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めまぐるしき日①

(1)


 別荘で過ごす夏休みは波乱の連続だったが、残る数日の滞在期間は問題は何一つ発生しなかった。

 クリケットの試合も接戦の末ほぼ引き分けに終わり、長いようで短い十日間は過ぎ去っていく。


 そして、レッドグレイヴ夫人と共にナオミが下宿アパートに帰宅した頃には秋の気配が訪れようとしていた。







 白く滑らかな十本の指が軽やかに、時に大胆に鍵盤の上を走り、優雅に踊る。

 すらりとした背中を流れる豊かなブルネットの髪も大きく揺れ動く。


 花瓶一つなく、グランドピアノ以外は目立った家具調度品も見当たらない簡素な部屋。

 けれど、大輪の花のように若く美しい娘が美しい音を奏でるだけで空間はパッと華やいでいく。


「素晴らしい演奏でしたわ、ミルドレッドさん」

「猛練習したんですもの、当然でしょう」


 演奏が終わるとナオミは手を叩いて褒めてみせるも美貌の生徒は鼻を鳴らし、ツンと顎を上げた。


 この生徒の高慢な態度は日常茶飯事。

 受け持った当初は内心腹が立っていたが、今となっては『あぁ、いつものアレが始まった』くらいに受け流している。


「ガーランド先生。いちいち褒めてくれなくても結構です。指摘箇所だけ教えてくださいな」

「指摘する箇所は今回一つもありません。むしろ私よりも演奏技術が上かもしれないですわね」


 謙遜でも世辞でもなく正直な感想を伝えたつもりだったのに。

 美しい生徒は年齢より大人びた薄青の瞳に侮蔑を浮かべ、ぽってりと形の良い唇をかすかに捻じ曲げていく。


 機嫌を損ねたのとはまた違う。十七、八の娘のものとは思えぬ底意地の悪い表情。

 なまじ派手な美人なだけにさすがのナオミも少しゾッとした。


「でしたら、ガーランド先生には本日付けで辞めていただきます。私より演奏が下手なピアノ教師なんてもう来ていただかなくて結構。今までありがとうございました」

「ちょっと待っ……」

「ばあや、ばあや!」


 生徒はナオミを無視して席を立つと呼び鈴を手に扉を開け、廊下で控えていた老女に呼びかける。


「ガーランド先生には今日限りで辞めていただくので、今日の授業料の用意を」

「ミルドレッドさん、私の話を……!」

「ではガーランド先生、失礼いたします。ごきげんよう」


 生徒は横目でナオミを一瞥すると、投げやりに最後の挨拶を述べ、退出していく。


 普段のナオミならすぐさま後を追い、納得するまで食い下がるのだが──、衝撃的かつ嵐のような展開に、成す術もなく音楽室で立ち尽くすしかない。


 別の家庭教師先の生徒が夢中になっているらしい物語に、下級貴族令嬢に婚約者を奪われ、一方的に婚約破棄される主人公の上級貴族令嬢はこんな気持ちなのだろうか。

 などと柄にもない喩えをしてしまう程ナオミは放心していた。


 しかし、冷静さを取り戻すにつれ、ムカムカと腸が煮えくり返ってきた。

 一言、否、何言でも納得できるまで抗議しなければ!


「ガーランド先生」


 憤然と部屋を出ようとしたとき、先程の老女がノックに続き、ひどく恐縮しながら入室してきた。


「ミルドレッドお嬢様のご無礼の数々、どうかお許しくださいませ。どうかどうか、この通り……」


 平身低頭平謝りする老女だが、ここで情に流されてはいけない。


「許す許さないのお話ではなくてですね」

「実は……、大変お恥ずかしいことですが、旦那様がお亡くなりになってから家計が逼迫しつつありまして……。ガーランド先生以外の他の家庭教師の方々もお嬢様はわざと理不尽な理由をつけては辞めていただいてる現状なのです」


 生活が困窮してきたから辞めさせたかったってこと、ね。


 革命の混乱に乗じ、この国へ亡命したあの国の貴族の末裔という血筋ゆえの誇りからか、気位の高いミルドレッドは受け持ちの生徒の中でも少々扱いにくく、ナオミを見下している節はあった。

 まぁ、彼女に限らず家庭教師を見下す者は少なくないが。


 にしても、もっと言い方があるでしょう!!


