世界は今日も順調です
○人気のない通りに置かれた公衆電話ボックス
滝本という名前の男が公衆電話ボックスの座椅子に座り、ハローページを開いている。
目をつぶった状態で、彼は開かれたページに指を差す。目を開き、指が差した場所を確認した後で、テレホンカードを挿入して電話をかける。
長い着信音の後、相手が電話に出る音が聞こえてくる。
田所「はい、もしもし」
滝本「突然、すいません。今、お時間よろしいでしょうか?」
田所「大丈夫ですけど……。どちら様でしょうか?」
滝本「僕は滝本と言いまして、今まさに田所さんに電話をかけている公衆電話ボックスに住んでるものなんです」
田所「公衆電話ボックスに住んでる?」
滝本「ええ。不動産屋さんにどれだけ狭くてもいいから安い物件を紹介してくれって頼んだら、ここを紹介されたんです。風呂もトイレもないですが、家賃は0円。公衆電話ということで、利用者がやってきたら外に出ないとダメなんですが、今の時代は皆さん携帯を持ってるので、今のところそういったことも起きてないんです。横になって眠ることができないことが唯一の不満ですけど、なかなかに住み心地の良い場所なんですよ。僕みたいにお金のない人間にとっては素晴らしい物件ですね」
田所「はあ、正直よくわからないですが、そういうことにしておきます。それで、滝本さんでしたっけ? 用件は何でしょうか?」
滝本「用件というほど大したものではないですけどね。ちょっとお伺いしたいんです」
田所「何をですか?」
滝本「今日、何か良いことってありました?」
田所「今日ですか?」
滝本「ええ」
田所「なんでそんなことを聞くんです?」
滝本「いえ、特に深い意味はないんですよ。狭い狭い公衆電話ボックスに一人で住んでるとですね、妙に人恋しくなるんです。今みたいな寒い季節は特に。だから、時々こうしてハローページに乗ってる番号からランダムに電話をかけて、誰かのお話を聞いているんです。あ、迷惑でしたら今すぐにでも切ってもらって大丈夫ですからね」
田所「いえ、別に私も暇だったので、それは良いんですが……。今日あった良いことですか……」
滝本「小さなことでもいいんですよ。星座占いで一位だったとか、無くしたと思っていた靴下の片方が見つかったとか」
田所「……ないですね。良いことなんて何も。今日はというより、ここ何年もずっと」
滝本「なるほど」
田所「何ていうのかな、辛いことも起きてないんですが、幸せなことも起きてないんですよね。会社を数年前に辞めてから、何も変わらない毎日がただただ繰り返されているという感じです。毎朝決まった時間に起きて、決まった朝ごはんを食べて、昼前に近所の図書館に言って朝刊を何回も何回も読んで、時間を潰す。それだけです。誰かと話すということもあまりなくて、電話がかかってくるのだって、数年ぶりだったんです」
滝本「失礼ですけど、ご家族は?」
田所「何十年も前には妻と子供が一人いたんですが、私に愛想をつかした妻が子供を連れて、出て行って以降会ってないです。私が家庭を顧みなかったのが原因なので、自業自得ではあるんですけどね。子供は男の子で……今年で28歳になるのかな」
滝本「お子さんはその時何才だったんです?」
田所「小学二年生の時です。父親らしいこともしてあげられませんでしたし、きっともう私のことなんて忘れてると思います」
滝本「自分が思い出せないくらいで、思い出は一つくらいはあると思いますよ。ないというのは自分が勝手にそう思い込んでいるだけなのかもしれません」
田所「そうですね……。ああ、でも確かに一個だけ思い出しました。いや、これを思い出と言って良いのかな。妻が同窓会で家を空けた時に、子供と一緒に近所にファミレスにご飯を食べに行ったことがあるんです。普段から会話らしいことなんてしてないので、お互いに妙に緊張してて、好きなもの食べて良いぞと言っても、子供は遠慮しちゃってね。実の親子だっていうのに笑っちゃいますよね?」
滝本「血が繋がっていようがいるまいが、それぞれが別の人格を持った人間ですからね。仕方ないですよ。結局、お子さんは好きでもない食べ物を注文して終わったということですか?」
