第1話 流星見に来ただけなんだけど
新作始めました(2作目です)。
週1くらいで更新しながら、年内完結を目標に進めていきます。
最後までしっかり描くので、安心して読んでいただければと思います。
ゆるく楽しんでもらえたら嬉しいです。
午後の教室には、春のぬるい光が斜めに差し込んでいた。窓の外では体育の授業の掛け声が遠くに響いてた。チョークの粉っぽい匂いと、誰かが昼前に開けたままにした柑橘系のジュースの甘い匂いが、なんとなく混ざっている。
私は頬杖をつきながら、黒板に並ぶ数式を目で追うふりだけしていた。先生の声は聞こえているのに頭に入らなくて、ノートの端に意味のない星マークをいくつも描いてしまう。何か面白いことないかな、とぼんやり考えたところで、なんとなくあたりを見渡した。高校に入学したときから、いつも一緒の三人の姿が目に入った。
天文部の星野奏は、授業中でも姿勢が崩れない。黒板とノートを交互に見ながら、いかにも正しそうな字で式を書き写している。ああいうのを見ると同じ人類かなって気分になる。
その少し右、窓際寄りには一条彩の背中がぴんと伸びていて、制服の着こなしまで無駄がない。テニス部主将らしく、座っているだけなのに隙がなかった。
さらに後ろでは、水無瀬悠が教科書の陰でたぶん別のものを見ている。新聞部ってことになっているけど、学内の裏SNSの運営が本業だって、みんな知ってる。
四人とも同じ場所にいるのに、過ごし方が全然違うのがなんだか可笑しくて、私は小さく息を漏らした。
「日向、笑うところじゃないぞ」
先生に急に名前を呼ばれて、私は肩をびくっと跳ねさせた。
「え、あ、はい」
「ではこの式の意味を説明してみろ」
黒板を見る。さっきまでただの模様だったものが、急に意味を求められても困る。
「えっと……エネルギー……ですかね」
「何エネルギー、ってところを今まで説明していたんだが」
教室のあちこちから笑いが漏れた。しまった、と思うより先に、自分でもちょっと面白くなって笑ってしまう。
「日向、お前はもっと授業を聞け」
「善処します」
「しないやつの返事だな」
また笑いが起こる。私は肩をすくめて席に座り直した。退屈な授業に怒られるのは嫌だけど、こうして空気が少し動くならまあいいか、とも思う。けれど笑いが引いたあと、また教室はいつものリズムに戻っていく。先生の声、紙をめくる音、シャーペンのかすかな擦れる音。昨日と同じで、たぶん明日も同じ。そんな日常の平らさが、今日は妙に息苦しかった。
◇
昼休みの中庭は、春の風が少しだけ暖かくて、ベンチに座るとちょうどいい気温だった。私たち四人はいつもの場所に集まって、それぞれ買ってきたものを広げる。私はコンビニの焼きそばパン、星野奏は小さめのおにぎりと牛乳、一条彩は手作りっぽいお弁当、水無瀬悠は見た目だけ洒落たサンドイッチ。並べると性格が出すぎていて笑えてくる。
「ひなひな、そのパンで放課後までもつの」
彩がお弁当箱のふたを開けながら言う。
「もつよ。たぶん」
「落ち着きなく動き回るのに、どこからそんなエネルギーがわいてくるのかしら」
彩が呆れた顔を向けてくる。その言い方がいかにも一条彩で、私はつい笑った。強豪テニス部の主将ってだけでも圧があるのに、本人の喋り方がますます圧を足してくる。姉御肌でいつも周りに気を配っているから、結局みんなこの人の近くにいる。
「たしかに。エネルギー保存則に反してるね」
「まあ元気ならいいんじゃない、知らんけど」
奏と悠が茶化してくる。他愛のない会話をしながら昼休みを過ごすのが、私たちの日常だった。
星野奏がスマホを見ながら、少しだけ声の調子を変えた。
「今夜、流星群の観測条件がかなりいい」
「きた」
私はすぐに食いついた。
「それそれ。今週のメインイベント」
「授業中からずっとそれ考えてたでしょ」
悠が笑う。
「当たり前でしょ。流星群だよ。しかも今日、かなり見えるんでしょ」
「月齢と天候から見て条件は悪くない。この流星群は◯◯彗星の軌道上に残った微粒子が、地球の大気に突入して発光している現象だけど——」
「長い」
悠がぴしゃりと切った。そして
