4.旦那様の奇行について
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冬――オフィーリアは無事、男児を出産した。
男児は、”カーティス”と名づけられる。
カーティスが生まれてから三月という月日が経過し、その間に彼は順調な成長を見せた。ふわふわとした金の髪、くるりと丸い目と瑠璃色の瞳。色合いはローランドに良く似ている。そんなカーティスは現在、瑠璃色の瞳を瞼で覆い、暖炉の前に置かれた赤子用の寝台で眠る。
寝台傍に立つオフィーリアが窓から外を見やれば、空はどんよりとした暗い色の雲が広がっていた。
乳母はカーティスに日向ぼっこをさせようと考えていたらしいが、いつ雪が降り出すか、という天気ゆえに今日は部屋で過ごすこととしたと言う。それはきっと、正解だろう。
オフィーリアは寝息を繰り返すカーティスの頬に触れ、赤子の温かさに頬を緩ませる。
体型を元に戻す為、日中忙しいオフィーリアであるものの、最近はよくカーティスの傍にいることが多い。それは出産後体調が回復してから、なぜか夜の営みが以前にも増して激しくなった為に、他所の貴族の奥様方のようにマッサージなどに時間を費やす余裕が体力的にないからだ。目覚めてから昼間まで、身体が悲鳴をあげているから無理をしない程度に休息をとりながら邸内で運動をしている。
従って幸か不幸か、邸に留まる分オフィーリアはカーティスの傍にいることができる。
――眠る我が子。
すくすくと育ち、最近では首がすわった。起きている時に手を差し出すと、ふっくらとした小さな手がオフィーリアの指を握る。それがかわいくて。自分と愛する人との子だと思えばなおさらに。
だから、オフィーリアは乳母の邪魔をしてしまうと理解しつつ、カーティスにかまいたくなってしまう。
「幸せになってね」
囁いて、近くのソファに腰を下ろす。夜から夜明けにかけての疲労が色濃く、日中は化粧で隠しているが目の下にはくまができてしまった。
背もたれに身を委ねるオフィーリアに、メイドのメアリーが茶を淹れた。
オフィーリアはその香りに目を細め、ティーカップを持ち上げて華やかな香りのする茶を口にする。
「……おいしい。ハーブティーね、心が和むわ」
口元を綻ばせると、近くに控えるメアリーは安堵するように微笑んだ。
「最近、お疲れのようでしたので」
オフィーリアは苦笑を漏らす。
メアリーの言う通りだった。出産後、なぜかローランドは激しくオフィーリアを求めるようになった。それも、奇行とも呼べる行為をもって。
他人には決して言えないが、それまでローランドは普通の――至って普通の、教会が推奨してきた体位での行為を行ってきた。それがオフィーリアにとって当たり前であったし、貴族の常識でもあったからなにも不思議なことではない。
だが、カーティスが生まれた後から、なぜかローランドは獣化とも呼ばれる、離婚の理由として成立する体位での行為を求めるようになった。
正直なところ、オフィーリアがその行為に嫌悪感がなくとも、突然のことゆえローランドになにがあったのかは気にかかる。
けれど、こんなことを誰に相談できるというのか。ただただ、オフィーリアは独り悶々と悩むしかなかった。
(……誰かの影響かしら)
脳裏に過ぎった見知らぬ女の影に、黒く重たいものが心に沈殿する。
ところが、直後に――しかし、と思い直した。
(女性と密会している様子は見受けられないし……二人きりで長時間会っているといえば、ユーイン様しか……。……。…………)
オフィーリアはあらぬことを想像してしまい、数拍後にいやいやいやいや、と勢いよく首を横に振る。
その様子に「お、奥様?」と目を丸くして問うメアリー。
呼びかけに意識を現実へと戻したオフィーリアは、平静を装いにこやかに「なんでもないわ」と答えた。
(だって旦那様は、結婚前、女性との関係が豊富だったもの。男色だなんてそんなこと……だって夜、わたくしを求めてらっしゃるし…………両方、いける……なんてことは…………)
想像してみて、オフィーリアは口元に拳をあてた。考えれば考えるほど、心当たりがあった。
例えば初夜の言葉は――愛する人が同性である為に、結婚することはできないから。そして跡継ぎは必要だったから、オフィーリアと結婚し、約束を取り付けたのではないか。頻繁にユーインと会っているのは、もしかしたら相手がユーインなのではないか。
(まさか……)
思考の渦に嵌り込む寸前で引きとめたのは、やはりメアリーであった。
「奥様?」
呼ぶ声に覚醒したオフィーリアは、想像を否定するように笑って誤魔化す。
「いいえ? なんでもないのよ? 本当に本当よ?」
ふふふ、と笑って見せたが、メアリーの表情は渋いものだった。それはそうだろう、メアリーはなにも問うてないのに、オフィーリアが勝手に否定の言葉を口にしているのだ。なにか意味があると勘ぐってしまっても不思議ではない。
しかしオフィーリアの頭の中は疑惑で満ちているから、それを払拭させたくて会話を促す。
「そ、そうだわ! メアリー、なにかカーティスに子守唄はないかしら?」
突然の話題転換にきょとん、とメアリーは目を瞬く。
「子守唄、ですか?」
「ええ。メアリーは異国風の容姿だから、珍しい唄も知っているかもしれないと思ったの」