田所「いえ、子供の大好物は知ってたんで、それを頼んだんです。でもですね、そしたら、子供がちょっとだけ不思議そうな顔を浮かべたんです。言葉にはしなかったですけど、なんでわかったのって言ってるみたいな表情だったんです。そして……」
滝本「そして?」
田所「そして……ちょっとだけ嬉しそうな表情をしたんです。ずっと強張っていた顔がほぐれて……。それを観て、私はすごく心が満たされて行く感じがして……。ああ、なんでそんな思い出を忘れてたんだろう。子供が私にしてくれたあの嬉しそうな表情を」
滝本「ちなみにお子さんの大好物って何なんですか?」
田所「イカスミのパスタです。子供なのに、ちょっと変わってますよね。多分、妻の独り言とかで、偶然耳にして、それをずっと覚えていたんだと思います。子供と直接話すことはなくても、やっぱり心のどこかでは子供のことを想っていますから」
滝本「素敵な思い出じゃないですか。よかったですね、思い出すことができて」
田所「滝本さんでしたっけ? ご家族とか恋人は?」
滝本「家族とは年に数回顔を合わせる程度ですね。恋人は……数年前に別れたんです。まあ、僕が悪いんですけどね」
田所「私がいうのも何なんですが、家族とか恋人は大事にした方がいいんでしょうね。そんなの当たり前で、そうしなければならないというのは知っていたんですが、なかなか上手くいかない」
滝本「……そうですね。失ってから気付くものはたくさんありますから。もし、お子さんに会えるとしたら、会いたいですか?」
田所「誰だよって思われるかもしれませんが、会えるなら会ってみたいですね。でも、妻の行方すら知りませんから、もう一生会うことはないんでしょうね」
滝本「……」
田所「すみません、湿っぽくなってしまって」
滝本「いえいえ、お話を聞けて良かったです」
田所「そうそう、さっき滝本さんが聞かれた質問ですが、今日まさに良いことがありましたよ」
滝本「はい?」
田所「あなたとこうしてお話しできて、ささやかですけど、自分の素敵な思い出を一つだけ思い出すことができました」
滝本「それはよかった」
田所「ありがとうございます。またこうしてお話しできたらいいですね」
滝本「ええ。本当に」
田所「さようなら」
滝本「さようなら」
滝本が受話器を置く。受話器を置いたタイミングで、公衆電話から着電の音が聞こえてくる。
滝本は肩をすくめ、公衆電話の受話器を取る。
謎の女「こんばんは」
滝本「はいはい、こんばんは」
謎の女「聞きたいことがあるんだけど、ちょっといいかしら」
滝本「ええ」
謎の女「今日も世界は順調だった?」
滝本「毎日毎日同じ質問をしてきてますけど、これに一体何の意味があるんですか?」
謎の女「意味はあるでしょ? 少なくとも、昨日と今日は全くの別物なんだから、昨日は順調でも、今日は順調じゃなくなってるかもしれない。その逆もまた然り。それで、今日も世界は順調だった?」
滝本「そんなの僕にわかるわけないじゃないですか。アメリカの大統領にでも聞いてくださいよ」
謎の女「アメリカの大統領が、公衆電話にかかってきた電話を取ってくれるはずないじゃないの。まあでもいいわ、少なくとも、世界が今日も順調だったかはわからないということが知れたから」
滝本「それと前から思っていたんですけど、どうやってこの公衆電話に電話をかけてきているんですか?」
謎の女「それは秘密。それじゃあね、バイバイ」
電話の切れる音。滝本は不服そうな表情を浮かべたまま受話器を元に戻す。
それから再びハローページを開き、次に電話をかける相手を探し始める。
*****
○人気のない通りに置かれた公衆電話ボックス
公衆電話ボックスの椅子に座る滝本。ハローワークを膝の上に置いた状態で、誰かと電話をしている。
満島「今度ですね、新しい星が生まれるんです」
滝本「星ですか?」