「要するに、見頃ってことだよね」
私が身を乗り出すと、星野奏は少し困った顔をしてから頷いた。
「うん、要するにそう」
「じゃあ学校の屋上で見ようよ」
私が言った瞬間、一条彩の眉が上がる。
「さらっと犯罪提案するわね。あなた一応生徒会のメンバーでしょ」
「犯罪ってほどじゃないでしょ。ちょっと忍び込むだけじゃん」
「それを世間では普通にアウトって言う」
「でも屋上なら開けてるし、街明かりもまだマシだし、絶対きれいだよ」
私が畳みかけると、星野奏は少し考えるように視線を落としたあと、理屈の人らしく条件面から援護してきた。
「観測場所としてはたしかに妥当ではあるね。住宅街の公園より街灯が少ないし、遮蔽物もないから視界も広い」
「星野くん、お前まで乗るな」
「提案の合理性を認めただけだよ」
「優しい顔して火に油を注ぐタイプだね、奏は」
悠がにやっとする。
「だって面白そうじゃん」
私はパンを振って宣言した。
「今日の夜、集合ね」
彩はため息をついたけれど、そのため息は半分あきらめ、半分了承の音だった。
「放っておくとどこまでも暴走するのが『ひなひな』なのよね。」
「つまり来てくれるんだ」
「監督責任よ」
「やった」
「やった、じゃない」
悠が壁にもたれながら、楽しそうに目を細める。
「夜の学校、流星群、校則違反、四人組。記事になりそう」
「晒したらいたら殺す」
一条彩が即答し、水無瀬悠が肩をすくめる。
「冗談だよ、彩ちゃん」
そんなふうにやりとりしているだけなのに、もうワクワクがとまらなかった。それをおかずにして、退屈な午後の授業を乗り切った。
◇
完全に暗くなった校門前には、夜特有の空気感が漂っていた。昼間の賑やかさからのギャップのせいか、なんだか物悲しい。学校は丘の上に立っていて、住宅街から離れているので、街灯は少ない。校舎の窓は真っ暗で、非常灯の緑の明かりが少しもれていた。
私は先に来ていた三人に向かって小走りで近づいた。胸が弾んでいるのは走ったせいだけじゃない。
「遅い」
彩が腕を組んだまま言う。
「ごめんごめん、思ったより親のチェックが厳しくて」
「日頃の行いが悪いから、厳しいんじゃないの」
「それはそうかも……」
私は頬をかきながら、口ごもる。
四人そろったところで、奏が校門の内側を見ながら静かに言った。
「侵入自体は短時間で済ませよう。観測だけして、変なことはしない」
「『侵入』って、ちょっと物騒だけどセクシーだよね」
悠がさらっと妙なことを言い出す。
「理屈としてはそうかもしれない」
「悠、たまに真顔でおかしいこと言うよね」
私は笑いながら言って、門の脇の低い部分に手をかけた。ひんやりした鉄の感触が手のひらに伝わってちょっと冷たかったけど、勢いをつけて乗り越えた。校門の内側に入るだけで、景色は同じなのに急に冒険っぽく見えた。胸が高鳴る。悪いことをしている後ろめたさと、秘密基地に入るみたいな楽しさが混ざって、変な気分だった。
廊下は暗く、足音だけが響く。知っているはずの場所なのに、別の建物みたいだった。
「びびってる?」
彩が最後尾で言う。
「びびってないし。わくわくしてるだけだし」
「それを世間では強がりと言う」
「彩ちゃん、ひなひなの扱いが完全に小学生」
悠がくすっと笑う。
「実際そんなもんでしょ」
「ひどい」
奏だけは一人静かに歩みを進める。屋上のドアの前で足を止め、鍵がかかっていないことを確認してからゆっくり押し開けた。
「開いた」
その一言だけで、急に現実感が増す。夜風が隙間から吹き込んできて、少し冷たかった。
屋上に出た瞬間、空気が一気に広がった。コンクリートに残った昼の熱はもうほとんど消えていて、代わりに春の夜の薄い冷たさが頬を撫でる。フェンスの向こうに広がる空は、思っていたよりずっと広くて深かった。私は思わず足を止める。夜ってこんなに大きかったっけ、と思う。学校という見慣れた場所にいるのに、頭上の景色だけが急に別世界みたいだった。
「わあ……」
自然に声が漏れた。
奏がすでに空の方角を確かめている。さすが天文部、こういうときの目つきが違う。彼は特別背が高いわけじゃないのに、空を見上げる姿だけは妙に絵になる。
