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わたくしの旦那様は素晴らしいのです  作者: 梅雨子
蛇足的続編(※必ず、本編のあとがきをご覧になってから閲覧くださいませ)
12/13

6.ある夫婦の未来について

.



 前世の記憶持ちとは、厄介なものだ――そう彼女は常々思う。



 栗色の髪を上半分だけ髪留めで纏め、残りは背に流したもうすぐ二十歳の娘。

 彼女は広大とはいえない庭園に置かれた卓で独り、読書に耽る。ページを捲りながら、残された片手は読書のお供である焼き菓子に伸ばされた。

 一口それを口に含み、ついで茶の入ったカップに唇を寄せる。こくり、と少し苦味のある、けれどまろやかな茶を嚥下すれば、彼女は表情を和らげた。

「やっぱりこれよね。お茶にはスコーン」

 卓に並べられるのは、皿の隅にたっぷりとジャムが添えられたスコーン。そして乳製品の入った茶。ちなみに、このジャムとスコーンは彼女が作ったものだ。

 そも、この世界に苺のジャムもスコーンも、ミルクティーだって存在しない。ゆえに、彼女はこの世界の食材から前世に食した気に入りの食べ物を自作している。

 しかし、前世の彼女は残念ながら料理人ではなく、貴族令嬢であった。つまり、当然ながら料理人や菓子職人のような腕も専門的知識もない。従って、この世界の料理本を読み漁り、彼女の住む邸の料理人に師事して、基礎を学ぶことで試作品を作ってきた。

 彼女が今食べているスコーンとジャムは、その成功例である。


 彼女の名はオフィーリア・メルナーシュ。豪商メルナーシュ家の第三子であり、次女だ。

 上流階級の結婚適齢期はもうすぐ過ぎさるが、中流階級の結婚適齢期はまだ数年先だから、彼女に焦りはない。結婚相手を探すことすらしていない彼女は、どうせ相手は父親が商売のために見繕って誰か探してくるだろう、と楽観的に予想していたりする。

 そうしてオフィーリアは、気ままに数人の使用人と共に郊外の別邸にて暮らしている。――王都の本邸で暮らす家族とは離れて。


 さて、オフィーリアが独り別邸で暮らすには訳がある。


 オフィーリア・メルナーシュが生まれた世界は、まるで彼女が前世生きた世界のようでいて、しかし近代と中世が混同していたり、様々な国が織り交ざっているような世界だった。

 さらに彼女の前世生きた国との大きな違いは、信仰である。この国では、”運命の三女神”という過去・現在・未来を司る女神を崇拝している。そして、神殿にはその女神の力を授かった存在が上位神官、中位神官、下位神官と分けられ常駐する。

 まるで嘘のような真で、魔法――といえば語弊にあたるかもしれないが、神官達は不思議な力で過去を見ることができた。けれど残念ながら、どんな神官であっても未来や現在を見ることはできない。神殿の教えによれば、人が神の領域である未来を犯すことは許されない為、領域を犯すことのない過去――前世のみをみることができるという。

 罪も罰も、善も悪も、この国では前世からずっと継承されていくべきだと考えられているから、前世を見ることができる神官は、新生児の前世を見て、前世と同じ名前をつけるのだ。

 ところが、神官にも能力の差異がある。

 上位神官は貴族、つまり上流階級を担当する。彼らの能力は神官の中で最も優秀で、まるで記憶が流れ込んでくるかの如く、ある者の前世を鮮明に把握することができる。たまに記憶持ちの子が生まれ、成長時に様々な困難に見舞われることがあるが、その際に上位神官は前世をもとに的確な助言をする。

 中位神官は中流階級を担当する。彼らの能力は上位神官よりも劣り、ある者の前世を曖昧に見ることができるものの鮮明ではない。だから、神官ら自らの経験と把握できた前世をもとに、子についての悩みある親に助言を施す。