満島「ええ、天文台で働いているんですけどね、星の誕生についてずっと研究を続けていたんです。そして、つい先週、星が誕生する兆候を見つけたんですよ。地球より遥かに遠い場所ですし、何万年光年も離れた場所ですので、今見えている兆候はすでに何年も前のものなので、正確にはもうすでに誕生してしまっているんですけど。それでも、新しい星が誕生する瞬間を観測することができるのはとても貴重なことですし、それに、発見者である私がその星に名前をつけることができるんです。そして、その名前を本日上司に提出してきたんです。今日あった良いことは、それですね」
滝本「それは素敵ですね。ちなみになんて名前をつけたんですか?」
満島「すみません。それについてはまだ公表しちゃダメなんです」
滝本「それは失礼しました。それじゃあ、近いうちに発表されるのを心待ちにしておきます。でも、星の名前をつけるなんて大変じゃないですか?」
満島「ええ、大変でした。少なくともここ数日はそのことで頭がいっぱいでしたよ。学会誌で公表されるものですし、私が考えた名前がこれからずっと使われていくわけですからね。でも、一生に一度の機会なので、無難な名前にしてしまうのも嫌ですし。同僚なんかは自分の名前をつけたらいいじゃないかと言ってくれたんですが、それもそれで生意気だなと思われそうで……」
滝本「確かに名前をつけるっていうのは大変ですからね。スケールが全然違いますが、僕も子供の頃に祭りでもらった金魚に適当な名前をつけて後悔したことがあります。さっさと死んじゃうと思ってたんですけどね、これが十年以上生き続けているんです。でも、今更名前を変えるわけにもいかず、ずっと変な名前で呼ばれ続けてて可哀想なんですよ」
満島「あははは。私もそうはなりたいくないと考えていたんですよ」
滝本「結局どうやって名前をつけたんですか?」
満島「ええ、具体的な名前を教えることはできないんですけど……昔の親友の名前をお借りすることにしたんです。小学校、中学校の時の幼なじみで、僕が今こうして天文学の道へ進むきっかけを作ってくれた親友なんです」
滝本「なるほど。親友さんもお喜びになったでしょうね」
満島「いえ、彼はもう亡くなっているんです。高校の時に、交通事故で」
滝本「そうですか……」
満島「私ですね、小学校の時に両親が離婚しているんです。両親が仲悪いんのは知っていたんですが、それでも離婚は子供心ながらにすごいショックでした。で、なんだか全てが嫌になっていて、学校もサボりがちになった時期があるんです。周りの友人も、先生も私の家庭事情それとなくを知っていて、変に気をつかわれるのも嫌だったんですよね。そんな時に、まるで何事もない一緒に遊びに連れていってくれたのが彼なんです。近所の公園とか、サッカーとか、それから……生まれて初めて天体観測に行ったのも、彼が誘ってくれたからでした」
滝本「……」
満島「マンションの管理人さんにアパートの屋上に入れてもらってですね、寒い寒いって笑いながら二人で双子座流星群を見たんです。空気がきんと冷えていて、晴れた日の海みたいに、白くて綺麗な星があっちこっちに瞬いていて、じーっと目を凝らしていると、一瞬だけ夜空に白い線が走るんです。流れ星が流れるたびに親友と見つけたってはしゃいで、ふざけあって、だけど、次第に言葉が少なくなって、お互いに黙り込んでただじっと夜空を見続けたんです。今まで見たことないくらいに星が綺麗で、両親が離婚する前のこととかをブワッと思い出してしまって、やばいって思った時は泣いてたんです。親友は気づいていなかったのか、それとも気付いてたけど、何も言わないていてくれたのかはわかりませんが、何も言わずに一緒に星を見てくれていました。それが私の生まれての天体観測で、私が天文学者を目指すようになった原点なんです」
滝本「じゃあ、これからはその親友さんの名前がついた星が空で輝き続けるということなんですね」
満島「ええ、昔のあいつみたいに、明るい星が生まれると思います」
滝本「楽しみですね」
満島「おっと、もうこんな時間なんですね。明日朝も早いので、切り上げさせてもらって大丈夫ですか?」
滝本「どうぞどうぞ。お気遣いなく。こっちが勝手に電話をかけているんですから、遠慮なく切って下さい」
満島「私もお話しできて楽しかったです。それでは」
滝本「あ! すいません、最後にもう一つだけ質問させてもらえませんか?」
