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5.わたくしの、勝算のない賭けとは

.



 ――オフィーリアが考えるよりずっと、父伯爵の観察眼は確かなものであった。



 オフィーリアが社交界に初めて赴いたその年、彼女はローランド・オルコックと出逢った。

 彼はきっと憶えていないだろう。

 オフィーリアが淡黄色の布地にオレンジ色の刺繍が描かれたドレスを身に纏った日――それがローランドと初めて舞踏し、その最中に少しの言葉を交わした、最初で最後の日であったこと。

 オフィーリアにとって、その日は誰にも触られぬよう宝箱にしまっておきたいほどの、掛け替えのない大切なものになった。

 元々、社交界へ出る前からオフィーリアはローランドの存在を知っていた。相思相愛の理想的な伯爵夫婦と、二人の子 ローランドがいかに麗しいかという噂を聞いていたのだ。

 オフィーリアは初めて社交界でローランドを見かけてから、ずっと彼を眺めてきた。それは観察のようでいて、しかしどこか焦がれるように。

 彼女がオルコック伯爵一家を見つめ続けるには理由がある。

 まるで恋愛小説で描かれる幸せな結末を迎えた男女そのままの伯爵夫妻に憧れていたのだ。そして、二人の結晶であるローランドをもうっとりと眺めた。

 ――オフィーリアはずっと、愛し愛される男女に憧れを抱いていた。

 愛の結晶とも言えるローランドゆえに見つめていたが、羨望が恋に変わったのはいつだっただろうか。多分、きっと――それは舞踏に誘われた日のことだった。


 彼からすれば、オフィーリアなど数多咲く花々の、目立たぬ一輪に過ぎなかっただろう。オフィーリア自身、自分に秀でたなにかがあるとは思っていない。だから、彼の目に止まったのは只の気まぐれに過ぎず、彼が自分を気に入ったからだとは欠片も思っていない。むしろ、彼が興味を持ったのはオフィーリア個人ではなく、”名門伯爵家の娘”という肩書きなのだろう、とすら思う。

 けれど。

 差し出されたローランドの手に、社交界にまだ慣れず緊張で震える己のものを重ねたオフィーリアに対し、彼はいたずらっ子のように無邪気に笑んで言った。


『緊張していますか? ……実は、私も緊張しているのですよ。可愛らしい貴女と踊れるのですから』


 緊張を解そうとかけてくれた言葉。あどけない笑み。踊り始めてしまえば、身を委ねられるほどの包容力。

 それが、たわい無い初恋のきっかけ。その初恋も、少しずつ恋心は綻んでいった。

 ――確かに、オフィーリアは恋に堕ちたのだ。




***   ***   ***




 だが、オフィーリアは気づいてしまった。自分は、そっと影から恋する相手を眺めていられる性質ではないということに。

 父は、オフィーリアを母に良く似ている、と言う。容姿はそうなのだろう。栗色の髪と顔立ち、さらに背格好までそっくりなのだから。

 しかし――恋に関して、オフィーリアは父と良く似ていた。


 父は、母を溺愛している。邸内では密かに狂愛と表現されるほど、愛し続けている。

 守るように母を邸に囲い、煩わしいすべてから隔離するその行動は、軟禁とも呼べる。

 そんな強い執着を見せる父は、母に「愛している」と日々口にするものの――母は一度として同じ言葉を返したことがない。母には、父以外にずっと愛する人がいたし、父を酷く憎んでいたから。

 そも、オフィーリアの両親は、父の一方的な望みにより結婚した。

 かつて、両親が若い頃。

 母には愛する青年がいた。その青年は中流階級の実業家だった。

 貴族であった母は、彼にすべてを捧げてもよいと考えるほどに恋に溺れていた。

 しかし、青年は母を愛していたのではなく、貴族社会に乗り込む伝手をつくることで事業を成功させる為に母を利用していただけであった。

 それを知った父は、名門伯爵家の権力や財力などあらゆる力を総動員して青年に圧力をかけ、廃業へと追い込んだ。

 やがて、青年は数多の借金を抱え、自殺した。

 母は、青年にすべてを奪われる前に、父によって救われた。少なくとも、青年は母以外に幾人も女がいたというし、ともすれば結婚生活が幸せであったとは考えにくい。

 ところが、母は父に感謝するどころか憎悪したのである。

 母は知っていたのだ。青年に利用されていると。他に女がいると。知っていてなお、好きだったのだ。そも、青年と両親の恋話は、母がオフィーリアに聴かせたくらいだ。彼女が知らぬ筈はない。

