水"だし"コーヒー〜コーヒーの神様への冒涜〜
夏の外回りというものは、人間に課された罰の中でも、かなり上位に入ると思う。
少なくとも、スーツを着た成人男性を午後二時のアスファルトに放流していい理由はない。照り返しは下から焼いてくるし、日差しは上から刺してくるし、ネクタイは首に巻く布ではなく、体力ゲージをじわじわ削る呪いの装備だった。
「よし。もう一件回ってから戻るか」
隣を歩く先輩が、そんなことを言った。
俺は思わず足を止めた。
「先輩」
「なんだ」
「その前に、命の水を補給させてください」
「コンビニで水買え」
「違うんです。水道インフラ的な水じゃなくて、文明的な命の水が必要なんです」
「面倒な言い方をするな。要するに冷たいもん飲みたいだけだろ」
「はい」
「最初からそう言え」
先輩は呆れた顔をしたが、額にはちゃんと汗が浮いていた。強がっているだけで、たぶん先輩も内心では冷房と氷に魂を売る準備ができている。
「近くに伯父がやってる喫茶店があるんです」
「伯父?」
「はい。コーヒーうまいです。あと冷房があります」
「最後が一番大事そうだな」
「現代文明への信仰は、冷房の前でこそ完成します」
「宗教にするな」
そう言いつつも、先輩は抵抗しなかった。俺たちは次の訪問先とは反対方向へ少しだけ曲がり、商店街の細い道へ入った。
駅前のチェーン店が並ぶ通りから一本外れると、急に時間の流れが遅くなる。シャッターの半分閉まった金物屋、店先に打ち水をした和菓子屋、古いひさしに色の抜けた看板。そんな中に、その喫茶店はあった。
木枠の扉に、少し曇ったガラス。看板には「珈琲 槙」とある。
「ここです」
「渋いな」
「伯父さんの趣味です。たぶん昭和からアップデートを拒否してます」
「店の説明としてはまあまあ失礼だぞ」
扉を開けると、カラン、とベルが鳴った。
外の熱気を背中に置き去りにして、冷房の効いた空気が肌に触れる。薄暗い照明、木のテーブル、カウンターの奥から漂うコーヒーの香り。常連らしいおじさんが新聞を広げていて、壁の時計だけがやけにゆっくり動いている。
「いらっしゃい」
カウンターの中で、白髪混じりの男が顔を上げた。
「おお、蓮じゃねえか。なんだ、今日はスーツなんか着て。七五三か?」
「お前、そんな今風の名前だったんだな」
先輩が妙なところに反応した。
「今さらですが、ほっといてください」
「ところで、成人男性の仕事着を七五三扱いしないでください」
「似たようなもんだろ。暑そうな顔してるし」
「暑いんです」
「見りゃわかる」
伯父は笑いながら、カウンター越しに水を出してくれた。先輩が俺と伯父を見比べる。
「本当に親戚の店だったのか」
「俺をなんだと思ってるんですか」
「暑さで幻覚を見るタイプ」
「信用が日射病で溶けてる」
伯父が先輩に目を向けた。
「こいつの上司です?」
「上司というほど偉くはないです。先輩です」
「蓮がお世話になってます」
「いえ、こちらこそ。主にツッコミの修行をさせてもらってます」
「なんですか、その業務外研修」
席に着くと、俺はメニューを見る前に言った。
「伯父さん。キンキンに冷えてて、苦くて、おいしくて、俺の脳を再起動してくれるやつください」
「注文がふわっとしてるな。水出しのアイスでいいか。今朝のがちょうど飲み頃だ」
「それでお願いします」
伯父が先輩を見る。
「そちらも同じで?」
「お願いします。今は冷たいもの以外、体が受け付けなさそうなので」
「先輩が素直に暑さへ屈した」
「屈したんじゃない。現実を正しく評価しただけだ」
「敗北宣言を業務用語っぽく言わないでください」
伯父は慣れた手つきで準備を始めた。グラスに氷が入る。カラン、と涼しい音がした。そこへ、深い茶色のコーヒーが静かに注がれていく。
見ただけで体温が二度くらい下がる気がした。
「ほら」
「いただきます」
一口飲む。