満島「ええ、大丈夫ですけど」
滝本「満島さんはイカスミのパスタは好きですか?」
満島「イカスミのパスタですか? いえ、好きも何も一度も食べたことがないですね……。でも、どうして?」
滝本「いえいえ、深い意味はないです。ただ、小学校の時に親が離婚した男性には必ずこの質問をするようにしているんです。お付き合いいただきありがとうございました」
満島「いえいえ、それではさようなら」
滝本「さようなら」
滝本が受話器を置く。受話器を置いた後で、大きく伸びをし、両腕をゆっくりとさすり出す。しばらくすると、公衆電話から着電の音が聞こえてくる。滝本は凝った肩を回した後で、公衆電話の受話器を取る。
謎の女「世界は今日も順調だった?」
滝本「開口一番に聞いてくるのは新しいパターンですね」
謎の女「私も私なりに、飽きさせないような工夫をしているのよ。それで、どうだった?」
滝本「そんなこと聞かれても僕にはわからないです」
謎の女「いっつも同じ返しね。少しは私を楽しませようと気持ちはないわけ?」
滝本「そもそも、それほどみんな順調な毎日を送ってるとは思えませんよ。奇跡なんてものはなかなか起きないから奇跡なんだし、映画じゃないんだから、そんなに都合のいい展開だって起きることもない」
謎の女「私はそうは思わないわ」
滝本「と言うと?」
謎の女「こういう風にも考えられるんじゃない? 本当は私たちの人生は上手くいくようになっていて、上手く行ってない時の方が間違ってるんだって。だから、いわゆる人生の奇跡とか、都合のいい展開なんてものは特別なものじゃないの。それは起こるべくして起きるもので、ただ神様がサボってて、今まで先延ばしになっていただけ。そうね、言い換えるなら、『ずっと横になっていた運命がようやく重い腰をあげた』って感じ」
滝本「『ずっと横になっていた運命がようやく重い腰をあげた』ですか。ポジティブな考え方ではあるけど、同意はできないですね。奇跡なんて滅多にお目にかかれないし、都合のいい展開だってそうそう起きるもんではない」
謎の女「考え方は人それぞれだからね」
滝本「確かに」
謎の女「それに、人生はそれほどうまくいかないって言うのは、あなたの舞俳優人生がそうだからそう言ってるだけに聞こえるわ」
滝本「……寒くなってきたし、そろそろ電話を切ってもいいですか?」
謎の女「どうぞどうぞ。私が勝手に電話をかけているだけだから、あなたが好きなタイミングで切ってもらって大丈夫よ」
滝本「じゃあ、お言葉に甘えて」
謎の女「ちなみに、先月のあなたの舞台、良かったわよ」
滝本「一体なんで僕のことをそんなに知ってるんです? そこまで知られてると逆に怖いんですけど。もしもし? もしもーし?」
滝本はため息をつき、受話器をもとに戻す。
それからハローページを開いてたが、すぐに閉じてバックにしまう。
寒そうに両腕を組み、壁にもたれかかるように背中を丸め、目を閉じた。
*****
○人気のない通りに置かれた公衆電話ボックス
受話器の電話を持ったまま、何かを考え込む滝本。
机の上には閉じられた状態のハローワークが置かれている。
それからじっと考え込んだ後で、番号を押して電話をかけはじめる。
升野「もしもし、どなたでしょうか?」
滝本「久しぶりです。僕ですよ、僕」
升野「……私の知り合いには『僕』っていう名前の人はいないんだけど。今更なんか用?」
滝本「そこまで邪険に扱わなくてもいいじゃないですか。ただ声を聞きたくなったんですよ。今日は特に冷え込んでますからね」
升野「もう別れたからチケットを売りつけようと思っても無駄だからね」
滝本「そんなんじゃないですって。ただですね、最近何か良いことあったかなって聞きたくて」
升野「別れた彼女によくもまあそんな呑気な質問できるよね?」
滝本「まあまあ、そんなこと言わずに」
升野「良いことと言えば、最近新しい彼氏ができたことくらいかな」
滝本「……」
升野「まあ、これは嘘だけどね。自分から振っておいて、未練があるなんて意味不明だわ。そっちはどうなの? お芝居の方は順調?」
