(3)
◆まい
衝動だった。
*
時刻さんは実は生きていないんじゃないか、とまいはたびたび思う。
薄雪のような白い肌に色味がさすのも、凛と伸びた首筋に汗の粒が流れるのも、一度だって見た事がない。
人形めいた美しさをそのままに、たいていは教室の隅で本を読んでいる。
その寸分の隙もない横顔に、気付けばいつも見とれていた。
そうして、いつも考えるのだ。
思考の中で、二人はいつも一緒だった。
笑いあい、ふざけあったりして毎日を面白おかしく過ごす。他にも仲のいい友達がいっぱいいて、そして――、
「ちょっと、まい。聞いてる?」
耳に突き刺さる鋭い声が、まいを現実の世界へ引き戻した。はっとして周りを見回し、自分が友人たちと昼食を食べている最中だったことを思い出す。
しまった、と思うと同時に表情が青ざめていく。
せっかくここまで努力したことが無駄になってしまうかもしれない。
どうしよう、とうろたえる正面。
「ねぇってば」
マスカラでふんだんに飾り立てた大きな目をぐっと細めて、少女がまいを睨みつけた。
「……え? あ、ごめん……」
なさいはのみこんだ。じゃないと、この集団では浮いてしまうから。
思わず謝ると、彼女はふん、と息を吐いて顔をそむけた。
が、すぐにそのことは忘れたように会話が始まる。
きゃはは、くすくす。
どうやら、最悪の事態は避けられたようだ。
制服の袖をいじりつつ、うん、と自分に喝をいれる。
ここでおいてけぼりになるわけにはいかないのだ。
「ね、ねぇ、彩。今日は……」
言いかける。が、マスカラ少女――彩はちらりとまいを一瞥すると、ゴミの入ったコンビニ袋をそのままにさっさと立ち上がった。
周りの少女たちも続々と身だしなみを整えていく。
手鏡に向けて目を交互に細めたり、スカートの短さの限界に挑んだり、髪先を手ぐしで梳いたり。
まいは、気付かれないようにそっとため息をこぼし、お弁当箱をハンカチで丁寧に包む。
と、彩は思い出したようにくるりと振り返った。
「あのさ、ご飯粒ついてるよ。……ほら」
くすくす笑う周囲なんて気にしていられなかった。
頬に伸びてきた指先は、思わず目をつぶってしまうほど冷たかったから。
そうして、彼女がさっさと行ってしまったあとも、まいはしばらくその背中を見つめていた。
その後蒸すような廊下を歩き、いきなり角から現れた少年にぶつかるまで、ひんやりとした余韻は忘れられなかった。
*
午後の授業が始まって、すぐ。
ペンを取り出そうとして、視線が胸元に落ちる。
ひかえめな自己主張だけど、自分ではこれがちょうどいいと思っている。
少し迷ってから、ボタンをひとつしめた。
視界に赤い飾りはない。友人たちと違い、自主的になくしたわけではなかった。
(……どこにいっちゃったのかな。やっぱり、さっき翔子先輩に……)
そこまで考えて、顔を真っ赤にして頭をぶんぶんさせる。アレは忘れよう。
まいは浅く息をつき、ひきずられるように目をつむった。
暗闇に浮かぶのは、昼休みの続き。
まいにとって、時刻柚は、とにかく印象的な人物だった。
頭が良く、体育はいつも見学だが、そのほかの成績はトップクラス。
静かで、どこか孤高な佇まいを演出するのは、長い黒髪に白すぎるほど白い肌。
切れ長の目は怜悧な光を湛え、鼻梁と薄い桜色の唇がそれぞれ完璧な配置で輪郭におさまっている。
どこから切り取ってみても、人気者たる要素しかないように思えるのに、クラスの中での評判はそうではなかった。
むしろ、避けられているような節さえある。
というのも、柚自身が極端に無口で無愛想な人物だからだ。
ほとんど誰とも口をきかない。
たまに話したかと思えば、その唇から出てくるのは棘にまみれた冷たい言葉。
自分からは打ち解けようとせず、たいていのことは無視ですませてしまう。
せっかくの美貌とて、伏せられていては意味がない。
最初こそその見た目に惹かれ、必死で気を引こうとあれこれ試みていたクラスメイトたちも、一貫して冷徹な態度を崩さない柚に、次々と愛想を尽かして遠ざかっていった。
思い通りにいかない。期待のぶんだけ、手に入らなかったときの失望は大きくなる。
理解できない。
だから敵だ。
敵には近づかないほうがいい。
陰口が増えるにつれて、柚の周りからは人が消えていった。
だけど、とまいは思う。
少しくらい冷たくされたからといって、なぜ即嫌悪につながるのだろう。
何度も話しかければ、いつか心を開いてくれるかもしれないではないか。
頑なに拒まれれば、理由を知りたくなる。
