【 find out 】
今作にはグロテスクな表現が含まれております。
苦手な方はご注意をば。
「……なぁ? 本当にオバケなんて出るのかよ? ここってさ、どう見てもただの空き家じゃん」
「なんだお前、あの噂を聞いたことないのか?」
「何だよ、ウワサってさ」
ギシ、ギシ、と薄暗い廊下を軋ませながら進むのは、恐らく小学校五年生程度と思われる児童五名。列の先陣を切っているのは野球帽をかぶった少年と、全身が真っ黒に日焼けしたボサボサ髪の少年。二人の顔や膝には小さな擦り傷がいくつもあり、いかにも外で遊ぶのが好きそうなヤンチャな風貌だった。その後ろには眼鏡を掛けた少し気弱そうな少年と、その背中にくっ付くようにして女の子が二人歩いている。
ここは、彼らの通う小学校から程遠くない場所にある空き家。
見た目はごくごく一般的な二階建ての一軒家。ほんの数か月前まではちゃんと家主が住んでいたらしいのだが今となっては誰もいない空き家となっており、学校ではこの家に『オバケ』が出るともっぱらの噂だった。曰く、
「ここな、男の子のお化けが出るらしいぜ。一人でこんな場所に居るのが寂しいから、友達を探してるんだってさ。あそぼぅ……あそぼぅって」
「や、やめてよもう! 怖いじゃない!」
「バカだなぁ。だから肝試しだって言うんだろ?」
一番後ろの女の子たちにイイトコ見せるため、野球帽の少年が言葉の最後に「ま、オレは怖くないけどね」と付け足す。それが聞こえたのかどうかはともかくとして、彼はずんずんと廊下を進んでいく。突き当たったドアを半分開けて、手にした懐中電灯で照らしだす。歩いて舞い上がった埃が懐中電灯の明かりに反射する。空き家となって誰も掃除する者がいないから当たり前なのだが、彼は野球帽をマスク代わりにして口を覆った。
「くっさ……押し入れみたいな臭いだな」
「うへぇ、テーブルとかそのまんまなのかよ」
行き着いたのはどうやらリビングらしく、正面には長方形の大きなテーブルと、元の家主の物と考えられる四人分の椅子が並べられていた。まるでホームセンターで展示してある商品のようにきっちり平行に並べてある辺り、少々不気味である。
野球帽の少年が視線を横に動かす。大きなブラウン管のテレビが一つと食器棚、それから反対側奥はキッチンらしく、蛇口が電灯の明かりを受けてキラリと光る。進んでみると、冷蔵庫や電子レンジといった類の家電までもが放置されていた。
「うわぁ……冷蔵庫。いかにもって感じじゃん!」
「ね、ねぇ!? まさか、開けたりしないよね……?」
「おおっと手が滑ったぁ!」
「いやああああああああ!?」
「わあああああああああ!?」
日焼けした少年が冷蔵庫を開け放つのと同時、ドアの影で二人の様子をうかがっていた少女二人と少年の絶叫が見事なまでに重なる。ゲラゲラと笑う少年二人に、少女たちは涙ながらに全力で抗議した。
「ひ、酷いよ! 今のわざとでしょ!?」
「開けるなって開けるなって言われたら普通開けるだろ? テレビのお笑い芸人だって、押すな押すなって言って押されてるじゃん。それと一緒だよ一緒」
「でもよぉ……何にも入ってないな。ジュースでもあったら嬉しかったのに、カビ臭いだけじゃん」
「こんなトコのジュース飲む気かよ」
空っぽの冷蔵庫の扉を憎々しげに、乱暴に叩きつけるようにして閉じると野球帽の少年はフンと鼻を鳴らした。何も怖くない。オバケが出るオバケが出るとクラス中、いや、学校中の生徒が噂するものだからてっきりホンモノに会えると思ったのに、これではミイラ取りがミイラになるのと同じじゃないだろうか。せっかく女の子まで誘って、ちょっとカッコいいトコ見せようと思ったのにてんで無駄足。
リビングの椅子を蹴飛ばし、何ともやりきれない心のもやもやを晴らそうとしたが、当たりどころが悪かったのか椅子はビクともしない。ますます面白くない。
「なぁ、そろそろ帰るか。オバケどころかゴキブリの一匹だって出やしねぇよ」
退屈になった少年二人に、眼鏡の少年がおずおずといった様子で「あのぅ」と呟いた。
「あん? なんだよ」
「オバケが出るのってその、二階って話じゃなかったっけ……?」
「あぁ? ……それは、えっと」
まずい、女子の視線が突き刺さるように野球帽の少年に向けられている。オバケも見つけられない上に赤っ恥を重ねるのは非常にカッコが悪い。
「う、うるせぇ! 今から二階を調べに行こうとしたところだろうが!」
「あいった!」
眼鏡をふっ飛ばす勢いで少年にゲンコツを繰り出し、彼は野球帽を深く被り直してからリビングを後にする。先ほど進んだ廊下を早足で戻り玄関へ。二階へ続く階段は玄関のすぐそばにあり、その先を見上げてみると……何も見えない。まるで黒い絵の具で何度も何度も塗りたくったかのような強烈な黒が立ち込めていて、懐中電灯の明かりがその強烈な闇の中へとあっという間に吸い込まれてしまう。ごくり、と生唾を飲み込む音が複数回聞こえる。ちらと隣に視線を向けてみると、日焼けした少年は蒸し暑いこの空間にいるのにも関わらず微かに震えてるように見えた。女の子とそのオマケも、まるでおしくらまんじゅうでもしているかのように身体をくっ付け合っている。
