(1)
◆至
厭だった。
*
六月の空は水無月とは程遠い。
雨続きだった週明けの月曜日。
その日もまた、教室の窓際、最後尾二つ前の席から見える空は、どんよりとした雲に覆われていた。
直射日光による熱こそないものの、梅雨時のじめじめとした蒸し暑さは、誰もが顔をしかめたくなるに違いない。
それは、ぼうっと雲に視線を向けている少年――清瀬至とて例外ではない。
しかし幸いというべきか、彼の通う秦峰高校は私立であり、室内の空調設備が整っているために不快さとは無縁だった。
さすがに廊下まではカバーされていないが、これ以上を望むのは贅沢だろう。
一日中イライラして過ごすよりはずっといい。
「中間テストが終わったとはいえ、またすぐに模試ラッシュだからな。受験まであと半年、みんな気を抜かないように」
テスト結果を返却し終え、ぐるりと見渡す教師の言葉に、教室中がざわめき出す。
そんな光景をよそに、至は行儀悪く片肘をついて窓の外を眺め続けていた。
いつからだっただろうか。
なにもかもに楽しみを見出せなくなってしまったのは。
勉強も、運動も、恋愛も。
学校も、家庭も。
人生も。
いつから、こんなにも息苦しい生活を送るようになったのだろう。
わからない。
いや、むしろこの場合はわかりたくないといったほうが正しいのか。
もやもやとした不鮮明な感情が、深く考えることを拒否していた。
まるで、蓋をするように。
(……やめやめ。うじうじしててもしょうがない)
苦笑する。
どうやら、思考がマイナスに傾きすぎていたらしい。悪い癖だと自覚はしていたが、かといって簡単に直せるものでもない。
それに、もともと直すつもりもなかった。
「――る。おい、至ってば。聞いてんのかよ?」
そこで意識が引き戻される。
彼だけの世界から、彼以外の世界へと。
途端、耳に入ってくる喧騒。肌に絡みつくような熱気。
一度気付いてしまえば、よく意識せずにいられたものだと思うほどに、騒がしい。
「……え? ああゴメン、ちょっと考え事してた」
またかよ、とあきれる友人に軽く謝りつつ、至は周りを見回した。
いつのまにか授業は終わっていたようで、クラスメイトたちはそれぞれの属するグループに固まり、わずかな休み時間の談笑にいそしんでいた。
誰もかれもが、楽しげに制服を揺らしている。
はずむ笑い声。能天気な笑い声。悩みなんてなにもないような――、
「至?」
怪訝そうな声に、知らず握りしめていた手のひらをほどく。
「なんでもない。それで、なんの話だっけ」
「だからー、テストどうだったって話。ま、どうせお前のことだから聞くまでもないんだろうけどさ」
言われて思い当たる。そういえば、そんなものもあった気がする。
机の上に置きっぱなしだった紙にあらためて目を向ける。端っこに、わずかな折り目がついていた。
「……べつに、そんな良かったわけでもないよ。いくつかケアレスミスもあったし」
「にしたって、俺なんかとは総合点の百の位が二つほどちがうんだろ。たまには赤点くらいとってみろよなぁ」
「やなこった。っていうか、そこまで言うなら勉強教えようか? 一教科につき僕の言うことをひとつ聞く、で手を打つよ」
「やなこった。誰が野郎になんか教えてもらうかよ」
いつもの、吹けば飛ぶようなくだらないやりとり。けれど今は、それが心地よかった。
切り替え、切り替え。
胸中でつぶやく至であった。
*
滞りなく授業は進んで、昼休み。至は一人、購買へと向かっていた。
秦峰高校は私立にしては珍しく学食がない。
かわりに購買の品揃えは豊富で、食品や文房具などのほか、日常生活に必要なものはおおよそまかなえるほどだ。
規模も相当なもので、教室二つ分くらいのスペースはゆうにあるだろう。そこに規則正しく分類された品物がならんでいるさまは、もはや学校内の設備だとは思えない。
さて、現在進行形で向かっている至だが、彼は普段、あまり購買を利用しない。
