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4.素晴らしい旦那様とは

.



 ――淑女とは、美に関して妥協は許されない。

 少なくとも、オフィーリアはそう思う。

 例えば、古くぼろぼろのドレスを着て装飾品一つ身につけず社交界へ赴けば、会場に集まる貴族達はまるでごみでも見るように蔑みの視線を向けてくる。家々の繋がりとて、当たり前に絶え、家の衰退を招くことだろう。

 例えば、髪や肌の手入れも施さず社交界へ赴けば、常識を母胎に置いてきた貴族にんげん以下の存在とされるだろう。そしてやはり、様々な縁は切れ、家の衰退を招くのだ。

 これらのことを考えれば、政略結婚したオフィーリアにとって美しさを求める行為はなにも不思議なことではない。そも、家の繁栄のための結婚であったのだから。

 ゆえに、オフィーリアが朝から美容に手を抜くことはない。


 起床後すぐに湯浴みを終え、窓から差し込む日光とシャンデリアの光で満ちる化粧室に入る。

 オフィーリアが化粧台の椅子に座ると、大きな鏡に化粧前の顔が映った。化粧気のない顔は、青白いほどに白い。それまで湯を浴びていたこともあり、頬だけはやや赤く染まっていた。

 メイドが濡れた栗色の髪を拭い、顔にかからないよう纏めている最中、オフィーリアは化粧台に並ぶ化粧水を手にとった。

 じっくりと肌に染み込ませていく。

 オフィーリアの化粧台には、化粧品がいくつも並ぶ。化粧水や唇軟膏によって肌の水分を保ち、白粉おしろいや紅、さらに頬紅などで外行きの自分を作る。香水はハンカチの香り付けに必須だった。

 美容の最新情報は、書物から得ている。オフィーリアは暇な時間に度々それらを愛読しているのだ。その書物には女性とはどうあるべきかが記されており、最新のものには化粧の賛否が書かれる。

 この時代、化粧をしない自然のままの姿が一番美しいとする意見がある一方で、淑女らは密かに化粧を施していた。それは加齢によるものから自分の欠点を補う為など理由は様々あれど、結局美しくなりたいという願望に帰結する。

 従って、自分に生まれながらの美貌がないと自覚しているオフィーリアも、他の淑女方同様に化粧を始める。娼婦のような真紅の紅と真っ白な白粉を塗りたくることなく、できる限り自然に、そして清潔に見えるよう心がけることが重要だ。

 化粧師ほどの腕を持つメイドが化粧を施し、乾いた髪は髪油で纏められ、結われていく。爪は他のメイドによって整えられ、色づけられた。

 素の自分を仮面で覆い、淑女の自分をつくりあげる。

 少しずつ変化してゆく自分の姿を見つめながら、オフィーリアは目を細めた。


「奥様、お時間です」

 傍で控えていたメイドが時計から視線を外し、告げた。

 邸の中でも一切手を抜くことなく着飾ったオフィーリアは、化粧台の前から立つ。

 これから来客があるのである。

 そうして、玄関まで足を運んだ。

 玄関に着いてみれば、既に夫 ローランドが待ち構えていた。

 ローランドはオフィーリアに気づくと、淑女をエスコートするようにオフィーリアへと手を伸ばす。オフィーリアも拒むことはなく、その手をとった。

「重要な客というわけでもない。君は部屋で休んでいても問題はないよ」

「いいえ、旦那様の大切なご友人ですもの。わたくしもご挨拶しなければ」

 にこりと笑んで見せるオフィーリア。ローランドは苦笑した。

 彼女の言葉通り、今日の来客はローランドの友人。貴族出身の彼は、嫡男ではないことから軍に身を置き、定期的に伝手で仕入れた情報をローランドに流してくれる。

 夫の大切な友人であり、オルコック家を繁栄させるために必要な情報をくれる人物。家の為政略結婚したオフィーリアにとって、無下に扱えるわけがない。家の繁栄こそ、オフィーリアが嫁いできた意味なのだから。

 ドアノッカーの音が響く。どうやら、待ち人が到着したらしい。

 執事が扉を開き、現れた人物を認めて礼を執る。その横を通って、ローランドが軽く手を挙げた。

「ユーイン、よく来たな。待っていた」

 異性には見せない、どこか無邪気な顔で笑いながら、ローランドは友人を出迎える。

 対するユーインと呼ばれた青年も、ローランドが下ろした手と握手を交わしながら、同じ笑みを返した。

「ああ、ローランド。ちゃんと土産話も持ってきたぞ」

 ユーインの視線がオフィーリアに向けられ、彼女はドレスを摘んで膝を折る。

「ユーイン・アシュリー様、ようこそいらっしゃいました」

 ユーインはローランドの肩を叩いて身体を向きを変えた。ついで、胸に手をあてた丁寧な礼を執る。

「お招きいただき、光栄です。夫人は変わらずお美しい」

 貴族らしい世辞。オフィーリアは口元に手をやり、「お上手でいらっしゃる。ユーイン様こそ、見惚れるほどに精悍ですわ」とやはり世辞で返答した。

 オフィーリアの評価通り、ユーインは体つき逞しく、顔も整っている。紫の瞳は神秘的で、柔らかな印象の金茶の髪、そして目尻の上がった目が心の強さと勇敢さを感じさせる。淑女だけではなく、メイドの間でも密かに人気があるのだとオフィーリアは小耳に挟んでいた。

