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最強騎士団長は恋愛小説の締め切りで泣いている

作者: 江合 花果
掲載日:2026/03/23

 王国騎士団長ヴァルター・フォン・シュタルクという男を、国民はこう呼ぶ。


「剣神」と。


 身長は180を軽く超え、肩幅は扉二枚分かと疑うほどに広く、鍛え抜かれた筋肉は鎧の上からでも一目瞭然。切れ長の眼には鋭い光が宿り、すれ違った衛兵が思わず敬礼してしまうほどの威圧感。魔法においても剣術においても国内に敵なし。戦場では一騎で軍団を打ち砕き、交渉の場では一言で場を制する。


 まさしく王国最強。


 そのヴァルター・フォン・シュタルク公爵が現在、フリル付きのエプロン姿で万年筆を握り締め、執務室の床に膝をついていた。


「締め切りがぁぁぁぁぁ——!!」


 慟哭が城壁を揺らした。



 リーナ・ポーリは平民だった。正確には、王都の下町で仕立屋を営む父と薬草師の母を持つ、どこにでもいる十八歳の娘だった。


 ただひとつ普通でないことがあるとすれば、恋愛小説に対する情熱が、大陸のどの貴族令嬢にも引けを取らない、ということだろうか。


 特に彼女が崇拝しているのは「薔薇色の万年筆」という雑誌に連載中の、「緋色のフロスト伯爵と秘密の花嫁」という作品だった。著者名は「W・S」とだけ記されており、正体は謎に包まれている。だが文章の力強さと繊細さが奇跡的に共存したその文体は、読むたびにリーナの心臓を掴んで振り回した。


 そのリーナが、シュタルク公爵家の清掃員に採用されたのは、ひとえに生活のためだった。賃金は良く、食事つきで寮もある。募集の張り紙に「体力に自信のある方」と書いてあったのが少し引っかかったが、まあ大きな屋敷ならそんなものだろうと思っていた。


 就職初日。


 リーナは東棟三階の廊下を磨いていた。石畳は古くて傷だらけだが、丁寧に磨けば鈍い光を放つ。腰を入れてモップをかけながら、昨夜読んだ最新話を脳内で反芻していたそのとき——


 白い紙が一枚、頭上からひらりと舞い降りてきた。


(風? でもここ室内だけど)


 リーナは反射的に手を伸ばした。


 紙を広げて、目が止まった。


 書かれていたのは、文章だった。万年筆で書かれたと思しき、流麗で力強い筆跡。そして書き出しの数行を見た瞬間、リーナの全身に電流が走った。


「これって——」


 読んだことがある。いや、違う。読んだことがあるのではない。この文体を、この語り口を、リーナは知っている。年に一度の複刊誌を何度も読み返して、完全に暗記するほど愛し続けた、あの小説と——


「W・S先生……!?」


 声が裏返った。


 廊下に響いた彼女の叫びが収まらないうちに、背後から音もなく人影が現れた。


「お嬢さん」


 振り返ると、白手袋をつけた壮年の執事が静かに立っていた。表情は穏やかだが、目が全く笑っていない。


「少々、よろしいでしょうか」


 リーナが「よろしい」と答える間もなく、腕をそっと取られ、廊下の一室へ連れ込まれていた。


 ドアが静かに閉まる。


 リーナの額に、じわりと汗が浮いた。



 シュタルク公爵家の当主室は、広さの割に物が多かった。


 執務机の上には書類の山。その傍らには空の茶杯が三つ。床には丸めた紙が転がっており、部屋の隅には等身大の熊のぬいぐるみが座っていた。謎の威圧感がある。


 そして机の向こうに座っていたのが、シュタルク公爵その人だった。


 リーナは固まった。


 こんな近くで見るのは初めてだったが、いや、見れば見るほど——ものすごく怖い顔をしている。目つきが鋭いなんてものじゃない。剣で視線を飛ばしてくるとかそういう比喩が似合う。それでいて顔の造形はひどく整っており、肩幅は執務机の幅に迫る勢いで、頭一つ分高い椅子の背もたれが小さく見える。


 フリル付きのエプロンを着ていなければ、完璧な威圧感だったと思う。


(なんで公爵様がエプロンを——)