オフィーリアの言葉通り、メアリーはどこか異国風の容姿をしていた。漆黒の艶やかな髪と青い瞳。神秘的な雰囲気を持つ彼女。出身は同じ国らしいが、元々の祖先は他国出身なのかもしれない。ともすれば、一族に珍しい子守唄や童話の一つ二つは伝わっていておかしくない。
期待を寄せるオフィーリアの眼差しに、メアリーは睫毛を伏せそっと笑う。
「……そうですね。子守唄ではありませんが、童話が一つだけ」
「まぁ! 聴いてみたいわ」
「はい」と目を細めたメアリーは、ゆっくりと語った。
昔々のとある国。
賢い王がいた。
彼は、知らず魔女を娶った。
魔女は、青い薔薇の種を携えていた。
王は魔女に操られ、愚王となった。
国の荒廃とは逆に、魔女の植えた青い薔薇は成長した。
国の益を魔女が魔法で養分に変え、青い薔薇に与えていたのだ。
やがて魔女は国を想う者に討たれる。
魔女の死に絶望した王は、魔女の青い薔薇の蔦を彼女の手首と
己の手首に巻きつけ、命を絶った。
魔女の青い薔薇に、来世での逢瀬を願って。
昔々のとある国。
魔女と呼ばれる、黒髪と青い瞳を持つ美しい姫がいた。
下位貴族の青年は、彼女に恋をした。姫も、彼に恋をした。
けれど、青年は別の、高位貴族の女性と婚約しようとしていた。
権力のために。
姫は嘆き悲しんだ。
やがて、青年は姫への愛を断ち切れず、婚約の話を白紙に戻す。
そうして姫に会いに行った。
しかし、時既に遅し。
青年が会いに行った時、姫の命は尽きていた。
青年は姫の亡骸を抱き、絶望する。
思い至ったのは、来世での逢瀬。
青年は呪いを施す。
姫の手首と己の手首を手錠のように紐でくくり、一輪の青い薔薇をそこに添え。
それは、古くから伝わる青い薔薇の呪い。
来世で、また出逢い、今度こそ結ばれるための――。
青年は、その呪いにすべてを託し、短剣で自害した。
「素敵だけれど……悲しい物語ね」
語り終わったメアリーにオフィーリアがそう言えば、彼女は微笑むだけだった。
「二人は愛し合っていたのね。……神の御許で再会するのかしら」
焦がれるように呟くオフィーリア。
「案外、この世で再会しているのかもしれませんよ?」
冗談めかした明るい声で答えたメアリー。
オフィーリアは笑声を溢しながら、「そうかもしれないわね」と頷く。
そうして二人が歓談している場に、突如闖入者が現れる。
乳母も含め扉に顔を向けた三人が視界に捉えたのは、ローランドだ。
目を丸くする三人を他所にずかずかと入室した彼は、カーティスとの距離を縮めると、寝台の柵に手をついて見下ろした。
途端、蕩けそうに笑み崩れ、カーティスの柔らかな頬を人差し指で突き始めた。
「旦那様、カーティス様が起きてしまいますので……」
それまで静かに控えていた乳母は、気遣いながら忠言する。
「……そうか。……そうだな」
ローランドは大人しく引き下がると、オフィーリアの隣に腰を下ろした。
ついで、彼は優しくオフィーリアを抱き寄せ、口づける。嬉しそうに相好を崩しながら。
それまでローランドの行動を見守っていたオフィーリアは、ローランドに引き寄せられるまま身を預けるように頭をもたげた。
彼女は睫毛を伏せ、ぬくもりに包まれる。ローランドの体温とほのかに香る爽やかな匂いに、幸せを覚えた。
――家族愛が、確かにここにある。
それは、オフィーリアの知らなかったもの。そして、知りたかったもの。オフィーリアは両親と共にあって決して不幸ではなかったが、両親の憎しみ雑じった気持ちのすれ違いはどこかちぐはぐな空気を纏っていた。でも、今の彼女はローランドとカーティスと共にいて、その空気を感じない。そこにあるのは、ぬるま湯に浸るような幸せだけ。――これがきっと、家族愛。
そう実感しながら、――けれど、と心中独り言ちた。
(わたくし、賭けに負けてしまったわ)
跡継ぎを出産するまでに、ローランドから愛の言葉を貰いたかった。確かな形として、恋情の証がほしかった。この恋を諦める為に賭けをしたけれど、本当は、彼の心をひたすら求めていた。
だが――もう、潮時なのかもしれない。
ローランドは跡継ぎを確保してからもオフィーリアを抱き続けたが、それは性欲を吐き出す存在を求めてなのだろうと思う。それでもオフィーリアにとってはささやかな幸せだが、いつか諦めねばならない恋ならば、今が良い区切りの時機ではないだろうか。
だから、オフィーリアは上目でローランドを見つめながら、震える唇を開いた。
「……あの、旦那様。初夜の約束、のことですが」
声が、緊張で強張る。臆病な自分にオフィーリアが自嘲している一方で――ローランドは一瞬ピタリと時間が止まったかのように固まったかと思えば、すぐににこりと口角を上げた。
「あの約束、まだ果たしていないだろう?」
あまりににこやかに囁く。
オフィーリアは呆気にとられながらもこてん、と首を傾げた。
「え。は? あの……」
疑問符を頭上に浮かべるオフィーリアに、ローランドは諭すような声音で言葉を紡ぐ。
「オフィーリア、いつ、子になにがあるかわからないだろう? 病気じゃなくとも、カーティスが『家を継ぎたくない』と出奔するかもしれない」
「それは考えすぎ……」
「だから、子どもは最低四人、男児は二人以上産んでくれ」
オフィーリアの言葉を遮って、ローランドは爆弾を投下する。
「え?」とさらに首を捻るオフィーリア。
他方、ローランドは笑みを絶やさない。
「四、五人ならば平均くらいだ。なにも問題ないだろう?」
「え??」
「うん?」
――なにか、おかしいことでも?