「ば、バカじゃねえの! お前ら、ここまで来てビビってんのかよ?」
「は……ははッ! ま、まっさかぁ」
扇風機の前でもないのに、日焼けした少年の声がぶるぶると震えている。だらしねぇヤツ。帽子のつばをグッと握りしっかりと被り直すと、ダン、と階段に一歩踏み出す。
――その時だった。
『……ねぇ? 誰か……居るの……?』
「――ッ!?」
ぞわ、と足元から這い上がってきた寒気と怖気に、この場に居る全員が、まるで一斉に金縛りにでもあったかのようにピンと全身を硬直させる。かろうじて動く視線だけを右に左へ向けると、皆一様に青ざめた表情を浮かべていた。日焼けした少年に至っては、いつの間にか冷や汗で全身がびっしょりと濡れているではないか。
『……そこ? そこに誰か…………居るの?』
「ヒッ――!?」
階段の上から響いた謎の声は自分たちよりも少し高い女の子のような声だった。
噂では男の子のオバケだと聞いていたのに、予想外の出来事に頭の中がぐるぐると混乱し始める。それは、音楽の授業で言うところのソプラノのように、自分たちを誘っている甘美な調べの如く静かに響いていく。
ギシ、と頭上から落ちる軋む音、次いでヒタ、という冷たい足音に、全員がハッと顔を見合わせる。恐怖に引きつったお互いの顔を見るのはこれが初めてだろう。カチカチと歯を鳴らし、女の子二人は眼鏡の少年の手を血がにじむほどの強さで、半ば握りつぶしているようにさえ見える。しかし、その痛みにすら気付かないほど、彼らの身体は恐怖に支配されてしまっていた。
震える彼らを余所に、軋む音と声はゆっくりと一段ずつ、まるでその一歩一歩を愛おしんでいるかのように、ゆったりとした速度で下りてくる。
ギシ…………ヒタッ……ギシ…………ヒタッ――
階段の上の闇が、ゆらり、と微かに揺れる。
何者かが、こちらに向かってくる。何者か、言わずもがな分かっているではないか。この空き家に出るという噂の、寂しさから遊び相手を欲している男の子のオバケ。
冷や汗が額を、頬を、そして顎を伝い、その一滴がフローリングの床に滴り落ちた……その瞬間。
ボーン! ボーン! ボーン! ボーン! ボーン! ボーン!
突然鳴り響いた柱時計の音を合図に、それまでの硬直が嘘のように消え、一瞬にして手足の自由が解放される。動けるとなったこの瞬間、やるべきことはただ一つ。
「う、うわああああああああッ!!」
刹那、我先にと駆け出したのは当初先陣を切っていた野球帽の少年と日焼けの少年だった。傍にいた女の子など目もくれず、ただひたすらに、玄関を飛び出し文字通り脱兎の如き勢いで駈け出していく。ポカン、と呆気に取られたのものつかの間、自分たちが置いて行かれたという事実に気付き、三人の目じりに涙が溢れ始めた。
「う……嘘!? ちょっと、置いてかないで……! ま、待ってよぉ!」
「もう、サイッテー!」
遅れて少女たちも玄関を飛び出していき、やがて誰もいなくなった空き家に再び闇が広がっていく。
「…………ぷふ、ぷっふふふ……」
やがて、二階へと続く階段の奥から聞こえてきたのは友達を求め彷徨う男の子のオバケの声……ではなく、至って普通の少女の声。
お腹の底からこみ上げてくる笑いがどうにも抑えきれず、ついに我慢の限界が訪れる。
「ぷ……くく、アッハハハハ!! いっひひ、うふ、うふふふふふ……! だ、ダメ! お腹痛い! 面白過ぎて、お腹痛いって! アハハハハ!!」
階段を上ったその先にある廊下のど真ん中、両手でお腹を押さえながら、しかし抑えている効果が全く見られないほどに大笑いし続ける少女の姿。今しがた訪れていた彼らと同い年の少女の顔は、恐怖に打ちのめされた彼らとは打って変わって満面の笑みに包まれていた。
「あー、面白かった! いやぁ、案外簡単に脅かせちゃうんだよねぇコレ。ホント病みつきになっちゃうよ」
よっ、と勢いをつけて上半身を起こすと、少女は身体についた埃をパンパンと叩いて落としていく。
彼女もまた彼らと同じ小学校に通う小学生であり、もちろんこの家の噂についても既に知っていた。オバケなんているわけないのに、この空き家を気味悪がって近づかない生徒や、逆にオバケを確かめてやると意気込む生徒たちが何だか面白くて、彼女は噂を利用して『オバケ』を演じてみたのだ。
ご覧の通り、効果は抜群。
ただの悪戯のつもりで始めたこの『オバケごっこ』はこれで六戦六勝、子供の悪戯としては圧巻の全勝である。別に彼らに対しての恨みはこれっぽっちもないのだが、空き家を訪れる同級生が驚いて怖がって、尻尾を巻いて逃げていく姿は見ていて非常にスカッとした。普段威張りまくる男の子ほど、この手の悪戯には弱いらしい。現に、今も一番元気そうな二人が一番にリタイアしている。