「君が、拾ったのか」


 低く静かな声だった。


 リーナは反射的に例の紙を差し出した。


「は、はい。廊下に落ちていたので」


 公爵はそれを受け取り、一瞬だけ目を閉じた。何か堪えているように見えた。


「読んだか」


「……少し」


「どこまで」


「フロスト伯爵が、ヒロインに手袋を外させて、素手で触れる場面、まで……」


 公爵の眉間に、ぴくりと皺が寄った。それから意を決したように口を開く。


「セバスチャン」


「はい」と執事が静かに応えた。


「説明してやれ」


 執事——セバスチャンは一礼して、リーナへ向き直った。


「簡潔に申し上げます。当主様は、ご趣味として恋愛小説を執筆されております。雑誌『薔薇色の万年筆』に掲載中の作品は、当主様の著作です」


 リーナの頭が、真っ白になった。


「……W・S先生って」


「はい」


「この方が」


「左様でございます」


 リーナはゆっくりと公爵を見た。公爵は静かにリーナを見ていた。その目が、かすかに——本当にかすかに——泳いでいるのを、リーナは見逃さなかった。


(あの。強がってるけど、めちゃくちゃ恥ずかしそう)


「君には守秘義務を誓ってもらう」とセバスチャンが続けた。「誓約書にご署名いただいた上で、当主様のアシスタントを務めていただきます。具体的には、執筆のサポート全般です。材料の調達、資料収集、原稿の整理、そして……」


 セバスチャンがわずかに間を置いた。


「締め切り前の当主様の精神的安定の維持、でございます」


 その一文だけ、少し声のトーンが下がった気がしたのはリーナの気のせいではなかったと思う。


 リーナは一秒間だけ深呼吸をして、言った。


「喜んでお引き受けします」


 公爵が初めて、目を見開いた。


「……なぜ」


「好きな小説の作者を手伝えるなんて、夢みたいな話です。それに」リーナはにっこり笑った。「W・S先生の新作、ずっと待ってました。少しでもお役に立てるなら、何でもします」


 ぴくり、と公爵の頬が動いた。


 後から思えば、あれが「照れた」ということだったのだと、リーナはずいぶん経ってから理解した。



 翌朝からリーナは「アシスタント」としての仕事を開始した。


 まず最初の仕事が「公爵様のお茶の補充と、書いた紙が丸まって床に落ちるたびに拾う」だったのだが、それは予想の範囲内だった。


 問題は午後に起きた。


「リーナ」


 ドアを三回ノックして当主室に入ると、公爵が原稿用紙を積み上げた机の向こうから、真剣な顔でこちらを見ていた。


「はい、何でしょう」


「胸キュンシーンが書けない」


 リーナは反応に一瞬迷った。


「……それは、大変ですね」


「言葉が出てこない。何を書いても嘘くさい」公爵は万年筆を置き、組んだ腕に顎を乗せた。「今話のクライマックスは、主人公が誤解が解けたヒロインに告白する場面だ。だが私にはその感覚がわからない」