別に、売り子のおばちゃんに恨みがあるだとか、買い物恐怖症だとかいう奇妙な症状に悩まされているわけではない。
単純に、彼が裕福ではないだけである。
それなりに苦学生である彼は、毎日デフォルトで買い食いができるほど財布と仲がよくないのだ。
そんな彼がなぜ、今日に限って購買なる場所へ向かっているのか。
それには、もちろんちゃんとした理由がある。
海よりも深く、山よりも高く。
そう、
「……あー、なんで朝入れ忘れたかなぁ。やっぱり昨日の夜更かしがダメだったか」
お弁当を忘れてしまったのである。
弁当忘却。結果、昼食抜き。
その状態での午後の授業は、学生にとって拷問にも等しい。
最終手段の睡眠逃避すら妨げられては打つ手などなく、ただひたすら耐えるしかない。
無論、ご褒美もなしに。
ゆえに、なけなしの硬貨をたずさえた至は、渡り廊下の窓から差し込む暑さにうんざりしながらも歩いているというわけだ。
苦難である。
「……ん?」
と、どことはなくさまよっていた彼の目が、ある一点で止まった。
西棟へと続く階段を正面に、向かい合う少女たち。同時に、耳に入る二つの声。
喜色と怪訝。
「わたしとイイコトしましょう?」
「……はぁ?」
彼の思考は、一瞬にして関わらない方向でいこうと決めた。
さわやかな微笑みを浮かべて回れ右。
昼食は犠牲になるが、しかたない。より危険度の高いものを避けた結果である。
たかが数時間の空腹、未知の現象と遭遇するよりは数段マシだろう。
「まぁまぁ、そう言わずに。ここで会ったのも、わたしが一目惚れしたのも、なにかの縁だと思いませんか?」
「え、なに言ってんのお前。やっぱり頭打ったんじゃねーの?」
「いえいえ、いたって優等生なわたしですよ。これでも頭には自信がありますし。そうですねぇ……、あ」
猛烈に嫌な予感がした。背中には悪感。足を速める。
間違いない、これは――、
「そこのあなたっ。ちょうどいいところに! 少しお時間もらえませんかー?」
びくりと肩が跳ねる。
そしてその一瞬の停止が、彼の逃亡に終止符を打ってしまう。どうやら、目をつけられてしまったらしい。
(あぁもう、声かけられたらアウトだよ! 無視できないよねぇ……いやでも、まだ僕のことだと決まったわけじゃ……)
「あの、すみません、そこの先輩」
肩をぽん、とたたかれた。
確定した瞬間である。
「……な、なにか用かな?」
にっこりぴくり。
多少ひきつってはいるものの、じゅうぶん『柔和な微笑み』に分類されるだろう。
実は至、けっこう難儀な性格の持ち主である。
本音はどうであれ、彼は他人にはできるだけ悪感情を見せないようにしている。
これは彼の周囲の環境によるものなのだが、いつの間にか、そうすることが彼なりの処世術として定着してしまっていた。
嫌われないように。
よけいなことを考えさせないように。
つまるところ、至はお人好しだった。
ゆえに苦労人としての評判が絶えないが、本人にあまりその自覚はない。
「あのですね、先輩。ちょっと頼みたいことがあるのですが」
「ていうか、なんで僕? どこかで会ったことあったっけ?」
思い出したように、疑問。
至の目に映っているのは、青みがかった髪を短く切り揃えた少女。
しきりに眼鏡をいじっているが、趣味なのだろうか。
そんな益体もないことを考えるあたり、至はけっこう追い詰められていた。
至のことを先輩と呼ぶからには、三年生ではないようだ。が、部活に入っていない彼には下級生の知り合いはいない。
つまりは初対面であるはずだが、それにしてはやけに馴れ馴れしい。
「いいえ、完全無欠にはじめましてですよ。よろしくお願いしますね」
頭ひとつ分ほど低い身長が、にこやかに見上げてくる。
識原翔子と名乗った少女は、前半を眼鏡のつるを押し上げながら、後半をぺこりとお辞儀しながら、おだやかな声で言う。
あまりにも礼儀正しいしぐさに警戒は薄れ、さして抵抗もなく名乗り返してしまう。