「放射点はあのあたり。もう少し待て目が慣れてくれば、もっと見やすくなるはず」
「放射点って、流れ星が出てくる元みたいに見える場所?」
「正確には見かけ上そう見える点だね。実際には、同じ方向から地球に飛び込んできた宇宙の塵が、遠近法によってその一点から広がって見えるんだ」
「相変わらずちゃんとしてるなあ」
私が笑うと、奏も少しだけ笑った。
彩はフェンスの近くで腕を組み、奏が示した方向をじっと見つめている。いかにも一条彩だ。風で揺れる髪を押さえる仕草まで無駄がない。
「でも流れ始めるのは放射点からとはかぎらないから、全体をボヤっとみたほうが見つけられるかも」
「それなら放射点の説明って、いる?」
水無瀬悠はスマホの画面を落としてポケットにしまい、代わりに空を見た。彼はいつも一歩引いているけど、結構いろんなことに興味を持っている。
最初の一筋が流れたのは、その直後だった。空の端を、白く細い線がすっと横切る。一瞬で消えたのに、目の奥にはしっかり残る。
「あっ、今の見た!?」
私はほとんど叫んでいた。
「見た」
彩が短く答える。
「うん、今のは明るかったね」
奏の声も少しだけ弾んでいた。
次の一筋、その次の一筋。空のあちこちに光が走るたび、私は子どもみたいに声を上げてしまう。こんなの、テレビやスマホの画面で見るのとは全然違う。冷たい風も、街のざわめきも、隣にいる三人の気配も全部まとめて、その瞬間の景色に溶けていく。
「わー、すごい」
口から勝手に言葉がこぼれた。
本当にすごかった。流れるたびに胸の奥がふわっと持ち上がる。毎日同じだと思っていた空が、今だけ別の表情を見せてくれているみたいで、私はただ嬉しかった。こんなふうに何かに見とれるの、いつぶりだろう。
しばらくは四人とも言葉少なめに空を見ていた。風が吹くたび制服の裾が揺れる。どこかから金属が鳴るような小さな音が聞こえる。私はフェンスに軽く手をかけて、流星を追いながら願い事って本当に三回言える人いるのかな、なんてくだらないことを考えた。けれど、見上げ続けるうちに、少しずつ何かがおかしい気がしてきた。
最初は、流れる方向だった。次に、本数だった。綺麗だと思っていた光の線が、だんだん同じあたりから放たれているように見える。しかも一本二本じゃない。増えている。明らかに増えている。
「ねえ」
私は空を指さしたまま言った。
「なんか変じゃない」
「何が」
彩がすぐに反応する。
「流れ星の出てくる場所、なんか固まってない?」
星野奏が目を細めた。彼の表情から楽しさが消え、代わりに観察者の顔になる。
「……たしかに、放射点に集中しすぎてる」
「普通はもっと自然に散らばって見えるものじゃないの」
彩が訝しげに言う。
「見え方の問題にしては偏りが強すぎる」
奏の声が低くなる。何かを考えているときの声だ。
もう一度空を見る。やっぱりおかしい。一本流れて、余韻が消える前に次が来る。間隔がどんどん短くなっている。視界の端にも、真上にも、光の筋が増えていく。さっきまでの感動はまだ残っているのに、その周りを薄い不安が覆いはじめていた。綺麗なのに、嫌な感じがする。もっと見たいのに、見ちゃいけない気もする。
「…なんかちょっと怖い…」
いつもは強気の彩がちょっと引いてる。
「コレ、予想通り?」
悠がつぶやくように問いかける。奏が答える。
「予想を遥かにこえて、観測史上最大級かも」
光の数はさらに増え、星の海を高速でワープする宇宙船にのっている気分だった。
「……すごい」
もう一度、同じ言葉が口から出た。けれど今度は感動だけじゃない。すごい、の中に怖いが混ざっている。何か大きなものを前にしたときの、人間が持つしかない感じ。意味はわからないのに、危ないと体が先に理解してしまう感覚だった。
空の一点が、急に明るくなった。流星の始まりが集まっているように見えたその場所が、にじむみたいに白く膨らむ。線だったものが点になり、点だったものが塊になっていく。呼吸が止まりそうになる。おかしい。こんなの、ありえない。奏が何か言いかけ、彩が私たちの前に出ようとし、悠が言葉を失っていた。その全部より先に、光が来た。