滝本「お金が全然なくて、公衆電話ボックスの中で暮らしてるくらいには順調ですよ。少なくとも、君と別れた時とは変わってないです。でも、もうそろそろこんな生活も終わりですかね」
升野「どういうこと?」
滝本「そろそろ就職しようかなと思ってるんです。舞台の経験はあるから、これからは裏方として頑張るって言うのもありなのかもしれないと思って」
升野「またあのちょび髭演出家から何か言われたの?」
滝本「ちょび髭って……岡本さんのことですよね。別にあの人は関係ないですよ」
升野「そうかしら。私たちが別れるきっかけになったのも、あなたが演出家の岡本さんからすっごくキツく指導されて、どうしようもなく荒れちゃったからじゃない。他の人にはそこまででもないのに、あなただけまるで親の仇みたいに厳しくされてさ、自分にはやっぱり才能がないんだってすっごく落ち込んでいたの、忘れたの?」
滝本「それは事実ですけど……。関係ないです」
升野「じゃあ、岡本さんと仲直りした?」
滝本「正直あの人は、何を考えているかわかんなくて怖いんです。演出家と俳優の先輩としてはすごく尊敬しているんですけどね」
升野「まあ、いいや。もうあなたとの関係が終わったから私からやいのやうの言う権利はないけどさ、そんな簡単に諦められるわけ?」
滝本「十年以上悩み続けたんだから、簡単に諦めたと言われるのは心外ですよ」
升野「……それは、ごめん。あなたなりに色々と悩んでたもんね。でも、辞めようと思ったきっかけは何?」
滝本「夢を諦められない理由の中に、いつの間にか今までの苦労を無駄にしたくないという理由があることに気が付いたんです。それはもう夢でも目標でもなく、単なる執着です。損した分をさらにギャンブルで取り返そうとする人たちの気持ちが今ならすごくわかりますよ。今までの苦労が勿体無いという考え方じゃ、今までみたいに周りに迷惑をかけてまで夢を追い続ける自信が私にはないです」
升野「前も話したことがあるかもしれないけど、私はあなたが演劇の夢を追いかけ続けていることを迷惑だと思ったことはないからね。なんなら私が稼いであなたを養うことだってできたわけだし。ただ、あなたが勝手に私に迷惑をかけているって思い込んで、自分の首を絞めてたわけだけどね」
滝本「弁解の余地もございません」
升野「私は評論家でもないし、あなたと出会うまでは演劇なんて観に行ったこともなかったけど、それでも私はあなたの演技はすごいって胸を張って言える。元彼だっていう贔屓目はあるとしても、あなたならきっと売れるって気がしてるの」
滝本「映画やドラマじゃあるまいし、そんなに都合のいい展開は起きませんよ」
升野「いつ引退する予定なの?」
滝本「今度知り合いが運営している会社の面接に行くんです。それで良い返事が来たら、それでもう引退という感じですね。少ない荷物をまとめて、この狭い公衆電話ボックスともお別れです」
升野「考え直すつもりはない? あなたの人生がハッピーエンドものの映画だとしたら、幸せな展開は最後の方にやってくるものよ」
滝本「そんな上手いことはいきませんよ。実際の人生じゃ、舞台俳優で生計を立てるのはなかなか上手くいかないし、ずっと昔に生き別れた息子と再開できるわけでもない」
升野「生き別れた息子?」
滝本「それは例えですから気にしないでください。じゃあ、そろそろ切りますね。久しぶりに話ができてうれしかったです」
升野「就職したらまた連絡してね。就職祝いくらいはしてあげるから」
滝本「あ、そうそう、思い出した。君が僕の家から出て行くときに、勝手に引き取った金魚は元気ですか?」
升野「勝手にって人聞きが悪いわね。世話してるうちに情が湧いて、無理言って引き取らせてもらったのは事実だけどさ。『ダンディ坂野』は元気よ。小学生のあなたから適当な名前をつけられてから、こうやって十年以上生き続けるなんて本人もびっくりしてるでしょうね。でも、どうして急に?」
滝本「いえ、この前人と話していて、偶然その話になって、思い出したんです」
升野「そうなんだ」
滝本「今度、新しい星が生まれるそうです。その人から教えてもらいました。」