 その後、母は父に求婚され、とくに抵抗を見せず結婚した。すぐに子も生した。

 二人の結晶であるオフィーリアに、父は言った。

『愛しているよ、オフィーリア。母に良く似たお前は、幸せになるべきだ』

 母は言った。

『愛するオフィーリア、愛する人を絶対に手放しては駄目よ』

 父は母の憎悪を知っている。その上で、母を深く愛し続ける。

 母は父の愛執を知っている。その上で、復讐のごとく父のいる場所でオフィーリアに青年への愛を紡ぐ。

 いつしかオフィーリアは、愛がどういうものなのかわからなくなっていた。父は、母を愛し過ぎて籠の鳥を愛でるようにしか愛せない。母は、失った愛をいまだ諦めない。

 どちらも一方通行の愛。自己満足の愛。

 それは、本当に愛なのだろうか。愛とは、独占欲や執着でしかないのだろうか。

 オフィーリアには、愛が醜いものであるように思えてならなかった。

 そんな時に耳にしたのが、相思相愛の夫婦 オルコック伯爵夫妻とその息子 ローランドの噂であった。

 愛に溢れ、幸せな家庭――オフィーリアにとって未知なもの。

 オフィーリアは、愛がどんなものであるのか知りたかった。

 ――社交界へ行けば、視線の先には寄り添う仲睦まじい家族の姿。

 視覚で愛を見た後は、感じたくなった。欲しくなった。

 そうして舞踏の最中に会話を交わして以降、気がつけばローランドを目で追い、恋するようになっていた。




***   ***   ***




 オフィーリアがオルコック伯爵夫人として情報収集をする”ミモザの会”も、最初はローランドの噂を求めて参加したに過ぎない。確かに彼女は恋愛小説を読んでいたが、当時のオフィーリアにはこういった会に参加するほどの情熱はなかった。

 それでも参加したのは、恋愛小説が好きな構成員はもちろん恋愛話も好きだったから、ローランドの情報を入手するには最適だと判じたがゆえである。その推測も、やはり当たった。

 ちなみに、ミイラ取りがミイラになるように、やがてオフィーリアも恋愛小説を好むようになり、積極的に参加するようになったけれども。

 そうして、ローランドの噂を目的通り手に入れた結果――オフィーリアは悟ってしまった。

 自分がいかに父親と似ているかということ。

 ローランドと自分の知らない女性の噂を耳にする度、別れてしまえばいいと願った。

 ローランドと自分の知る女性の噂を耳にする度、死んでしまえばいいと祈った。

 嫉妬で身が焦げそうだった。恋によって、人の不幸だけでなく、死まで望む自分が怖くなった。

 きっと、自分が男性に生まれ権力を有していたなら、好きな女性を無理に捕らえて父のように軟禁し、愛しただろうと簡単に予想できる。

 けれど、幸か不幸かオフィーリアは女性。名門といえど伯爵家を継ぐ嫡男でもなし、無理に結婚まで進めてローランドを閉じ込めておくことなどできない。

 この恋を諦めてしまえるならば、それほど良いことはない。オフィーリア自身、そう思っていた。

 それでも、ローランドへの恋心が育っていくことはあっても、枯れていくことはない。自分の思うように操作などできなかった。

 その間も耳に入り続ける、ローランドの恋の噂。

 耐え難かった。狂ってしまいたかった。でも、社交界の噂で度々耳にする、嫉妬に狂い、恋人や夫の愛人を拷問にかけ、殺すような女になりたくはなかった。オフィーリアの両親のような醜い愛を、ローランドに向けたくなかった。醜い自分を知られ、嫌悪されることを一番に恐れた。




***   ***   ***




 そんなオフィーリアの恋心にいち早く気づいたのは、父伯爵。彼は、オフィーリアに提案する前に、オルコック伯爵家へと縁談を持ちかけてしまった。

 良かれと思ってしたことだろう。父は、母への罪悪感を、母とよく似たオフィーリアで晴らそうとしていたから。

 丁度その頃、ローランドの両親は亡くなっており、彼は後ろ盾を求めていた。アレクサンダー伯爵家とオルコック伯爵家は同じ階級とはいえ、只の伯爵家と歴史ある名門伯爵家では歴史が違う。つまり、家格が格段に違うのだ。