視界が白に塗りつぶされる。目を閉じても意味がないくらい、明るい。熱は感じないのに、全身の輪郭がほどけていくみたいだった。足元の感覚がなくなる。落ちているのか、持ち上がっているのかもわからない。風も、音も、重力さえも、急に信用できなくなる。
「なに、これ……っ」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに遠い。腕を伸ばすと、誰かの袖に触れた気がした。たぶん一条彩か、星野奏か、水無瀬悠か。誰でもよかった。そこに誰かいると確かめたかった。光の中では時間の流れも壊れていて、一瞬なのか何分なのかもわからない。ただ、胸の奥に怖さと、それでもまだ残っている好奇心が絡みついていた。終わるのかな、始まるのかな、と意味不明なことを考えたところで、意識が途切れた。
◇
最初に戻ってきたのは匂いだった。湿った土の匂いと、青い草をまとめて潰したみたいな濃い香り。次に頬に触れる風。最後に、背中に感じる柔らかい地面。私はゆっくり目を開けた。まぶしさはもうない。代わりに広がっていたのは、知らない空だった。
私は勢いよく体を起こした。制服に草が張りついて、手のひらには土の粒がつく。
「……え」
見えるもの全部が、知らない。どこまでも広がる草原、遠くの起伏、見たことのない形の木。学校の屋上も、フェンスも、街の灯りも、何一つない。
「なにこれ……」
夢だと思いたいのに、風が冷たくて、草が肌に触れて、体は現実だとうったえてる。
「ひなひな」
声がして振り向くと、少し離れたところで悠が起き上がっていた。制服は同じなのに、背景が違いすぎて合成写真みたいに見える。
「悠……」
「無事そうで何より」
「ここ、どこ」
「それを今から考えるところ」
その向こうには奏がいて、さらに彩も立ち上がって周囲を見ていた。彩はこういうときまで動揺を顔に出しすぎないからすごい。でも近くで見ると、さすがに表情がこわばってる。
「全員いる?」
彩がまず確認した。
「たぶん」
私は立ち上がろうとして足をもつれさせ、草を踏みしめてようやく姿勢を保つ。地面が本物すぎて、逆に怖い。
星野奏がしゃがみ込んで土を触り、空を見て、周囲を見渡した。こういうとき真っ先に観察を始めるのが本当に彼らしい。
「少なくとも∨Rではないらしい」
「それは見ればわかる」
一条彩が言う。
「うん、でも確認は大事だから」
奏は変に慌てず、淡々としていた。その落ち着きに少しだけ救われる。
「夢じゃ、ないよね」
手のひらをつねると普通に痛い。
悠が草をかきわけながら周囲を見て、
「建物も道路も送電線も見えない。人の手が入った感じが薄い」
「電波は」
彩が聞く。
「だめ、圏外」
「私も」
スマホを見せる。見慣れた画面に表示された無機質な圏外の文字が、心細く感じた。
星野奏が少しだけ息を吸ってから、言葉を選ぶように口を開く。
「さっきの光現象を考慮すると、何か…そう、超自然的な現象が起きたと考えるのが自然だと思う」
「自然じゃないでしょ」
彩のツッコミが鋭い。でも私も同感だった。自然ではない。けど、目の前の景色がその自然じゃなさを強制してくる。
「でも、他に説明つく?」
水無瀬悠が言う。
「大規模な錯覚、誘拐、実験施設、大掛かりなドッキリ企画、何でも候補はある。でもどれも現実味は薄い」
「じゃあ……」
私はその言葉を、冗談みたいに言ったはずだった。
「異世界?」
誰もすぐには笑わなかった。否定もされなかった。その数秒が、たぶん一番怖かった。冗談で済むはずの言葉が、地面に落ちずそのまま空気に残ってしまう。
「可能性としては、切り捨てられない」
奏が静かに言う。
「星野くん、やめてよ。…なんだか現実味が増すじゃない」
彩が小さく言う。
胸の中では不安が膨らんでいた。でも、それと一緒に、どうしようもなく別の感情もあった。こんな状況なのに、少しだけ胸が高鳴っている。見たことのない世界かもしれない。そんなの、普通はありえない。ありえないことが起きている。その事実が、怖いのに、好奇心を引っ張る。