 最後に下位神官であるが、彼らは労働者階級を担当する。彼らの持ちうる能力は、前世の名前をみることのみ。

 これが、神官という存在である。


 そして、中流階級であるメルナーシュ家も、オフィーリアが誕生した際に彼女の前世を見てもらい、彼女は”オフィーリア”と名づけられた。

 その時、中位神官は「……なにかあれば、ご相談にいらしてください」という言葉を残して去り、両親や兄姉、立ち会った者らは皆首を捻ったそうだ。


 それから数年が経ってから、皆は中位神官の言葉の意味を知る。

 オフィーリアは、珍しくも前世の記憶持ちであった。

 それがわかったのは、彼女が言葉を覚え始めた頃。夢で、前世 オフィーリア・アレクサンダーの記憶をみるようになったのだ。オフィーリア・アレクサンダーの一日一日を、オフィーリア・メルナーシュが夢に見る。現世の彼女が二歳十ヶ月と一日であれば、前世でも二歳十ヶ月と一日の頃の夢を。

 ともすれば、幼いオフィーリア・メルナーシュに混乱が生じてしまった。覚えたての言語は、前世の記憶と雑じり合い、言語障害として表れた。

 慌てた両親は、すぐに中位神官のもとを訪れた。そこで、中位神官はオフィーリア・メルナーシュが前世で使用していた言語とこの国の言語を雑じえて覚えてしまったことを指摘した。

 その時になって、家族はオフィーリアが前世の記憶持ちだと知ったのだ。

 ――それだけならば、よかった。

 中位神官は続けた。


『この子は、のろわれています。――手首に、青い薔薇と茨がみえる』


 青い薔薇も、茨も、神官の他に見える者はいなかった。しかし、神官にだけは、見えた。神官が言葉にしたのではなかったら、きっと家族がオフィーリアの呪いを信じることはなかっただろう。だが、オフィーリアの呪いを告げたのは、信仰の神に仕える神官。ともすれば、世に稀なる前世の記憶持ちという事実も相まって、中位神官の言葉は真実味を帯びた。

 自分の子だとしても”呪い持ち”。前世の記憶持ちゆえに混乱している娘を、父は愛することができなかった。

 ――呪いによっては、もしかしたら他の愛する家族に危害が及ぶかもしれない。それを理由に、オフィーリアは別邸へと隔離された。


 それでもオフィーリアは、高等な教育を受けさせてもらい、数人の優しい使用人に囲まれて育った。そんな風に自由気ままに暮らしてきた彼女は、自分を不幸だと思うことなどない。

 それに、腹を痛めて産んでくれた母だけは、王都から距離あるこの別邸へと頻繁に会いにきてくれるのだ。少なくとも、家族の内、母からは愛されているのだと実感する。

 オフィーリアからすれば、夢に見る前世のオフィーリアの方が、よほど心満たされない生き方に思えた。



 のんびり茶を飲みながら、オフィーリアは思う。

 もう、自分は二十になる。その内、父が縁談を持って現れるだろう。それはオフィーリアが呪い持ちゆえの厄介払いではなく、豪商の娘にはよくあること。権力者に娘を嫁がせることで伝手をつくる――なにも珍しいことではないし、恋人がいない彼女が嘆くことでもない。

 そう割り切るオフィーリアは、恋を胸に秘める。

 ――夢を、見る。

 前世の夢。辛い恋の記憶。

 同じ年齢の、前世のオフィーリアは、既にオフィーリア・アレクサンダーからオフィーリア・オルコックへと名を変えた。恋した男性と結ばれて。――それは、愛のない結婚だったが。

 おかしなことに、オフィーリアはオフィーリア・メルナーシュとして逢ったことのない青年に恋をしていた。

 今のオフィーリアが自分の境遇を嘆かないのは、満たされているからだ。幼い頃からずっと抱えてきた不思議な喪失感。その理由がずっとわからなかった。なにをしても、誰と一緒にいても、楽しかったり嬉しかったりしても、心が満たされることはなかった。だから欠けた心を補おうと、前世に浸るように記憶を辿って、スコーンやジャム作りを始めた。