 ゆえに、ローランドはオルコック伯爵家を守る為の権力を求め、アレクサンダー伯爵の愛娘 オフィーリアとの縁談を受けたのである。



 そして迎えた、初夜。

 オフィーリアは胸が張り裂けそうなほどに緊張していた。小刻みに震える身体を、深呼吸することでなんとか誤魔化した。

 愛されることに憧れ、焦がれ続けたオフィーリアは、「もしかしたら”愛”が手に入るかもしれない――今はお飾りの妻でも、いつかローランドは愛してくれるかもしれない」そんなささやかな希望を抱きながら、ローランドとワイングラスを合わせた。

 ――それから半刻と経たずに、ローランドはオフィーリアの希望を粉々にすることとなる。


『私は、中身のない外見ばかり繕うようなお嬢様を愛せない』

『……わざわざ婉曲に言ったつもりだが。つまり、私は君を愛せない。義務として子さえ生してくれるなら、後は愛人でもなんでも囲えばいい』


 ――忘れない。忘れはしない。心の中心に届くほど深く刻まれ、動揺に震えた彼の言葉。

 衝撃に目を丸くし、硬直したまま涙が涙腺を刺激した。本当は、胸が痛くて顔が歪みそうになった――けれど、オフィーリアが泣くことはなかった。彼女の矜持が、それを許すことをしなかったのだ。

 オフィーリアは心を押し隠して唇に半円を描き、手を合わせる。声は、意識して楽しげに弾ませた。


『さすが……さすがですわ、旦那様! その素敵な発想、わたくし考えも致しませんでした!!』

『わたくし、旦那様がどんな方だとしても、政略結婚とはいえ夫婦になった身、愛す努力しようと思っておりました』

『ですが、それこそ間違いだったのです! 思えば、母は『愛する人を絶対に放してはなりません』と、それは刷り込みのように口にしておりました。それは、母の願いでもありました。そしてわたくし実は、恋物語のように愛し愛される恋愛に憧れていたのです……!』

『賛成致しますわ、旦那様! 結婚しても、愛を諦めなくても良いとは、なんたる名案!! さすが旦那様! 素晴らしいですわ!!』


 咄嗟に、その言葉が出た。

 すべては、オフィーリアの矜持に懸けて。

 彼に愛を請い、縋ることなどできない。彼女の矜持がそれを許さない。

 でも、今は愛を諦めることもできない。


 ――だから、オフィーリアは賭けを始めた。

 自分自身との賭け。勝算などない、しかし矜持に懸けて負けるつもりもない賭け。

 オフィーリアは父とあまりに似ていると自覚している。ゆえに、自分の心がいかに不安定で、気持ちが決壊すれば止められなくなるのか知っている。

 オフィーリアは考える。もし、自分の気持ちをローランドに吐露すれば、きっと気持ちの箍は外れ、ローランドの心を求めて恋に狂うだろう。どんなに彼の心が他を向いていても、彼が求めるものを壊してでも手に入れようとするだろう。そしてローランドから、侮蔑や怨恨といったすべての負の感情を向けられるのだ。

 ――嫌われたくはない。嫌われたなら、きっと生きることも厭うことになる。心が壊れてしまう。

 ならば、オフィーリアは矜持と自身の心を守る為、どんなにローランドを愛していても、自分から愛の言葉を紡ぐことはしない。




***   ***   ***




 オフィーリアは一人、化粧室に佇む。

 シャンデリアの明かりは消され、窓から入り込む日光だけが室内を照らす。

 その心もとない明かりを頼りに、化粧台の引き出しを開け、紅色の小瓶と青い小瓶を取り出した。

 紅色の小瓶の中身は、アンジェリーナからもらった媚薬。まだ未使用だ。

 元々引き出しに入っていた青い小瓶の中身は――避妊薬。

 青い小瓶を手に取り、揺する。ともすれば、中身の液体がちゃぷちゃぷと音を奏でた。

 オフィーリアはそれを悲しく微笑みながら眺める。

 避妊薬は、残りわずか。そして、オフィーリアは決めていた。

 結婚して一年と少し、そろそろ子ができないことで周りからせっつかれる頃だろう。ゆえに、この薬がなくなったら、もう二度と閨で新しい避妊薬を使うことはしない。

 彼女は目を瞑って囁く。

「……旦那様、賭けをしましょう」

 オフィーリアがローランドを”旦那様”と呼ぶのは、”ローランド”という個の存在を常に認識しないことで彼女の日常からローランドが夫であるという事実を消す為。そうすれば、いつか捨てられ妻という立場を追われたとしても、ついうっかりそこにいない彼の名を呼ぶことはない。新たに夫を迎えたとして、”ローランド様”と呼ぶ事はない。

