(6)
◆柚
だから――、
*
土曜日。
いつになく上機嫌な様子で、柚は夜の散歩としゃれこんでいた。
上機嫌とはいっても、見るからにそうとわかるような素振りはしていない。ただちょっと、普段より棘が丸みを帯びている程度だ。
おかげで、いつもなら絶対にしないような行為をしてしまった。
たとえば、制服を着て軽くめかしこんでみたりだとか。
たとえば、わざわざ雨降る中を散歩したりだとか。
たとえば、変な人間に名前を教えたりだとか。
改めて思い返すまでもなく、あれは相当な変人だった。
名前だけなら大丈夫だろうし、そもそも、今の自分に疑問を覚える者などいないはずなのだから、と判断し、名乗ったわけだが……本当に正しかったのかどうか。
まさかばれるとは思わないが、こういった些細なことから崩れる可能性もないわけではない。
「まぁ、いいわ」
思ったよりも自然にそんな言葉がでてきて、柚は自分でも軽く驚いた。
最初こそ、あてつけのつもりで始めたものだったのに、今ではこうも自然に染まっている。我ながら、愚かなことだと自嘲する。
くすくすと漏れるその声は、楽しげな少女のような響きだった。
「……それにしても」
ふと立ち止まり、夜空を見上げる。透明なビニールを通して、少し歪んだ曇り空が広がっていた。
つぅ、と滑らかに雫が落ちていく。幾筋も、途切れることなく。
記憶をかすめるのは、やはり雨が降っていたあの夜のこと。
あれからすでに二日経っていたが、脳裏にはいまだ、鮮やかな紅が映っている。
目を閉じれば、まざまざと蘇る光景。自動的に弧を描く唇。やがて、それが真一文字に引き締められた。
思い出したのだ。連鎖的に、引きずられるように。
それは、柚を突き動かす原点となった、忌々しい記憶。そのはじまり。
柚はしばらく立ち尽くし、心に巣食う闇へと潜っていった。
*
彼女と初めて出会ったのは、中学校の入学式だった。
桜色の雫がひらひらと舞い踊るなか、校門を駆け抜けた。柔らかくたしなめてくる両親に笑顔を返し、心の向くままに走った。
これから始まる毎日が、楽しみで楽しみで仕方なかった。
自分でも、子供っぽいとはわかっていた。けれど、少し前までは小学生だったのだ。いいじゃないか、子供で。
穏やかな風と遊び、優しい木々と戯れた。うきうきと、弾む足取りで。
とにもかくにも、ふわふわとしていたのだ。心も、体も。
そんなだから、当然の帰結として、その瞬間は訪れてしまう。
「あっ」
しまった、と思った。
浮かれていた気分が急速にしぼんでいく。しおしおと、風船から空気が抜けていくように。
見るからに、怖そうな人だった。
真新しい制服に身を包んでいるからには、一応新入生なのだろう。しかし、彼女の放つ雰囲気は、到底その範疇に収まるようなものではなかった。
自然に染まったとは思えない髪は金色にも、茶色にも見える。
顔立ちは整っているが、強調された目元のせいでややきつく感じられる。
短いスカートから覗く脚は細く、新入生にありがちな野暮ったさは欠片も見当たらない。
「……っつ……、アンタ、どこ見て歩いてんの?」
しかめられた眉は美しい形を描いているが、それを打ち消すほどに機嫌悪そうな表情。尖った雰囲気が加速する。真正面から目を合わせることがためらわれた。
「ご、ごめ――」
「ん、アンタ、もしかして……」
柚の体を見下ろし、彼女は目を丸くした。そうして、なにやら納得したように、
「……ふぅん」
にやり、と唇の端をゆがませた。それは、獲物を見つけた猛禽類のような凄絶さだったが、幸か不幸か、うつむいていた柚が気付くことはなかった。
「アンタ、名前は?」
唐突に、そんなことを訊かれた。
おずおずと視線を上げれば、さっきまでの不機嫌はどこへやら、嬉しそうな瞳。けれど、なぜかさっきよりも恐ろしく思えて。
知らず震える声で名乗れば、返ってきたのは満足そうな吐息。
それが、彼女――皆瀬川彩との出会いだった。
*
ぎり、と歯がきしむ。
無意識に握り締めていた手のひら。その内側に、爪の痕がくっきりと残っていた。
かすかな、痛み。
「っ、……でも、もう、あいつに関わることはない」
つぶやいてみれば、実感は体の隅まで広がった。侵食するように、じわりじわり、と。
そうだ。一昨日、見返してやったじゃないか。積年の恨みを晴らした今、彼女の影に怯えたり、苛立つ必要はない。しばらくは彼女の顔を見なくてすむと思うと、清々する。
復讐は果たしたのだ。
彼女のせいで植えつけられた、このくだらないコンプレックスともおさらばだ。
そう思えば、この容姿も好きになれそうで。自分でも馬鹿らしいくらいに子供だな、と思う。
軽く頭を振り、止まっていた足に力を入れる。そろそろ帰ろうかと一歩を踏み出した。
そのタイミングで、
「〝雨亡霊〟ッ!」
絶叫が聞こえた。
(雨亡霊……?)
とっさに、夜空を見上げる。さきほどまでの雨はすでにやんでいる。
噂は正確ではなかったのか? それとも、自分と同じ利用者?
(いずれにせよ、関係ないか)
冷然と断じ、その場をあとにしようとして、でも、と思い直す。
確かにさっき、〝雨亡霊〟と聞こえた。思い詰めたような、甲高い少女の声には聞き覚えがあって。
「…………」
葛藤は一瞬。傘をたたみ、小走りに駆け出す。声は、この先の路地から響いてきた。
風にはためくスカートが邪魔で、思わず舌を打つ。
「……まぁ、どうせ今日まで、か。いえ、今日までだもの、ね……ふふ」
浅く、けれど奥深い笑みを覗かせ、柚は角を曲がった。
そこには、人影が三つ。
体格や着ているものから判断すると、どうやら少年が一人に少女が二人。そして、少女のうち片方は地面に倒れ伏していた。残りの二人は、なにやらもみ合っている。
それらを見た柚の目が、わずかに見開かれた。が、それも一瞬のことで、すぐにもどされる。
幸い、彼らはまだこちらには気付いていないようだ。
いましがた曲がってきた角に身を潜め、柚は息をついた。
状況はよくわからない。もうしばらく様子を見守ることにしたのだ。
「……おい」
そんな柚の背後から、その声は聞こえた。怒りを押し隠したような、低く平坦な声。
「お前が〝雨亡霊〟か? ……もしそうだとしたら、ちょっと覚悟してもらうぜ。違ったら素直にごめんなさい、だが」
振り向いた柚は、すっと目を細めた。
月光に照らされて、仲良さげに手をつないだ二人の少女が、そこにいた。