 ユーインは当たり前のように優雅な仕草でオフィーリアの手を掬う。ついでオフィーリアの指先に口づけたその様は、乙女が憧れる騎士のようであった。

 それも苦笑で流したオフィーリアだったが、「ユーイン」とローランドが青年の名を呼ぶ。

 ユーインはローランドへと振り向き、少し憮然とした雰囲気を漂わせる彼に肩を竦めた。「やれやれ」と言いたげである。

 なにも告げずさっさと客間へと向かって歩き出したローランドの後姿に、ユーインは「では、失礼」と爽やかに言い残して背中を追う。

 オフィーリアもそっと手を振り、その場を後にした。




***   ***   ***




 ローランドとユーインが客間に篭っている間、オフィーリアは庭園で本を読むことに専念していた。

 庭園には円形の休息所があり、半球型の屋根の下に椅子と卓が置かれる。そこに座って読書をすることは、オフィーリアにとって日常ともいえる。

 卓には、数冊の本が重ね置かれている。それらは恋愛小説であったり、はたまた美容の指導書や流行情報に関する書籍だったりする。

 ちなみに、今オフィーリアの手にある書物は、大衆誌である。次回のミモザの会に備え、発売日には必ず入手し、三日以内に読破するようにしている。

 オフィーリアは大衆誌に連載される恋愛小説を読みながら、夢想した。

 ――この物語は、幸せな最後を迎えるだろうか、それとも悲しい別れを迎えるのだろうか。

 小説において、幸せな結末を読む度にオフィーリアはそれまで頑張った主人公達に祝福をおくる。けれど、悲しい別れの物語も彼女は好きだった。

 恋愛において幸せになれる者ばかりではない。悲しい別れなど、いくつもあるものだ。

 オフィーリアにとって、幸せな恋愛は憧れの対象。そして、妬みの対象でもある。

 そんな感情を抱きながら、オフィーリアは愛し愛されることに焦がれる。いつか、自分だけの恋人が現れるのではないかと期待する。愚かだと、自嘲しながら。

 オフィーリアは小説に視線を落として、独り言。

「アリシアとロバートは、幸せな結末を描けるかしら?」

 互いに素直になれるならば、あるいは。

 そう予想して、睫毛を伏せた。この物語の結末に幸せを望んでいるのか、別れを望んでいるのか――それはオフィーリア自身にもわからなかった。


「奥様」

 オフィーリアは背後から声をかけられ、振り返ることをせずに「どうしたの?」と問う。少し高めの声から、呼んだのが自分に近いメイド メアリーだとわかるからだ。

 けれど、オフィーリアの質問に答えたのは思わぬ低音であった。

「貴女に、話がありまして」

 想定外の男性の声に、オフィーリアは驚き首を回らす。

 すると、メアリーと共にローランドと会っている筈のユーインがそこにいた。

 オフィーリアは目を丸くしながら、「ユーイン、様……」とその名を口にする。どうして彼が今、この場にいるのかわからない。オフィーリアに何の用事があるというのか。

 視線の先にいる彼は、流れるような自然な仕草で礼を執った。どうすれば女性に好かれるのかよく知っている彼は気障ったらしいものの、その姿すら様になるのだから、オフィーリアは感心してしまう。

「失礼」

 そう口にして、ユーインはオフィーリアの向い席に腰を下ろす。さらに、控えていたメイドをさがらせた。

(他人に聞かれたくない話なのかしら)

 オフィーリアは本を閉じ、卓に置いた。

 メイドが大分遠のいて後姿の大きさが小指ほどになった頃。ユーインは卓に両手を組んで身を乗り出す。まるで挑戦的に口角を上げ、言葉を紡いだ。

「ローランドから、夫人と話をする許可はいただいています」

「……そうですか」

 男女二人きりでは外聞が良くない。密会かと使用人に疑われ、噂されることがあるから。どんなに緘口令を布いたところで、人の口に戸は立てられぬ。疑われないに越したことはない。

 それでもローランドが許可を出したということは、使用人か、ローランドのどちらかがどこかから様子を窺っているのだろう。

 どこか探るような紫の瞳を向けてくる青年を見据え、オフィーリアも優艶に微笑む。わずかなりとも怯んだ様子を見せれば、付け入る隙を与えることとなるのだ。それは、社交界で学んできたこと。優雅に、余裕を見せて笑む――それが淑女の仮面。