 けれど。

 夢の中で夫となるローランド・オルコックを一目見てから、心の空洞は埋められた。世界が美しく思えた。世の中の人が幸せになれば良いと願うほどに、幸福感に包まれた。

 それが、前世に引きずられた想いでも、オフィーリアは自分の心が満たされるならばかまわなかった。辛くて苦しい、狂おしい恋。しかも、相手は前世の青年。現実にいないのだから、叶う筈もない。

 だが、それでよかった。叶わないと知っているからこそ、諦められる。見返りを求めない、愛するだけの幸せな恋ができる。それは、もしかしたら最も綺麗な恋の形かもしれない。本気で彼女はそう思う。

 前世で意地を張ってしまった愚かなオフィーリア・オルコック。それは、オフィーリア・メルナーシュにも理解できる。恋を諦めていなければ、今の彼女とて同じ行動をとるだろう。

 それでも夢の中で、ローランドが微笑みかけてくれるだけで、今のオフィーリアは嬉しい。幸せだと思える。

 穏やかな恋を、育んでいける。それは、とても幸せな事。

 だからこそ、今のオフィーリアは思う。

 ――いつか来る縁談の相手が、前世でのローランドと同じ言葉を言ってくれないかと。


『私は君を愛せない。義務として子さえ生してくれるなら、後は愛人でもなんでも囲えばいい』


 前世のオフィーリアを苛み続けた言葉。

 だけど、今なら――今世のオフィーリアには、この言葉の意味が理解できる。未来の夫がこの言葉をくれたなら、オフィーリアは夢の中の青年を愛し続けることができる。罪悪感もなく、ただ義務を全うすれば良い。

 オフィーリアは自嘲した。

(本当に……わたくしは、いつまでこの恋を引きずるのかしら。まったく、愚かだわ)




 サク、サクという芝を踏む音が背後から近づいてくる。

 オフィーリアが首を回らせれば、傍に籠を手に提げた母が立っていた。母はおっとりと微笑み、オフィーリアの向かい席に腰を下ろす。

 少女のように卓上のスコーンを摘んで、母は言葉を紡いだ。

「こんにちは、オフィーリア。元気そうで嬉しいわ」

 豪商の妻である母は、二十代の子どもを三人も持つとは思えぬほど若々しい。皺の少ない顔、少し垂れた目尻に茶色の瞳。金茶色の艶やかな髪はきれいに纏めあげられている。

 母の美しさは父から絶対的な愛を向けられているからかもしれないし、彼女の美容への意識ゆえかもしれない。

 サク、とスコーンをかじる母に、オフィーリアは苦笑を溢す。

「お母様も変わらず美しいですわ。……お母様、スコーンはジャムにつけて召し上がってみてください。そのままでは甘みが足りないでしょう?」

「あら。でもそうね、口の中の水分がすべて奪われそうだから、ジャムがほしいわ」

 眉間に皺を寄せてもごもごと必死に咀嚼しようとする母。無作法だが、オフィーリアは匙にジャムをとり、差し出す。母はそれをスコーンで受け取ると、口に含んで表情を綻ばせた。

 母の来訪を知る使用人が新しいティーカップを持ってくる。卓に置かれたそれに、オフィーリアは自ら乳製品を注ぎ、茶を足す。これでミルクティーもどきの完成だ。

 貴族ではないオフィーリアにとって、最低限の身の回りの世話は自分でできるし、自身ですることに抵抗はない。そも、使用人の数も多くはないから、貴族のように自分の世話まですべて任せる余裕などない。ドレスも一人で着られる仕様のもので、前世とは異なり他人の手は必要ない。

