幽霊なんか怖くない
一面に拡がる大草原に一陣の風が吹き渡り、長い草丈を八つの蹄が踏みしめていく。
以前より少し伸びた金の髪は草原の緑によく映え、風に弄ばれる。乱れても美しさを損なわない。
馬首を並べる青年も同じく、陽に透けた淡い色の髪は乱れても尚美しいまま。
鎧ではなく平服姿の二人はどこにでもいる普通の恋人同士にしか見えない。
それぞれが騎乗する──、キャサリンの白馬と青年の栗毛がどちらも名馬、平服といえども清潔で質が良く、どちらも市井では見かけない美貌の持ち主と、普|通《・でない要素も多分にある。
が、遠乗りを楽しみ、馬上で笑い合う二人は平時の姫騎士と騎士としての威厳も捨て去り、重圧からも解放されている、ように見えていた。
『そろそろ戻りましょう』
『えぇ、わかった』
素直に頷いたキャサリンに青年は頬を緩め、先に馬首を巡らせた。
『今度はあの娘をお前の馬に乗せ、一緒に遠乗りするといい』
逞しい背中に向かって、何でもないことのように言い放つと、青年は馬の脚を止め、蒼白になった顔面で素早く見返してきた。
『私がなにも知らないとでも??宰相の娘がお前を見初めたらしいじゃないか』
『そ、れは』
『良い話だと思う』
呆然と項垂れた青年の横を通り過ぎ様、キャサリンは余裕げに笑むと、微動だにしない青年に構わず馬を駆った。
『姫!』
青年は慌てて後を追い、再び馬首を揃えてきた。が、すぐに夏空に似た爽やかな色の瞳を瞠った。
『見ないで』
『姫。私には貴女だけです。貴女が私だけであるように』
『……まぁ、自惚れね。あながち間違いでもないけど』
思った通りの言葉を引き出すことに成功した。
キャサリンの心の靄は霧消し、ふふっと笑みがこぼれ落ちた──……
ま た 貴 女 た ち で す か。
目覚めた瞬間、ナオミはだらしなく唇を緩ませていた己に愕然とした。
なんなの、あの、むず痒いやりとりったら!
ベッドの中でごろごろ、ごろごろ意味なく寝返りを打つ。
何度目かの寝返りの後、サイドテーブルの置時計で時間を確認。え、まだ夜中の二時じゃない!
両手で瞼を軽く押さえ、荒々しい息をひとつ吐く。
寝つきは悪くない方だが夢見が悪いとなるまた別だし、夢見が悪いときに限って同じ夢の続きを見たり、違う悪夢を見ることもある。
だから再び眠りにつくのが少し、怖い。というより煩わしい。
観念してシーツを跳ね飛ばし、身を起こす。
キャンドルランタンを灯して本を読もうか。まだ小降りながら雨は降っている。
でも朝までには止むかもしれない。
雨が止み、コートが乾いたら試合の続きが行われる。睡眠不足じゃ実力発揮できない。
うーん、と低く唸り、引っ張り上げたシーツに顔をうずめる。
明日(行われるかもしれない)試合を考えると寝るしかなさそうだが、夢は見たくない──
考えること数分。
ナオミはベッドを下りるとガウンを羽織り、キャンドルランタンを手に部屋から真っ暗な廊下へ抜け出す。
酒の力に頼るのは好きじゃないが、夢を見ない程深く眠るために今夜は必要。
ナオミの私室は二階。
一階へ通じる階段を下り、地下の厨房へ行くには少し時間がかかる……がしかたない。
ランタンと下ろした髪を揺らし、廊下を歩く。
イヴリンの気分次第でコロコロと模様替えされるガーランド本邸と比べ、夏にしか訪れない別荘は手入れこそされつつ様相は基本あまり変わらない。
絵画や花瓶などの客人の目につきやすい物は毎回変えるみたいだが、廊下の絨毯は少女の頃から変わっていない。
キャンドルランプの頼りない光に、薄紫の地に幾何学模様が朧に浮かぶ。見慣れてしまった色、模様になぜだかホッとさせられる。
廊下を挟んで左に各部屋の扉、右には等間隔に並ぶアーチ型の大窓。
小雨がしとしとと窓を打ち、階下の庭園の花々や、庭園を囲む樹々に降り注ぐ。
闇から銀の針が落ちてくるようできれい。
なんて、柄にもなく子供じみた発想に我ながら可笑しくなった。
子供じみていると言えば別荘にまつわる幽霊の噂もそう。
いつ発生し、誰が流したかは知らない。
ナオミが物心つき始めた頃から別荘へ訪れる度、イヴリンや執事、女家庭教師などから機会あるごとに聴かされた。
また、噂は秘する筈が別荘の周辺で暮らす住民までまことしやかに噂を囁き合っているらしい。(大方おしゃべりな使用人が広めたのだろう)
『別荘内に出没する女性の幽霊を見た者は、生涯誰とも結婚できず孤独死する』
大仰に語る大人たちに対し、幼心に何度バカバカしいと思ったか。
幽霊を信じ怖れる(あるいは信じさせ、怖れさせようとする)こと自体くだらなさ過ぎる。百歩譲って幽霊の存在を肯定したとしてだ。
その幽霊が何者なのか。ガーランドの家との関係は何なのか。
いつの時代に生まれ、どんな風に生きて亡くなったのか。
幽霊にまつわる具体的な出自、出来事を話す大人は誰もいなかった。
子供や客人に夜更かしさせないための手段……にしてはもっとマシなやり方はあっただろうに。
しかし、大学を卒業する頃になるとナオミにとって不名誉な噂も付随された。
『ガーランド家の養女がいつまで経っても独身なのは、幼少時に別荘で例の幽霊を見たから』
そ ん な わ け あ る か 。
幽霊なんて二十七年間生きてきて一回も見たことがない。
この噂に限ってはイヴリンが流したのだろう。
ナオミが噂に反発し、結婚に乗り気になるよう仕向けるため。彼女はナオミを完全に家から追い出したいから。
「まったくもって馬鹿らしいわね」
誰に言うでもないつぶやきが闇へ、静かに溶けていく。
すると、同じ階のどこかから自分以外の囁き声が、たしかに廊下に反響した。
こんな真夜中にいったい──、誰なの。
囁き声はぼそ、ぼそぼそと途切れながらも続いている。
思わず身構えたナオミの耳に、囁き声の合間を縫い、すすり泣く声もはっきりと聞こえてきた。