 ユーインは笑みを深めると、言った。

「貴女は、ローランドのことをどう想っていますか?」

 予想外の発言だった。オフィーリアは数拍言葉を失った後、小首を傾げる。

「……それが、本題、でしょうか?」

「はい」

 なんとなく、腑に落ちない。だが、その理由がオフィーリアにはわからない。ゆえに、いつもの答えを言葉にする。

「素晴らしい旦那様だと思っておりますわ」

「素晴らしい、ですか」

「ええ」

 何故、ユーインはそこまで念を押すように訊くのか。彼はなにを言いたいのか。

 オフィーリアは怪訝に思いながらも、極力表情に出さないよう努めた。

 ところが、ユーインは眉と肩を上げて見せたかと思えば、目を細める。口元の笑みはそのままに。

「貴女はローランドを”素晴らしい旦那様”と口にしながら、彼に愛を求めることはない」

「……それは、旦那様から?」

「そうです。ローランドは言っていました。貴女は跡継ぎを産んだなら、きっと愛人をつくり、囲うだろうと」

 苦虫を噛み潰した顔が若干でも表出してはいないだろうか――そんな感情がオフィーリアに過ぎった。(そんなことまで話しているの?)と、心中で夫を詰る。

 それでも、オフィーリアは心を隠して唇に弧を描き続けた。

「おかしいことでしょうか? 貴族に愛人などつきものではありませんか。互いに理解があるならば、なおさらなんの問題もないでしょう?」

 別に、オフィーリアとて愛人をつくることを好ましいとは思ってなどいない。――だが、しかし。

 他方、オフィーリアの悪びれることのない様に、ユーインは笑みを消し、溜息を吐いた。

「貴女は、ご存知でしょうか? ローランドの両親は相思相愛で、長くはない人生でしたが生涯幸せだったということを」

「ええ、存知ていますわ。……ユーイン様は、なにをおっしゃりたいのでしょうか?」

 オフィーリアはふふ、と笑って見せながら、己の目が笑っていないことを自覚していた。

 どこか、緊張孕んだ空気。

 けれど、ユーインは苦笑した。訝るオフィーリアに、少しだけ優しい瞳を向ける。

「……ローランドを”素晴らしい旦那様”と称するならば、その”素晴らしい旦那様”を愛してみよう、とは思いませんか? ローランドはきっと、両親のようになるのが夢だと思うのです」

 親友を思っての言葉なのだと、オフィーリアにはわかる。オフィーリアとてユーインの発言と同様、ローランドが無二の愛を求めているのだろうと推測している。

 それでも、オフィーリアは思う。だからなんだと言うのか、と。オフィーリアにはオフィーリアの考えと心があるのだ。

 そも、オフィーリアがローランドに愛を示したとして、彼も同じ気持ちを抱いていなければ、オルコック前伯爵夫妻のようになることは不可能だ。オフィーリアだけで成し遂げられることではない。

 それに――。

 オフィーリアは肩を小刻みに震わせる。笑いか、もしくは嗤いがこみ上げてきたがゆえに。くすくすと笑声を溢した。

「ユーイン様は、なにか勘違いされていらっしゃるのではありませんか?」

「……」

 怪訝そうにオフィーリアを見つめるユーインに、正面から相対する。それはまるで、挑むような笑みを浮かべて。

「旦那様は、”愛のない夫婦”における夫として、素晴らしいのです」

 刹那、ユーインは目を極限まで開いた。唾を呑み込んだ後、掠れた声で「……それは」と呟く。

 それに、オフィーリアが答えることはなかった。

 ――オフィーリアにとって、ローランドは”素晴らしい旦那様”である。

 その言葉に嘘はない。ミモザの会やローランドの前で公言することもあったが、そのどれもが嘘を吐いたわけではなかった。ただし、耳にした者らがどう解釈するかまで、オフィーリアは関与するつもりはないが。

 ローランドは”愛のない夫婦”にとって、この上ない理想とも言えた。決して、人間として、男として、”愛を求める夫婦”の夫として、”素晴らしい旦那様”なのではない。

 だから、オフィーリアはいつも夫を”旦那様”と呼ぶ。”愛のない夫婦における素晴らしい夫”という意味を込めて。呪文のように”旦那様”と口にすることで、”ローランド”という個を意識せずに済むのだ。

 彼女にとって、これが他ならぬ真実。

 オフィーリアは、言葉を失ったままのユーインに告げる。それは、彼女の心に刻まれた、かつてのローランドの言葉。

「旦那様は、初夜にこうおっしゃいました」

「……え?」

「私は君を愛せない。義務として子さえ生してくれるなら、後は愛人でもなんでも囲えばいい」

 今度こそ、ユーインは閉口した。



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