桃太郎とその仲間たち
「おらおら! このゴミ野郎!」
あまりひと気のない公園だった。見れば中学生ぐらいの男子が、四、五人で輪を作ってなにやらわめき散らしている。その輪のわずかな隙間からは黒い塊のようなものが見えた。
「なにやってんだお前ら!」
こちらは、高校生くらいだろうか? コンビニの袋をぶら下げた少年が輪を作っている少年達を叱りとばす。
「ちっ……、行こうぜみんな」
その声を受けて少年達は輪を解き、さっきまでの威勢がウソのように小さく舌打ちをして、そそくさと逃げ出して行った。
「……大丈夫ですか? ……まったく、ヒドイ連中だ」
コンビニ袋の少年は輪の中にいた『黒い塊』へ話しかけた。話しかけると、少年の声に数秒ばかり遅れて黒い塊はモゾモゾと動き出し、
「お、おお、ありがとう……」
と、感謝を述べ『にゅっ』と顔を上げた。顔を見れば、『黒い塊』の正体は歯の抜けたジイサンだった。身に着けているのは元々が黒いのか、それとも汚れてそうなったのかも分からぬほどになった、ボロボロの服だった。
「いいえ、僕は当然の事をしたまでです。お礼など……」
コンビニ袋をさげた少年はさも当たり前のことをしたというような表情で答えた。その顔を、ジイサンはまじまじと見つめる。
「……似ておる」
「……はい?」
ジイサンは突然ワケの分からないセリフを言った。突拍子もない。
「……おじいさんのお知り合いにですか? 僕が?」
「うむ」
似ているらしい。このジイサンの知り合いに。この少年が。
「懐かしい……! まるで生き写しのようじゃ……。もっとよう見せてくれ」
ジイサンはそう言うと、少年の了承も待たず勝手に少年の顔や肩をあっちこち触りながら、『ふむふむ』とか『ほうほう!』と言った事をつぶやいている。正直、少年は助けた事を少しだけ後悔した。
「……うむ! 立派りっぱ! おぬし、将来は大物になるぞ!」
ジイサンはしきりに感心したあと、彼の肩を叩きながら大声で言った。
「はあ、どうも」
少年は少し困惑気味だ。このジイサンは何者だろう? 言っちゃ悪いが、パッと見にはただの浮浪者に見える。……言っちゃ悪いがね!
「そうだ! おぬしにコレをやろう。助けてくれた礼じゃ」
ジイサンは言うと懐から古ぼけた書物を取り出し、少年に与えてやった。
「え? あ、ああ、どうも……」
少年は思わず受け取ってしまった。ジイサンの顔がえらく嬉しそうだったので断りにくかったからだ。
「……だいぶ古いものですね。よろしいんですか? このように価値のありそうなモノを譲って頂いても」
ジイサンが差し出した書物は、少年のお世辞などではなく、いかにも年代物で価値ありげに見えた。ただし、それを譲ってくれた老人を見る限りそれはなさそうではあったが。
「うむ、構わん。礼と言ったであろう。それに、おぬしはワシの古い知り合いにそっくりだ。顔かたちも似ているが、腕白小僧どもからワシを救ってくれるあたり、正義感が強いのも似ている。さらにはその丁寧な物腰、いかにもというマジメ顔……、まさに瓜二つじゃ!」
ジイサンは懐かしそうに目を細めている。
「は、はあ、どうも……」
少年は褒められて、なんだか照れる気がした。
「良い機会じゃ、その者についての話を聞かせてやろう! まあ、その書物にも、その者についての話が書いてあるのだがな。まあよい。……さあ、座った、座った!」
『バンバン!』と右手でベンチを叩きながら、ジイサンは少年に自分のとなりに座るよう催促した。
(え、ええ~……)
少年はちょっぴり嫌だったが、『お礼』に古い本も貰ったし、ジイサンは話す気満々(まんまん)だしで、……仕方なく少年はジイサンの催促に従い、ジイサンの横に腰を下ろした。
「で、どういう方なんですか? その……僕に似ているというのは?」
少年は聞いた。
「ぐ~!」
少年の問いに応えるように、ジイサンの腹の虫が鳴る。
「よかったら、どうぞ」
『ガサゴソ』と少年はビニールから肉まんを二つ取り出し、そのひとつをジイサンに分けてやった。まったく、素晴らしい若者だ。
「ほっほ! ありがたい!」
ジイサンは嬉しそうに言うと、少しの遠慮も見せずに肉まんを頬張りながら、さっきの少年の質問に答えてやった。
「……桃太郎じゃ」
ジイサンは言った。
「はい?」
「だから桃太郎! ……はむはむ、コイツはウマい!」
桃太郎……!? 少年はどうやら善い行いをしたのにもかかわらず、とんだ災難に見舞われてしまったようだ。も、『ももたろう』ってアンタ……。
「桃太郎さんですか? ……だ、だいぶ変わったお名前ですね……」
「左様。だいぶ変わった男じゃった。しかし、同時に素晴らしい男でもあった。今からおぬしにする話は、その男の話じゃ。だ~れも知らない、真実のお話。それはむか~し、うんとむか~しのお話じゃ……」