「男の子って、いざって時は頼りないなぁ。くふふ。……さて、アタシもそろそろ帰ろっと」
さっき、柱時計の鐘は六回鳴った。つまり今の時刻は六時を過ぎたというところである。夏休みとはいえ、あまり遅くまで遊んで帰りが遅くなっては親に迷惑を掛けるし、何より自分がこっぴどく怒られてしまう。
「蛙が鳴ったら帰りましょ、だっけ」
近くに田んぼは無いし、蛙の声なんて聞こえないけど。
少女はトントンとリズム良く階段を下りていく。それにしても、彼らは玄関に置いてあった自分のレザーサンダルに気付かなかったのだろうか。冷静に考えれば、これだけで誰かがいるとバレてしまいそうなのに。
――コト、ン。
サンダルのベルトに手を伸ばそうとしたその時、背後から聞こえた小さな物音に少女の肩がピクリと跳ねる。恐る恐る振り返ってみるが、空き家に浸食してきた夕闇が彼女の視界を遮り何も見せてくれない。
「……だ、誰よッ!」
念のためにと用意してきたペンライトをポケットから取り出し、前方を睨みつけるようにして構えると、ライトの光の先で「うわっ」と小さく怯んだ声を上げる少年の姿が見えた。
「ご、ごめん。その、驚かせるつもりはなくて……その……」
「……っはあ。なぁんだ、まだ帰ってない子がいた……の?」
何の遠慮も無しに少女はペンライトを突き出し、突然現れた少年の顔をまじまじと観察した。まるで一度も太陽の下に出たことがないかのような病的なまでに青白い素肌。柔らかな瞳は少々垂れ気味で、左目を怪我しているのか眼帯で覆っている。しかし、今ここで特筆すべきは彼の外見ではなくて、少女がこの少年に全くの見覚えが無いことだ。外見から鑑みて少女よりは上、中学生ぐらいだろうか。見た目通りというべきか、良く言えば大人びた、悪く言えば影の薄い印象だった。
ペンライトに照らされたまま、少年が遠慮がちに口を開く。
「えっと……名前、訊いてもいいかな?」
「アタシ茜っていうの。君は?」
「僕は、未沙樹って言うんだ。よろしく」
差し出された手を自然と握りしめる。冷たいような温かいような、何とも言い難い不思議な感触で茜は表情には出さない程度に驚く。
「それにしても、男の子なのにミサキだなんて変わった名前だね」
「そう……かな」
「うん。何か、女の子みたい……あ」
言ってから気づく。男の子なのに女の子のような名前ということは、本人にとってはあまり嬉しくないことではないだろうか。アカネは慌ててブンブン首を振って前言を撤回する。
「えっとほら、可愛い名前……だよね!」
「可愛い……か」
あまりフォローにならなかっただろうか。心配で思わず上目遣いに彼を見つめていたが、何故か彼は嬉しそうに、うんうんと首を微かに上下させアカネに微笑を浮かべてみせた。
「……久々に言われると、何だか照れ臭いや。ありがと、アカネちゃん」
「ホント? そっかぁ、ちょっと安心したよ。へへ」
ミサキのような大人びた年上の男の子なんて初めてで、思わずアカネも頬を赤らめ微笑う。場所が場所でなければイイ雰囲気になったのかもしれない。
「な、何考えてんだか」
ここはオバケが出るという噂の空き家。そんなムードもへったくれもある筈がない。それにしても、彼はどうしてここにいるのだろう? アカネと同じで、ここを訪れる人たちをからかいに来た、とか? しかし、彼はとてもそんな悪戯好きには見えないのだが。アカネの怪訝な視線に気づいたミサキは苦笑を浮かべた。
「あ、あのさ。アカネちゃんは何でここにいるの?」
「何でって……見てなかったの? ここにオバケが出る~って騒いで悪戯しに来る子っちを、逆に脅かしてたんだよ」
「……あぁ、そうだっけね。さっき聞こえた声は脅かされた子たちってことか」
「すんごい面白いんだよ! いつも威張ってる男の子が一番にびゅーって逃げちゃってさ。あんな姿をクラスの女子が見たらゲンメツしちゃうって」
「ゲンメツかぁ……それは手厳しいね」
さて、次はこっちが訊く番。相手が年上の男の子であろうと、アカネは物怖じせずに同じ質問を投げかける。
「そーゆーミサキ君こそ、ここで何してるの? アタシと同じ?」
「いや……僕は、ここに探し物をしに来たんだ」
「探し物?」
彼はうん、と小さく頷くと事情を話し始めた。
「ここで大事な物をいくつか失くしちゃって。それを探しに来たんだ。それがないと、僕も行くに行けなくて」
「行くって、何処に?」
「そうだな……うんと遠い場所」
「もしかして外国? 引っ越すってこと?」
「……まぁ、だいたい合ってるかな」
ミサキが小さくはにかむ。そんな彼の表情が、何処となく寂しそうに見えた。
「んー……じゃあじゃあ、アタシも手伝ってあげるよ」
「え……? でも、いいの? そろそろ帰るんじゃ」
「大丈夫。アタシ、困ってる人見ちゃったらほっとけないんだ」
「……ホントに?」
