3.家族愛を育むには
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明かりのない寝室に、吐息と「オフィーリア」という名を呼ぶ声だけが響く。
深夜、閉じられたカーテンの向こうには薄っすらと輝く星空が広がっていることだろう。
柔らかな寝台の上で二人、絡み合う。
行為の最中、ローランドは何度もオフィーリアの名を掠れた声音で呼んだ。オフィーリアも答えるように、「旦那様」と言葉を紡ぐ。
そして行為の後、残骸を丁寧に拭ったローランドは決まってオフィーリアを抱きしめ、囁く。
「……私のオフィーリア」
まだ汗の残るオフィーリアの首筋に顔を埋めて、甘く甘く言うのだ。
オフィーリアはくすくすと笑う。くすぐったさと、彼の正直さに睫毛を伏せて。
(旦那様は、本当に正直な方)
睦言であっても、彼は――。
妻や愛人、娼婦相手に多くの男性は甘い寝物語を語らう。朝方には覚めてしまう魔法の言葉も、この時ならば熱っぽく。
けれど、ローランドはどこまでも、オフィーリアに嘘を吐くことはなかった。
――彼は一度として、「愛している」「好きだ」とは言わない。
オフィーリアは目を瞑る。
嘘を吐かない彼を、実に好ましく思いながら。
*** *** ***
日中、オフィーリアは誰も来ない場所で一人になろうと、化粧室で密かに篭っていた。他にも無人の部屋はあれど、この部屋が一番装飾が少なく、人の気配もしない。さらに、オフィーリアにとっては自分が素でいられる唯一の部屋であるから、一人になりたい時は人払いし、篭る。
窓辺の机に向かい、文を認める。この文は、両親に宛てた手紙。
オフィーリアは両親と、月に一度は必ず文を交わしているのだ。
文の内容は当たり障りのないものが多い。が、今回オフィーリアは、まだ子どもができていないことも書き加えた。それはオフィーリアにとってなんとなく記したことだけれど、ミモザの会へ参加した時にアンジェリーナから子どもの話が出されたから書こうと思いついたのかもしれないし、心の奥底に蟠りとしてあったから書いたのかもしれない。
窓から外を見やれば、天気は見事な晴天。霧で景色が霞むことのない日は、この国で非常に少ない。
霧の晴れた今日は、庭師が丹精込めて造り上げた庭園が見渡せ、遠くに赤い薔薇の咲く様が水玉模様のように点々と見えた。
「……赤い薔薇は、愛を伝える花」
ぼんやり薔薇の庭園を眺め、呟く。
化粧台の中には、使用されていない媚薬と中身が残りわずかとなった青色の小瓶。
ふふ、と口元を緩める。
(わたくしの、素晴らしい旦那様)
彼との約束を脳裏に浮かべた。
”義務さえ果たせば、愛する人を囲ってもかまわない。”
この約束がある限り、オフィーリアにとって、ローランドは素晴らしい旦那様なのだ。
ペンを置き、頬杖をつく。目を閉じれば、実家の両親を思い出す。
オフィーリアの父は、母をそれはもう溺愛していた。母が死ねば、父は自害するだろうという程の愛を注ぐ。
父と母の血を受け継ぐオフィーリアは、自分の容姿が母と瓜二つだからこそ、父から愛情を惜しむことなく与えられたのだと知っている。
かつて、父は言った。
『愛しているよ、オフィーリア。母に良く似たお前は、幸せになるべきだ』
かつて、母は言った。
『愛するオフィーリア、愛する人を絶対に放してはなりません』
それは刷り込みのように、さらに洗脳するように、何度も何度も聞かされてきた言葉。
そういえば、ローランドの亡き両親も、とても仲が良かったとオフィーリアは聴いている。生前、オフィーリアは社交界で前伯爵夫妻の仲睦まじい姿を目にしたことがあったし、相思相愛の理想的な夫婦だという噂も流れていたから聞き知っていた。
けれどその二人も、揃って事故で亡くなってしまった。
だからこそ、オフィーリアは思う。
ローランドは両親のようになりたいのではないだろうかと。彼も、両親のように愛し愛されたいのではないかと。
ローランドは結婚前、浮名の絶えない社交界では有名な青年だった。彼の他にも、色恋の噂が多々流れる者はあれど、中でもローランドは艶福家という印象が強い。彼の容姿が醜ければ淑女から嫌忌の対象となったであろうが、彼は身目麗しく、去る者は追わないという執着を見せないところがより人気に拍車をかけたといえる。
しかし、どんなに容姿が優れていても、女性関係の華やかさに良く思わない者はいる。ただの女好きであったり、性欲が強いだけならば尚更だ。オフィーリアとて、恋愛小説のような一途な男性に憧れる。
でも、と思った。