「感覚が、わからない」


「恋愛をしたことがない」


 どん、と放たれた言葉に、リーナは「あ、なるほど」と声に出しそうになって必死にこらえた。


「実際にやってみる必要がある」


「……はい?」


「胸キュンシーンを再現する。実験だ」公爵は立ち上がり、机を回り込んでリーナの前に立った。身長差がすごかった。首が痛くなるほど見上げる必要がある。「協力しろ」


「え、ちょっと待ってください」


「何だ」


「『実験だ』って言えば何でも通ると思ってらっしゃいますか」


「通らないか」


「状況によりけりです!」


 公爵はわずかに首を傾けた。どうやら本気で理解していないらしい。


「シーンとしては、主人公が廊下でヒロインと二人になり、急に手首を掴む。それだけだ」


「それだけって言うけど、リアルでやられたら普通に怖いですよ」


「怖い? なぜ」


「背が高くて怖い顔の人に急に手首を掴まれたら、怖いです」


 公爵は自分の顔を手で触れて、何かを考えた。


「……怖い顔か」


「いえ、美形ですけど、目つきが剣みたいで」


「それは褒め言葉か」


「状況によりけりです!」


 二回目の「状況によりけり」を受けて、公爵は少しだけ考えてから言った。


「やってみないとわからないだろう。協力しろ」


「…………」


 リーナは目をつむった。確かに仕事内容に「精神的安定の維持」とあった。ということはこういうことも含まれるのかもしれない。


「わかりました。でも一回だけです」


「三回だ。データが必要だ」


「なんで三回も」


「一回では誤差が出る可能性がある」


「恋愛小説書いてる人の発想じゃないですよそれ」


 それでも結局、三回やった。


 廊下に出て、リーナが歩いていると公爵が後ろからすっと近づいてきて、手首をそっと掴む。一回目はリーナが思いっきり振り向いて「うわっ」と声を上げてしまった。二回目は心の準備をしていたのに、実際に掴まれた瞬間の体温と力加減が想定外で、顔が赤くなった。三回目は慣れてきたかと思ったら、公爵が「目線を合わせた方がいいか」と言いながら片膝をついてリーナの目線まで下りてきて、完全に心の準備が崩壊した。


 当の公爵は三回目が終わると「参考になった」と言いながら当主室に戻り、万年筆を取り上げてすらすら書き始めた。


 リーナは廊下の壁に背中をつけてずるずると座り込んだ。


(やってることはただの実験なのに、なぜ私の心臓はこんな音を立てているのか)



 三日後、公爵は訓練場に立っていた。


 本業の顔である。これは本当に同一人物かと思えるほど目の輝きが違う。純粋に強くて、純粋に美しい。訓練生たちが整列してぴりぴりしている中、公爵は静かに腕を組んで全体を見渡していた。


 リーナは資料を抱えて後ろに控えていた。


「先生、今日はここで何を」


「観察だ。人と人の間にある緊張と緩和を写実することが、良い描写への近道だ」


 なるほど確かに、とリーナが感心していると、公爵が顎で訓練場の一角を示した。


「あそこのふたり。どう見る?」


 水を飲んでいる騎士見習いが二人いた。金髪で長身の一人と、黒髪でがっしりした一人が、じゃれるように肘で小突き合っている。


「……仲良い先輩と後輩、ですかね」


「違う。恋だ。そして今、私の新作第三話のサブカップルに決定した。身分差のラブストーリーだ」


「待ってください。あの人たちは同僚で、先生が勝手にカップリングしてるだけですよね」


「観察と創作は隣り合わせだ」


「失礼な妄想に名前をつけないでください。あと、今なんか魔法使いましたよね」


「聴覚の拡張だ。創作のためだ」


「プライバシーの侵害を創作のためだと言い切るのやめてください!」


 怒鳴ると、周囲の訓練生たちが一斉にこちらを見た。リーナは赤くなって頭を下げ、公爵は微動だにしなかった。


 その翌週。


「次のシーンは雨だ」と公爵が言った。「二人が雨宿りをしながら、狭い軒下で肩が触れる。古典的だが有効だ」


「わかりました。次に雨が降ったら——」


「今夜やる。雨が降るまで待つ」


「今、晴れてますよ」


「待つ」


「降るまで待つって、それは意志の問題じゃないですよ」


 結局その日は降らなかったので、公爵は魔法で局所的な降雨を発生させた。王国最強の魔法師が夜中の庭にピンポイントで雨を降らせているという絵面は、リーナにはあまりに非現実だった。


 傘を持ってきなさいと言ったのに公爵は「臨場感だ」と言って雨に当たりながら軒下に駆け込み、びしょ濡れでリーナの隣に立った。肩が触れる。それは確かに、言葉にしなくてもわかるほどの距離感だった。