……昔々(むかしむかし)、この世界にまだ『異界』と呼ばれる、不思議な生き物が暮らす世界が存在していた時代のお話。ある山の麓に、それはそれは柔和で親切なお爺さんとお婆さんが住んでいたそうな。その日、お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯をしに行っていた。
その日は少しだけ、いつもに比べて川の流れが早いような気がした。それに、山の雰囲気もなんだかざわついている様な気がする。
「……アラ!」
洗濯をしていたお婆さんが何かに気付いた。川の上流から、何かが流れて来る。
「なにかしら……カゴ?」
お婆さんが手招きをすると、あら不思議、上流から流れてきたカゴはお婆さんの所にまるで招き寄せられるようにして流れてきた。
それは確かに、籠だった。木で編まれた丈夫そうなカゴ。その中には脇差しが一振り置いてある。
「……あらまあ!」
お婆さんはカゴの中身を見てさらに驚いた。
「……『赤さん』じゃないの!」
カゴの中にはなんと赤ん坊がいたのだ。しかもこの赤ん坊、ただの赤ん坊ではなかった。皮膚が赤くてそれもウロコみたいに硬く、おまけに角まで生えていたのだ。その赤い肌を見る限り、確かにホンモノの『赤さん』ではある。
「あらら、どうしましょう?」
困ったお婆さんはしばし川べりに立ち尽くし、それから洗濯ものを片付けると、カゴに入ったままの赤ん坊を家まで持って帰った。
「予言の子じゃ!」
お爺さんはたいそう興奮した口振りで言った。
「予言の子ですか? はて、なんでしたか、それは?」
ずいぶんと鷹揚な口調で、お婆さんはお爺さんに尋ねた。
「三日ほど前じゃ。『御山』にいた『紫雲』様という仙人様が、ちょうど昇天する前にワシの元へやって来てこう仰ったのだ」
「ああ~、紫雲様ですか。あの方が何か仰っていたのですか?」
「ああ、仰っておったとも。そうだなぁ…、あれはたしか……つい近頃、山へ行った時の事じゃ」
『え~、オホン。翁よ、これから数日の後、この山に『異形の子』がやって来る。その子はたいへん数奇な運命の元に生まれた子で、この世に浅はかならぬ因縁を持って生まれ出たのじゃ。そこでじゃ翁、もしその子がこの山にやって来たら、お前に面倒を見てもらいたいのじゃ。そしてその子が数えて五つの年になった時、山の頂に生えた木になる『桃』を食べさせてやるのじゃ』
「はあ、『桃』ですか。しかし、山の頂上にそのようなモノが有りましたかな?」
『それはこれから生えてくる。きたる日は、『九の重なる日』だ。その日、ワシはこの天地と一つに成り、この人間の肉体とは完全に別れを告げる事となる。そしてワシが昇天したあと、その頭上から一筋の煙が上り、そこに紫の雲ができる。やがてその雲は世にも不思議な甘い雨を降らし、その甘雨が降った地面からは一本の木が生えてくる』
「その場所が山の頂ということでございますか」
『そうだ。そこに生えてくる木に『仙桃』はなる。木が実をつけるまでちょうど五年。そして実を与えた後は、その子の名を改め『桃太郎』と名付けるのだ。それまでは、その子の元々の名で呼んでやるといい』
「はあ、これまた突飛なお話で……」
翁は、すっとボケた様な顔つきをしたが、それも数瞬で、にわかに、
「かしこまりました。しかし、その子の元々の名はなんというので?」
と答え、殊勝な返事をした。
『案ずるな。その子の元々の名は、その子の傍らにある短刀の茎に彫られてある。……いいか、しっかり頼んだぞ、翁』
「はあ、頼まれました」
『うむ(ほんとうに大丈夫か、こやつ?)』
「…というような話じゃったのお。たしかに、三日前には山の方から、世にもめでたい笑い声が聞こえた。『もしや』と思って山のてっぺんを見やれば、そこにムラサキの雲があって、たくさんの雨を降らしておったな……!」
「そうですか、そうですか。それは、それは。……では、今日からこの子はウチの子になるんですねえ」
お婆さんは『にこ』とカゴの中の赤()さん()にほほえみかけた。
「そうじゃ、そうじゃ! 今日からこの子はウチの子じゃ! お婆さんや。どうやらワシらにも息子……いや、孫というモノができたみたいじゃの。ほっほ!」
二人はゆかいな笑い声を立てて笑った。その声に応えたものか、カゴの中の赤ん坊も、
『おぎゃ~!』
と、赤い肌の強面に似合わないぐらいの可愛らしい声を上げていた。
「鬼助、鬼助」
お爺さんが家の外に出て誰かの名前を呼ぶ。
「お~い……、おっ! そこにおったのか」
お爺さんの頭の高さよりもずっと高い所に、鬼助と呼ばれた子はいた。木の細枝に、赤ん坊がちょこんと乗っている。