 ゆえに、こうして茶も自分で淹れるのだ。

「はい、お母様」

「ありがとう、オフィーリア」

 母は茶をおいしそうに飲むと、「そうそう」と楽しそうに声を弾ませる。

 どうやら、母にとって愉快なことをこれから発言するつもりらしい。

 そう察したオフィーリアは小首を傾げる。

 その反応が嬉しかったのか、少女のように口角を上げた母は、言葉をついだ。

わたくしの幼馴染であり、親友のシルヴィエを憶えているかしら?」

 オフィーリアは目を瞬き、頷く。オフィーリアがシルヴィエに逢ったことはない。けれど、母は数年前まで親友と頻繁に文を交わしていると昔から言っていたし、会話の中にその親友が登場することも多かった。だから、存在は知っている。

「確か、クローヴィス侯爵様の愛人になった方、ですよね。数年前に亡くなったとか……」

 嫌な例えだが、シルヴィエの容姿を知らないオフィーリアには、母の言いたい人物の特定をするのにそれが一番わかりやすい表現だった。

 母は気を悪くした様子もなく、「そうそう」と首を縦に振る。

「言ったと思うけれど、侯爵様の目に留まって相思相愛になって……でも奥方がいらっしゃったから愛人になった、あのシルヴィエ。彼女、侯爵様との間に一人息子がいるのよ。……私も、あの子が侯爵様のもとへ行ってから一度も会っていないから、息子さんに逢ったことがないのだけど」

 少しだけ寂しそうに睫毛を伏せる母。オフィーリアは優しく母を見つめた。

「仕方のないことですわ。愛人は外聞が悪いですもの。頻繁に会っていることが噂で流れれば、お父様の仕事に支障が出るかもしれません。シルヴィエ様も、覚悟の上だったのでしょう? だから、承知で文だけを交わしていたのでしょう?」

「ありがとう」

 母は悲しそうに微笑んだ。

「あの子と同じことを言うのね。……ごめんなさい、話を戻すわ。シルヴィエは息子さんを侯爵様のお邸の片隅で育てていたの。奥様とご子息方は不快そうにしていたそうだけれど。シルヴィエが亡き後は、優秀だからと侯爵様が強引にクローヴィス侯爵家の籍に入れて、息子さん本人は侯爵様の側近として手伝いをしていたそうなの。でも、先日、侯爵様は亡くなってしまった……。侯爵様が死んで早々に除籍するのは外聞が悪いから、そうはしないようだけれど、邸には住み辛いでしょうね」

「……その方は、どうなるのでしょう?」

 侯爵の望みで侯爵家の籍に加わり、邸にいたのだ。クローヴィス侯爵の妻と子どもにとって、侯爵亡き後邪魔な存在でしかないに決まっている。

 眉を顰めたオフィーリアに、母は手を合わせた。

「そうなの! だから、私が引き取ることにしたの!」

「え? いえ、でも、その方は何歳ですか? 引き取るほど幼いのですか? お父様はなんと?」

「主人は大丈夫よ、渋々でも頷いてくれたわ。息子さんの年齢は……二十半ばか後半……くらいだったかしら? でもほら、突然放り出されても職や住む場所に困るでしょうから、しばらく環境が整うまでここで過ごしてもらおうかと思って」

「……ここ? ここって、別邸ここですか?」

「そう。きっと美しい青年よ。だってどんな花よりも美しいシルヴィエの子どもだもの。……ごめんね、オフィーリア。主人は、引き取ることに頷いてくれたけれど、赤の他人である青年を本邸に住まわせることには反対したの。――それでも、シルヴィエは亡くなる直前に、私に文を書いていた。『息子のことを、お願いします』って。あの子が亡くなってすぐは、私にできることはなかったけれど、今こそ私の出番だと思ったの。……だから、少しだけ、お母様の願いをきいてほしい。大事がないように使用人が共にいても、知らない男性と暮らすのが不安だというなら、オフィーリアが本邸へ戻れるよう主人を説得するわ」

 雨に打たれる花のように弱弱しく言う母に、オフィーリアは溜息を吐いた。彼女は母の頼みに弱い。オフィーリアはずっと父や兄姉に無いものとして扱われてきたが、母だけがオフィーリアに会いにきて、愛を注いでくれた。