 リーナが何も言えずにいると、公爵が静かに言った。


「感触は掴めた」


「風邪ひいてください」


「私が風邪をひいたことは一度もない」


「今夜ひいてください、腹いせに」


 だが公爵はひかなかった。鉄の体だった。リーナが翌朝くしゃみを三回した。



 異変が始まったのは締め切りの五日前だった。


 リーナが当主室のドアをノックすると、返事がない。おかしいと思いながら開けると、公爵が机に突っ伏していた。


「先生!?」


 飛び込んで肩を揺らすと、頭が持ち上がった。目は開いていた。意識はある。ただ眼差しがどこか遠かった。


「……クライマックスが」


「クライマックスが?」


「書けない」


 ドスン、ともう一度机に額を落とした。


「締め切りまで五日あります」


「足りない」


「何ページ残ってるんですか」


「……三十」


「三十ページ!?」と思わず叫んでしまってから、リーナは声を下げた。「三十ページ、五日で書けますよ」


「私のペースでは無理だ」公爵はまた顔を上げた。今度はリーナの目を真剣に見た。「最後の告白シーン。何度書いても薄い。感情が乗らない。嘘くさい。もう三回書き直した」


「見せてください」


「……」


「いいじゃないですか、読みますよ。私、先生の読者ですから」


 一瞬の沈黙の後、公爵は横に積み上げていた紙の束をリーナの前に押し出した。


 リーナはそれを読んだ。


 読みながら、少しずつ、目が熱くなってくるのを感じた。


 薄いなんて嘘だった。確かに荒削りで、語彙が硬くて、間の取り方が不器用だった。でも根っこにある感情は嘘じゃなかった。登場人物が本当に好きだから書いているのが、文章の節々から滲み出ていた。


 それに気づいた瞬間、リーナの中で何かがかちりと音を立てた。


 この人は、誰にも読ませない場所で、誰にも知られないまま、登場人物を愛している。


 賞賛も見返りも求めずに。


 ただ書きたいから書いている。


(……それって)


 リーナはページをめくる手を止めた。


 執筆中の部屋で、フリル付きのエプロンを着けたまま「締め切りがぁぁ」と泣いている公爵の顔が、自然と浮かんだ。最強と呼ばれる人が、へたくそな告白シーンを三回書き直しながら、まだ諦めていない。


 それは、弱さじゃなかった。


(この人は、ちゃんと、本気なんだ)


 胸のどこかが、静かに、熱くなった。


「……先生」


「何だ」


「全然薄くないです」


 公爵の目がかすかに揺れた。


「言葉が足りない部分はあります。でもそれは技術の話です。感情は、ちゃんとここにあります」


 しばらく沈黙があった。


 公爵は何も言わなかった。ただ、机の上の原稿をじっと見ていた。


 それから、ゆっくりと万年筆を取り直した。


「……声に出して読め」


「え?」


「お前が声に出して読む。引っかかった部分を言え。私が書き直す」


 リーナは一瞬だけ驚いて、それから頷いた。


「わかりました」


 その夜から、二人は明け方まで一緒に作業した。リーナが読み、公爵が書く。セバスチャンが夜食を持ってきて無言で置いて去った。


 公爵は一度だけ、深夜に万年筆を止めた。


「……書けないかもしれない」


 それだけだった。弱音でも謝罪でもない。ただ事実として、静かに落とされた言葉。


 リーナは少し考えてから言った。


「書けるまで、一緒に起きてます」


 公爵は何も言わなかった。


 でも、万年筆を動かし始めた。


 三十ページが、五日で書き上がった。



 原稿が完成したのは、締め切り前日の夜明け前だった。


 最後の一文を万年筆で書き終えた公爵が、しばらく動かなかった。


 リーナは目をこすりながら、テーブルの向こうで灯りに照らされた原稿を見ていた。


「完成ですね」


「ああ」


「おめでとうございます」


 公爵は答えなかった。代わりに、静かに万年筆を置いた。


 窓の外が少しずつ明るくなり始めている。


「リーナ」


「はい」


 低い声だった。疲れていて、でもどこかいつもと違う温度を持った声。


「今回の原稿は、お前がいなかったら完成しなかった」


 リーナの心臓が、ぽんと跳ねた。


「そんな、私はただ読んで感想を言っただけで」


「それが必要だった」


 公爵がこちらを向いた。いつもの鋭い目が、今は静かにリーナを見ていた。


「お前がいないとダメだ」


 六文字。


 たった六文字で、リーナの心臓は限界まで鼓動を上げた。


(これって、もしかして——)


 顔が熱い。疲れで頭が正常に動いていないのかもしれない。それでも確かに胸の中心が、甘く締まった。あの夜、「書けないかもしれない」と言った声を思い出した。あの一言の重さを、今なら分かる気がした。


「あ、あの……それって……先生は、私のことを……」


「ああ」と公爵は真剣な顔で頷いた。


 リーナの息が止まる。


「次の新刊の胸キュン実験に、お前以外の人間では反応データが取れない」


 ――――。


 リーナは三秒間、完全に止まった。


「……え」


「緊張感の再現や、距離感の微調整など、各シーンでの感情反応を記録するには、ある程度データが蓄積された協力者が必要だ。お前は今回の執筆で十四件の実験に参加しており、最も信頼性の高いサンプルだ」


