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雨色クロスフェード  作者: ゆいる
第二章 ◇はじまりの足音 ―crossing days― 
8/31

(1)

◆至

 

 どうしても、耐えられなかった。



 手が止まる。

 宙をさまようペン先は、まるで今の自分を表しているようだ。


 希望が、必ずしも実現するものではないことくらいわかっていた。十八年も生きていれば、そんなことは誰でも知っている。

 けれど。

 理解と納得とは根本的なところで異なっている。

 受け入れられるかどうかは、それこそ別問題だ。不条理は不条理らしく、勝手気ままに突き刺さってくる。


 それが、自分一人ではどうにもならない壁のせいならば、より深く。


「……ああ、もうっ」


 苛立ちまぎれにペンを机にたたきつける。あっけなく飛んでいくそれを見て少しは気も晴れたが、すぐに倍以上のむなしさが心の空白を埋めた。

 視線を下げれば目に見える空白。埋まってほしいのはこっちだ。


 白紙のままの進路希望調査。

 たかが一枚の紙にこんなにも悩み、苦しむなんて思いもしなかった。

 早く決めろ、早く書けと急かす紙きれから少しでも逃れたくて、裏返して文字の印刷された面を下にする。

 そのついで、背中から勢いよくベッドに倒れこむ。とどめとばかりに右腕で視界をふさげば、


「はぁ」


 重たいため息が勝手にこぼれた。

 もはや、幸せなどどこまで逃げたのかわからない。いっそ、一周して戻ってはこないものか。


 いくらテストの結果がよくても、これじゃあ意味がない。

 昨日の友人の言葉を思い出す。


「……バカみたいだ」


 自嘲。

 至は現実を塗りつぶすように布団にもぐり込んだ。


 くぐもった世界の中。

 階段の下、おそらくはリビングから、いつものように怒鳴りあう両親の声が聞こえてきた。





「呼ばれた理由は、わかってるな」

「……はい」


 翌日、水曜日の放課後。

 朝から強い雨が降り、ただでさえ暗い気分がさらに沈む。


 覚悟していたとおり呼び出しを受けて、至は詰問を受けていた。

 職員室に充満する、コーヒーと煙草の臭い。どうにも鼻につくような気がして、至は眉をひそめた。


「今回が最後の希望調査だからな。いろいろと迷うのもわかるが、いい加減に決めてしまわないとまずいぞ。お前の成績なら推薦もねらえるだろう?」


 キャップをしたままのボールペンで自分の側頭部をいじりながら、担任は至の反応を待っている。


 曖昧な返事をしつつ、うつむく至の視線の先。

 床に落ちた影がゆらゆらと頼りなく揺れていた。


「なにか事情があるのはわかる。だが、かといってお前だけ特別扱いするわけにもいかん。明日までに、ちゃんと提出するようにな」

「……わかる?」


 嘘つけ。

 つぶやいた至の脇を、一人の女子生徒が通り抜けた。記憶にひっかかる、馬のしっぽのように跳ねる髪。

 一瞬交錯した視線。同情するような笑み。


「ん、どうした?」

「いえ、なんでもないです。……失礼します」


 どうやら内容までは聞こえていなかったらしい。聞こえないように言ったので、当たり前といえば当たり前だが。


 辞する挨拶もそこそこに、至は担任の机をあとにした。

 ぐるぐると。

 ()い交ぜになった感情も置き去りにできれば、どんなによかったか。


「失礼しました」


 申し訳程度に頭をさげて、至は職員室の扉をしめた。

 ふぅ、と一息。そして、くるりと向きを変えて歩き出す。

 苛立ちは足取りに表れる。

 廊下の暑さが余計に感じられた。雨が降っていることによる湿度のせいもあるだろうが。

 その勢いのままに昇降口を出て、傘もささずに走りだす。


 今は、何も考えたくなかった。

 ただ、そうすることで抱えたもやもやが少しはすっきりしたような気がした。






「……ただいま」


 返事がないことはわかっている。期待は、いつからしなくなったのだったか。もはや覚えていない。


 部屋にもどり、制服を脱いでハンガーにかける。

 そうしてからベッドに腰かけ、ぼんやりと窓の外に目をやった。


 あいかわらず雨音は強い。

 もてあました感情が、行き場を求めて暴れている。


「…………、くそっ」


 至は立ちあがり、着替えをすませると、誰にも声をかけることなく家をでた。





 週をひとまわりした水曜日。

 雨降りの放課後。

 六月も半ば。すっかり梅雨の季節だ。


 至は昇降口で立ち尽くしていた。呆然とさげられたその手にはなにもない。


「……やっぱり、傘持ってくるべきだったなぁ」


 そう、なにもない。滝のようにざぁざぁと落ちてくる水の粒。それを防げるものが、なにも。


 朝方は曇っていただけだったので、油断したのがいけなかった。

 とはいえ、今日はテンションが高い。この雨も、そこまで苦痛には感じられなかった。


 なぜこんなに気分がいいのか。それは至自身がよく知っていた。


 解放されたからだ。

 家に帰ればまた息が詰まるだろうが、それをなくす方法はすでに手に入れていた。

 最近噂になっている存在でさえ、怖くなんてない。怖いはずがない。


「仕方ない。こうなったら濡れ鼠を覚悟して……」


 決心し、一瞬息を止める。そして、


「よし、行くぞ」


 準備は万端。覚悟もした。あとは行動だけだ。

 意を決し、走りだす。

 しめってなまぬるい風が吹いてくる。いや、至自身が風になっているのか。どちらなのかはわからない。

 ひたすら無心で、走った。


 至の自宅は学校から比較的近くにある。だからこそ、走って帰るなどという選択ができるのだが。


 校門を抜け、点滅し始めた信号を渡り、人気のない住宅街を駆ける。

 走り始めるとすぐに雨粒は降りそそぎ、制服は体にまとわりついた。

 冷たく、じめじめした感覚が皮膚にはりつき、粟立たせる。


「強くなってきたなぁ」


 地面を打つ雨音は意識するたびに大きくなっていく。

 いまや全身で濡れていない部分を探すほうが難しい。

 水もしたたるどころの騒ぎではない。水にまみれたいい男の出来上がりである。


 至は自分の体に鞭打ち、さらに走る速度を上げた。


「……?」


 と、視界の端になにかが映った気がして、速めたばかりの足をゆるめ、そちらを見る。

 黒々とした影。雨にまぎれて浮かび上がる、不安を煽るような漆黒。

 ソレは、雨けぶる路地裏へと、溶けるように消えていった。


 足が、止まる。


「そ、そんな……」


 至は、ソレを知っていた。

 ここ一週間、学校はその噂でもちきりになっていたから。


「嘘だ……、どうして……」


 だけど、信じられない。信じられるはずがない。


 雨の勢いはとどまらず。


 至は、亡霊の嘲笑を聴いた気がした。


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