「おお、おお。よくもまあ、そんな所に……。危ないぞい、鬼助や。いまジイジが下ろしてやるからなぁ」
お爺さんはそう言うと、
「ひょい!」
と、実に軽やかに宙を飛び、それから、
「サッ」
と鬼助を抱きかかえ、音もなく地面に着地するのだった。
『鬼助』
もちろん、例の『異形の子』の名前である。その名前は仙人の言う通り、カゴの中の短刀にしっかりと記されていた。
お爺さんとお婆さんは仙人の言いつけ通り、赤ん坊を『鬼助』と呼び、できるかぎりの愛情をそそいでなるべく自由に育ててやった。
しかしこの赤ん坊、どうも普通の赤ん坊とはちがっていた。なるほど、たしかに外見からしてすでに普通ではない。顔も体も全身余すところなく真っ赤っかであったし、皮膚の感触もまるで岩のようにゴワゴワしていて硬かった。それに犬歯がオオカミのように発達していて、とても人間とは思えない。実際、その鬼助を見た村の者が、
「ば、ばけもの!」
と腰を抜かしてしまったことがある。
お爺さんとお婆さんの家は村から少し離れた所にあり、めったに村の者が訪れる事はなかったが、偶然山へ山菜を取りに行った若者が、その日は思った以上の収穫があったので、お爺さんとお婆さんにも分けてあげようと訪れたのであった。その時、この若者は鬼助が外でひとり遊んでいるのを見て魂消てしまった。
若者はせっかく取った山菜をその場に残して村へと走り去り、それからすぐ後に、村はずれの山の麓に『ばけもの』が出るという噂がたったのは、言うまでもない。
鬼助が二人の元へやって来てから、やがて五年が経とうとしていた。
「もうすぐですねぇ、お爺さん」
「そうだなぁ、婆さん」
二人が短い会話を交わすと、お爺さんはスッと立ち上がり、
「ちょっくら、山の頂上を見てこようかねぇ」
と、一言残し、戸を開けるなりサッサと山へ向かって行った。お婆さんは目をつぶったままうなずき、黙ってその背中を見送った。
「ばあば!」
鬼助は嬉しそうな声を上げながらお婆さんに抱きついた。
鬼助はよく遊び相手になってくれるお爺さんにとてもよくなついていたが、お婆さんにもよく甘えていた。
しかし、その様子をほかの者が見れば『ばけもの』が目を輝かせてお婆さんを食べようとしている姿に見えたかもしれない。その証拠に鬼助は、
「がぶり」
と、このウチに来た当初から、お婆さんによく噛みついていた。それは野にいる獣が母親に甘えるような可愛らしいものではなく、獲物に食らいつく肉食獣のようであった。それなのに、この赤い肌の童子は、この五年というもの、ただの一度も物を食べるという事がなかった。
「あれま~イタイ!」
初めて噛みつかれた時には、その力が幼児とは思えぬほど強く、噛みつかれたお婆さんの腕の肉の表面がひどく傷つき、出血もだいぶヒドかった。
さすがにその時は、
「これこれ鬼助。人に噛みついてはいけないよ」
と、拍子抜けするほどの声音でお婆さんは諭してくれた。それからというもの、説教のかいなく鬼助は事あるごとにお婆さんに噛みついたが、最初の時みたいに血が出るほど強く噛みつくということはなかった。
お婆さんは鬼助が噛みつくごとに「これこれ」といさめたが、自分に噛みついてくる時の鬼助はやたら目を輝かせていたので「このくらいなら」と許していた。
「お~い! あったぞ婆さん! あった、あった!」
戸の外から、お爺さんの嬉しそうな声がした。
お婆さんは鬼助を抱えながら戸を開け、
「ほれ、婆さん。これだ!」
戸を開けると、そこから十間(だいたい十八メートルぐらい)先の所にお爺さんが立っていて、右手をたかだかと差し上げて、その手の中の物を見せていた。
「あらあら、お爺さんったら。家に着いてからでよろしいのに」
お婆さんはお爺さんに向かって優しく手を振り、お爺さんもそれに手を振って笑顔で応えた。手を振ったお爺さんの右手には、黄金色に輝く桃がしっかりと握られていた。
「どれ、鬼助。食べてみい」
「ほら、鬼助。お上がんなさい」
ふたりは取ってきた桃を鬼助に食べさせようとした。だが鬼助はそれを一向に食べようとはしない。
「うーむ……」
二人は困った顔を見合わせる。鬼助はそんなの関係ねえ! とばかりに元気よく、
「だぁ!」
と、わめきながら家を駆け回っている。
「やはり食べませんねぇ、お爺さん」
「うむ、やはり食べぬなぁ、お婆さん……」
二人とも、実は鬼助が食事を全く取らないことを心配していて、今回は仙人の予言通り桃を食べてくれるものと期待していたせいもあり、内心かなりがっかりしていた。
それにしても不思議なのは、一体この子はなぜ食物を取らないのに、こんなにも平気な顔をしているのだろう。いったい、世に生まれた生物たるもの、こんなにも食物を口にせずに生きていかれるものだろうか?
