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夫婦星

「うん、完璧」

 その声を聞いて、僕は小さく拳を握りしめた。三十何回目かの正直。まだ何も始まっていないのに、全てをやり遂げたような気分だった。

 望遠鏡をスムーズに動かすためのバランス調整で三時間。

 彼女がすればものの数分で終わるはずの作業なだけに、達成感の次には感謝の念が止らない。

「ありがと、付き合ってもらって」

「明日の晩ご飯で手を打ってあげる」

「ん~、まあ、いいけど」

 そう言い終えて、僕と財布が耐えうる限り……と小さく付け足した。酒豪相手の晩酌は、いろんな意味で骨が折れる。

 黒い世界で、それだけはそうと分かる白い息を吐いて、僕は空を見上げた。

 澄み切った春の夜空に、星々は燦々と輝く。日付は少し前に越えていて、東の空には天の川が見え始めていた。

 それは、ただただ美しい世界で……この空を二人で見れたことに、無性に感謝したくなった。

「それにしても、ケイが望遠鏡を立てたいだなんてね。この快晴が信じられない」

 僕が自分から望遠鏡をさわろうとしたのは、きっと、望遠鏡を初めて立てようとした時以来だろう。時間にして、六年以上前。あのときは、まだ中学生だった。

「まあ、たまには、ね」

「そのたまにがこんな快晴になってくれるなんて、誰が想像できたかな」

「さあ、神様とか?」

「神様でも無理だろうよ。昨日までは、予報は雨だったんだし」

「もしかしたら、すぐ雨が降るかもよ?」

「縁起でもない事言わないでよ。この望遠鏡いくらしたと思ってるの」

「30万だっけ?」

「正解。あんたの雨で壊れたら承知しないからね」

「……僕、一応先輩なんだけど」

 彼女は、浪人して僕と同じ大学の、同じサークルに入って来た友人だった。小中が同じで、高校で離れた、よく知った間柄。

「先輩面は、私より背が高くなってから言ってほしいな」

 彼女は、高校で背が伸びたらしい。再会したとき、目の位置が逆転していて分らなかった。

「男子の平均身長越えてる人に言われたくないよ」

「平均以下のくせに」

「成人女性のバストの平均っていくらか知ってる?」

「夜空に輝く星にしてあげようか??」

 彼女が拳を構える。

「伏して謝らせていただくよ」

 こんなくだらない掛け合いも、何百回目だろうか?

「私は心が広いから、許してあげるわ。それより、早くしてよ」

「何を?」

「決まってるじゃない。望遠鏡を立てるのは私。星を見せるのも私。でも、星の話をしてくれるのはケイ。ずっとそうだったでしょう?」

 だったら、今日は、彼女が星の話をするべきな気がするのだけれど、それは口に出さなかった。なにせ3時間も付き合ってもらったのだ。恩返しになるかは分からないけれど、頼まれたならさせてもらおう。

 僕は、再び空を見上げた。

「あそこに見える北斗七星をこうやってたどると、北極星があるから、向こうが北。で、90度ずつ時計回りに、東、南、西、で、方角はOK?」

「流石にわかるよ」

「はいはい。北斗七星を今度は南にたどっていくと、アークトゥルスとスピカがあって、春の大曲線になる。それから、二つの星ともう一つ、近くの明るい星デネボラを結んで、春の大三角」

「早く物語を聞きたいなぁ〜」

「うるさいなあ。じゃあ、春の大曲線をたどった先にいる、カラスの話でもしよう」

「どんな話?」

「磔になったカラスの話」

「あらら。いつもはカァカァうるさいけど、磔はちょっと可愛そうね」

「そうかもね。でも、このカラスはただのカラスじゃないんだ。神を騙したカラスだから」

「神様が騙されるの?」

「まーね。ギリシア神話の神々は、人間味があって良いでしょ?

