その女、家庭教師につき
穏やかな筈の午後だった。
青、白、紫の花々が咲き誇る夏の庭園に荒々しい二つの足音が駆け巡る。
音の重低、歩幅の数などか察するに、一つは幼い子ども、もう一つは──
「お待ちください!」
「いやよ!おべんきょーなんてしたくないわ!!」
「セイラさん!!」
駆ける少女の洗いざらしの淡い巻き毛が大きく跳ねる。ケイトグリーナウェイドレスの裾も大きく翻る。
セイラが授業前に脱走するのは今に始まったことじゃないし、いつものことだ。いつものことだと思っていたのに。
勉強部屋から廊下へ逃げる前に捕まえ、こんこんと説教したのち、少し遅れて授業を始めるのに。(なので、セイラの授業の後は他の仕事は入れない。入れていても大幅に時間を開けている)
今日に限っては廊下への脱走を許してしまい、未だに追いかけっこは終わらない。
追いつきそうで追いつけない微妙な互いの距離。ナオミの息はどんどん上がっていく。
コルセットなんてしていなければもっと本気出して走れるのに。女って本当に窮屈。こんなのただの枷じゃないの。
教え子に対してよりも自らをきつく縛る女性の必需品に嫌気が差してくる。
「つかまえられるものならつかまえてみてー!せんせーじゃムリだと思うけどー!!」
アハハッ!と大きく笑うと、セイラは蔦が絡んだガーデンアーチを潜り抜け。スクエア型の煉瓦造りの花壇に飛び込み、見事なラベンダーを踏み倒すことなく駆けていく。
子どもの小さな足だからできること。ナオミは花壇を大きく迂回する。セイラは石畳の通路を越え、ジギタリスの花壇の中へ飛び込んでいく。
あぁ、もう!このクソガ……、いけない。はしたないったら。
下町の悪ガキ相手ならともかく、仮にも教え子の令嬢に言い放つ言葉じゃない。
小さな足は花を避ける器用さはあっても大人より歩幅が狭い。歩幅の大きい大人の足が追いつくのも時間の問題。
「ほら!ここまでおーいで!」
ナオミの見立ては甘かった。
追いつくかと思いきや、セイラは庭園を囲むオリーブの樹の一本によじ登っていくではないか!
太い枝に腰かけ、頭上で小さな足をぶらぶら揺らすセイラにナオミは唇を引き結んだ。ナオミの渋面に対し、少女はにんまりと余裕の笑み。
「……こうなったらもう、実力行使に出るしかないわね」
渋面から一転、今度はナオミの方がフッと不敵に笑ってみせた。
不穏な気配にセイラの足がひととき止まる。が、すぐにぶらぶら揺らし始める。気のせいか、さっきよりも動きがぎこちないけれど。
「セイラさん!失礼しますわ!」
「イヤー!!ウソでしょお!?」
厳格な女家庭教師の細い指先が躊躇なく太い幹に掴みかかる。
シャツの袖やスカートの裾をあちこち引っ掛け、糸がほつれ、裂けようとも構わずよじ登っていく。
セイラは更に上の枝へ登って逃げるのも忘れ、呆気に取られていた。ナオミは着実に迫りつつある。
「捕まえたっ!」
逃げられないようセイラを正面から抱き留め、押さえつける。
ジタバタしないで。ナオミの腕の中、セイラの抵抗で枝が大きく揺れ動く。
セイラの金髪にもナオミの黒に近いブルネットの髪にも新緑の葉が落ち、絡まっていく。いい加減観念し……
「はなしてっ!!」
「あいたっ!?」
セイラが偶然繰り出した渾身の頭突きが顎へと命中。
緑と涼しげな色合いの花々に彩られた景観が真っ白に染まり、ナオミの意識は遠のいていった──
幼い昔、ナオミもこんな風に庭を駆け回っていた。
一年の大半が灰色曇に覆われ、どんよりしたこの国の空じゃなくて、突き抜けるような快晴が多いあの国の空の下で。
あの国の訛りが強いけれど、おおらかで細かいことを気にしないメイドやばあや、数ヵ月に一度しか顔を見せに来れないけど優しい父のおかげで随分悠々自適な毎日。
生まれて数年間の仮初の日々だったけど、もう一度、私は──
ここでナオミの意識はぷつり、完全に途切れた。