 そして、彼女が”旦那様”と呼ぶもう一つの理由は、オフィーリアとローランドが愛のない夫婦であることを絶えず忘れず、彼との約束をいつも自分に知らしめる為。”愛のない夫婦における素晴らしい旦那様”だと、自分に知らしめる為。

 そうしているのに――愛されることはないと頭でわかっている筈なのに、事実の受け入れを心が拒絶する。だから、オフィーリアは賭けを始めた。

「わたくしに新しい恋ができるか、旦那様がわたくしに愛の言葉を紡いでくださるか」

 ローランドは跡継ぎさえ確保できれば、オフィーリアに愛人を囲ってもよいと言った。それはつまり、彼もそうするつもりだと言ったも同然。

 ゆえに、制限時間はオフィーリアがローランドの子を産むまで。

 それまでに、オフィーリアがローランドの他に恋人をつくるか、ローランドがオフィーリアを愛してくれれば、オフィーリアの賭けは引き分けに終わる。”引き分け”というのは、どちらにしてもローランドとオフィーリアは望み通り物事が運ばれ、つまり二人共に幸せになれるから引き分けであって”負け”るわけではないのだ。

 しかし、もし――もし、オフィーリアが気持ちを抑えられず、ローランドに愛を告げてしまったならば、それはオフィーリアの負け。オフィーリアはローランドに執着し、狂愛を向け、けれどローランドの愛は得られないのだから。醜い愛を向けるオフィーリアを、きっとローランドは嫌忌するだろう。それはオフィーリアにとって、絶望的な未来。不幸でしかない。

 それでも、制限時間を引き延ばそうと避妊薬を使っていたのは、「もしかしたら愛の言葉を紡いでくれるのではないか」という、潔しとしないオフィーリアの悪あがきだった。


 オフィーリアは窓辺へと歩みより、赤薔薇の庭園を見下ろす。

 今日は若干霧が立ち込めるせいか、視界が悪い。薄っすらとしか庭園は見えなかった。

 ローランドは、あの赤薔薇の庭園を一面、オフィーリアの好きな鈴蘭にすると口にした。

 ――オフィーリアが”鈴蘭を好き”だと答えたことには、理由がある。

 彼女は思ったのだ。鈴蘭は自分に似ているのではないかと。

 鈴蘭のように地味で味気なく、けれどこっそりと毒を持つ。オフィーリアの毒こそ、父と酷似した狂愛。相手の幸せよりも、自分欲を満たすことを優先してしてしまう、狂った愛情。

 よく、似ている。

 そんな理由で答えたのに、ローランドは嬉しそうに「君の好きな、鈴蘭を一面植えるんだ。花の季節には、必ず共に見に来よう」と言った。

「……花言葉は、『幸せの再来』」

 オフィーリアは独り言。泣くのを我慢するように顔を歪め、笑声を漏らす。

「……貴方は残酷すぎる」

 泣くこともできず、唇を噛んだ。彼女はどんなに胸が苦しんだとしても、決して泣かない。気持ちを外に出すことを恐れていたから。一度気持ちを解放してしまったら、もう二度と封じることはできないから。

 オフィーリアにとって、一度目の幸せはローランドと結婚した時だった。

 初夜の、彼がオフィーリアを拒む発言をするまで、彼女は幸せの絶頂にいた。そして、その幸せは一瞬にして砕け散った。

(旦那様は、わたくしの幸せを知らない。わたくしに幸せが再び来る筈がない)

 ――それなのに、彼はオフィーリアと鈴蘭を一緒に見ようと行った。いつか、彼はオフィーリアではない女性と共に眺めるかもしれない、その花を。


 きっと、ローランドは生涯オフィーリアを愛することはない。彼は、初夜にそう言った。

 閨で幾度も囁く「私のオフィーリア」という睦言よりも、オフィーリアは現実味のある初夜での彼の発言を信じるし、そも、彼は一度もオフィーリアを「愛している」と言ってはいない。言ってくれたなら、その時点で賭けは引き分けとなり、オフィーリアも愛を示せるのに。

 だから、オフィーリアはローランドの両親のような美しい愛を求める。

 ローランドの愛は得られずとも、きっといつか誰かを愛し、その誰かに愛される幸せな未来を夢見て。



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