2-3 宗教統一と教国
ヒュージンは宗教間の激しい対立の中、スピナー教の教えををたくさんの人に説き、スピナー教徒を着々と増やしていった。
さらに、ヒュージンはのべ1万人余りのスピナー教徒を率いて、議会中のスピリッターズ議会堂を爆撃した。これをしたのは、宗教の自由を認めていたものの、アストラル人民連合国がアストラル教を国教としていたからで、ヒュージンの目指していた宗教統一を実行するには、この国を滅ぼすことが不可欠だった。
そして、諸島の人々の内、過半数をスピナー教徒が占めるようになると、ヒュージンは全スピナー教徒を議会堂跡に招集し、星教徒狂人説を唱えた。星教徒とは、アストラル教徒のことで、これはスピナー教の宗教統一を始めただけで、激しい対立が起こったのは、アストラル教徒が狂っているからだという説だった。ヒュージンはこの説の是認を強制し、その翌日、スカーレット島から全アストラル教徒を追い出した。
これらの動きをスピナー化運動と言い、スピナー化運動の後、宗教対立は収まったので、スピナー教徒たちはヒュージンたちを指示をするようになり、やがて、ヒュージン教国を建国した。ヒュージンは教皇を名乗り、星教徒入国禁止令を出し、入国してきたアストラル教は無条件に処刑された。
その頃、ヨーロッパではキリスト教を国教とするローマ帝国が勢力を伸ばしており、オリエントと呼ばれる文化が生まれたり、水道や闘技場などが設けられていた。