「もちのろん! それに、何というかその……ミサキ君のこと、気になるし。なぁんて、何言ってるんだろアタシったら。アハハハ!」
「僕が、噂のオバケだったとしても?」
「ひぇ!?」
まるで冷たい手で背中を撫でられたみたいな衝撃が背筋をゾゾゾと走り、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。彼はというと、くすくすとアカネの反応を楽しむかのように小さく笑っていた。
「ごめんごめん、冗談だよ」
「も、もう! こんなトコで、ソレっぽい冗談は止めてよね!」
「それじゃ、行こうか」
ミサキが歩き出したのを合図にアカネも歩く。
まずは一階から。
一階の廊下を抜けた先には、先ほどアカネが脅かした子供たちが探索していたリビングとキッチンがある。その場所自体はアカネももちろん知っており、ここで脅かしたことだってある。
「それで、ミサキ君は何を探してるの?」
「うん……ちょっと口で説明するのは難しいんだけど」
「じゃあ、絵で書いてみてよ」
「……それも結構難しいんだけどなぁ」
口で説明できなくて、絵でも説明できないものって何だろう。
しかも、彼は食器棚を物色するわけでもなく、テーブルをジッと見つめていたり、テレビの前にちょこんと座ったりして、探し物をする気配が全くない。アカネはアカネで、ペンライトの微かな明かりを頼りに彼の探し物らしきものを探していた。見つかるのはゴミと埃と、やはりゴミばかり。
「ねぇ~? 何を探してるのか教えてくれないと、アタシもお手伝いできないんだけど~?」
「ここじゃないよ。目的の場所は二階だから」
そういうの早く言ってよ。とは言わず喉の奥にしまいこんで、早々にリビングを出ていくミサキの背中をアカネも追いかける。早足で歩いているのに、何故かミサキの方が先に二階へと上っていた。歩幅の違いだろうか。
「それで、結局何を探してるのよ……もう」
「強いて言えば……思い出かな」
「思い出?」
「……嫌な、思い出だけど」
階段を上ると、先ほどアカネがごろごろと笑い転げていた廊下に出る。そこから繋がる部屋が三つ。ミサキは何の躊躇いも無しに、ここから一番遠くの部屋のドアノブに手を掛ける。蝶番の音がギィギィと歪に空間を震わす。
「……あれ? そこって鍵掛かってたような気がしたんだけどな」
ミサキの後を追って入った部屋は、おおよそ八畳程度の広さの寝室だった。
ボロボロに朽ち果てたダブルベッドは見る影を失い、とてもではないが快眠出来そうにはない。埃が山盛りに積み上がり、一度歩こうものなら我が物顔で飛び掛かってくるに違いない。流石にアカネもこれには顔をしかめて片手で顔を覆う。
「……こんなベッドじゃ寝たくないなぁ」
「ここじゃ……ないか」
「ねぇねぇってば。一体全体ミサキ君は何を探してるのさ。それがわかんなきゃ、アタシだって困るよ」
「ん……じゃ、隣の部屋行こうか」
「……ぶー」
予想以上に彼がマイペース過ぎて、アカネは不満げに頬を膨らませる。ちっとは話聞いてくれたっていいじゃないの。ぶつくさ文句を呟きつつ、それでも彼に付いていく姿は何とも健気である。
今しがた調べた寝室からすぐ隣の部屋をミサキが開く。そこも同じように、というか、二階の部屋は全て鍵が掛かっていたような覚えがあるのに、アカネとしては何だか納得がいかないような心境だった。
「たぶん……ここか」
「ねー、ねー、ねー! 何探してるのか教えてってばー!」
アカネの言葉には目もくれず、ミサキは部屋へと入っていく。アカネもそれを追いかける。
今度の部屋は書斎らしく、中央に机と、そして部屋の両端には大きな書棚が二つ左右対称に並べられていた。他の部屋と同様に、この部屋も埃だらけで、ただでさえ臭いのに加え古ぼけた紙の臭いと混ざり合っていて思わず鼻を指でつまんでしまう。
「……うへぇ。気持ち悪……」
「引き出し……」
先ほどのリビングの時とは違い、ミサキは机の引き出しへと向かい躊躇なく引き出しに手を伸ばす。中身は黄色く変色した何かの書類と、それから白黒の写真。その下から、子供の手の平サイズの銅色の鍵が出てきた。
「探し物って、その鍵?」
「……半分正解。たぶん、この鍵で開く部屋に、僕の探してる物があるんだと思う」
「うぅん……何か、鍵付きの日記帳の鍵に似てるけど、何処で使うんだろうね」
「こっち」
「わわ、置いてかないでよ!」
開けっぱなしの引き出しに書類を丁寧に戻しその後写真に手を伸ばす。何となく興味が湧いたので、アカネはその写真をひっくり返してみて見ることにした。
どうやらそれは家族写真のようで、恐らくこの家の家主と思われる家族四人が笑顔で映っていた。
朗らかな笑みを湛える男性と、隣に寄り添う女性。そして二人の前で『気をつけ』の姿勢で表情を引き締める男の子二人。年の近い兄弟なのだろうか、二人とも目元が男性のそれとよく似ている。
「…………?」
この既視感は、何だろう?