升野「私たちが知らないだけで、毎日そういうことが起きてるのかもしれないね」
滝本「ええ、本当に。それじゃあ、さようなら」
升野「うん。さようなら。今日の夜はすごい冷え込むらしいから、身体には気をつけてね」
電話の切れる音。滝本が電話をおく。それから両手を擦り合わせ、息を吐く。
それからハローページを再び開き、次に電話をかける相手を探し始める。
******
○人気のない通りに置かれた公衆電話ボックス
滝本は電話をかけていて、足元には大きめのカバンが数個置かれている。
公衆電話ボックスないの引き出しからは滝本の私物は無くなっている。
滝本「井口さんはイカスミのパスタは好きですか?」
井口「イカスミのパスタですか? いえ、正直あまり好きではないですね……。でも、どうして?」
滝本「いえいえ、深い意味はないです。ただ、小学校の時に親が離婚した男性には必ずこの質問をするようにしているだけなんです。それじゃ、さようなら」
井口「さようなら」
滝本が電話を切る。開いていたハローページを閉じ、それをカバンの中に入れる。
それから置き忘れがないかを十分に確認した後で、足元に置かれたカバンを持ち上げる。
そのタイミングで公衆電話から電話が鳴り始める。
滝本は少しだけためらった後で、ゆっくり電話をとる。
謎の女「ほとんど毎日お話ししていた仲なんだから、一言くらいお別れの挨拶をしてもよくない?」
滝本「そう言われても、こっちからあなたに電話をかけることはできないですし……。それに引っ越しのことはずっと前からお話ししてるじゃないですか」
謎の女「まあまあ、それでも最後なんだから、聞きたいことがあったらなんでも聞いて良いのよ?」
滝本「そうですね……。じゃあ、この際だから聞きますけど、あなたは一体何者ですか? 私がこの公衆電話ボックスに住み始めてから、ほとんど毎日電話をかけてきてますよね。それに、どうやって公衆電話に電話をかけてきてるんだろうって不思議でしょうがないですよ」
謎の女「引っ越しの前に聞かれたら魔法を使ってるって説明した所だけど、まあ、最後だから教えてあげる。別に魔法でもなんでもなくて、私はただ公衆電話を管理してる会社の人間ってだけなの。あんまり知られてないけど、公衆電話にもそれぞれ電話番号が降ってあって、私はそれに電話をかけてるだけなの。私はそこそこお偉い立場だから、こういうこともできるんだよね。どう? 逆に幻滅しちゃった?」
滝本「いえ、説明されたらなんだか妙に納得しちゃいました。その程度の秘密なら初めから言ってても良かったんじゃないですか?」
謎の女「そんなんじゃつまらないでしょ?」
滝本「公衆電話に電話がかかってくるのは良いとして、どうして僕のことを知ってるんですか? 僕が舞台俳優をやってることとか、どの舞台に出てるのかも知ってたじゃないですか」
謎の女「それも単純なこと。ただ、私が数少ないあなたのファンだってだけ。公衆電話ボックスを賃貸として貸し出しているのもうちの会社が管理していて、どの公衆電話ボックスに誰が住んでいるのかも知っている。そこで偶然目に止まったのが、本名で活動しているあなたの名前。で、愛の重い一ファンである私が、職権を濫用して、あなたに電話をかけていたってわけ」
滝本「なんというか」
謎の女「なんというか?」
滝本「種明かしをされたら、逆に現実ってこんなもんなんだなって思っちゃいましたよ。逆に、全然売れてない舞台俳優なのに、どうして僕のファンになっているのかがミステリーです」
謎の女「ああ、それはね、きっかけがあるの」
滝本「きっかけ?」
謎の女「ちなみに電話でしか話していないけど、私の姿って一体どんな感じでイメージしてる」
滝本「イメージって言われても……。人柄ならまだしも、私と同年代か少し上の女性というくらいしか想像できませんよ」
謎の女「期待させておいて残念だけど、私って実は女性じゃないの。いや、正確には戸籍上は女性ではないって言った方が正しいかな。見た目と声は手術で、今はもうすっかり女性になってるから。高校生までは、本当にそこらへんにいる男の子だったんだけどね」
滝本「……ちょっとびっくりしちゃいましたけど、それがどう関係してるんですか?」