 ――夢の中の、前世のオフィーリアは、愛が醜く思えてならなかった。

 でも、今のオフィーリアは、そう思わない。見返りを求めない恋を知り、母から純粋な優しい愛をたくさんもらった。母は別邸に住みたいと願ったけれど、父が頑として頷かなかったことをオフィーリアは知っている。母に同行していた使用人が、教えてくれた。

 だから、オフィーリアは笑った。

「お母様の頼みなら、断れませんわ。素敵な方だったら恋に堕ちてしまうかも」

 そう冗談を口にしながら、「どんな方なのですか?」と尋ねる。すると、母は嬉しそうに答えた。

「ありがとう、私のかわいいオフィーリア! 息子さんはね、とても才能に溢れているらしいの。侯爵様の手伝いができるくらいだから。あとは……趣味は寝る事と街を彷徨うこと、と聞いたわ」

「……寝る事? 彷徨うこと?」

「そう、睡眠と徘徊? 昔はそうでもなかったみたいだけれど、数年前から暇さえあれば寝るか街に出ているそうよ」

「……不思議な方ね」

「……そうね、不思議な子ね」

 二人で首を傾げた。




***   ***   ***




 一週間後の空は、雲ひとつない澄んだ青色をしていた。

 綺麗な、目に沁みそうなほどに鮮やか青空を見上げ、オフィーリアは大きく息を吸う。

 前世で生きた世界では、空はいつも暗かった。雨の日も、曇りの日も、晴れの日も。どんな時も黒い靄や霧に包まれ、どんよりと重たい色をしていた。けれど、この世界の空は本物の青。

 庭園を散歩していると、風が花を揺らす音がした。そこは、前世の夢で鈴蘭の約束を交わしてから、オフィーリアが鈴蘭に良く似た花を探して植えた場所。

 風に花の香りが混じり、オフィーリアは肺一杯の空気を吸う。そうすると、前世に戻ったような気がした。過去ばかり追ってしまう自分に自嘲しながら、小さな白い花を眺めた。

 ちなみに今、オフィーリアが庭園にいるのは、来訪者の予定があるから。

 今日、母が亡き親友の息子を連れてくるのだ。その出迎えゆえにオフィーリアは外で待機する。


 不意に、カラカラと馬車の車輪が近づく音が聞こえた。

 オフィーリアはその音を耳に捉えると、正面玄関へと足を向けた。


 玄関に着いてみれば、御者が手綱を引き、馬をとどめた。ついで御者は馬車の扉を開けると、中から出てきたのは男性の足。どうやら、この足の持ち主が母の親友の息子らしい。

 馬車の到着に気づいた使用人と共に、オフィーリアは馬車から降りる人物を見守った。

 磨きぬかれた革靴、黒いズボンが最初に登場し、続いて黒いジャケット、その下は青みを帯びた灰色のベスト、シャツには群青色のタイが巻かれ、金で装飾された白金のピンで留められる。それだけで、上流階級出身だとわかる。

 そんな彼を中流階級であるメルナーシュ家別邸で世話をすることも驚きだが――それよりオフィーリアが驚いたのは。

 礼を執ることなく、硬直したまま立ち尽くすオフィーリア。

 現れた青年も、地面に降り立ち、彼女と対面してすぐに瞠目した。

 オフィーリアは言葉がなにも出てこなかった。真っ白に染まった頭の中。ただただ、驚きに目を見開いたまま。

 そんな二人の意識を現実に引き戻したのは、不思議そうな顔をした母。彼女は御者の手をかり馬車を降りると首を捻った。

「どうしたの、二人共?」

 そして、二人は同時に呟く。

「私の、オフィーリア……」

「旦那、様……」

 オフィーリアの名を呼び、顔を切なく歪めながら、それでも笑む青年。亜麻色の髪と瑠璃色の瞳は、オフィーリアの前世の記憶そのまま。前世、結婚して数年後の彼と変わらない姿。