何処かで見たような気がするのに、この時のアカネの頭はまるで風邪を引いて熱が出てしまった時のようにぼうっとして上手く働いてくれない。
「アカネちゃん、どうかした?」
「え……? わわッ」
先に出て行ってしまったかと思われたミサキがアカネの肩越しに覗きこんで来たものだから思わず飛び退いてしまった。見上げたその先で、ミサキが申し訳なさそうに顔をくしゃと歪めている。
「ごめん、驚かせちゃった?」
「べ、別に。どうってことないよ!」
「そっか。よかった」
マスコットキャラのような緩い瞳と柔らかな声、極めつけに至近距離からの笑顔。オバケが出るより先に自分の心臓が飛び出すのではないかと、アカネは気が気でならなくなってきた。
夕暮れ時、二人きりの空間、そして見つめ合う瞳と瞳……流石に、ここから先は小学生の頭では妄想できない。
「そ、それじゃ次の部屋行こッ! あんまり遅くなったら、ミサキ君のお父さんとか、お母さんも心配するし」
「………………そう、だね」
この瞬間、ミサキの表情に黒い影が差したことにアカネは気付かず、そのまま書斎と思しき部屋を出て残った最後の扉の前に立つ。
「ミサキ君、鍵貸して」
「…………」
返事が無くて振り返ってみると、彼は書斎の戸の前でボーっと立ち尽くし、天井をぼんやりと見つめていた。
「……どうしたの? さっきの鍵無いと、開かないよ」
アカネの声にようやく気付き、彼は小さな声で返す。
「や……そこも、鍵は掛かってないと思う。この鍵は、そういうドアの鍵じゃないから」
アカネがドアノブに手を掛けゆっくりと回すと、彼の言うとおり鍵は掛かっていなかった。ギィ、と軋む音が書斎の時よりも強く鳴り響き、アカネはいよいよ最後の部屋へと侵入する。
「…………う……な、何この臭い……」
開けた瞬間、部屋の奥からむわっと立ち込める異臭にアカネは思わず顔を背ける。今までの部屋とは比べ物にならないくらい、まるでゴミの集積場を彷彿とさせるような腐敗臭に、アカネはその部屋に入ることを踏みとどまった。
「気持ち悪くなりそ……うへぇ」
ペンライトの明かりが少々心許なくなってきたが、この部屋ぐらいは保ってくれるはずだろう。小さな明かりを部屋の中に向けると、まず目に付いたのは二段ベッドだった。よく見る普通の木製の二段ベッド……なのだが、それは朽ち果てていなければの話。梯子は半ばで折れ、上段のベッドには大きな穴が空いている。下段のベッドに至ってはシーツが酷く汚れていてズタズタに引き裂かれている。触って調べようとは微塵も思えなかった。
「アレ……かな。漏らしちゃった……とか?」
この強烈な異臭もそれの所為だろうか。
顔を引きつらせたアカネが振り返るとそこにミサキの姿はなく、代わりに閉めた覚えの無いドアの木目が飛び込んできた。
「あ……れ? ミサキ君、もしかして扉閉めちゃったの? ここ臭いのに」
何時の間に移動したのか、ミサキは部屋の端に設えられていたクローゼットの目前で棒立ちしていた。クローゼットの中が気になるのだろうか。恐らく開いたとしても、他と同じく朽ち果てた服とかしか出て来ないと思うのだけれど。
ミサキの隣に立ち、アカネはクローゼットの取っ手に手を掛ける。クローゼットは滑らかに開いて……はくれなかった。
「あっれぇ? 何で?」
「鍵、掛かってるんだと思う」
「クローゼットに鍵……?」
普通、クローゼットに鍵なんてかけるものじゃないのに。
しかし、よく見ると取っ手の下部には小さな鍵穴が覗いていて、先ほど見つけた鍵がピッタリと入った。あとは右か左かに回して鍵を解錠すればいい。なのに、鍵を握りしめるミサキの手は小刻みに震えていた。
「……どうしたの?」
「僕の探し物……さ。教えてなかったよね」
「う、うん。さっきから訊いても全然教えてくれなかったけど……思い出、以外に何があるの?」
「……全部、この中にあると思う」
「ホント? じゃあ、探し物はこれで解決だね」
「ありがとう。……でも、僕はここを開けるのが恐いんだ」
「恐い? どうして?」
探し物が見つかるのなら、むしろ逆に喜ぶべきではないだろうか。それなのに、未だ彼の手は震えたままだ。
「ここを開けたら……嫌なことまで、思い出してしまうかもしれない。そうなったら、僕は……僕じゃなくなるっていうか……その……」
「ミサキ君が、ミサキ君じゃなくなる……? それ、どういう意味? よくわかんないんだけど」