彼はただ遊び歩いていたわけではなく、生涯愛せる存在を探していたのではないだろうか。きっと、愛する人を守るために、ローランドはオフィーリアと初夜に約束を交わしたのだ。
そんな風に、最近のオフィーリアは思う。
オフィーリアは、愛人と妻の諍いがいかに醜悪で残酷なのか承知している。例えばある妻は、愛人を拷問にかけ、挙句生きたまま森に吊るし上げたと言い伝えられていた。このような話はなにも世紀の残酷な実話ではなく、たまに社交界に流れる程度にはよくある話だ。
ローランドは、本当に愛する人をそのような目にあわせたくはないのだろう。
ゆえに、”愛人と諍いになれば醜くなる妻”――そう宣言されたも同然のオフィーリアにとって、夫に愛してもらおうと努力することほど馬鹿馬鹿しいものはなかった。ならば、自分も外に愛人でもなんでもつくればよいではないか。
オフィーリアはうっすらと目を開き、独り言。
「……どこかに素敵な男性はいらっしゃらないかしら」
生涯愛せる、そして愛してくれる、オフィーリアだけの恋人。それが彼女の求めるもの。
ふぅ、とまだ見ぬ恋人を想って、彼女は溜息を吐いた。
手紙を書き終え封をした頃、コンコンコンと扉が叩かれた。
オフィーリアは立ち上がり、扉へと向かう。メイドを下がらせているのだから、扉を開けるのも自分がやるしかないからだ。
「はい」と返事をしながら、それを開ける。
「あら」と小さく驚き、見上げた。目前に立っていたのは、亜麻色の髪の麗しい夫であった。
オフィーリアはにっこりと微笑を浮かべる。
「いかがなさいましたか、旦那様?」
問われたローランドは視線を逸らしながら、小さな声で答えた。
「いや……珍しく天気が良いな、と」
「そうですわね、今日は珍しく青空が広がっていますわ」
肯くオフィーリア。けれど、天気の話をしに来たとは思えず、再度ローランドを見上げる。
彼は視線を彷徨わせた。
「旦那様?」
「いや……」
歯切れの悪い物言い。そしてしばしの間。
言葉を促すこともせず、オフィーリアが辛抱強く待っていると、ようやっとローランドが口を開いた。どこか躊躇いながら。それでいて、頬を染めながら。
「今、薔薇の季節だと従者から聞いた。……一緒に、庭園におりないか?」
つまり、散歩の誘いということ。
オフィーリアは目を丸くする。庭園の散歩に誘われるなど、結婚してから初めてのことだ。なにがあったのだろうか、と訝りそうになったものの、思いついた考えに(ああ)と一人納得し賞賛した。
「旦那様は本当に素晴らしい旦那様ですわ! 家族愛を育もうとなさっておいでなのですね。わたくし、旦那様のご好意嬉しく存じます。いつか子が産まれたら、愛のない家族で育つより、温かい家族愛の中で育ってほしいと思いますもの」
にこにこと笑む。
ローランドはわずかに目を見開き、オフィーリアを見下ろしただけだった。
*** *** ***
着いた先は、オフィーリアが手紙を書きながら眺めていた赤薔薇の庭園。
視覚ではわからなかったが、庭におりてみて薔薇の芳香が濃厚であることに気づく。香りもすっかり春らしかった。
「きれいですわね、旦那様」
薔薇に歩み寄って、より香りを感じようと鼻を花に近づける。ともすれば、まるで香水のように華やかな香りが鼻腔を擽った。
ローランドがオフィーリアの隣に並ぶ。
気にせず香りを嗅いでいたオフィーリアだったが、花粉のせいか、思わずくしゃみが出た。むずつきに鼻を手で押さえ、姿勢を正す。
すると、ローランドがふわりとオフィーリアの肩になにかをかけた。
肩にかけられた物に視線を落とし、オフィーリアは目を瞬く。ついでローランドを見やれば、彼がそれまで着ていた上着を貸してくれたのだと気づいた。どうやら彼は、寒さゆえにくしゃみをしたのだと思ったらしい。
「あたたかいです。ありがとうございます、旦那様」
優しさが嬉しくて、相好が崩れる。
ローランドは柔らかい笑みで以って返答した。
しばらく二人、腕を組んで薔薇の庭を歩く。
赤い薔薇はどれも、己が主役だと主張するように咲き誇っている。オフィーリアが身につければ自分こそが霞んでしまうが、アンジェリーナが身につければきっとよく似合うことだろう。
花の豪奢さに目が眩みそうになり、視線を外す。ともすれば、視覚に奪われていた集中力が拡散して他のことが気になった。
ローランドと密着した身体。彼の腕に手を絡める自分。
今更ながら、オフィーリアは社交界以外でローランドと腕を組んで歩くのは初めてのことだと思い至る。
(家族愛を育もうとしているのに、恋人のように腕を絡めるのはおかしいかしら?)