「ではいたるん。わたしになにか難しげな問題を……」
「ちょっと待とうか。おかしいよね? なにそのやたらファンシーな呼び方」
早まった。
最近の警戒はフェイントもかけてくるらしい。
「いいじゃないですか、いたるん。かわいいでしょう?」
「君はあれか。初めて会った先輩をニックネームで呼ぶのが趣味なのかな?」
「さて、どうでしょう。うふふ」
口元がひきつるのをなんとか抑えながら、至は視線をスライドさせる。
「仲いいなお前ら。付き合ってんのか? え?」
先ほどまで翔子にからまれていた少女が腕を組んでにやにやしていた。
「いやだからおかしいよね? 初対面だって言ってるじゃん!」
被害者かと思ったらとんでもない。
こっちも相当な曲者っぽかった。
「んなこたぁどうでもいい。でさ、ところで、用がないならあたしもう行っていい? ていうか行く、もう行く絶対行く」
清楚な和風美人、といった外見に似合わず、少女の口調はぞんざいだった。
かなり整ったお顔なのだが、口調のせいかどうにも男っぽく感じられるのがもったいない。
肩をすくめた拍子に、少女の後頭部で、馬のしっぽのように結われた髪が揺れる。
「あん、待ってください鷹世ちゃん」
「おいなんであたしの名前を知ってる。もしかしてアブナイ系? てことはあたし助け損? マジかよないわー超ないわー」
「え、君たちも初対面なの?」
衝撃である。至はもはや、なにがなんだかわからなくなってきた。
「ですから、そのへんも含めてお話しませんか? 昼休みにもまだ余裕はありますし」
眼鏡の縁にほっそりとした指を添え、翔子は意味深に微笑む。
「いや、遠慮しとく。あたしは忙しいんだ。変人たちにかまってる暇はないわけだ」
さりげなく自分が変人の勘定に入っていたことに至が抗議する間もなく、鷹世というらしき少女はさっさとその場をあとにした。
一切の躊躇もない、見事な去り際であった。
「残念です。ふられてしまいました」
「……その割には、あまり残念そうじゃないけど」
「まだまだチャンスはありますから。じっくりと好感度をあげていきますよ……えぇ」
「そ、そう。それじゃ、僕もこのへんで失礼するよ、うん」
うふふ、とあやしげな笑みを浮かべる翔子。
なんとなく至は距離をとる。たぶん、間違った対応ではない。
「そうですか。ではいたるん、またどこかでお会いしましょう」
胸元でひかえめに手を振る姿はそれなりに可愛らしかったが、うふふがすべてを台無しにしていた。
ああ、その呼び方は定着なんだと思いつつ、至は表面上はおだやかに別れをかわした。
できればもう会いたくないなぁ、と心に刻むことを忘れずに。
*
その後無事に買い物を終え、至は教室へと戻るべく歩いていた。
ちなみに記しておくと、彼の好物はカレーパンなのだが、戦争はあまりにも無情だった。
「ちょっと、足踏まないでよね!」
「どけ! このあんぱんは俺様のものだ!」
「ほらよおばちゃん、釣りはとっときな!」
「足りないよそこの小僧! 表へ出な!」
「死ね! あたしのみたらし団子への愛を邪魔するやつはことごとく死んじまえー!」
「ぐふぅ!」
「あらあら皆さんたくましいですこと。よぉし、ではわたくしも力の限りに」
といった感じの戦いを経て、彼は抹茶トマトサンドなる物体を選ぶしかなかったのだ。
どう考えても劇物である。昼食抜きのほうがまだマシかもしれない。
至はすでに痛いような気がする胃をかかえつつ階段をのぼり、渡り廊下を通って東棟へ。
ここ秦峰高校は、生徒たちの教室や実習室などの授業関係は東棟に、昇降口や購買、職員室などのその他系は西棟にとわけられ、それぞれを渡り廊下がつないでいた。
真上から見れば、ちょうどアルファベットの『H』になる形だ。
二つの棟を結ぶ渡り廊下は、四階建ての校舎の中で、二階にしかない。
不審者対策だの教師たちの陰謀だのいろいろな説が飛び交っているが、真相はさだかではない。