「…………」


「つまり、次の締め切りもよろしく頼む」


 リーナは一拍おいて、どろーんとした目になった。


「…………」


「何だ、その目は」


「十四件の実験、って言いましたよね」


「ああ」


「胸キュン実験のデータ、って言いましたよね」


「そうだ」


「つまり今の『お前がいないとダメだ』は」


「データ収集の継続のために、という意味だ」


 リーナは深く息を吸った。


 吸って、吐いて、もう一度吸った。


「…………せ、ん、せ、い」


「何だ」


「それは言い方というものがあるでしょうがッッ!!」


 渾身のツッコミが、夜明けの当主室に炸裂した。


「データって何ですか! 反応記録って何ですか! 私の心臓に申し訳ないと思わないんですかッ! あと十四件って正確に数えてるのが怖いんですけど!」


「データは重要だ」


「重要かどうかの話じゃない!」


「落ち着け」


「落ち着けるか! 告白されたかと思ったら実験継続のお願いでした、って誰が落ち着けるんですか! むしろ落ち着いてる人がいたら連れてきてください、握手したい!」


 公爵は少しの間、目を瞬かせていた。


「……告白?」


「あ」


 しまった、と思った瞬間、リーナの顔がゆでだこになった。


「告白、と思ったのか」


「……き、聞かないでください」


「なぜ私が告白すると思った」


「聞かないでくださいって言いましたよね!?」


 公爵は何も言わなかった。リーナは机に向かって深くお辞儀をした。顔を見せたくなかった。


 沈黙が流れた。


 長い沈黙だった。


 それから公爵が、ゆっくりと言った。


「……参考にする」


「…………何を」


「告白のシーン。期待させておいて外す、という落差の活用」


 リーナは机に顔をうずめた。


「先生は一生恋愛できないと思います」


「なぜ」


「全部を小説に還元しようとするから!」


 公爵は少し間を置いてから、静かに言った。


「……お前の反応は、毎回本物だ」


 リーナが顔を上げると、公爵は窓の外を見ていた。夜明けの光が横顔を照らしていた。


「作り物の胸キュンシーンに、本物の反応を返してくれる人間が、お前の他にいない」


 それは、たぶん褒め言葉だった。


 たぶん、この人なりの。


「……それも小説の話ですか」とリーナは言った。


「さあ」と公爵は答えた。


 セバスチャンが朝の茶を持って入ってきたのは、ちょうどそのときだった。長年の経験からか、お盆を置いてすぐさま出ていった。優秀な執事だった。



 発売日の朝、王都の書店に「緋色のフロスト伯爵と秘密の花嫁・第六巻」が並んだ。


 開店から一時間で初版の六割が売れ、午後には重版の連絡が入った。


 そのことを告げたのはセバスチャンで、当主室で聞いた公爵はしばらく黙っていた。リーナが横でこっそり観察していると、耳の先が赤くなっているのがわかった。


「……そうか」


「おめでとうございます、先生」


 公爵は「ああ」とだけ言った。でもその口元が、かすかに緩んでいた。


 リーナは正面から見てしまって、目を逸らした。


 整った顔で、疲労の滲んだ目で、そっと笑う公爵を正面から見たら、心臓がまた妙な音を立てたので。


 その翌週、「薔薇色の万年筆」誌上に新連載「嵐の騎士と秘密の助手」の告知が掲載された。


「国で一番強い騎士と、彼の秘密を知ってしまった普通の少女。彼女がいなければ、彼は何も書けない——」


 リーナはその告知を読んで、しばらく無言になってから、公爵の部屋のドアを三回ノックした。


「先生、これ、私がモデルですか」


「さあ」


「さあ、じゃないですよ!」


 公爵は万年筆を持ったまま、わずかに口の端を上げた。


 それを見たリーナは、ツッコミを途中でやめた。


(今の顔、次の告白シーンに使える気がする)


 思ってしまって、思わず手で口を押さえた。


 いつの間にか自分も、全部を創作に還元しようとしていた。


 公爵はもう次の原稿を書き始めていた。フリル付きのエプロンをつけて。


 窓の外には、また青い空が広がっていた。


 今日も締め切りまで、あと三週間。

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