小学五年生の頭で、彼の哲学的な言葉を理解するのは難しい。
首を傾ぐアカネを見、ミサキはシニカルに微笑んだ。
「僕にも、よくわかんない」
「むー……じゃあ、こうしよッ」
ミサキの震える右手に、アカネの両手がぎゅっと包み込む。相変わらず冷たいような温いような不思議な感触だったが、それよりも驚きの表情を浮かべる彼の姿が面白かった。
「い、一緒に開けたげる。そしたら、何とも無いんじゃない?」
「アカネちゃん……」
「えへへッ」
「……」
アカネの真摯な眼差しを受けたミサキは何故か、驚きの表情から一転して、今にも泣きそうなほどにその端正な貌を歪めた。
「……ゴメン。ゴメンね」
「えー、何で謝るのさ。こーゆーときは、ありがとう、じゃないの?」
「そうかもしれないけど……ゴメン、違うんだ。僕は……」
右手の温もりが嬉しいはずなのに、今はとても……痛い。
そうとも知らず、勇気づけようと力を込めるアカネの優しさは……もっと痛い。
「アカネちゃん……僕は、一人でここを開けるのが恐い。ここを開けたいのに、心の中で開けちゃいけないって聞こえてて……ホントは、何度も何度も挑戦はしたんだけど……やっぱり、ダメだった」
「……ミサキ君?」
「アカネちゃん……巻き込んで、ゴメン」
「巻き込む……? え……?」
アカネの両手が重なったまま、ミサキはクローゼットの取っ手を思い切り引く。
ガチャリ――
その瞬間だった。
クローゼットの奥側から、ブブブ、という奇妙な音と共に飛礫をぶつけられたかのような小さな衝撃がアカネの顔中に襲いかかる。まるで蚊柱の中に顔を突っ込んでしまったかのように、口の中に何かが入り込んでくる。
「うわ、ぺッ、ぺぺッ! な、何なになんなの……ィ!?」
ペンライトに照らされた小さな黒い塊を見てアカネは絶句した。飛び込んできたのはハエだった。しかもそれは一匹や二匹ではなく、何十何百、下手をしたら何千と飛んでいるのかと錯覚してしまうほど大量のハエが、クローゼットの戸を開けた瞬間黒い霧のように群れを成してアカネに飛びかかってきたのだ。
「いやああああッ!? な、何でクローゼットの中にハエなんて!?」
おびただしい量のハエから逃げるように、アカネはその場にしゃがみ込んでやり過ごそうとしたが、部屋自体の面積が狭いためそれも無駄な足掻きに終わる。ブブブ、と不快な飛行音を響かせ縦横無尽に飛び交うハエの群れは、この部屋をその黒で染めるかの如く広がっていく。
「も、もう無理! 早く出よ、ミサキ君! ……ミサキ君?」
「…………」
返事が無い。
身体中にまとわりつこうとするハエを追い払いながらアカネが視線を向けると、ミサキはクローゼットの前で呆然と立ち尽くしていた。焦点が定まっていないかのような虚ろな視線をクローゼットの奥へと向けている。探し物、とやらを見ているのだろうか。しかし、この部屋の臭いといいハエの大群といい、アカネとしてもここに長居はしたくなかった。
「み、ミサキ君! 探し物はあったの? あったなら早く持って帰ろうよ!」
「…………」
「……ミサキ君ってば!」
こうなっては埒が明かない。ここは強引にでも腕を引っ張って部屋の外に出ていくべきだ。アカネがミサキの腕を掴んだ、その時だった。
「……見つけた」
「え……?」
アカネに掴まれていない右手をそっと上げ指を指す。
その指先に釣られ、アカネは見てしまった。
「あ…………あぁ…………!」
ペンライトが照らし出されたクローゼットの最深部。
何故、ハエが跋扈していたのか分かった。分かってしまった。
本来であれば衣装をしまい込むはずその小さな空間はどす黒い紅色に染まり、そこから立ち込める鉄錆のような臭いと何かが腐ったような異臭。
見てしまった。
その最奥にもたれ掛かる、人のような形をしたぐちゃぐちゃの肉塊を――
「い……い、いやああああああああああああ!? な……な、何なの!? なんなのコレ!?」
「…………」
それが人の死体だと理解するのに、さして時間は掛からなかった。
肉塊はどうにか人の形をとどめてはいるが、あくまで形を留めているというだけに過ぎなかった。全身は酷く変色しており、腕、足、身体の至る所からは小さな白い虫がわき出している。腐敗臭の原因はこの死体であり、さっきのハエは、このクローゼットの中の死体に貪りついていたということになる。全身に走る寒気と怖気がアカネの精神をぐちゃぐちゃにかき回し、胃の中から酸っぱいものがこみ上げてくる。