 しかも、騙されたのは、かの有名な太陽神アポロンなんだよね」

「アポロンかぁ、聞いたことある名前ね」

「でしょ。で、例のカラス、昔は白銀の羽を持っていて、アポロンとその妻コロニスの伝令役を務めていたんだけど……」

「伝書鳩じゃなくて伝書カラスだったんだ。神さまも不便ね」

「なんで?」

「スマホがないなんて、不便じゃない?不便というか、不憫??」

「スマホを使う神様なんて、ロマンのかけらもないじゃん――――そうじゃなくって……このカラスは、ある日アポロンに嘘をつくんだ」

「どんな嘘?」

「あなたの妻コロニスは、浮気してますよって」

「で、アポロンはどうすんの? まさか、妻のところに殴り込みに行ったりしないよね?」

「そのまさかだよ。アポロンは、妻の家まで行って、『きっと家から最初に出て来るのが浮気相手だ!』って決めつけて待ち伏せするんだ。そして、出て来た人影に狙いをすませて矢を放った」

「それで、どうなったの?」

「そこは、太陽神アポロン。放った矢は見事に命中して、一発で得物の命を奪った。けれど、よく見ると彼がいた相手は……」

「……最愛の妻、コロニスだった」

「そう。嘆き、怒り狂ったアポロンは、銀翼の嘘つきカラスの翼を真っ黒に染め上げ、空に磔にしてしまったんだ」

「災難な話ね。誰も幸せにならない」

「そうだね」

 そう言って僕は、大きく息を吐いた。

 深呼吸のようでもあり、溜息のようでもあり、吐き出された白い吐息は、闇の彼方へと消えていった。

 最愛の妻との永遠の別れは、太陽神アポロンにどれだけの悲しみを与えたのだろうか。しかも、その死を与えたのが、自分自身だとしたら。

 自分だったら、どうだろう?

 僕の最愛の人は…………??

「せっかくだから、これを見てよ」

 沈黙を突き破って、燐とした声が響いた。それは、悶々とした疑問を打ち破って、燦々たる星空に僕の目を導いた。その間に、彼女は慣れた手つきで望遠鏡を操作して、10秒もたたないうちに彼女がこちらを振り返った。

「これ!」

 言われるままにのぞいた先には、眩しすぎるくらいに輝くオレンジ色の星。

「大角だね」

「アークトゥルスって言えよ」

「中国の天文では、伝統的に大角って言われてるんだよ。二十八宿っていう、全天を28に分けたうちの一つ、角宿に入っていたんだ」

「ハイハイ。難しい話はよくわかんないや。確か日本では……こめ星?、こむぎ星?……」

「残念、麦星だね。麦を刈る頃に、天頂にあったから麦星。ちなみに、スピカの日本名は真珠星。二つの星は夫婦星って言われてる」

「なんでだっけ?」

「さあ。昔の人のことなんて知らないよ」

「じゃあ、あんたはどう思うの?」

 ん~、僕は、どう思うのか。

 どうだろう?

 少し考えて、思った。

「春の夜空で、麦星はオレンジ、スピカは青白く見えるでしょ? 光方の違う、けど、何か惹かれるふたつの星。私たちも惹かれるんだから、きっとお互いも惹かれているに違いない。だから、夫婦星って名前をつけたんじゃない?」

「星が、惹かれ合うか」

「実際、近付き合ってるしね」

「え、そうなの?」

「重なるのに、6万年くらいはかかるけど」

「そっか、じゃあ、私が生きてる間には無理だなぁ」

「空の景色がそんな簡単に変わっちゃったら、がっかりじゃん」

「まあ、それもそうだけど、でも、お互いに近づく春の星かぁ……いいなぁ」

「ん?」

「だってさ、憧れない? 夫婦星」

「…………」

 夫婦星、か。なんだか、聞き慣れたはずのフレーズが、胸の中で何度も繰り返される。

「あ、いや、えっとね……忘れて」

 必死に取り付くろおうとする彼女に、僕も闇の中で必死に頷こうとした。

「うん。わかっ……」

 けれど、その声を彼女が掻き消した。

「やっぱりいい!!」

「え?」

「やっぱりいい。忘れないでいい」

「……うん」

 それから、どのくらい時間がたったのか分からなかったけれど、10秒か、1分か、1時間か。僕の時間は止まったままだった。こんな時、どんな言葉を言えばいいのか、さっぱり分らなかった。分るはずもなかった。