「だぁー!」
が、そんなことにはまるで頓着しない、と言わんばかりに憎らしいほど元気だ。この赤ん坊は。
(ふーむ、全くどうしたものか……)
お爺さんとお婆さんが思案顔をしていると、
「だぁー!」
と、例のごとくわめきながら鬼助が突進してきた。そしてその勢いそのままに、
「パクッ」
と無造作に桃へ食いついた。
「お」
ふたりはあまりに唐突なできごとに少々驚き、それから、
「おお~!!」
拍手をしてから勢いよく諸手を上げて万歳をした。
「エライぞ、エライぞ鬼助!」
「まあ、びっくり!」
ふたりはもう大喜び。だが、桃をかじってからも、
「だぁー!」
と再び家中をドタバタ暴れ回っていた鬼助だったが、その内うめくようにして足が止まり、ついにはその場にうずくまってしまった。
「お、おお。これ、どうした鬼助」
「あらあら、どうしたことでしょう」
ふたりはオロオロするばかり。
「だぁー!」
鬼助は大きな叫び声を発したかと思うと、すぐさま彼の体は震えはじめた。
「き、鬼助!」
「あらま~!」
鬼助の肉体は震いうごめきながら、その姿をみるみる変えていった。
「一万と二十! 一万と二十一!」
『ビュン!』。
風を切り、うなりを上げながら木刀は弧を描く。
もう山は真っ赤にそまり、太陽は一日の役目を終えようとしていた。
「お~い! 桃太郎や~い!」
「一万と二十二! 一万と……ん?」
「お~い! ももた……うん!?」
生い茂る木と枝をかき分けてやってきたのはお爺さんだった。
「おお! ももた……え~!!」
素っ頓狂な声を上げて驚くお爺さん。
「どうなさいました、おじい様」
若者は穏やかに、しかし凛とした口調で話す。
「桃や! まさかとは思うが、朝からずっとそうしていたのかね?」
「え? ああ、はい。今日は野良仕事もなく、おばあ様も自分の手伝いはよろしいからと仰りましたので『それなら!』と、今日は思う存分稽古に努めさせて頂きました」
「そ、そうか……。しかし何も朝からずっとやらなくてもよいのに……」
お爺さんは半ばあきれたような、半ば感心したような、そんな感想を桃太郎に言う。
「いえいえ。せっかくお時間を頂いたのですから、自分なりに考え、有意義に時を過ごそうと思っただけで御座います。……それはそうと、おじい様、わたくしになにかご用で?」
「う、うむ。いや、晩御飯の用意ができたとお婆さんが言うのでな。呼びに来たのさ」
「そうですか! それはわざわざありがとう御座います。そうとあらば早速おばあ様の元へ参るとしましょう」
桃太郎はそう言うなり木刀を着物の帯に差しこみ、裾からげで走り出した。
「そうじゃな。お腹も空いたしのう。急ごうか、桃や」
お爺さんは言いながら桃太郎の後ろをついて行った。その足の速いこと。まさに疾風のごときであった。もしこれを村の者が見れば、
「やや! 風の化生か!?」
と、いぶかしんだかも知れない。
さて、お爺さんと仲良くお婆さんの元へ駆けていった若者の名は『桃太郎』。かつては赤い色に岩のような肌を持つ赤ん坊であったが、数えて五つの年、世にも不思議な桃を食したのをキッカケに人間の姿を手に入れし『異形の子』。人間の姿に変化したのを境に、名も『鬼助』から『桃太郎』へと改めた。彼はもう、赤く岩のような肌も、お婆さんに噛みついては目を輝かせていた悪癖も持ってはいない。
それと、桃太郎という名の由来であるが、単純に『仙人の桃を食べて人間に生まれ変わった男の子』という事で、『桃太郎』ということらしい。
「…美味しい! おばあ様のお料理はいつも美味しゅうございます。それに、今日は思う存分剣の稽古に励んだおかげで、今晩は一層格別のお味のような心地が致します!」
桃太郎は端然とすわりながら、少し大袈裟な感のする賛辞をお婆さんに言った。
「あらあら、嬉しいことを。まだまだあるから、たんとお食べ」
「ほんに、桃ときたら朝から晩まで狂ったように木刀を振っておったからなあ。そりゃあ飯もウマいだろうがよぉ」
三人は楽しそうに食卓を囲んでいる。
「桃も今年で十五かあ。まったく、子供が育つのははやいなあ~……!」
「そうですねぇ、お爺さん。はやいですねえ。桃がこのウチに来た時なんかは、まだこ~んなに小さかったんですものねえ」
お爺さんとお婆さんは昔を懐かしむようにしみじみと語る。
確かに、三人で食卓を囲んだ姿を見ると、ひとりだけ頭の位置が全然ちがう。桃太郎はお爺さんとお婆さんに自由で大らかに育てられたせいか、はたまた食べ物がよかったのかなんなのか、彼の体はすくすくと成長を続け、気付けば身の丈六尺三寸(だいたい百九十センチぐらい)の大男になっていた。
彼を見た近くの村の者などは、
(なんだぁ、こいつはぁ……! バケモンか?)