「うぷ……う、うぅ……」
こんなもの、見ていられない。今すぐ帰りたい。しかし、足はアカネの意思に反し、まるでこの場に釘付けにされてしまったかのように微動だにしてくれなかった。
「み、ミサキ君……! 逃げよう? ねぇ、ミサキ君!?」
恐怖で上ずった声をミサキに投げかけるが、こちらもクローゼットの前から微動だにせず、指は依然として奥の死体に向けられていた。
「……アカネちゃん、よく見てよ。あの死体」
「い、嫌だよぉ! そんなの……は、早く、早く帰ろうよ!?」
声を張り上げるが、何の反応も見せないミサキ。
見たくない。見たくない。それなのに、死体に向けて平然と視線を向け続けるミサキを見たこの瞬間、アカネは彼に恐怖の感情を抱いた。恐い、と心の底から震え上がり、カチカチと歯が鳴り始める。
アカネの恐怖を知ってか知らずか、ミサキはぽつぽつと小さく呟き始める。
「右目はちゃんとあるのに、左目だけが、ぽっかり無くなってるんだ。ほら、見てみなよ」
「い、嫌ぁ……ッ! お願いだから、早く……!」
「あの目は……お母さんにやられたんだよ。銀色のハサミで、目と顔の間に刃を潜り込ませて……」
「お願いだから、止めてよぉ! ミサキ君、どうしちゃったの!? そんな……そんな恐い話、止めてよ!」
一歩、ミサキがクローゼットの中へと踏み込む。何をしているのかは見たくもないし、考えたくもない。ミサキは死体の傍らに転がっていた血まみれのハサミを見つけると、小さく、誰が見ても笑んだとは思えないほどに小さく、口の端をつり上げた。
「僕の探し物は……目なんだ、アカネちゃん。だけど、もう僕の右目は腐って使い物にならないし、左目も……お母さんが何処かへやっちゃった」
「うぅ……ひくッ、帰りたい、帰りたいよぉ……!!」
逃げたいのに、足が全く動いてくれない。
今ここで助けを求めても、空き家から助けを求められるとは誰も想像もしないだろう。誰にも、何処にも、助けを求められない絶体絶命の状況下。信じれると思っていた唯一の存在の彼も、今や別人のような形相でこちらを静かに見据えている。手には、血に汚れたハサミを握りしめて。
コツ、とフローリングの床を叩く音。ミサキが、アカネに向けて一歩だけ距離を詰める。その顔は何処か虚ろで、何故か恍惚としていて、とても人の表情とは思えないほど奇妙に歪んでいた。
「あぁ……でも、いいんだ。新しい目を、見つけたからね」
「い、や……ぁ! こっち、来ないで……来ないでぇ!!」
――コツ、コツ。
一歩ずつ、一歩ずつ、アカネとミサキとの距離が縮まっていく。
逃げたい。逃げたい。逃げたい。
アカネの頭の中はそのことだけで埋め尽くされているのに、その身体は凍りついてしまったかのようにピクリとも動いてはくれなかった。直立不動の姿勢のまま、ハサミを手にしたミサキが来るのを、ただ待つことしか出来ない。
やがて、アカネの目の前にミサキが立つ。
息が掛かりそうなほどの至近距離。
恐怖に打ち震えるアカネに、ミサキは……微笑んだ。
「大丈夫だよ。痛く、しないから」
「あ……、あぁ…………うあ……ぁ!」
ハサミを持つミサキの手がゆっくりと頬を滑る。
冷たいハサミの感触はちょうどアカネの左側の目元でピタリと止まる。
「お願い……や、止めて……よぉ」
「…………」
しょき、とハサミの刃が開く音。
二つに分かれた刃の片方を、ミサキは何の躊躇もなく、アカネの眼窩へと滑り込ませる。
「いぎゃああああああああああああああああああああああ!! ああああああああああッ!?」
刃の感触がアカネの眼窩の中をかき回すようにして泳ぐ。奔る烈火のような激痛に失禁し、貫かれた眼窩からは鮮血と、涙とは違う生温かい体液が頬をだらだらと滑っていく。
「いやああああああああああああ!! 痛い、痛い痛い痛いいぃ!! ぎ、やぁああッ!? あっがぁああ……!?」
ぐちゃり、ぐちゃりと、アカネの脳と耳とに肉を抉る音が同時に響いていく。
頭が壊れそうだった、いや、いっそ壊れてほしかった。
壊れてしまえば、この音を聞かずに済む。
壊れてしまえば、この痛みから逃れられる。
壊れてしまえば、何もかもから解放される。
早く終われ、早く終われ、早く終われ、早く終われ――!!
もう止めて、もう止めて、もう止めて、もう止めてもう止めてもう止めてもう止めてもう止めて――!!