 全然納得しきれないが、事情が事情ゆえに納得せざるを得ない。が、珍しく腹の虫はおさまりきらない。

 次の訪問先へ向かう道中でも心はちっとも鎮まらないでいる。


 何がそんなに腹立たしいのだろう。彼女の高慢さなんて慣れ切っているし今更だ。


 後を思いっきり濁す別れ方が気に入らない??それも確かにある。でも絶対それだけが理由じゃない。


「……あぁ、わかった……」


 次の訪問先──、デクスター家の広大な屋敷を囲う立派な鉄門が見えてきた頃、ようやく思い至った。叩きつけるような高圧的な物言いが誰かさん(マダム・ドラゴン)に似ていたのだ。


 理由が判明したらしたで苛立ちは益々募るが、仕事に支障を来たす訳にはいかない。

 努めて平常心を保ち、ナオミはデクスター家の門を潜った。






(2)


 今日のセイラの機嫌はすこぶる良好。ピアノレッスンの前の国語の授業も恙なく受けてくれたことも手伝い、かなりホッとさせられた。

 ナオミの心に燻る靄はセイラの拙くも生き生きとしたバイエルによって徐々に晴れていく。


 特定の生徒を贔屓するつもりはないが、セイラは一番気にかけているので些細であっても学習速度が進むことが嬉しい。

 今日みたいに少なからず燻っているときだと殊更そう感じられた。


「ガーランドせんせー、さようならぁ」

「はい、さようなら。ごきげんよう」

「せんせー、せんせー!セイラ、お外までお見送りしてもいーい??」

「えぇ、もちろんです」


 セイラは顔中いっぱいに笑みを広げ、ぴょんとピアノの椅子から飛び降りた。

 その様があんまりにも愛らしく、無作法を注意するべきなのに思わずクスッと笑ってしまった。


 慌てて表情を引き締めるも、「せんせぇ、わらってる!」とセイラは目ざとく指を指してくる。


「わ、笑ってません」

「ううん、わらってたよぉ。セイラちゃんと見たもん」

「う、」

「せんせぇ、わらうとかわいいねぇ」

「セイラさん、大人を揶揄ってはいけません。それから、椅子から飛び降りるのはお行儀が悪いですし、人に指を指すのは大変な失礼な行為に当たります。以後気をつけてくださいね」

「むー」

「むー、じゃなくて、はい、です」

「はいっ」


 一瞬不貞腐れたものの、素直に頷いたのでよしとしよう。


「じゃあねぇ、せんせい。せんせいがおそと行くまでおててつないでぇ??」


 何だか今日のセイラは随分甘えん坊のような。


 クインシーとルードに甘えているにしても、男性と女性と比べたら女性の方がより甘えやすい。

 デクスターの屋敷は全体的に女手が少ないので甘え足りない部分があるのかもしれない。


「えぇ、かまいません」


 自分の荷物を小脇に抱え、ナオミはセイラに空いてる方の手を差し出した。

 重ねられた小さな掌の温もりに不思議と心まで温まっていく気がしてくる。


 仕事で様々な子供と接してきたが、生徒として大事と思うことはあれど、『我が子のように』と感じることなど一切なかったのに。

 セイラと接していると、時折一生徒以上に大切に思いたくなる時が──、なくもない。


 職業婦人として良くない兆候、だと思う。

 一方で変に甘やかしたり贔屓しなければいいんじゃないか、と思う自分もいる。


「ねー、せんせー。あっち(正面玄関)から出ないのー??」

「えぇ」


 音楽室を出て一階へ降り、使用人用玄関(家庭教師は基本的に使用人扱い。クインシーは正面玄関を使えと再三言うけれど)へ行く途中、「あれ??おじょー様とガーランド先生じゃないすか??」と、やや軽い口調でインダス人の従僕に話しかけられた。


「あっ、ハリッシュだぁ!」

「仲のよろしいことで。こうして見ると若奥様と娘さんに見えますねぇ」

「いえ、私とセイラさんでは似ても似つきません」

「違うんすよ。見てくれはどうあれ、雰囲気というか??が似てるなぁと……、わっかんないかなぁ」


 反応が返しづらいが、無視するわけにもいかない。

 このハリッシュとかいう従僕、人は好いけれど軽薄な口調や飄々としたところが少し苦手だ。


 セバスチャンという執事の年の離れた弟らしいが、いかにも生真面目一辺倒の兄と全然違う。

 従僕らしく背が高く見目がいいのもナオミの苦手意識を深めている。


「あぁ!そうだ、思い出した!ガーランド先生にちょっとした用事があったんでした!」

「用事??私に??」

「正確には自分じゃなくてすね」


 ハリッシュがここまで言いかけたところで、三人から少し離れた正面玄関の扉が壊れそうな勢いで開いた。


 激しい開放音に驚き、振り返った三人が見た光景──、それは。


 両手で扉を跳ね飛ばし、倒れそうな勢いで玄関ホールに飛び込み、肩で大きく息を弾ませたルードの姿だった。

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