考え、けれどあからさまに絡めた手を引き抜くのもおかしいと思う。少しだけ思考して、はしゃぐ振りをして薔薇に駆け寄ってはどうだろうか、と心を決めた。
横目でローランドの様子を窺う。彼はオフィーリアを気にとめることなく、風景に見入っているようだ。
(今なら……)
するりと手を引いた刹那。
瞬時にオフィーリアの手はローランドに捕まる。
つんのめりながらも、なんとか重心を後ろに戻すことでオフィーリアが転ぶことはなかった。どの道、ローランドと繋がれた手ゆえに、転ぶことはなかったかもしれないけれど。
オフィーリアは背後の夫を見上げ、首を傾げた。
「どうなさったのですか?」
彼の意図がわからず、困惑するしかない。
驚き雑じりに見上げる彼女の手を、再びローランドは自分の腕と絡めさせた。そうしてオフィーリアを見下ろし、苦笑する。
「たまには、こういうのもいいだろう?」
「……そう、ですわね」
オフィーリアにとって、彼がなにを考えているのかわからなかった。わからないから、オフィーリアはなにも行動できず、ただ様子を窺いながら歩く。
「……オフィーリア」
「はい」
「君の好きな花は、なんだ?」
突然の問い。オフィーリアは言葉を詰まらせ、つい歩む足を止めた。
彼女にあわせて、ローランドも止まる。
じっと見つめるように見下ろしてくる瑠璃色の瞳に、オフィーリアは内心焦った。見た事もないほどに真摯なローランドの表情。それは彼と毎日顔を合わせるオフィーリアとて見惚れそうになるもので、頬が紅潮しそうになるのをなんとか抑えて小さく深呼吸するに留める。睫毛を伏せることで、視線を無視しようと努力し、必死に考えた。
やがて彼女の心に浮かんだ花は、可憐でいて、毒を持つ花。
「……鈴蘭。わたくしは、鈴蘭の花が好きです」
薔薇のように大輪ではなく、色も地味なあの花。風に揺れ、心和む芳香をさせながらも毒を隠し持つ花。そんな鈴蘭が、オフィーリアは好きだった。
――嘘ではない。
本当に好きな花だけれど、彼女がローランドと視線を合わせることはない。どこか後ろめたさを隠すように、目は伏せられたまま。
だが、ローランドは満足したかのように「そうか」と一人頷き庭園を見まわした。
「――では、鈴蘭を植えよう」
「え?」
つい、オフィーリアは素で返す。
目と口を丸くし驚きを隠せない彼女に、ローランドは純真な笑顔を向ける。
「君の好きな、鈴蘭を一面に植えるんだ。花の季節には、必ず共に見に来よう」
あまりに楽しそうな表情。彼には、鈴蘭の花が咲く庭園が想像できているのかもしれない。
オフィーリアは少しの間呆気にとられた後、微笑んだ。
(……花言葉は、『幸せの再来』)
心の中で呟きながら、「素敵ですわ、旦那様」と言葉にする。この時、オフィーリアは自分がどんな表情を浮かべているのかわからなかった。
ローランドは笑みを苦笑に変える。どこか寂しそうに目を細めて、囁いた。
「……君は、私の名を呼ばないな」
一瞬、オフィーリアは硬直する。なんとか紡いだ言葉は、途切れてしまった。
「そう、でしょうか」
そうして、唾を呑み込むことで動揺をおさめ、続ける。
「そうですね、そうですわ。だって、旦那様はわたくしの素晴らしい旦那様ですもの!」
ふふ、とオフィーリアは口角を上げて見せた。
心絆されそうになったとしても、彼女はそうやって心の鎧を纏い直すのだ。
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