冷たい液体が喉を通った瞬間、頭の中で回り続けていた熱暴走ファンが、ようやく静かになった。香りは穏やかで、苦味は角がない。後味はすっきりしていて、さっきまで脳内で暴れていた太陽が、そっとログアウトしていく。
「うまい……」
「語彙が戻ってきたな」
「人間性も戻ってきました」
「そこまで失ってたのか」
先輩もグラスを傾け、少しだけ目を細めた。
「確かにうまいですね。水出しって、もっと薄いもんだと思ってました」
「時間をかけて出すからな。熱で無理やり引っ張らない分、角が立ちにくい」
伯父は得意げでもなく、当然のように頷いた。その顔だけ見れば、ちゃんとした喫茶店のマスターだった。
そこまでは、本当に普通だった。
俺が余計なことを言うまでは。
「そういえば」
「なんだ」
「“水出し”の“だし”ってなんなんですかね」
先輩のグラスが、わずかに止まった。
「水で出すから水出しだろ」
「じゃあ、鰹だしコーヒーとか昆布だしコーヒーがあってもよくないですか」
「よくない。二度と言うな」
「でも、コーヒーも抽出ですし、出汁も抽出じゃないですか。ジャンル的には親戚みたいな」
「理屈で変な親戚を増やすな」
俺としては、ただの軽口のつもりだった。
だが、カウンターの奥で、伯父の動きが止まった。
「なるほど……やってみるか」
先輩がゆっくり伯父を見た。
「マスター。今のは拾わなくていいやつです」
「鰹だしと昆布だしならある。帆立スープもあるぞ」
「種類を説明しなくていいです」
「伯父さん、冗談ですからね。今のは、夏にやられた社会人の一時的な言語バグです」
「バグから新メニューが生まれることもある」
「ない方向でお願いします」
伯父は戸棚から小さな瓶を取り出した。ラベルには、いかにも家庭的な顆粒だしの文字。
先輩が俺を見た。
「おい、小田」
「俺は止めています」
「火をつけたのはお前だ」
「たしかに発火点は俺ですが、延焼判断は伯父さんです」
「責任分界点みたいに言うな」
伯父は真剣な顔で小皿に顆粒だしを出し始めた。
「本当は削り節から取りたいが、試作だからな」
「そこに職人魂を出さないでください」
「まずは香りを邪魔しない程度に……いや、ここは少し勝負するか」
「勝負しないでください。誰も対戦カードを組んでないです」
そのとき、先輩が低い声で言った。
「間違いない」
「何がですか」
「この人は明らかに小田の一族だ」
「血筋で判断するのやめてもらえます?」
「お前の発想をそのまま実行力に振ったらこうなるんだろ」
「嫌な進化系みたいに言わないでください」
伯父は戸棚から、さらに二つ瓶を取り出した。
ひとつは昆布だし。
もうひとつは、帆立スープ。
「増えた」
「増やさないでください」
「比較対象は必要だろ」
「実験計画を立てるな」
伯父は少量のお湯でそれぞれを溶かし、そこへ濃いめに淹れたコーヒーを合わせた。手順だけは妙に丁寧だった。だから余計に怖かった。
カップの中の液体は、見た目だけならどれもほぼコーヒーだった。ただ、よく見ると少しずつ濁り方が違う。黒いはずなのに、どれも別方向の台所の記憶を背負っている。
「よし」
「よしじゃないです」
「和風出汁ブレンド一号、二号、三号、完成だ」
「もう生まれてる。ナンバリングするな」
伯父は小さなカップを九つ並べた。
なぜ三人分あるのか。
もう聞かなくても負けている気がした。
「まずは昆布だしからだ」
先輩が恐る恐る顔を近づける。
「……コーヒーの香りが、どこかへ転勤してるな」
「転勤?」
俺も一口飲んでみる。
最初に来るのは、確かにコーヒーのような何かだった。けれど、すぐ後ろから謎のうま味がじわっと出てくる。昆布です、と名乗るほど前には出ないくせに、黙って背景を全部塗り替えている。
「……和風コーヒーです、と強めに言われたら」
「言われたら?」
「アッハイ、って頷くかもしれません」
「納得はしてない返事だな」
先輩も一口だけ飲み、嫌そうに眉を寄せた。
「否定しきれないのが一番嫌だ。コーヒーらしさは行方不明なのに、うま味だけが妙に残る」
「一号、可能性ありだな」