と信じられないモノを見たような顔をするのが常であった。
「さぁ、お腹もいっぱいになったし、おらは寝る!」
「そうですねえ、日も落ちましたし、私もなんだか眠たくなってきちゃいましたねぇ」
「そうですか。明日も早いですし、そうするのがよろしいでしょう。どれ、わたくしがお布団をご用意致しましょう」
桃太郎はテキパキと布団の用意をすますと、
「では御休みなさいませ」
深々(ふかぶか)と一礼し、それから踵を返して食事の後片付けをはじめた。
『ピュン!ピュン!』
夜の山に、空気を切り裂くような甲高い音がこだまする。
「……ふう」
音の正体は桃太郎だった。彼は夕食後、こうやって毎日素振りをするのが日課だった。いや、『夕食後も』と言った方が正しい。彼は剣の修行に熱心だった。
「……」
彼は夕食後の素振りが終わると決まって、昼の内にお日さまの光を吸収した、まだほんのり温かい地面に寝そべりながら、ただひとり満天の星空を眺めるのだった。
(いったい、わたしは何者だろう?)
桃太郎は、近ごろはそんなことばかりを考えていた。彼ももう十五だ、自分の存在を確認する作業は、若者にとって重要な意義をもつ。特に、桃太郎ぐらいの思春期の若者にとってはなおさらだ。
しかし、この十五になったばかりの少年の場合、ほかの同じ年代の若者とは、その問いの本質を異にしていた。
(赤く岩のような肌だった……)
彼は『今』の姿になる前の自分をよく覚えていた。普通の人間とは明らかに異なる姿。
(それだけじゃない! わたしは、わたしは……!)
桃太郎には、今まで誰にも言ったことのない秘密があった。言えば変に思われる、というのもあった。
彼は一体なにを隠しているのか? それは、
(忌まわしい! ……だが、わたしはハッキリと覚えている。『あの時』のわたしは、間違いなく、おばあ様のことを……)
「……食べ、……たいと思っていたのだ」
桃太郎はそのおそろしい言葉を口にすると『ハッ!』と我に返る思いがした。
「……そんなバカな」
桃太郎は、気付けば立ち上がって闇の中にひとり、ポツンと立っていた。
「……明日も早い。寝るとしよう」
言い聞かせるような独り言をポツリと吐き、桃太郎はもうすっかり寝静まってしまった自分の家へ『スッ』と音もなく入って行く。
空には、たくさんの星が金色にきらめいていた。
「おはようございます! おじい様、おばあ様」
彼の一日は早い。まだ日が少しも上がらぬうちに起床し、剣の素振りを始める。それもお爺さんとお婆さんがまだ起きぬうちに寝床からただ一人むくっと起き上り、スッと物音ひとつ立てぬようにして戸を開けて外に出る。
たった今お爺さんとお婆さんの両人に朝のあいさつをしたのも、実は早朝稽古の帰りだったりする。
「はい、おはよう。本当に毎日精がでますねぇ」
「かんしん、感心!」
二人は寝ぼけ眼の目をこすりながら桃太郎を褒めた。布団を片付けている真っ最中なので、今起きたばかりなのだろう。
「あらあらお爺さん。そこは押入れじゃないですよぉ」
「ほげぇ? おお、ここは玄関か?」
……どうやらお爺さんの方はまだ夢うつつのようだ。
「ふぅ~! そろそろ昼休みにしようかい!」
お爺さんは握りこぶしをつくって腰を叩く。
「では、そう致しましょうか」
お爺さんと桃太郎のふたりは、午前中は畑に出て二人で仕事をして、それがはかどれば昼過ぎに柴刈りや薪を拾いに行き、もしくは夕食の魚釣りをすることもあった。
お婆さんといえば、三日に一度はふたりの仕事を手伝うが、そうでない場合はいつも洗濯や縫い物、ふたりの食事の用意などをして過ごしていた。
「今日はぁこれで仕事もおしまいじゃあ。……どれ桃、時間もある事だし、久々に試合ってみるかね?」
「よろこんで!」
お爺さんは畑の近くにある切り株に腰を下ろしてから桃太郎にそう訊くと、今度はその返事を聞いてほほ笑み、嬉しそうにうなずいた。
「せいやあ!」
お爺さんの上段へ向かって桃太郎の木刀が勢いよく襲いかかる! だがお爺さんはその恐ろしい速度の斬撃を、自分の木刀のよこ()ばら()を桃太郎の木刀に重ね合わせるようにして捌く。
「うわ!?」
桃太郎のカラダが大きく泳ぐ。
「?」
つんのめるようにして地面に転がる桃太郎。しかしその勢いを利用して回転しながら受け身を取り、素早く体勢を整えた……のだが、