とりあえず、生徒たちにとっては不便なことこの上ない、という結論だけが確定しているのが現状である。
東棟の二階、一年生の教室が並ぶ廊下を通りがかる。
といっても、階段は目と鼻の先にあるのだが。
――どんっ。
「うわっ」
「あ……」
ちょうど直角になっていた教室方面の角からの接近。
この場合はどちらが悪いということでもなかったし、あえていうなら、責任はどちらにもあっただろう。
至の手からパンの入った袋が落ち、足もとにぽとり。
それを見て微妙にほっとしながら視線を上げた彼の表情がひきつった。
ぶつかった相手が、見るからにギャルギャルしい集団の一人ならば、それも仕方のないことだろう。
厄介かつ無情であり、とことんまで運が悪かった。
「ご、ごめん」
謝りつつ、昼食を拾おうとして、
「……い、」
「ちょっとアンタ、どこ見て歩いてるワケー?」
「しんじらんなーい」
「まい、だいじょーぶぅ?」
その手が空中でぴたりと止まった。
どこかぼーっとしたような当人の少女をさえぎり、周りにいた数人がきゃいきゃいと騒ぎだす。
校則通りに夏用制服のシャツに赤いリボンタイをつけている子はただ一人、ぶつかった少女しかいない。
どこまでも見た目通りな集団。
こういった連中の声がえてして甲高いことを、至は知っていた。
ついでに、仲間以外には年上だろうと遠慮も容赦もないことも。
早くも、声を聞きつけた何人かが遠巻きに集まりはじめていた。
「えっと、ごめん。よそ見してた僕のせいだ。ほんとうに申し訳ない、です」
だから、下手にこじらせずにさっさとこの場を去るのが最善。
そう考えた至は手早く袋を拾い、軽く頭を下げた。が。
「……あ、」
「ソレが『申し訳』じゃん? どういう頭の構造してんの?」
またしても少女の言葉にかぶせるように、鼻にかけたような声が至の耳をいたぶる。
思わずむっとする至。無論、表には出さない。
言われていることは確かにその通りなのだが、ぶつかった当人ならともかく、関係のない者になじられる筋合いはないはずだ。
なにか言い返そうと顔を上げる。すると、さっきからなにも言えずに困ったような表情の少女と目が合った。
「ほら、まい。黙ってないでアンタからもなんか言ったら? 遠慮しなくていいよ」
「そうそう、さっきから静かじゃん。……あ、もしかしてメチャ怒ってしゃべれない感じ? なんなら一発やっちゃってもいいんじゃない? 『ヘンタイ!』とか言ってさ。きゃははは!」
君たちのせいで話せないんじゃないか、という一言をなんとか飲み込み、至はぶつかった少女――どうやらまいという名前らしい――が口を開くのを待った。
彼女からの苦情はまだ正当なものとして許容できるが、それ以外はいわゆる雑音である。
最初の数秒こそ至をじっと見ていた彼女だが、やがてふいと顔ごと視線をはがした。
「…………いい」
興味をなくしたように。
「あは、まいってばやっさしー」
「アタシなら即ビンタだよー?」
きゃはは、くすくす。
好き勝手に笑いながら少女たちは去っていく。
何事もなかったかのように、あっさりと。
もはや至のことなど、道端の石ころほども気にかけることなく。
揃えたように、黒い髪の子はいなかった。おとなしく見えたまいという少女でさえ、茶髪に入った金のメッシュをふわふわ揺らしていた。
日本の将来、ついでに目をそらしたかった現実へと思いをはせ、至は一度、深く息をつく。
歩きだす彼の背中に落ちる影は、どこか寂しげに揺れていた。
だからだろう。
「……あっ」
またしても誰かとぶつかってしまった。
肩をかすめただけとはいえ、ついさっきのこともある。
「ご、ごめん! 全面的に僕の不注意のせいだ。本当にごめん!」
まくしたてて頭をさげる至をちらりと一瞥し、
「…………」
その人物は無言で去っていく。あとを追う長い黒髪が至の頬を撫でていった。
淡く広がったのは、どこか神秘的な香り。
小柄な背中が角を曲がって見えなくなるまで、至はぼうっと立ち尽くしていた。