「可能性って言葉をそんな場所に置かないでください」
伯父は真面目に頷いて、二つ目のカップを示した。
「次は帆立だ」
「急に海の方向が変わった」
香りは、たしかに少しだけ帆立だった。遠くの港で誰かが小さく手を振っているくらいの帆立感だ。
だが、飲んでみると味が薄い。
コーヒーの色をしたお湯、と言われたら少し怒る。でも、怒ったあとに「まあ、近いです」と認めるくらいには薄い。後味にコーヒーの苦味と、理由のわからない塩味だけが残った。
「これは……誰が勝ってるんですか」
「誰も勝ってない。競技が成立してない」
「二号、保留だな」
「保留じゃなくて終了にしてください」
伯父は最後のカップを静かに押し出した。
「本命だ」
「本命とか言い出したぞ」
鰹だしだった。
香りを嗅いだ瞬間、先輩が顔を上げた。
「……なんか、ラーメン屋の前を通ったときの記憶がフラッシュバックするんだが」
「そこまでですか?」
俺も嗅いでみる。
最初に来るのは、確かにコーヒーのような香りだった。だが、その奥から、鰹が走ってきた。歩いてくるとか、手を振っているとか、そういう穏やかな話ではない。全力疾走で店内に突っ込んできて、コーヒーの看板を外し、勝手に暖簾を掛け替えている。
「鰹がいますね」
「いるな」
「しかも、かなり権限が強いタイプの鰹です」
「香味の管理者権限を持たせるな」
それでも、ここまで来て飲まないわけにもいかない。俺はカップを持ち上げ、覚悟を決めて一口含んだ。
最初に来たのは苦味だった。
ただし、コーヒーの豊かな苦味というより、何かが焦げた味噌汁の底から抽出されたような苦味だった。次に鰹。さらに鰹。念押しのように鰹。コーヒーの香りや酸味は、遠い世界に旅立っていて、苦味だけが律儀に帰ってきている。
俺はカップを置いた。
「……苦い味噌汁だ」
沈黙が落ちた。
先輩も一口飲んだ。そして、ものすごく悔しそうな顔をした。
「お前の説明が一番的確なのが腹立つけど、否定できねえ」
「やっぱり苦い味噌汁ですよね」
「鰹の上書き性能が強すぎる。コーヒーの香味を全部殴り倒したあと、苦味だけを現場に残していった感じだ」
「事件現場みたいに言わないでください」
「事件だろ、これは」
伯父も黙って一口飲んだ。
しばらく、店内には冷房の音だけが流れた。
新聞を読んでいた常連のおじさんが、紙面から目を上げずに言った。
「味噌汁なら朝だけにしときな」
「常連さんからも判定が出ましたよ」
伯父は腕を組んだ。
「……コーヒーが負けたな」
「勝ち負けで語らないでください。その試合、組んだ時点で間違ってます」
「出汁を半分、コーヒーを倍にすれば、まだ戦えるかもしれん」
俺と先輩の声が重なった。
「もう戦わせないでください」
伯父は少し残念そうにしたが、カウンターの下から小さなノートを取り出した。
「試作一号から三号、と」
「メモしないでください」
「記録は大事だ」
「残すべき歴史と、闇に葬るべき事故があります」
先輩が立ち上がった。
「戻るぞ、小田。口の中は一生このままな気がするが、現実は待ってくれねえ」
「はい。今日の商談メモの端に“苦い味噌汁”って書かないように気をつけます」
「書いたら説明が面倒すぎるからな」
会計を済ませると、伯父は何事もなかったように言った。
「また来い」
「普通の水出しを飲みに来ます」
「次は改良版を」
「普通の水出しを飲みに来ます」
念を押してから、俺たちは店を出た。
外の熱気が、すぐに全身へまとわりついてくる。さっきまでなら絶望していたはずの暑さだったが、今は少しだけマシに感じた。
たぶん、口の中でまだ出汁が戦っているせいだ。
こうして、水出しコーヒーから始まった言葉遊びは、真夏の午後にひっそりと一件の戦績を刻んだ。
和風出汁、完勝。
コーヒー、完敗。
なお店を出る直前、伯父の試作ノートに「四号」の文字が見えた気がしたが、俺は社会人として、見なかったことにした。
ネタのために実際に淹れて飲みました。二度とやりません。