そう物語るローランドに、オフィーリアは困ったように笑うしかなかった。
それはオフィーリアにとって嬉しい提案だった。しかし、約束の期限を引き延ばせば引き延ばすほど、この幸せが当たり前だと思い込んでしまうのではないかと、酷く恐ろしくもある。大きな幸せを手に入れてしまってからでは、手放すことなどきっとできない。
それでも――今はこの幸せに浸っていたかった。
不意に、抱き寄せるローランドの手の力が増す。ともすれば、二人の距離はより縮まる。
(あたたかい)
オフィーリアは浸るように目を瞑った。
*** *** ***
書斎の本棚には、ぎっしりと分厚い書物が並ぶ。古いものから最新のものまで揃うそこの前に、ローランドは佇んでいた。
つ……と指を這わせるのは、褪せたガーネット色の背表紙。近頃、ローランドが読みふけっていた一冊であった。
本を引き出し、手の上で開く。読みすぎて少し縒れてしまったページを捲る。
あるページに辿り着くと、手を止め文字に視線を走らせた。
『三章 産み分けについて』
望む性別の子を孕む為、ローランドは幾度となくその章を熟読してきた。そしてその本の著者が述べる産み分けの方法を、誰にも秘密で実践してきたのだ。
その結果が、オフィーリアが出産してから激しくなった情事である。
ローランドが生きる社会では、産み分けや中絶といった神の意向に背く行為は批判されるし、無神論者であっても避妊や産み分けなどの考え方は決して推奨されるものではない。
ゆえに、ローランドは人に頼らず独自で産み分けの方法を探した。
結果見つかったのは、隣国の書物。それによれば、左右の卵巣はそれぞれ男女の役割を持つという。つまり、欲しい性別役割を持つ卵巣に命の種を注げば良いのだ。
従って、ローランドは教会の教え通りの行為でオフィーリアは男児を産んだから、今度は教えに反した、いわゆる獣化と呼ばれる行為をすることで故意に女児を孕ませようとしている。男児の出産は大切なことだが、約束を先延ばしするにはその策しか思い浮かばなかった。無茶な避妊をすれば、またオフィーリアが悩むかもしれない。
そこまで必死な自分に、自嘲する。俯けば、瑠璃色の瞳は陰った。
先ほどの、オフィーリアとのやりとりを思い出す。
自分でも、初夜の約束をあまりに強引に、無茶苦茶な理由で変更したと自覚していた。有無を言わせぬ圧力をかけたのは、内心で彼女に拒絶されるのでは、と恐れていたからだ。
――ある日、気づいたことがある。
オフィーリアは、一度も自分から抱きしめてくることも、口づけを強請ることもない。
それは、ローランドがこれまで付き合ってきた女性達と違う点である。
確かに、オフィーリアがローランドにとって未知なる存在だったからこそ、惹かれるきっかけになった。しかし――今では、他の女性達との相違点がひどく胸苦しい。
(……彼女は、いつだって求めてはくれない)
それは、オフィーリアにとってこの婚姻は政略結婚でしかなく、愛などないのだと突きつけられているかのよう。いつも、求めるのは自分だけだと知らしめられる。
ゆえに、ローランドは産み分けの勉強を始めた。男児が生まれるのは、オフィーリアが他の男への恋を諦めてからで良い。それまで、束縛し続ける猶予を得る為に。
それから十年せずして二人の約束は果たされる。
ローランドとオフィーリアは二人の男の子と二人の女の子、計四人の子ども達に囲まれ、鈴蘭の庭園で微笑むこととなるのだ。
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***避妊・産み分けに関する参考文献***
ミレイユ・ラジェ(訳:藤本佳子、佐藤保子)『出産の社会史――まだ病院がなかったころ』(1994:勁草書房)