祈りが届いたのか、アカネの目を貫いていたハサミが一瞬だけ、ピタリと動きを止める。
「う……あ……」
助かった……と、僅かに安堵するアカネ。その一瞬の隙を見計らったかのように、ミサキはハサミを持つ右手首を軽く捻った。
「ぃがッ……ぁ!?」
眼窩の最奥で、ぶち、と何かが裂ける音を感じ、次の瞬間にはアカネの意識は闇の中へと引きずり込まれていった。
「…………ネ…………カネ? …………………アカネ!」
自分を呼ぶ声に気付き、アカネはうっすらと瞳を開く。
まず視界に飛び込んできたのは、見覚えの無い真っ白い無機質な天井だった。それから傍らには自分を見つめる両親の姿と、アカネの三つ下の弟の直人の顔が並んで見えた。目覚めたばかりの鼻孔を、消毒液のようなツンとする匂いがくすぐる。
「あ…………た……し……?」
「よかった……! い、今お医者さん呼んでくるから、待ってて!」
スリッパの足音をリノリウムの床に響かせながら母親が何処かへと飛び出していく。
隣にいた父親の手助けで上半身を起こして周囲を見回すと、自分のいるこの場所が病院の個室であるということが分かった。首を左右に動かすと、ちょうど傍にある小さなテーブルの上に置いてあった缶ジュースが目に留まった。
喉が、渇いていた。
アカネは缶ジュースに手を伸ばそうとしたその時だった。
「あ……れ……?」
何故か、思うように缶を掴めない。缶に手が届いたと思って手を握ったのに、缶は依然としてテーブルの上にある。もう一度、もう一度と何度も手を伸ばしているうち、アカネは指先を滑らして缶をベッドの下に落としてしまった。
「ね、姉ちゃん……」
慌ててそれを弟が拾い上げる。
缶ジュースを直接手渡された瞬間、アカネは気づいた。
「あ…………左目……」
恐る恐る左手を自分の左目に伸ばすと、柔らかなガーゼの感触がまず触れる。眼帯だ。そして眼帯の上からゆっくりと手の平を押し当てる。
……何も、無かった。
本来であれば眼球が在るであろうはずの場所には、何も無かった。
虚ろな所作で首を動かし、弟と父親の顔へ視線を向ける。ベッドのすぐ傍で並んで立っているはずなのに、自分と二人との距離感が全く分からなかった。
「アタシ……目……が?」
「……血だらけで蹲ってるお前を、近所の人が見つけてくれたんだ。……なぁ、アカネ。あの家で何があった? 何で、お前だけがこんな……」
「アタシ……だけ……?」
何か他にもあったような気がするのに、自分に何が起こったのか思い出そうとすると、まるで本能が思い出すことを拒んでいるのかのように鋭い頭痛が奔り思考を強制的に遮断させる。
「うぅ……ッ」
「す、すまない。今すぐには、思い出さなくていいから。まずは身体を治療することだけを考えるんだ。……ナオ、少し姉ちゃんと一緒に居てくれるか? お父さん、ちょっと母さんのとこ行ってくるから」
「わ、わかった」
そう言って、父親も母親同様部屋を後にする。
部屋に残されたのはアカネと弟だけ。特にこれといって会話するわけでもなく、アカネはベッドの上で虚ろな表情のまま放心していて、弟はそれをただただ見つめることしか出来なかった。
カチ、カチ、と秒針がゆっくりと時を刻む音だけが無為に部屋を響かせる。
硬い沈黙に耐えきれなくなったのか、弟がおずおずと上目遣いに訊ねてきた。
「あの……ね、姉ちゃん」
「……なに?」
僅かに首を動かして弟に向き直る。
アカネの虚ろな眼差しに、一瞬だけビクッと肩が跳ねたが、弟はごくりと唾を呑み下し、意を決して訊ねた。
「お姉ちゃんがいたの……あの、オバケが出るって噂の空き家、だったんだよ?」
「オバケの出る……空き家」
アカネの脳裏に、ノイズが奔る。空き家? オバケ?
何処かで覚えのある言葉だが、記憶は未だおぼろげで何も思い出してはくれない。
「ぼ、僕、警察の人の話、聞いちゃったんだ。あの……あの、お姉ちゃんの傍にね、血まみれのハサミがあって、それが、お姉ちゃんの……ひっ、ぐ……」
「ハサ……ミ」
突如、銀色の刃が閃くイメージが自分の脳裏に過ぎる。
どうしてだろう、私は何か大事な物を失くしてしまったような気がする。
何処で、だろう。
何を、だろう。
目の前で震える弟を余所に、アカネはそっと自分の左目に右掌を押し付ける。
「…………」
そうだ、失くしてしまったものは目だ。
私は、自分の目を失くしてしまったのだ。
なんて情けない。これでは不便だ、どうにかしなくては。
しかし、失くした物はどうしたらいいのだろう?
不意に、缶ジュースを乗せていたテーブルに視線を向ける。
缶ジュースの傍には、真っ赤な林檎が一つ置かれていた。
「あ……そ、そうだ、林檎もらってたんだっけ。だけど、このままじゃ食べれないよね……えっと……」
引き出しに手を伸ばす弟よりも先に、アカネは上から二段目の引き出しに無意識のうちに手を伸ばし、中から小さな果物ナイフを取り出した。
「む、無理しちゃダメだよお姉ちゃん。その目じゃ危ないから、僕がお母さんを呼ぶまで待って」
「いいよ、ナオ。私はコレで」
「え、でも……」
思い出した。
失くしたものは、また見つければいい。
彼がそうしたように、私もそうすればいい。
……彼?
彼って、誰だろう。
……いや、そんなこと、もうどうでもいいか。
「それよりもさ、ナオ。私欲しいものがあるんだけど……いい?」
「欲しいもの? わかった。じゃあ、今からお母さん呼んで」
「うぅん、そんなことしなくていいよ」
「え? じゃあ何が欲しいの」
眼帯の所為で痛々しい顔のまま、アカネはナオトに向けてニッコリと微笑む。
手に、果物ナイフを握りしめたまま。
刃先を斜に、傾げる。
「ナオトの目……欲しいなぁ」
彼がそうしたように、私も奪えばいい。
だから――キミの目を、私にちょうだいよ。
初めての方初めまして、お久しぶりな方お久しぶり。
こんばんは、夜斗です。
このたびはホラー短編【 find out 】を読んでいただき、ありがとうございます。
今作は、突然「ホラーが書きたい!」って頭の中でイメージだけが湧きおこり、そのままプロットも書かず勢いだけで書き進め、微調整を加えただけという突貫工事のようなお話なのですが……如何でした? ちゃんとホラー出来てますかコレ?;
個人的にはもの凄く心配なので、何かアドバイスいただけたら幸いです……;