「……参りました」
綺麗に回転受け身をとった桃太郎だったが、立ち上がった時にはその喉元にはもう木刀の切っ先が当てられている。
「お美事でございますおじい様」
「ふむ。おぬしも、ずいぶんと成長した」
ふたりは互いに称賛の言葉を言い合うと、互いに後ろへ半歩下がり一礼した。
「桃よ。毎日の鍛錬の成果がようでておる。しかし……」
桃太郎は真っすぐな瞳でお爺さんを見据える。
「勝負とはなにも己の絶対的な力だけで決まるものではない。剣の速度やそこに込められた力だけでは決まらぬ。勝負とは相対的なものなのだ。したがって、勝負で求められる速度や力も、相対的なものになる。今の試合、もしもほんとうの勝負ならまぎれもなくワシが勝っておっただろうが、だからといってなにもワシがおぬしより優れているワケでもない。力も速度も体格も反射神経も、何もかもがおぬしの方が上じゃ。しかし、そんなワシでも勝つ術がある。それが本物の武術というモノじゃ。おぬしは少々、力や速度にとらわれ過ぎておる。大切なのは、相手との関係における自己のあり方だ。そこに、おぬしのように高い力量を持ってさえいれば、よもや言う事はあるまい」
お爺さんは滔々(とうとう)と桃太郎に武の心得を説いた。いつものボケた感じのするお爺さんと、剣について語るお爺さんとでは、平生慣れ親しんだ桃太郎といえども、誰か別の人物と接しているかのような気分にさえなってくる。
「ありがとうございます! 今の御言葉、この桃太郎のむねにしかと刻んで稽古に邁進いたします!」
桃太郎は慇懃にすぎるぐらい深々と御辞儀をしてからお爺さんに感謝と決意を述べた。
「ふぉふぉ。まぁ、そうは言っても、練習相手がこの老いぼれ一人しかおらぬのでは、素振りなどの一人稽古に頼りがちになるのは無理もないがのぅ。これからは、食後の運動も兼ねて、メシのあとには一刻(三十分)ほど桃の稽古に付き合っちゃおうかのう!」
「ありがとうございます!」
桃太郎はお爺さんの申し出に対して、もう一度深く体を曲げてそう応えた。
顔を上げた桃太郎の顔は、お爺さんがなにやら気恥ずかしくなるくらい真面目くさったものだった。
「先生! 書けたよ! どう?」
そこはずい分賑やかな場所だった。
わぁわぁ騒ぐ童たちに、整然と並べられた机。それに、部屋のうしろには、
『清廉潔白』
『質実剛健』
『至誠一貫』
といった、四字熟語が、黒々(くろぐろ)と紙に大書されては張り出されてある。
ここは、桃太郎が週に一度開いている私塾。外見は小さいが中々立派な小屋で、対象者は十二歳までの童子と一応なってはいるが、中には大人の姿もあってすいぶんと賑わっている。もちろん無料だ。はじめは今のような立派な小屋などはなく青空教室でやっていたが、ある日村の者達が、
「いやさ、これも村の子供たちの、ひいては村全体のためになる」
と言い、好意で学舎を建ててくれた。
子供たちに勉学を教えるようになってからというもの、桃太郎は村で一番の人気者だった。誰に対しても敬語で接する柔和で丁寧な物腰、体格は人目を集めるほどの大男、それに目鼻立ちも整い見た目も涼やかで爽やかそのものだったので、誰からも良い印象を持たれた。
「他人に教える事で、また自分も教えられる」
という考えのもとに、桃太郎は十四の時に村の子供たちに学問を教授するようになった。ほかにも、剣術や書道なども教えている。
「せんせい、せんせい!」
慕ってくれる子供たちが、彼は可愛くて仕方がなかった。年は桃太郎とさほど変わらないせいか、子供達も頼れる兄貴分のような気持ちを多分に持っているらしい。それが、子供たちに親近感を持たせる結果となっているのかも知れない。
その中にはさきほど言ったように、大人も数人いる。その内のひとりに、『弥兵衛』という名の男がいた。
彼は小さい頃からワルガキで、長じてからもその悪さは止むコトがなく村の者達からは『悪兵衛』と呼ばれていた。むらの子供たちをイジメたり、大人をからかったりしてずい分とイキがっていた。その行動は日に日に目に余るようになっていき、ついには村の者達が大事に育てている家畜をかってに殺して食べたり、畑の作物を無意味に荒らして、そのくせそれを注意されると逆に悪態をついてくる始末だった。