謎の女「暇な夜なんかはね、私みたいな立場の人が接客をやってるバーに行ったりしてるの。で、その行きつけのバーなんだけどね、そういう特殊なお店だから、面白半分で色んな人が来店するの。芸能人とか、それと舞台関係者の人とかね。偶然隣に座って、色々と話をすると、あの有名な舞台の演出家だったりするわけ。あなたのことも、そのバーで聞いた」
滝本「僕の話をですか?」
謎の女「ええ。名前は……何だったっけ。小太りで、ちょび髭がチャームポイントだったのは覚えてる。ああ、そうそう、岡本っていう演出家の人。その人と偶然隣になってね、色々とお話をしたの。で、お酒が回った時に、彼が愚痴を言ってたの。才能があるのに、自分がその才能を信じられずに縮こまってる奴がいるって。舞台稽古で見ていても、才能がある分、どうしようもなくもどかしい気持ちになるんだって。自分がもっと器用に導いてやれたらいいんだけど、そういう器用さは自分は持っていなくて、だけど、なんとかしたいって気持ちだけが先走って、どうしても強くあたっちゃうんだってさ。それからその人は、滝本のばかやろーって大声で叫んで、ママからめちゃくちゃ注意されてた」
滝本「……」
謎の女「その人の話を聞いて、あなたに興味を持ったってわけ。そこまで言うんだったら観てやろうじゃんかってさ。で、あなたが出ている舞台を見に行って、あなたの演技に感動して、今に至るってわけ。あ、ただ売れないから不憫に思って、ファンでいるわけではないからね。その程度だったら、とっくの昔に飽きて、今頃別の人を応援してるから。だから、あなたが夢を諦めてしまうことはすごく嫌だし、自分ができることであればそれをなんとかしてあげたいっていう気持ちにもなる。引き出しの奥に、封筒があるはずだけど、それを探してくれる? この前、あなたがいないうちに、こっそり入れておいたの」
滝本が不思議そうに眉を顰め、引き出しへと手を突っ込む。
引き出しから封筒を取り出し、そこの裏表に描かれた文字を確認する。
謎の女「私の知り合いにね、業界ではかなり有名な演出家がいるの。その人にあなたのことを話したらね、興味を持ってくれたの。それから、今度やる舞台のオーディションに来て欲しいって言ってくれた。で、それは私がその人から直々に受け取ったオーディションの招待状」
滝本「今更こんなものをもらっても……困ります」
謎の女「もちろんこれはファンである私のエゴだし、強制することはできない。でも、少なくとも、あなたに舞台俳優を続けてほしいという人がいるということだけは知っておいてほしい。もし舞台俳優をやめることになったとしても、その事実だけは忘れないでほしい」
滝本「オーディションを受けたからって上手く行くと決まったわけでもないですよ……。人生と映画は違いますし、都合の良い展開なんて滅多に起こらない。実際の人生じゃ、舞台俳優で生計を立てるのはなかなか上手くいかないし、ずっと昔に生き別れた息子と再開できるわけでもない」
謎の女「生き別れた息子?」
滝本「それは例えですから気にしないでください。言いたいのはそんな上手く行くもんじゃないということです」
謎の女「もちろん。私のコネがあったとしても、オーディションでは落とされるかもしれないし、もし首尾良くオーディションに合格したとしても、それで薔薇色の人生が始まるというわけではない。こういう小さな希望に裏切られ続けて、何もないままずるずると月日が経っていったという側面もあるかもしれない。だから、決めるのはあなた。でも少なくとも、自分を納得させるためだけの嘘をつくのはやめてほしいの」
滝本「……」
謎の女「それとね、初めてあなたの舞台を観に行った時の演劇。すごく感動したの。あの演劇を観た時、ああ、この演劇はきっと私のために作られたんだなって本気で思った。脚本も演出も、そして、それを演じていたあなたに、すごく心を揺さぶられた。そういう出会いってなかなかできるものじゃないの。あなたも、演劇の世界にいるなら、私が言ってることってわかってくれるでしょ?」
滝本「……上手くいかないものですね」
謎の女「何が?」