知りたくて、近づきたくて、仲良くなりたくて。
気付くと姿を探している。
目が離せなくなる。
話してみたくなる。
人と人が近くなるのって、そんな感じなんじゃないかと、まいは自分なりに考えていた。
別に、夢中だからといって、恋愛感情を抱いているわけではない。
少なくとも、現時点では。
そうではなく、ただひとつの純粋な理由から、まいは時刻柚という存在に惹かれていた。
それは拍子抜けするほどに単純で、簡単なこと。
友達に、なりたい。
入学して一週間ほどで、そう思った。
だからこそ、難しかった。
相手が時刻柚だということもそうだが、さらに。
藍谷まいという人間は、極端な人見知りだったから。
そもそも、彼女が今の集団にいられるのも、ほとんどが自力によるものではないのだから。
*
「…………っ、……」
目の前を通りすぎていく背中を見送り、まいは伸ばしかけた腕をすごすごとひっこめた。
周りから聞こえてくる談笑の声が、まるで自分を嘲笑っているかのように思える。
また、ダメだった。
これで何度目だろう。
ゴールデンウィークも明け、続々と仲良しグループ結成期間が締め切られていく。
ここで芳しい成果を得られなければ、どうなるか。
そんなの、どうしようもなく、わかりきっていた。
ぐっ、と意気込んでクラスメイトに話しかけようとして、けれど直前でいつも躊躇してしまう。
喉に蓋をされたように、たった一言がでてこないのだ。
中学校では、その引っ込み思案な性格が災いして、一人も友達ができなかった。
そんなのはもう、嫌だ。
せめて外見だけでもなめられないようにと、髪も染めて。
華々しい高校生活をスタートできると思っていたのに。
もう、今までみたいな灰色の日々とはお別れだと信じていたのに。
結果はこのざまだ。不甲斐ない自分が嫌になる。
ただ一言、挨拶するだけなのに。
そこからきっと始まって、楽しくなっていくはずなのに。
まいにはそれが、とてつもない難題のように思えた。
(……お昼、たべよ)
とぼとぼと自分の席にもどり、深くふかぁくため息をつく。
鞄から取り出したお弁当が、やけに小さくみえた。両手で抱えたまま、しばしうつむく。
高校に入学してから数日。もはやルーチンワークと化してしまった流れだ。
と、
「ねぇ」
水平線のような、どこまでも平坦で、だけどどこか丸みを帯びた声。
「ちょっと、聞いてる?」
「……、わたし?」
「そう、アンタ」
遠い世界のことだ、と思い込んでいたまいは、やや苛立ちまじりの声にようやく顔をあげて。
そして、日常が、壊れた。
「な、なに……?」
あまりの動揺に、口がうまく動かない。そっけない反応になってしまったが、彼女に気にした様子はない。
「アンタの名前、藍谷まいであってるよね?」
「……うん」
まいの答えに、彼女は背中のなかほどまである巻き髪を手櫛で梳いてから、満足げにうなずいた。
入念に手入れされた金に近い茶色の髪の毛から、甘い果物のような匂いが立つ。
おそらく見た目通りの少女なのだろう。
これでもかというほどに短いスカートと、大胆に開かれた胸元。
顔立ちは整っているが、化粧のせいで派手さだけが目立ってしまっている。まいはそれを、少しもったいないな、と思う。
細長い指の先にある爪には丁寧かつ複雑なネイルアートがきらめいていた。
その華やかな美貌が、不機嫌そうにしかめられる。
「アイツのこと、どう思う?」
「……?」
装飾された指先が示した方向。
綺麗だな、と思った。
なにを相手取っての賛辞なのか――いや、そもそもそれは賛辞だったのか。無意識に沈んだ本能は、すぐに形を消した。
ぼんやりと追った視線。
とらえたのは、窓際の、いちばん後ろの席。
「……べつに、興味ない、です」
語尾がかすれる。たぶん、最後のほうは聞こえていないだろう。
言えるわけがなかった。
あの人と、友達になりたいだなんて。
「そ。とりあえず、アイツの味方ではないわけね」
「え、と……まあ」
濁る濁る。
言葉も、心も。
「ならいい」
まいの机に腰をおろし、胸の下で腕を組む。
彼女はあいかわらずの声の調子でこう言った。
「アタシは皆瀬川彩。このクラス、さ。アタシらみたいなのは他にいないみたいだし。ま、適当によろしく」
わたしはあなたが考えているような人間じゃないとか、味方ってなんのことなのかとか、他にもいろいろと訊きたいことはあったが、結局まいがとった行動は、
「……うん、よろしく」
うなずくという、単純で、だからこそ複雑に入り組んだ感情のあらわれだった。