 でも、何か言わないといけない。

 言葉を考えては取り下げる。たったそれだけの作業で頭がスパークしそうになったとき、彼女の声が聞こえて、また時間が流れ出した気がした。

「あのさ、笑わないで聞いてくれるかな」

 いつもは凛とした彼女の声は、少し揺らいで聞こえた。

「わかった」

 その揺らぎに答えるように、僕の声は上づって、裏返って、とても、残念な声になる。

「あのね。私、高校では全然勉強できなくって、大学も、ここよりずっと簡単なところ受けたのに、落ちちゃったんだよね。だけど、ケイがここに受かったって聞いて、ちょっと悔しくて、必死に勉強して、合格したの」

 あ、そうなんだ。彼女が今ここにいるのは、彼女が頑張った結果で、その理由が僕というのが、うれしくもあり、気恥ずかしくもあった。

「それで、なんとなく天文部に行ったら、ケイがいて、実はとても嬉しかった。まだ、あの時の約束忘れてないんだなぁって」

「…………」

 あの時の約束。

 なんだっけ、何の約束だっけ。

 僕は空を見上げる。満点の星空で。強く輝くのは、夫婦星。

「でも、ケイは星じゃなくって、お話の方に夢中になっちゃって。私はまた、それが悔しくて、バイトでお金を貯めて、望遠鏡を買って、いっぱい練習して、いつか、ケイと一緒に星を見れたらなあって、ずっと思ってた」

 あ、そうか。

 僕の胸の中で溶けていく時間は、今だけじゃなくって、きっと、過去も。

「だから、嬉しかったよ。ケイが誘ってくれて。望遠鏡を立てたいって言ってくれて」

 彼女の声は震えていて、今にも泣き出しそうだった。昔僕らが、別れの夜に、一つの約束をした時のように。

『あのオレンジ色の星と青色の星を一緒に見たら、その時は――――』

 その時はまだ、神話なんて興味がなかった。ただ青い星とオレンジの星を見て、綺麗だなと思っていただけで。その時の夜空は、こんなにきれいじゃなかったけれど、そのなかで、その星々は、美しく輝いていて。

 あの時の彼女の泣き声と、僕の舌に広がるしょっぱい味。

「僕も、忘れていたわけじゃなかったんだよ。ただ、自信がなかっただけ。ごめんね、言い出せなくて。ごめんね、避けていて」

「謝る声なんか、聞きたくない」

 僕は一瞬迷って、そして黙って、目の前の望遠鏡を、少しいいじった。数年ぶりの操作が少し難しかった。心臓の鼓動で、視界がぼやけるようだった。けど、何分かの苦闘を経て、やっと、目的のものを見つけた。

「ほら、見てみなよ」

 涙を拭く音、そして、彼女は望遠鏡を覗いて言った。

「下手くそ。ぼやけて、何も見えないよ……」

 涙声でいう彼女の頭にそっと手を置く。

「でも、ちゃんと見れたね」

 そのまま、少しだけ待った。彼女が、望遠鏡から目を離して、立ち上がって、僕の手が頭から離れて。目線が僕よりも高くなって、そして、二人の間に何かが張り詰めて、張り詰めて、静かに、何かが満たされていって、いっぱいになって、遂にパッとはじけたと思ったら、彼女の声が、聞こえた。

「好き……大好き。ケイ、結婚して」

「……お願いは、それでいいの?」

「いい。私は、それだけでいい」

「自分より身長が低くても?」

「身長は関係ない」

「わかった。ありがとう」

「ケイは? ケイは、願い事しないの?」

「うん、僕も……ユリが好き。だから、絶対に。結婚しよう」

「バストが平均以下でも?」

「そんなもの、関係ない」






 夜の闇の中に、白い息。

 もう春が始まっているというのに、冷たい風が頰を打って、二人は同時に身震いした。 街灯もない田舎の公園は、絶好の観測場所で、ブルーシートの上に寝袋を敷いて、二人はこっそりと手を繋ぐ。白い息と一緒に、少年は口を開いた。

「明日でお別れなら、ひとつだけ約束をしようよ」

「どんな約束?」

「あのオレンジ色の星と青色の星を一緒に見たら、その時は、お互いにひとつずつお願いをするんだ」

「絶対に叶えるって約束してくれるなら」

「約束する」

「わかった。絶対に、絶対だからね」




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