些細な気づき
(1)
屍が広大な平原一面に山と積み重なり、血と死臭が土埃に混ざり風に流れてくる。
分厚い鎧に覆われていてさえ感じる臭い以上に、眼前に拡がる惨状への痛ましさに顔を顰めた。
顔は兜で隠れているから誰にも悟られない。しかし、自分の隣、馬首を並べる男だけは違う。違うと分かっているから、さりげなく肩に手を置かれてもあえて返事はしない。
私としたことが不甲斐ない。私は一瞬たりとも弱気を見せてはならないのに。
剣を抜き、高く掲げる。
胸を張り、声を張り、自軍の兵士を鼓舞する。
誰よりも速く馬を駆け、先陣を切る。
私は命果てるまで剣を振るう。
私のすぐ後、寄り添うように馬を走らせる騎士の鎧の下は……、どんな顔をしていたか。夢の世界でも思い出せなかった──
(2)
くだらない妄言を二度も聞かされたせいで、あんな夢を見てしまった。しかも夢にしては目に映る光景はやけに生々しく鮮明だった。
焦土に転がる兵士の屍の、目を覆いたくなる無残さ。現実じゃ体験し得ない、むせ返る血と腐敗臭。
寝覚めの気分は最悪で、ベッドの上での朝食もあまり喉を通らない。
ブラックプティングの黒は焼け焦げた人体、ベイクドビーンズのソースは血を、スクエアソーセージやハム類は……、想像なんてしたくないのに。折角のメインディッシュが台無しだ。
不本意ながらデクスター家に泊まる羽目に陥った中、唯一ひそかに朝食だけは楽しみにしていたのに。
人目がないのをいいことに食に意識を向けられるということは、頭痛もめまいもひと晩で治った証拠。それだけが唯一の救い。
もし今朝もまだ痛みなどを引きずっていたら……、異常なしの確証得るまでクインシーは帰らせてくれないだろう。それは非常に困る。
ナオミを雇う家はデクスター家だけじゃない。セイラの他に教え子も何人も抱えている。
デクスター家以外の仕事に穴を空けたくない。
独身の中流階級以上の女性がレディの体面も失わず就労できる仕事は家庭教師くらいだ。
個々の家にもよるが決して給金は高くないし、需要に反して供給過多。
ナオミにはささやかな夢がある。
その夢を叶えるためには今の内に仕事を頑張っておきたい。
クインシーからはデクスター家専属の住み込み教師に、と度々望まれている。が、給金面はともかく一つの家に縛られることをナオミは望まない。
今回の事故の責任を口実に、住み込み教師にさせられることだけは避けたい。
などと考えつつ、夢の影響による嫌な想像を振り払う努力をしながら、朝食をすべて平らげる。
隅に控えていたメイドが食後の紅茶を用意しに一旦部屋から去っていく。
「紅茶をお持ちしました」
「ありがとう」
白地に淡い色の花模様を散りばめたカップに、鮮やかな紅色が湯気を上らせ満たしていく。
「寝起きにいただいた寝覚めの紅茶と今飲んだ紅茶、銘柄が違うのかしら」
「はい。この紅茶はアッセンとサイロン、キーマンなどのブレンドティーです」
「香りも味もちょっと渋みがあるけど、その渋みが味を引き締めてて美味しいわね。デクスター商会の自社商品なの??」
「はい、新商品だそうです」
クインシーは退役後、この国の植民地インダスでの紅茶栽培と販促事業で成功を収めていた。
また、現地で働くインダスの人々を決して奴隷扱いせず、真っ当な条件下で就労させているとの噂も耳にする。否、真実だろうとナオミも信じている。
カップに口をつけながら、メイドをさりげなく盗み見る。
彼女の肌は浅黒く、髪も目も黒い。顔の彫り、特に眼の周りの彫りも深く、明らかにこの国の者ではない容姿をしていた。
ナオミより年下であろう(もしかしてまだ十代かもしれない)異国人の彼女は、この国の言葉で流暢に話し、明快にナオミの問いに答えてくれた。本人の地頭がいいのかもしれないが、使用人教育の賜物であり、彼の屋敷での采配の上手さを表してもいる。
そう言えば、この屋敷の使用人は彼女と似たような異国人が多いような気がしてきた。とはいえ、ナオミはそれ以上の興味関心を持つ気はなかった。
だから朝食と身支度を終えると、理由をつけて引き止めようとするクインシーにスパン!と断りを入れ──、たにも拘らず、現在ナオミは二頭引きの箱馬車の中にいた。
あんなに!自力で帰ると!言ったのにっ!!
小さく肩で息をつく。が、すぐに後悔することになった。
「姫、本当は気分が悪いのでは……」
「イイエ??チットモ??」
向かいの席から気遣わしげな呼びかけに、わざとらしくにっこりと微笑む。
自分はあまり愛想がないという自覚はある。さぞかし不自然な作り笑顔だろう。こころなしか頬や口元が突っ張るような。
昨日の今日でまた、前世がうんたらかんたら……と語り始めたら、『やっぱり気分が悪くなってきたので少し黙っていて欲しい』と言ってやろう。あぁ、でも、調子が悪いと受け取られて、デクスターの屋敷へ逆戻りするかもしれない。
だったら、我慢して妄言を聞くべきか……。
げんなりと座席に深く凭れかかる。幸いにもルードはそれっきり口を閉ざし、車内は静寂に包まれた。
沈黙自体は気まずい筈なのに不思議と心地良く感じられる。
「下宿先に到着するまで寝ててもいいですよ」
知らず知らずのうちに、うとうとしてしまっていたらしい。
身分ある男性、しかも雇用主(の家族)を目の前に何たる失態!
「大変無礼な真似を……、申し訳ございません!」
慌てて頭を深く垂れる。顔から火が出そうだ。
「謝る必要などまったくありません。顔を上げてください。まだお疲れなのでしょう」
「ですが」
「馬車での居眠りくらい、なんだって言うんですか??そんなことでいちいち咎めるほど狭量じゃありません。身体も本調子じゃないかもしれないし、一晩限りとはいえ慣れない場所での寝起き。僕だって少なからず疲れます」
相変わらず素っ気ない口調だが、冷淡さはまったく感じない。
「ありがとうございます」
「礼を言われるまでもありません。そもそも貴女は高貴で誇り高い姫だったのですから些末事など気にせず、堂々と寝ていてください。ここにいるのは貴女と僕の二人だけですし」
一瞬でも見直しかけた自分が馬鹿みたい。
眠気は当然吹き飛んだが、くだらない会話は続けたくないため、しかめっ面で固く目を瞑る。顔は窓の方向へ。
さっきと違って完全なる寝たふりだが、ルードも再び話すのを止めてしまった。
馬車は高級住宅地を抜け、下町へと近づきつつある。
やがて赤煉瓦に白サッシの大きな格子窓、階層や細かな造形の違いはあれど、うんざりする程ありふれた外観のアパートの前で馬車は止まった。
ルードは先に馬車を降りるとナオミの降車を手伝うため、彼女の手を引く。
本当は嫌で嫌で堪らないが、最低限の礼儀を欠いてはならない。顔をそれとなく背けながら手を差し出し、馬車を降りた。
案の定ルードはナオミの手を離さない。横目で訴えかけても、さりげなく振り払おうとしても離さない。
「あの」
『困ります。離していただけますか』
はっきり口にしかけたとき、御者がドアノッカーを叩いた。
まずい。この状態を、彼女に見られでもしたら。
「あの、困りま」
「はい」
一人の女性が扉から顔を覗かせた。