なぜ誰もそれを止めなかったのか? いや、村人の誰もが彼にその悪行をやめてほしいと願った。しかし、それを実現させることは叶わなかった。
弥兵衛は小柄だったが、その激しい気性に比例したのか、彼のカラダは野生の獣のように機敏ですばしこく、その上チカラも大人二人分の強さがあった。
彼には『悪兵衛』の他にも、もう一つ通り名があった。それが、
『うっちゃり弥兵衛』
というものだった。
彼は無類の角力好きで、村の者を見つけると必ず、
「角力とろうや!」
と言ってはいつも嫌がる相手を無視してかってに取り組みをはじめる。そうすると相手も仕方なしに彼に付き合うのだが、このあとがヒドかった。
彼は必ず最初は相手に自分をわざと押させる。そして相手が『いける!』と思った瞬間、四つに組んだ状態から全身のバネを活かして相手を持ち上げては左右に振り棄てる『うっちゃり』をしかけるのだった。
しかけられた相手は両足が高く跳ね上がるほどに投げ飛ばされ、そのまま地面に打ちつけられるのだ。しかもワザと相手がより痛い目にあうように角度をつけて受け身の取りづらいように投げる。それはまるで自分の力をみなに誇示するかのごとくで、実際に彼はその力を自分の心の拠り所にしていた。
彼は小さな村の横綱であった。
そしてその横綱は、それからも自分の力を確認するように、取り組みを所かまわずふっかけ、相手を痛めつけ続けるのであった。
無論、強制的に相手をさせられる村人には堪ったものではない。
そんな彼がある日、する事もなく山の中を散歩していると、小さな家を見つけた。その家の前には、大柄な体に、まだあどけない表情をしたひとりの少年が木刀を懸命に振るう姿があった。
(なんだぁ? こんな所に家が? ああ、あれが噂の『山の爺と婆』の家か)
しかし、村の者の話では、あの家には年老いた夫婦しかいないはずであった。
(ジイサンとバアサンの子か? いや、それにしてはずいぶん若い……)
少し思案すると、弥兵衛はなにか思いついたように、
「よっしゃあ!」
と嬉々(きき)とした気合を発し、少年のもとまでひと駈けし、その前に躍り出た。
「おうおうおうおう! こんな所でなにしてるんでぇ!?」
少年は目を丸くして、いきなり目前に現れた男を見た。
「おうよ! 棒っ切れなんか振っちゃってよお! それよかもっといいもんがあるぜえ。お前、オレと角力とれ!」
目を丸くし驚いた少年などにはおかまいなしで、弥兵衛はまくしたてる。
「す、すもうですか? 和術なら少々心得がありますが……。わたくしなどでよろしいので?」
「おうおう! いいに決まってらあ! こっちはヤワラでもカワラでもお構いなしよ! ……おし! ならきまりだ!(きゃっほー! これでオレは村の英雄だぜ!)」
弥兵衛の考えはこうだ。
(たしか昔、央助ジイサンのとこのせがれが、山の方で『赤いばけもの』を見たとかぬかしてやがったな。たぶん、酒に酔ってたかなんかで赤ん坊の頃のこいつをバケモノと見間違えたんだろう。そうと分かりゃあ、コイツをちぎっては投げ、村のみんなに『バケモノ退治』を成し遂げたと喧伝してやらぁ(まあ、体格もでかいヤツだし、あとはハッタリでなんとかならあな!) そうすりゃあ村の女どもは……へへ……)
顔の筋肉を緩ませ、おまけに鼻の下を目いっぱい伸ばしながら、弥兵衛は足で地面を削り土俵を描いた。
「これで、よし、と。……準備はいいかガキ? はっけよ~い、ではじめるぞ!」
「どうぞ」
桃太郎の立派すぎる肉体と真向かうと、樽のように屈強な肉体をした弥兵衛でさえも見劣りした。ふたりの体格差は歴然としているがしかし、弥兵衛には自信があった。体格に差はあっても腕力では誰にも負けないつもりだったし、それに百戦練磨の技もある。
「はっけよ~い、のこっ……」
たっ! と言い終わるよりも早く、弥兵衛は桃太郎に向かって体を突進させていた。これが彼のいつもの手だ。相手の虚を衝いて恫喝する。汚いと言えば汚いが、普通の相手はこれでもう委縮してしまい、あとは弥兵衛の思うつぼとなる。
「よっしゃ……な……ぬ!?」
勢いよく突進した弥兵衛だったが、激突した瞬間、まるで壁にぶち当たったみたいになって、自分の力が全てはね返されたような心地だった。
(お、重え! なんだコイツ……! ふだん鉄でも食ってんのかコノ野郎!?)
