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雨色クロスフェード  作者: ゆいる
第三章 ◇それぞれの夜 ―under the rainy night― 
16/31

(3)

◆翔子


 だから――、



 土曜日。

 帰宅するなり、夜まで思う存分ごろごろしていた翔子だったが、やがてそれにも限界がくる。


「……おなか、すきましたねぇ」


 ずれた眼鏡の位置を直しながら、はふぅとため息。


 思い返せば、朝方外出する前に軽く前日の夕食の残りをつまんだ程度で、それ以来なにも口にしていなかった。自堕落ここに極まれり、である。


 ここが実家ならば、寝っ転がっていても勝手に食糧が供給されるのだが。

 あいにくと、親元を離れて絶賛一人暮らし中の翔子である。そんな展開はなかった。


 よろよろと立ち上がり、玄関脇の小さなキッチンに向かう。

 途中、積み重なった洗濯物に躓く。


「ぐぬぬ」


 恨みを込めて蹴っ飛ばしたあと、きっちりと畳みなおしてから、備え付けの棚の奥にある袋を覗き込む。


「……そうでした、切らしてたんでした。ああ、わたしのコムギン……」


 ここで説明しておくと、翔子の主食は小麦粉である。

 無論、パンやパスタなどに加工されたものではない。たまにそれらも食べたりするが、基本的にはこねたものをそのまま食べる。

 最初は節約のために始めたものだが、いざ食べてみると意外とおいしく、すっかりハマってしまったのである。

 いまや自他共に認めるコムギニストであると、翔子は自負している。


 その小麦粉が、ない。

 と、なると。


「雨さえなければ、もうちょっと気分よくでかけるんですけどねー。まぁ、嘆いていてもおなかは膨れませんし、ちゃっちゃと行ってきますかね」


 傘と財布を手に、翔子は雨の中へと駆け出した。









「いやー、ギリギリでした。まさか最後のひとつだとは……、やはりコムギンは人気ですね」


 首尾よく小麦粉を手に入れ、ついでとばかりに調味料なども買い足した翔子は、上機嫌で帰り道を歩いていた。

 あまりの空腹具合に、思わず着替えもせずに出てきてしまったが、そもそも外出から帰ってきてそのままの格好だったので、結果的には問題なかった。

 さすがに、帰ったらお風呂ですね、と考え、


「……およ?」


 雨に濡れたアスファルトの匂いを、甘やかな香りが包み込んだ。

 透きとおった白さと、どこか気品漂う、睡蓮の香り。


 ちらりと追った視線が、長い黒髪のたなびきをとらえる。

 一瞬、翔子の周囲から雨音が消えた。

 それほどまでに存在を放つ美少女が、そこにいた。翔子の目には、もはやそうとしか映らなかった。


 しなやかに伸びる細長い脚、艶やかな光沢が彩る長く綺麗な黒髪、広げた片手で全部隠れてしまいそうなほど小さな顔に凛とした瞳。

 胸だけは見事すぎるほどに平面だったが、それすらも彼女のまとう雰囲気にささやかな魅力をそえている。


 見知らぬはずなのに、どこか見覚えのあるその姿。

 呆ける翔子に一瞥だけを残し、少女は今にもすれ違おうと歩を進めている。


 翔子は思う。

 この出会いは偶然か?

 ……否。


 美少女を見かけておいて声をかけないのは、翔子的に万死に値するのだ。


「――あ、」


 話す内容を決める前に、するすると口が動いた。

 そうだ、思い出した。彼女は〝雨亡霊〟を追ったときの――、


「あなたはこの間の親切な美人さんじゃないですか! いやー、運命って信じますか?」

「興味ないわ」


 にべもない切り捨てにもめげない。

 この程度で退いていては、女の子大好きクラブ会長の名が廃るのだ。無論のこと、自称である。


「おっと、これは失礼しました。以前にもちらっと話したことがあるのですけど、覚えてますか? わたし、識原翔子と申します。可憐なあなたの素敵なお名前をお聞かせ願えますか?」


 少女の瞳が、ああ、あのときの、という風に動き、次いで露骨になんだこいつ、といった目を向けてくる。

 が、もちろん翔子は止まらない。きらきらとした瞳でじぃっ、と見つめ返すこと一分。


「……ユウ」


 やがて根負けした少女は、いくらか迷うように視線を散らしたあと、ため息まじりにそうつぶやいた。


「ふむ、なるほど……では、ゆったんとお呼びしますね」

「…………勝手にして頂戴」


 完全に諦めたのか、彼女はわずかに肩を落とした。胸元の赤いリボンがふるふると揺れる。

 それを肯定と受け取り、翔子は満面のうふふで近付く。


「まだ、なにか?」

「じゃあ、ゆったんのスリーサイズとか訊いてもいいですか?」

「……つきあってられないわ」


 翔子の問いかけに、彼女は冷めた表情で答えると、長い髪をひるがえしてさっさと歩き去ってしまう。

 翔子は大袈裟に肩をすくめ、ちらりと舌を出した。

 それから、わざととぼけたような声で呼びかけてみる。


「そんなにむすっとしてたら、せっかくの美人さんがもったいないですよー?」


 無表情な背中から、答えは返ってこなかった。





 ユウと名乗った少女と別れてから、ぼんやりと歩くこと数分。

 いつの間にか雨もやみ、いい加減右手が疲れてきたので、傘はさしていない。右手の中でぶらぶらと揺れていた。

 湿ったアスファルトを見下ろしながら、夜の中につぶやきを溶かす。


「……むーん、手ごわいですねぇ」


 やっていることがやっていることなので、冷たく接されることには慣れている。

 拒否されるのはもちろん悲しい。悲しいが、それを乗り越えてこそ、だ。


 その先に、夢がある。

 彼女が目指すのは、美少女の、美少女による、美少女のための楽園。


「リボンからして、一年生ですよね。何組かは知りませんが、わたしの目にとまった以上、逃げられませ――ん?」


 と、そこで思い至る。

 さっきは予想外の美少女との遭遇に舞い上がっていて、まったく気付かなかった。

 今、冷静になってから考えると、やはりおかしい。


 そうだ。

 そもそも。



 学校中の女の子の顔と名前を記憶している翔子にとって、秦峰(はたみね)の制服を着ているのに、見知らぬ美少女などありえないのだ。



 じゃあ、ユウと名乗った彼女は、誰だ?


「……もしや、あややが言っていたのは……」


 はっ、と脳裏にひらめきが走り、


 そして。


 首すじに冷たいものを押し付けられた、と認識した瞬間。


「え、あ……?」


 比喩でなく、体全体に電流が走った。

 なすすべもなく、自分の体が傾いでいくのが、どこか遠くの出来事のように感じられる。

 許される思考は数秒。


 ――あれ、いたるんじゃないですか……でも、その格好は――……、



 そう思ったのを最後に、翔子の意識は抗えぬ闇の底に沈んでいった。


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