滝本「せっかく自分で自分を納得させて、諦めようとしていたところに、こんなことを言われるなんて。運命の神様なんてものは信じませんが、もしいたとすれば、相当なサディストなんでしょうね」
謎の女「弱腰なあなたのケツを叩いてくれる、お節介おばさんなだけかもしれないわよ」
滝本「ええ、行きますよ。行ってやります。やっぱり人生は上手くいかないということを証明するだけだったとしてもね」
謎の女「あなたの舞台。楽しみにしてる。もしその舞台に出れることになったら、お母さんも連れて行くからね」
滝本「お母さんだけじゃなく、お父さんもご兄弟も呼んでくださいよ」
謎の女「お気持ちは嬉しいけど、父親はいないの。私が小学生の時に離婚して、それっきりだから」
滝本「父親とずっと会っていないんですか?」
謎の女「ええ、小学二年の時に両親が離婚して、それ以来会ってないわ。元々家庭を顧みる人ではなかったから、離婚が決まった時もそれほどショックではなかったし、今ではもう顔も思い出せない。でも、不思議と嫌なイメージはないの。唯一覚えてる思い出が、ちょっとだけ素敵な思い出だから」
滝本「思い出ですか?」
謎の女「そう。笑っちゃうくらいにちっぽけな思い出だけどね。小学二年生の時、何かの用事でお母さんが夜に出かけて、お父さんが近所のファミレスに連れて行ってくれたの。でも、普段から全然コミュニケーションをとってないからさ、ほんと知らない人といきなり食事をしてるみたいな感じですごーく気まずかったわけ。何話していいかなんてわからないし、何食べたいって言われてもさ、遠慮しちゃって何でもいいって言っちゃったのを覚えてる」
滝本「……」
謎の女「でもね、私は何でも良いって言ったけど、本当は食べたい料理があったの。でも、それをお願いするのは何だか気まずかったから黙ってたんだけど、お父さんはね、まさに私が食べたかったものを注文してくれたの。今考えたら不思議なことじゃないんだけど、子供の頃の私にはそれがすっごい衝撃的だったの。なんで私の食べたいものがわかるんだろうってさ。今考えたら……仕事仕事って人だったけど、心のどこかでは子供のことを気にかけてたんだなって思う。顔も思い出せないし、もう会うことはないと思うけど、それでも人生のどこかのタイミングで、誰かから強く想われていたってことが、しんどい時とか辛い時に支えになってくれるから」
滝本「……一つだけ。一つだけ聞いて良いですか?」
謎の女「何?」
滝本「イカスミのパスタはお好きですか?」
謎の女「なんで、小学校の時からの大好物をあなたが知ってるわけ? 超能力?」
滝本「……」
謎の女「ちょっと黙ってないで何か言ってよ」
滝本「こういう時になんて言えば良いのかを思い出していたんです」
謎の女「どういうこと?」
滝本「思い出しました。こういう時のことを、『運命がようやく重い腰をあげた』って言うんでしたっけ」
謎の女「何それ」
滝本「いえ、なんでもないです。用事を思い出したんで、電話を切って良いですか?」
謎の女「ちょっと待って。一番大事なことを聞き忘れてた」
滝本「何です?」
謎の女「今日も世界は順調だった?」
滝本「前から不思議だったことのもう一つを思い出しましたよ。一体、その質問はなんですか?」
謎の女「これはね、私が初めてあなたの舞台を見に行ったときに、あなたが言っていたセリフ。あなたにとってはたくさんあるセリフのひとつかもしれないけど、私にとってはすごく印象的なセリフだったの。というか、自分のセリフくらいは覚えておきなさいよ。で、どうだった? 世界は今日も順調だった?」
滝本「わからないです。だけど……」
謎の女「だけど?」
滝本「順調になると良いですね」
謎の女「そうね。じゃ、さようなら」
滝本「さようなら。また、いつか」
謎の女「ええ、またいつか」
電話の切れる音。滝本がゆっくりと受話器を置く。
滝本は封筒を握りしめ、それを胸に当てる。滝本はじっと目を瞑り、静かに項垂れた後で、ハローページを開き、電話番号を探し始める。
目的の電話番号を見つけ、滝本が電話をかけ始めたところで、舞台が暗転する。




