(3)
◆翔子
だから――、
*
土曜日。
帰宅するなり、夜まで思う存分ごろごろしていた翔子だったが、やがてそれにも限界がくる。
「……おなか、すきましたねぇ」
ずれた眼鏡の位置を直しながら、はふぅとため息。
思い返せば、朝方外出する前に軽く前日の夕食の残りをつまんだ程度で、それ以来なにも口にしていなかった。自堕落ここに極まれり、である。
ここが実家ならば、寝っ転がっていても勝手に食糧が供給されるのだが。
あいにくと、親元を離れて絶賛一人暮らし中の翔子である。そんな展開はなかった。
よろよろと立ち上がり、玄関脇の小さなキッチンに向かう。
途中、積み重なった洗濯物に躓く。
「ぐぬぬ」
恨みを込めて蹴っ飛ばしたあと、きっちりと畳みなおしてから、備え付けの棚の奥にある袋を覗き込む。
「……そうでした、切らしてたんでした。ああ、わたしのコムギン……」
ここで説明しておくと、翔子の主食は小麦粉である。
無論、パンやパスタなどに加工されたものではない。たまにそれらも食べたりするが、基本的にはこねたものをそのまま食べる。
最初は節約のために始めたものだが、いざ食べてみると意外とおいしく、すっかりハマってしまったのである。
いまや自他共に認めるコムギニストであると、翔子は自負している。
その小麦粉が、ない。
と、なると。
「雨さえなければ、もうちょっと気分よくでかけるんですけどねー。まぁ、嘆いていてもおなかは膨れませんし、ちゃっちゃと行ってきますかね」
傘と財布を手に、翔子は雨の中へと駆け出した。
「いやー、ギリギリでした。まさか最後のひとつだとは……、やはりコムギンは人気ですね」
首尾よく小麦粉を手に入れ、ついでとばかりに調味料なども買い足した翔子は、上機嫌で帰り道を歩いていた。
あまりの空腹具合に、思わず着替えもせずに出てきてしまったが、そもそも外出から帰ってきてそのままの格好だったので、結果的には問題なかった。
さすがに、帰ったらお風呂ですね、と考え、
「……およ?」
雨に濡れたアスファルトの匂いを、甘やかな香りが包み込んだ。
透きとおった白さと、どこか気品漂う、睡蓮の香り。
ちらりと追った視線が、長い黒髪のたなびきをとらえる。
一瞬、翔子の周囲から雨音が消えた。
それほどまでに存在を放つ美少女が、そこにいた。翔子の目には、もはやそうとしか映らなかった。
しなやかに伸びる細長い脚、艶やかな光沢が彩る長く綺麗な黒髪、広げた片手で全部隠れてしまいそうなほど小さな顔に凛とした瞳。
胸だけは見事すぎるほどに平面だったが、それすらも彼女のまとう雰囲気にささやかな魅力をそえている。
見知らぬはずなのに、どこか見覚えのあるその姿。
呆ける翔子に一瞥だけを残し、少女は今にもすれ違おうと歩を進めている。
翔子は思う。
この出会いは偶然か?
……否。
美少女を見かけておいて声をかけないのは、翔子的に万死に値するのだ。
「――あ、」
話す内容を決める前に、するすると口が動いた。
そうだ、思い出した。彼女は〝雨亡霊〟を追ったときの――、
「あなたはこの間の親切な美人さんじゃないですか! いやー、運命って信じますか?」
「興味ないわ」
にべもない切り捨てにもめげない。
この程度で退いていては、女の子大好きクラブ会長の名が廃るのだ。無論のこと、自称である。
「おっと、これは失礼しました。以前にもちらっと話したことがあるのですけど、覚えてますか? わたし、識原翔子と申します。可憐なあなたの素敵なお名前をお聞かせ願えますか?」
少女の瞳が、ああ、あのときの、という風に動き、次いで露骨になんだこいつ、といった目を向けてくる。
が、もちろん翔子は止まらない。きらきらとした瞳でじぃっ、と見つめ返すこと一分。
「……ユウ」
やがて根負けした少女は、いくらか迷うように視線を散らしたあと、ため息まじりにそうつぶやいた。
「ふむ、なるほど……では、ゆったんとお呼びしますね」
「…………勝手にして頂戴」
完全に諦めたのか、彼女はわずかに肩を落とした。胸元の赤いリボンがふるふると揺れる。
それを肯定と受け取り、翔子は満面のうふふで近付く。
「まだ、なにか?」
「じゃあ、ゆったんのスリーサイズとか訊いてもいいですか?」
「……つきあってられないわ」
翔子の問いかけに、彼女は冷めた表情で答えると、長い髪をひるがえしてさっさと歩き去ってしまう。
翔子は大袈裟に肩をすくめ、ちらりと舌を出した。
それから、わざととぼけたような声で呼びかけてみる。
「そんなにむすっとしてたら、せっかくの美人さんがもったいないですよー?」
無表情な背中から、答えは返ってこなかった。
*
ユウと名乗った少女と別れてから、ぼんやりと歩くこと数分。
いつの間にか雨もやみ、いい加減右手が疲れてきたので、傘はさしていない。右手の中でぶらぶらと揺れていた。
湿ったアスファルトを見下ろしながら、夜の中につぶやきを溶かす。
「……むーん、手ごわいですねぇ」
やっていることがやっていることなので、冷たく接されることには慣れている。
拒否されるのはもちろん悲しい。悲しいが、それを乗り越えてこそ、だ。
その先に、夢がある。
彼女が目指すのは、美少女の、美少女による、美少女のための楽園。
「リボンからして、一年生ですよね。何組かは知りませんが、わたしの目にとまった以上、逃げられませ――ん?」
と、そこで思い至る。
さっきは予想外の美少女との遭遇に舞い上がっていて、まったく気付かなかった。
今、冷静になってから考えると、やはりおかしい。
そうだ。
そもそも。
学校中の女の子の顔と名前を記憶している翔子にとって、秦峰の制服を着ているのに、見知らぬ美少女などありえないのだ。
じゃあ、ユウと名乗った彼女は、誰だ?
「……もしや、あややが言っていたのは……」
はっ、と脳裏にひらめきが走り、
そして。
首すじに冷たいものを押し付けられた、と認識した瞬間。
「え、あ……?」
比喩でなく、体全体に電流が走った。
なすすべもなく、自分の体が傾いでいくのが、どこか遠くの出来事のように感じられる。
許される思考は数秒。
――あれ、いたるんじゃないですか……でも、その格好は――……、
そう思ったのを最後に、翔子の意識は抗えぬ闇の底に沈んでいった。