(2)
◆マリカ
だから――、
*
土曜日。
しとしと小雨の降るなか、マリカはるんるん気分で道を歩いていた。
朝からこんな調子で降り続けていた雨だが、午後九時を回る今現在となって、ようやくやむ兆しをみせている。
フードつきの黒ローブを選んでいたので、傘は持っていない。
そんなものよりも大事なものが、右手に持つ鞄に詰まっている。
「ふむ、あそこがよろしいでしょうか」
両脇に家々が立ち並ぶ道のなか、ぽっかりと口を開けている空間。
入り口横の錆びたフェンスには、『みどり公園』と書かれたプレートがかかっていた。
あまりにも普通すぎる名称に若干がっかりしながらも、すぐに気を取り直して中に入る。
跳ねるような足取りで進んでみると、まず目に入ったのがブランコ。そのほかにはペンキのとれかかったタイヤがいくつかと、境目がわからないほどにぶちまけられた砂場。それだけだ。
いかにも寂しげな、人気のない公園。
だが、それでこそマリカには都合がよかった。
なんといっても、これからやろうとしていることは、禁忌の術。
甘い甘い魅惑の罪なのだから。
「ん。……これで、魔方陣は完成、と。それにしても、暑いですわー……」
汗と雨に濡れた額を拭い、一息つく。
六月の夜とはいえ、湿度が高いとそれなりに暑い。
ましてや、ゆったりとしたローブなんかを着ていれば言うに及ばずである。
「あとは……仕上げですわね」
マリカは本に書かれている通りに、用意していた針で指を刺す。
ためらいも、痛みもあまりなかった。常にはない高揚で感覚が麻痺しているのかもしれない。
針を抜き、刺した箇所を見つめる。
しばらくしてぷくっと膨れあがってきた紅い玉を、描かれた陣の中心に垂らす。
一滴、二滴、ぽたり、ぽたりと。
――ぞくり。
体の内側に手を這わされたような悪寒。一瞬、目の前が暗くなり、奇妙な脱力感に襲われる。
しかしそれも二度三度頭を振ったことですぐになくなった。
おそらく、コレが契約の成立した証なのだろう。
単に、長い間濡れた布を纏っていたせいで体が冷えた、という可能性もあったが、マリカ的にはそれは面白くない。そんな普通っぽいのはダメだ。何事も信じることだ。
「契約完了、でしょうか? ……わくわく」
気分が高揚しているのがわかる。少なくとも、それを口に出してしまう程度には。
真っ黒なローブを身に纏い、フードですっぽりと頭を覆って、雨降る夜の公園で地面をじっと見つめている。
そんなマリカの姿は、他人の目には不気味に映るのだろう。
今の彼女に話しかけるような人間がいれば、それもまた異端に違いない。
「ようやく見つけたぜ」
だから、そんな声が聞こえたとき、マリカは驚くのと同時にひどく喜んだ。
ついに悪魔が現れたのか、と。
ただ、その声が眼下の魔方陣ではなく、自身の背後からというのに意表をつかれたが。
「ようこそ。こんばんは、悪魔さん」
振り向いてにっこり言えば、
「……ほぉぅ、それは遠回しに喧嘩売ってんのか? いいぜ、買ってやる。お釣りの用意はいいか、マリカちゃんよ?」
そんな言葉と共に両手でほっぺを挟まれた。
「いひゃいへふは」
「あたしは心が痛いんだが?」
言葉とは裏腹に、その顔には嗜虐的な笑みが刻まれている。
召喚された悪魔が親友の顔をしていた……わけではない。
現れたのは、紛うことなく、黛鷹世その人であった。
解放された頬をさすりながら、マリカは目を丸くして親友を見た。
「どうして鷹世がここに? もしかして、わたくしの魔法陣に呼び出されて?」
「なわけあるか、この天然さんめ。あたしはアレだ。ほら、その……散歩。そう、散歩ってやつさ」
「こんな雨の中を、ですの?」
「ぐっ……」
こんなときだけ、とかなんとか聞こえたが、意味がよくわからなかったのでとりあえず首を傾げてみる。
「あー、あたしのことはいいだろ? それよりお前だ、マリカ」
「なにがですの?」
「お前がなにをやってたかは、だいたいわかる」
ちらり、と魔法陣に視線を落とし、鷹世は瞳からにやつきを消した。
表情としては間違いなく笑顔なのだが、妙な迫力があった。
まるで、そこに広がる紋様が仇であるかのように。
「おままごとはおしまいだ。良い子は家に帰っておねんねしな」
ぴくり。
自分の頬がひきつるのがわかった。
おままごと。
鷹世はそう評した。
マリカの生きがい。あえて大袈裟にいえば、人生そのものでもある、この不思議を。
「……それは、どういう意味ですの?」
「そのまんまさ。子供のお遊びはそこまでにしろってな。それとも」
はっ、と嘲笑うように、鷹世が肩をすくめる。
「そんなこともわからないほど――」
「取り消してくださる?」
「……あん?」
親友でも、許せないことはある。
親友だからこそ、許せないこともある。
先ほどまでの高揚が、怒りのような悔しさのような、悲しみのような寂しさのような、よくわからない感情に上書きされていく。
同時に、マリカは唇を弓なりにゆがませた。
召喚は失敗していなかった。
きっと、自分の中に渦巻くこのよくわからないものの正体が悪魔なのだろう。
ここ最近はずっと失敗続きだったが、ようやく成功したらしい。
そうだ、そうに違いない。やはり自分は、間違っていなかった。
「お遊びではありませんわ。わたくしは真剣に、本気で不思議を愛していますのよ? ですから、ええ。帰りませんわ」
「……ちっ、ミスったな。めんどいほうにいっちまったか」
鷹世がなにか言っている。しかし、それはもう耳に入らなかった。
いかなるときでも淑女たれ。
母の教えにしたがい、マリカは目の前の親友と出会った。
「ごきげんよう、鷹世。素敵な夜の出会いに感謝を」
苦虫を噛み潰したような親友の表情が、ひどく痛快に思える。
降り続いていた雨はついにやみ、雲間からは煌々とした満月が顔を覗かせていた。