落涙
灰色の雲が、世界を飲み込むようにたれ込んでいた。
見ているだけで憂鬱になる。
僕は、モノクロの空から目を逸らした。
憂鬱な理由はもう一つある。さっきの出来事が脳裏を掠めて、ぶるっと身震いをした。
彼女と喧嘩をした。もう付き合って半年になる。初めての、喧嘩らしい喧嘩だった。
別に、浮気をしたわけじゃない。
『星がそんなに綺麗だろうか?』
部活動で天体観測に行けなくなった彼女に、そう言ってしまったのだ。
始めは冗談のつもりだった。ちょっと嫉妬もあったかも知れない。けれど、売り言葉に買い言葉。口論は烈火の如く激しさを増し、自分の理性を制御していたはずだった何かが、パチン。と、音を立てて壊れた。
気が付くと、手が出かかっていて……僕は、なけなしの理性にすがって、逃げるようにその場を後にした。
ひび割れたアスファルトの上を、とぼとぼと歩く。公開ばかりが脳味噌を埋め尽くし、焦燥に駆られてでたらめな道を進んでいくと、当然。と言うべきか、正気に戻ったときには、見知らぬ路地裏に迷い込んでいた。
「はぁ・・・・・・」
と、溜息。
どうしたものかと辺りを見渡していると、一軒の喫茶店が目に止った。
“豊かな香りと、寛ぎの空間を”
あまりにもありきたりすぎて突っ込む気も起きないキャッチフレーズの下には、薄緑色の文字で“鶯”とある。これが、店の名前なのだろう。引き寄せられるように、真鍮製のドアノブに右手がかかった。
落ち着いた内装の店内には、コーヒーの香りが微かに漂っていた。ちらほらと客のいる店内を見渡して適当な席を見繕っていると、ふと、見覚えのある女性が目に入った。うっすらと青みがかった、黒髪のショートボブ。やや黒寄りのモノトーンコーデ。どこで見たのだろうと頭をひねる。
ああ、大学の学部歓迎会で、隣の席にいた人か。
名前は、確か……、ふるた……古田香織。
窓際の二人席で、半分ほどになったアイスコーヒのグラスをいじっている。目線の先には、スマートフォンがある。時々画面をスクロールしながら、表情もなく画面を見つめる。
ただそれだけだったら、きっと何も起こらなかっただろう。
僕の目を惹いたのは、A4の真っ黒な本だった。表紙には、金色の文字で、『星空大全』と仰々しく刷られている。
「それ、何?」
興味本位だった。
いや、彼女へのうしろめたさもあったかもしれない。
突然声をかけられて、古田さんは視線をスッと、僕の方へ動かした。
「沢村くん……だったかな?」
透明感のある声が、僕の名を呼んだ。
「……良く覚えてたね」
その声が琴線に触れて、僕は、慌てて言葉を返した。
「一度聞いた名前は、忘れないようにしているの」
そう言うと彼女は、一度ストローに口をつけてから、「立ってないで、座ったら?」と言った。少し戸惑って、結局、おとなしく彼女の隣に座る。
アイスコーヒーを一つ注文した。
「それは、何?」
「星の本。古代から現代までの星にまつわる話が、なんでも書かれる」
「なんでも?」
「そう、なんでも」
「面白いの?」
「悪くない。退屈しないから」
退屈しない程度の本を喫茶店に持ち込んでいる彼女は、なんのためにここにいるのだろうか。
大学生になって有り余った時間の潰し方に苦労しているのか。
それとも、他の誰かと待ち合わせでもしているのか。
「誰かが来るのを待っていたのかもしれない。例えば、私の話を聞いてくれる人」
そう言って、彼女は静かに頬を緩める。その微笑みが何を意味しているのか、少し考えたけれど、僕にはわからない。分らないことを考えても仕方が無いと言うことは、大学性になって散々思い知ったことの一つだ。
「僕は君の話を聞くために、たまたまこの店に入ってきたってことかな」
「そうかもしれないし。そうじゃないかもしれない」
「適当だなぁ」
「人間なんて、案外みんな適当だよ。言いたいことを言って、やりたいことをする」
「そして、時には争いをする」
口を突いて出てきてしまった言葉に、しまった。と思った。こんなところで言うような話ではない。
「彼女と喧嘩した?」
「なんで?」
「そんな顔をしてる」
僕をのぞき込むような黒い瞳に、少しだけ寒気を感じた。
正面を向いていられなくて、窓の外に顔を向ける。窓の外の灰色の分厚い雲は、さらに厚さを増した気がした。今にも泣きだしそうだった。