「とにかく、整理しよう」
彩が仕切る声を出すと、空気が少し締まった。
「一、全員生きてる。二、ここがどこかは不明。三、周囲に人影なし。四、通信手段なし。五、勝手に動くな」
「最後だけ私向けじゃない?」
「自覚あるならよし」
「まあ必要な」
悠が小さく笑う。少しだけ、いつもの四人に戻る。それだけで私は息がしやすくなった。
草原は静かだった。風が吹くと一面の草が波みたいに揺れて、さらさらという音が耳に入る。遠くには低い丘のようなものがあり、その向こうがどうなっているのかは見えない。反対側は深い森になっていて、更にどうなっているかはわからない。鳥の声に似たものがたまに響くけれど、聞いたことのある種類ではない。
「空気は吸える」
悠が冗談めかして言う。
「そこ確認する段階なんだ」
「異世界なら重要でしょ」
「たしかに重要ではある」
奏が真顔で同意するから、私は思わず吹き出しそうになる。怖いのに、変に笑えてしまう。この三人といると、完全にパニックにはなりきれない。
私はしゃがんで草を触った。細くてしなやかで、でも葉の縁が少しだけ固い。指先に青臭い汁がつく。現実だ。見た目だけじゃなく、感触まである。
「ねえ、これ本当に戻れるのかな」
聞いてから、しまったと思った。誰にもわかるわけがない。
でも彩は即答した。
「戻る前提で動く」
その言葉は根拠より姿勢の話だったけれど、だからこそ強かった。私は少しだけ頷く。
星野奏が立ち上がり、視線を遠くへ向けた。
「もっと状況を把握したい。高い場所があれば——」
そのとき、深い森の方、下草の一角がざわりと揺れた。
風じゃない。今までの波打つ揺れ方と違う。何か生き物が中を動いたような音だった。背中に冷たいものが走る。
「……今の、聞いた?」
自然にささやき声になる。
彩が一瞬で前に出た。足の開き方が、完全に構えだ。
「皆、かたまって」
さっきまでの楽観ムードが、秒で消える。奇妙な鳥の声が聞こえなくなった。草むらの奥が、もう一度揺れる。ざ、ざ、と不規則な音。何かがこっちへ近づいてくる。息を止めた。心臓が痛いくらい鳴っている。
草の葉先がゆっくり割れ、その奥に暗い塊が見えた。獣みたいな輪郭なのに、どこか歪んでいる。足の数が一瞬わからない。毛皮の代わりに影をまとっているみたいで、輪郭が揺れて見える。顔らしいものが上がったとき、私はその目を見た。生き物の目というより、濁った光の穴みたいだった。
「何……あれ」
喉の奥から、かろうじて声が出る。
彩が不気味な生き物から目を離さず、囁きかける。
「なんか武器になるものない?」
「武器って言われても……!」
私の視線は地面をさまよう。石、草、手のひらくらいの枝。心もとないなんてものじゃない。
「どうやら本当に異世界みたいだな・・・・」
悠が、その不気味な生き物から目を離さずに呟く。胸の奥で何かが、かちりと音を立てて切り替わった気がした。これは夢じゃない。肝試しでも、非日常イベントでもない。知らない世界で、知らない生き物が、今こっちを見ている。
奏が低い声で言う。
「まだ攻撃意図があるかわからない。急な動きは避けた方がいい。目は見ないで」
「それって、熊対策じゃ……」
「目って、あれ?」
不気味な生き物は、草を踏み分けながらさらに一歩近づいた。空気がびりっと張る。逃げるべきか、立ち向かうべきか、そんな判断をする知識なんて私にはない。ただ、日常が終わったことだけは、嫌でもわかった。さっきまでの私は、退屈な授業にうんざりして、流星群に浮かれて、今の私は、名前も知らない草原で、名前も知らない怪物を前に立ち尽くしている。面白いこと、起きないかな、なんて思っていたくせに、いざ起きたら全然笑えない。怖い。足が震える。
草原の風が、また一度だけ強く吹いた。知らない匂いが鼻をかすめる。異形の影がさらに身を低くする。次に何が起きるのか、まだ何もわからない。何ひとつわからないまま、私たちの本当の最初の一歩だけが、そこで確かに始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。次回も週末更新予定です。