 オフィーリアは混乱しながらも状況を把握しようと必死だった。

(なぜ、前世の旦那様が目の前にいるの? 住む世界が違う筈なのに……)

 ――恋する相手が目の前にいる。

 嬉しい筈なのに、どうしたら良いのかわからない。見返りを求めない恋だったのに――手の届かない相手であった筈なのに。こんなに近くにいたら、望んでしまうのではないかと、前世で抱いた恋への恐怖心が胸に襲いくる。

 しかし、今自分は青年の妻という立場ではないのだと思い出す。

 動き出すのは、青年の方が早かった。彼は泣きそうに微笑み、「私のオフィーリア」と囁きながらオフィーリアとの距離を詰める。

 慌てたのは、オフィーリア。なにがどうなっているのか、どうしたらいいのかわからない彼女は、ひとまず落ち着こうと思った。けれど落ち着けず、錯乱状態のままに一歩後ずさって青年との距離を再びつくる。

「ちちち違います、貴方のオフィーリアではありませんっ。わたくしはオフィーリア・メイナーシュで、オフィーリア・オルコックではありません。元旦那様、貴方のお名前は?」

 少しずつ整理を始めた思考。それでも鼓動は激しいままで、胸元を手で押さえながら、オフィーリアは青年を見上げた。

 今の二人は、夫婦ではない。いくら再会を喜んだところで、前世の記憶があってもなくても、オフィーリアが望む愛を彼が返す義務も義理もない。それを自覚して今の立場を考えてみれば、一線を引かねば、と彼女はと思ったのだ。

 ぎこちなく笑んで紡いだオフィーリアの問いに、青年は優しく目を細めた。

「ローランド・クローヴィス。それが、今の私の名前だ……私のオフィーリア」

「え、いえ、今のわたくしは貴方のものではなく……待って、待ってください! わたくしを惑わせないでっ」

 今世で感じた事のないときめきに顔が紅潮する。鳴り止まない鼓動が、さらに激しく主張する。目頭が熱くなる。

 そんなオフィーリアを他所に、ローランドは傍観を決め込んでいた母へと首を回らした。

「なにかしら?」

 楽しそうに尋ねる母に、ローランドははっきりと言った。

「彼女を私にください、義母上」

「あら、まぁ」

 あんぐりと口を開けたオフィーリア、ローランドは真摯な表情で母を見つめ、母は嬉しそうに唇に弧を描いた。

 ついでローランドはオフィーリアへと再び向き直る。そうして、二人の距離を今度こそ縮めた。

 ローランドの影が落ちるオフィーリアは、身長差ゆえに見上げねばならない。瑠璃色の瞳を見やれば、吸い込まれそうな感覚に陥った。

 両手がローランドの手に包まれる。それに反応する隙を、彼は与えてくれなかった。

「私のオフィーリア」

 切望するように微笑むローランドは、言葉をつぐ。

「好きだ、愛している。――前世から、ずっと」

 刹那、オフィーリアは目を極限まで見開く。言葉が出ない。喉が鈍く痛い。

(――そんなはず、ない)

 反射的に脳裏に過ぎった言葉。

(だって、でも、だけど)と、ローランドの言葉を頭で理解しようしても、前世の記憶ゆえに否定してしまう自分がいた。けれど――どうしてか、心はすんなりと彼の言葉を受け止めたらしい。

 混乱する心に――もう、いいではないか、ともう一人の自分が語りかける。もう、今度こそ意地を張るのはやめよう、今度こそ素直に生きよう、と。

 そうしてオフィーリアは握られた両手を口元まで持っていき、唇を当てて必死に言葉を紡いだ。言葉にしたのは、ずっと伝えたくて、伝えられなかった気持ち。それは前世から我慢していた言葉。

「……わたくしも。わたくしも、愛しています。――わたくしの、ローランド様」

 オフィーリアの頬を、涙が伝った。



 そしてその日、二人は再び鈴蘭を共にみる約束を交わした。

『幸せの再来』を花言葉に持つ、二人にとって約束の花を――。



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