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雨色クロスフェード  作者: ゆいる
第三章 ◇それぞれの夜 ―under the rainy night― 
19/31

(6)

◆柚


 だから――、



 土曜日。

 いつになく上機嫌な様子で、柚は夜の散歩としゃれこんでいた。


 上機嫌とはいっても、見るからにそうとわかるような素振りはしていない。ただちょっと、普段より棘が丸みを帯びている程度だ。

 おかげで、いつもなら絶対にしないような行為をしてしまった。


 たとえば、制服を着て軽くめかしこんでみたりだとか。

 たとえば、わざわざ雨降る中を散歩したりだとか。

 たとえば、変な人間に名前を教えたりだとか。


 改めて思い返すまでもなく、あれは相当な変人だった。

 名前だけなら大丈夫だろうし、そもそも、今の自分に疑問を覚える者などいないはずなのだから、と判断し、名乗ったわけだが……本当に正しかったのかどうか。

 まさかばれるとは思わないが、こういった些細なことから崩れる可能性もないわけではない。


「まぁ、いいわ」


 思ったよりも自然にそんな言葉がでてきて、柚は自分でも軽く驚いた。

 最初こそ、あてつけのつもりで始めたものだったのに、今ではこうも自然に染まっている。我ながら、愚かなことだと自嘲する。

 くすくすと漏れるその声は、楽しげな少女のような響きだった。


「……それにしても」


 ふと立ち止まり、夜空を見上げる。透明なビニールを通して、少し歪んだ曇り空が広がっていた。

 つぅ、と滑らかに雫が落ちていく。幾筋も、途切れることなく。


 記憶をかすめるのは、やはり雨が降っていたあの夜のこと。

 あれからすでに二日経っていたが、脳裏にはいまだ、鮮やかな紅が映っている。

 目を閉じれば、まざまざと蘇る光景。自動的に弧を描く唇。やがて、それが真一文字に引き締められた。

 思い出したのだ。連鎖的に、引きずられるように。

 それは、柚を突き動かす原点となった、忌々しい記憶。そのはじまり。

 柚はしばらく立ち尽くし、心に巣食う闇へと潜っていった。





 彼女と初めて出会ったのは、中学校の入学式だった。

 桜色の雫がひらひらと舞い踊るなか、校門を駆け抜けた。柔らかくたしなめてくる両親に笑顔を返し、心の向くままに走った。

 これから始まる毎日が、楽しみで楽しみで仕方なかった。

 自分でも、子供っぽいとはわかっていた。けれど、少し前までは小学生だったのだ。いいじゃないか、子供で。

 穏やかな風と遊び、優しい木々と戯れた。うきうきと、弾む足取りで。

 とにもかくにも、ふわふわとしていたのだ。心も、体も。

 そんなだから、当然の帰結として、その瞬間は訪れてしまう。


「あっ」


 しまった、と思った。

 浮かれていた気分が急速にしぼんでいく。しおしおと、風船から空気が抜けていくように。

 見るからに、怖そうな人だった。

 真新しい制服に身を包んでいるからには、一応新入生なのだろう。しかし、彼女の放つ雰囲気は、到底その範疇に収まるようなものではなかった。

 自然に染まったとは思えない髪は金色にも、茶色にも見える。

 顔立ちは整っているが、強調された目元のせいでややきつく感じられる。

 短いスカートから覗く脚は細く、新入生にありがちな野暮ったさは欠片も見当たらない。


「……っつ……、アンタ、どこ見て歩いてんの?」


 しかめられた眉は美しい形を描いているが、それを打ち消すほどに機嫌悪そうな表情。尖った雰囲気が加速する。真正面から目を合わせることがためらわれた。


「ご、ごめ――」

「ん、アンタ、もしかして……」


 柚の体を見下ろし、彼女は目を丸くした。そうして、なにやら納得したように、


「……ふぅん」


 にやり、と唇の端をゆがませた。それは、獲物を見つけた猛禽類のような凄絶さだったが、幸か不幸か、うつむいていた柚が気付くことはなかった。


「アンタ、名前は?」


 唐突に、そんなことを訊かれた。

 おずおずと視線を上げれば、さっきまでの不機嫌はどこへやら、嬉しそうな瞳。けれど、なぜかさっきよりも恐ろしく思えて。

 知らず震える声で名乗れば、返ってきたのは満足そうな吐息。


 それが、彼女――皆瀬川彩との出会いだった。





 ぎり、と歯がきしむ。

 無意識に握り締めていた手のひら。その内側に、爪の痕がくっきりと残っていた。

 かすかな、痛み。


「っ、……でも、もう、あいつに関わることはない」


 つぶやいてみれば、実感は体の隅まで広がった。侵食するように、じわりじわり、と。

 そうだ。一昨日、見返してやったじゃないか。積年の恨みを晴らした今、彼女の影に怯えたり、苛立つ必要はない。しばらくは彼女の顔を見なくてすむと思うと、清々する。

 復讐は果たしたのだ。

 彼女のせいで植えつけられた、このくだらないコンプレックスともおさらばだ。

 そう思えば、この容姿も好きになれそうで。自分でも馬鹿らしいくらいに子供だな、と思う。


 軽く頭を振り、止まっていた足に力を入れる。そろそろ帰ろうかと一歩を踏み出した。

 そのタイミングで、


「〝雨亡霊(レイニー・ゴースト)〟ッ!」


 絶叫が聞こえた。


(雨亡霊……?)


 とっさに、夜空を見上げる。さきほどまでの雨はすでにやんでいる。

 噂は正確ではなかったのか? それとも、自分と同じ利用者?


(いずれにせよ、関係ないか)


 冷然と断じ、その場をあとにしようとして、でも、と思い直す。

 確かにさっき、〝雨亡霊〟と聞こえた。思い詰めたような、甲高い少女の声には聞き覚えがあって。


「…………」


 葛藤は一瞬。傘をたたみ、小走りに駆け出す。声は、この先の路地から響いてきた。

 風にはためくスカートが邪魔で、思わず舌を打つ。


「……まぁ、どうせ今日まで、か。いえ、今日までだもの、ね……ふふ」


 浅く、けれど奥深い笑みを覗かせ、柚は角を曲がった。

 そこには、人影が三つ。

 体格や着ているものから判断すると、どうやら少年が一人に少女が二人。そして、少女のうち片方は地面に倒れ伏していた。残りの二人は、なにやらもみ合っている。

 それらを見た柚の目が、わずかに見開かれた。が、それも一瞬のことで、すぐにもどされる。


 幸い、彼らはまだこちらには気付いていないようだ。

 いましがた曲がってきた角に身を潜め、柚は息をついた。

 状況はよくわからない。もうしばらく様子を見守ることにしたのだ。


「……おい」


 そんな柚の背後から、その声は聞こえた。怒りを押し隠したような、低く平坦な声。


「お前が〝雨亡霊〟か? ……もしそうだとしたら、ちょっと覚悟してもらうぜ。違ったら素直にごめんなさい、だが」


 振り向いた柚は、すっと目を細めた。

 月光に照らされて、仲良さげに手をつないだ二人の少女が、そこにいた。


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