻そうとしているのだ。滑稽で、あまりにも虫がいい。

 それでもオフィーリアに恋をしてしまった。見返りがほしいと思ってしまった。だから、こうして悩む。――それは、無償の愛にはほど遠いもの。

 沈鬱に落ち込むローランドに、ユーインは溜息を溢す。

「……まぁ、奥方との距離は縮んだ気がしないどころか、縮んでいないのだろうな」

 あまりにも鋭い言葉に、ローランドの心が抉られた。

「……心が破傷風になりそうだ」

 胸をおさえながら、恨めしそうにユーインを見やるローランド。そんな彼を、ユーインは咎めるように指差した。

「まず、お前が悪い。今更すぎるだろう。自業自得だ」

 ローランドはうっ、と唸る。もはや、ぐうの音も出ない。

 そんな親友を半目で見つめながら、ユーインは続けた。

「……お前に対する奥方の評価を教えた筈だ」

 それは、ユーインがオフィーリアと庭園で接触した時のこと。彼は、ローランドをどう想うのかオフィーリアに訊いた。そしてその答えを、ユーインは隠すことも婉曲に表現することなく、そのままローランドに教えた。

 ――いつも、どこへ行っても『素敵な旦那様』と言うオフィーリア。その言葉に、ローランドは嫌われていないだろうと思っていた。彼女は約束を果たしたなら、きっと愛人を囲うだろうと予想していたけれど、それでも家族愛を育める夫婦にはなれるだろうと、思っていた。嫌われてはいないと、思っていた。

 ――けれど、それは自惚れだったのかもしれない。

 ユーインは、オフィーリアの答えをこう告げた。


『旦那様は、”愛のない夫婦”における夫として、素晴らしいのです』


 そう、オフィーリアは答えたのだと。

 それはオフィーリアにとって、ローランドは夫や恋人としての好感度が最低最悪底辺だといったも同意。

 ローランドは唇を噛む。

 それでもユーインは容赦なくローランドに相対する。

「……ローランド、お前は初夜になんて彼女に言ったのか憶えているか?」

「……憶えている。だから、どうしようもなく悩んでいるんだ」

 ――脳裏に過ぎる、初夜、オフィーリアに告げた言葉。


『私は君を愛せない。義務として子さえ生してくれるなら、後は愛人でもなんでも囲えばいい』


 後悔している。この上なく。

 だが、今更どうしようもない。口で前言撤回を宣言することはできても、オフィーリアが受け入れてくれなければ意味はないのだ。ならば今後、他の方法で挽回するしかない。

「お前は奥方に、ちゃんと”愛している”の一言でも伝えたことがあるのか?」

 ユーインの言葉に、ローランドは睫毛を伏せ力無く笑った。

「丁度昨日、言おうとした」

「……”言おうとした”ってことは、言ってないのか?」

 顔を顰めたユーイン。心中ローランドをへたれだと罵っていることだろう。

 そして、ローランドは囁くように反駁した。

「……初夜の約束について、君はオフィーリアから聴いただろう? あの時、彼女はどう反応したと思う?」

 どこか自虐的に嗤う親友に、ユーインは眉を寄せた。

「……普通なら、怒るか、泣くか……」

 しかし、ローランドは首を横に振る。ユーインの言葉通りならば、どんなに良かっただろうと思いながら。

「彼女は、喜んだんだ」

「……喜んだ?」

「それまで、政略結婚といえど夫を愛する努力をしようと思っていたそうだ。だが、本当は、恋物語のような愛し愛される恋愛に憧れていたと。愛を諦めなくては良いとは、なんたる名案だと――喜んだんだ」

 だから、ローランドは昨日、言葉を詰まらせてしまった。本当は、オフィーリアに『愛している』『好きだ』と言おうと思った。ずっと想っていたけれど、照れくさくて言えなかった。それでも、今日こそは――と意気込んだのが昨日。『愛している』は失敗に終わったが、『好き』は伝えられそうだった――のに。

 ローランドに過ぎった、初夜、オフィーリアが返した言葉。彼女は迷いなくローランドの提案を受けた。愛を諦めなくて良いのだと喜んだ。ゆえに、ローランドは思った。

 ――もし、もし『好き』だと伝えたなら。それは、ローランドが初夜に交わした約束を反故にするということ。義務を果たしても、ローランドはオフィーリアを解放できないと告げるということ。――事実、ローランドはオフィーリアを他の誰にも渡したくはない。彼女が他の男を囲うなど、考えたくもない。

 ゆえに、愛の告白などできよう筈もなかった。少なくとも告白さえしなければ、オフィーリアは約束を果たすまでの間、傍にいてくれると確信していたから。約束を反故にしたなら、即座に彼女は逃げていってしまうかもしれないから。

 ――八方塞がりとはこのことだ。どうしたらいいのかもわからない。

 ローランドは冷たくなった茶を口にする。苦味がじわりと心に沁みた。

 目の前のユーインは頭を抱えている。ちなみにローランドは、既にその域を超えているから、自嘲するしかできない。

「……ローランド、お前は……――いや、なんでもない」

 長い溜息を吐いてから、ユーインは天井を見上げた。そうして、苦笑しながら言葉をつぐ。

「ならば、行動で気持ちを伝えればいい」

 ユーインの言葉に、ローランドは目を丸くする。

 ユーインは姿勢を正すと、前屈みになってローランドを見つめた。

「いいか、言葉にはせず、行動で伝えるんだ」

「……行動で?」

 呟くローランドに、ユーインはにやりと口尻を上げる。

「そう、行動だ。もし奥方がお前の気持ちを察した時、約束を反故にするつもりなのかと詰られてもしらばっくれればいい。言葉にしていないのだから、勘違いだと否定されれば奥方にはどうしようもない。しかし、もし奥方が気持ちに応えてくれるなら、それに便乗すればいい」

「それは、盲点だった。……ずるいような気もするが」

「それが恋の駆け引きってやつだろ。まぁ、頑張れ。好きなら足掻け。卑怯も糞もない、縋ってでも手放すな。女だって泣き落としの一つや二つ演じるんだ、男だってやってもいいだろう? なんとかなる。――そも、お前は恋の駆け引きで負けたことなどないのだから」

 ユーインが力強く笑う。

 それに、ローランドも眉尻を下げて笑った。



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