新しいアイスコーヒーがきた。僕の分。ミルクと少しのシロップを入れて、ストローでかき混ぜる。薄茶色の液体を一口、口に含んだところで、分厚い本が無造作に開かれた。
「仕方がないから、私が慰めてあげる」
「頼んだ覚えはないんだけど?」
「言ったでしょう。私も、話したいことがあるの」
「星座の話?」
「ええ、今のあなたにぴったりの」
彼は、キツネに包まれたような気分になった。彼女は、もしかしたら全てを知っているのではないかという気分にさえなる。これまでのことも、さっきまでのことも、そして、これからのことまでも。
開かれたページには、綺麗な星空が写っていた。
「これはね、冬の星空」
彼女は、静かに語りだす。
オリオン座くらい、わかるでしょう? 中学校でも習ったはずだし。冬の星座で一番みんなに知られているといってもいいと思うわ。
オリオンの左の足元には、おおいぬ座がいて、全天で一番明るい星、シリウスがある。
オリオンとおおいぬ座の少し東側には、たった二つの星でできた子犬座があって、二つの星のうち、明るい方がプロキオン。プロキオンと、オリオン座のリゲル、おおいぬ座のシリウスを繋ぐと、ほら、冬お夜空に輝く大きな三角形が出来上がる。
子犬座も、大犬座も、オリオンの相棒だった犬だと言われていて……そうそう。オリオンは狩が好きだったの。だからね……オリオンの足元のほら、この四角形――これは兎座っていうんだけど――このウサギは、オリオンがいつでも狩りができるようにって、昔の人が作ったそうよ。
ああ、なんだかかわいそうなウサギさん。
こんな話をみていると、ほら、退屈はしないでしょう?
それぞれの星座は、いくつかの神話を持っているときもあるのよ。
子犬座にも、もう一つ、有名な神話がある。
でも、ご主人様は英雄オリオンではなくて、同じく狩りの名手とされていた、アクタイオン。
ある日アクタイオンは狩りに出かけるのだけれど、運悪く山で道に迷ってしまう。彼は、なんとかして元来た道に戻ろうとするのだけれど、どうしても戻れない。やっとの思いで開けたところに出られたとおもったら、そこにはニンフと一緒に水浴びをする女神アルテミスの姿が……。
アルテミスは、純潔を尊ぶ処女女神。それに、大の狩り好きで、性格も男勝りなの。水浴びをしているところを見られて黙っているずがない。
怒ったアルテミスのかけたひとすくいの水で、アクタイオンは一頭の鹿に姿を変えられてしまう。突然現れた鹿に犬は驚き、獲物と間違えて鹿を噛み殺してしまうの。哀れな犬は、その後も帰らぬ主人を探し求めるけれど、もちろん主人は帰ってこない。
自分のしたことながら、犬を哀れに思ったアルテミスは、その犬を天に上げて星座にしたの。
どう?
退屈しないでしょう?
僕は、なんとも言えない気持ちになった。
無表情にこちらを見つめる彼女の意図が、全くわからない。
ふとすると、黒い瞳の深淵に飲み込まれてしまいそうで。
でも、目を逸らそうとすると、しがみついていた命綱が断ち切られるような恐怖に襲われる。
重たい雲はついに我慢することができなくなって、はらはらと雨粒をこぼし始めていた。空の灰色が、地上に降りて来たみたいだった。
そんな時、視界の隅に見覚えのある花がひらめいた。
赤色の傘だった。
くるっとこちらむ向いたその傘の持ち主は、数時間前に喧嘩した彼女だった。
古屋さんが、再び口を開いた。
「もう一つ、話を聞いてくれる?
子犬座を作っているもう一つの星の名前は“ゴメイザ”、意味はアラビア語で、“涙ぐむ者”」
目と目が合った。
ふらりと再び、赤色の傘が舞う。
「いいの?」
「勘定、これでいいよね?」
千円札を机において、僕は席を立った。
真鍮製のドアノブをひねって、外に出る。彼女が走って行った方の道に、僕も走った。
赤色の傘は、よく目だった。おかげで見失うことはないけれど、人混みが僕の邪魔をする。
「待って、、、香絵!!」
肩を掴んで振り向かせた。
「ごめん。さっきのこと。全部、全部謝るから!!」
やるせなく微笑む彼女の口が動く。
掠れてよく聞こえない彼女の声。
唇の動きと合わせて読み取った。
「もう、手遅れだよ」
音もなく溢れ出した大粒の雨粒が、ズブ濡れになった地面に落ちて行った。
喫茶店“鶯”の窓際のテーブルで、彼女は一つ呟いた。
ーーほら、やっぱり退屈しない。
そして開いたままだった冬の星空を、パタンと閉じた。