弥兵衛が心の中で意味のない啖呵を切っている間に『壁』は動き出した。
「お、おお……!」
弥兵衛はそのまま横に滑るように後退させられた。こんなの、初めてだった。
「くそったれ!」
弥兵衛は大きく叫んだ! しかし、これも彼の計略の内だった。
実際、突進した時の、まるで巨大な壁と激突した様な感覚には驚かされた弥兵衛だったが、それでも彼には今まで自分を支えてきた技の存在があり、それが彼から絶望を追い出し気力を奮い立たせる結果を生んだ。弥兵衛は小柄だ。いつか必ず出会うと思っていた。自分よりも体格に優れ、さらに腕力に優る者に。
「くそっだらあ!!」
土俵際に追いつめられた弥兵衛であったが、渾身の気合を発するやいなや全身のバネを活かして相手のカラダを持ち上げにかかった。 持ち上がれば、あとは左右のどちらかに相手を思いっきり投げ捨てるだけだ。
「ひゃっはあー! もらったぁああ!!」
ぐん! とカラダが勢いよく宙に舞う! しかし舞ったのは……。
「んだぁあ!?」
弥兵衛が相手を跳ね上げたと思った瞬間、彼のカラダから一切のチカラが抜け去り、逆に重心が『ふわり』と浮き上がるのを感じた。瞬間、彼のカラダは天高く差し上げられていた。
「うわああああ!」
弥兵衛は一瞬ワケがわからなくなった。下を見ると空が見え、上を見上げたら地面がある。
「お、おっかさ~ん!!」
地面にぶつかる! そう思い弥兵衛は叫んだ!! 脳裏に浮かぶは優しき面影。
「……アレ?」
知らぬうちに涙を浮かべていた瞳が、すとん、と優しい軽い感触とともに開く。気付けば、天地は上下を違えずそのままの位置にある。
「……へ?」
弥兵衛があっけにとられていると、
「今日はわたくしの勝ちでございますね。良い勝負でした。またこちらにいらっしゃる機会があれば、もう一度勝負いたしましょう」
優しげな声が耳に入ってきた。
「それはそうと……あまりに突然のことで、名乗るのを失念しておりました。わたくしの名は桃太郎。この山の生まれでございます」
端然と正座をしつつ、深々と頭をたれる桃太郎。
「……ズズ!」
弥兵衛は鼻水をすするばかり。きょとん、とした顔つきのままだ。
「……よろしければあなた様のお名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
優しげな笑みを浮かべると、これまた優しい声音で桃太郎は聞いた。
「……弥兵衛」
「弥兵衛さんですか! ……どうぞよろしくお願い致します」
桃太郎がそう言ってから、ふたりの間に沈黙の時が流れた。桃太郎は茫然としたままの弥兵衛を気遣ってのことだったが、弥兵衛はなにやらモジモジしながら口をモゴモゴさせて戸惑っている。
「…☆△□&h¥(ボソ)」
「……はい?」
蚊のなくような頼りない声で、弥兵衛はなにかつぶやいた。むろん、桃太郎には聞き取れない。
「……な、内緒にしててけろ……。さっきの……」
「さっきの?」
桃太郎はさっきと言われて、何事かを思いだそうとしている。しかし、『さっきの』というのがなんなのか、とんと見当がつかない。
「あ、アレだよ……。おっ……」
「おっ?」
「おっかさ~んっての……」
尻終わりにはほぼ聞き取れない程の声だったが、敏い桃太郎はすぐに、
「いいや、わたしはなにも聞いていませんよ」
と笑顔で首を横に振った。
「ほ、ほんとけ?」
「ええ。よければ、もう一度なんと仰っていたかうかがいたいくらいです」
「い、いやあ、なんでもねぇ、なんでもねぇ! ……ありがとよ」
弥兵衛はお礼を言うと、すぐに立ち上がって着物の汚れを払い、
「……あ、明日また来る」
とだけ言い残してサッサとどこかへ立ち去ってしまった。
桃太郎も、その背中を最後まで見送ると、再び木刀をとって構え、みずからの鍛錬を再開した。
翌日、弥兵衛はどこからもってきたのか、鳥の肉を持参してきて、桃太郎に贈った。それはいつもの彼のやり方と違い、盗んだものでは決してなく、わざわざ村から山を二つ三つ越えた所まで遠出し捕まえてきたものだった。
それからというもの、弥兵衛は一日とあけずに桃太郎へ会いに行き、弥兵衛は桃太郎だけでなくお爺さんやお婆さんとも仲良くなっていった。
「さあ、さあ、飲んでくだせえ!」
と、彼は野の獣を捕まえ、それを売った金で酒を買ってきてはお爺さんに飲ませようとしたが、お爺さんは年も年だし、それに、
「ワシは下戸なんじゃあ!」
という事でほとんどその酒は飲まなかった。
どうやら弥兵衛の目的は彼らと話す事にあるらしく、無理に酒はすすめなかった。
話している内に、桃太郎は弥兵衛の事も知った。今は数えて二十二になること、生まれて間もなく病によって立て続けに父、続いて母をうしなったこと、それからは独りで生きてきたこと。
「苦労なさったんですねえ。弥兵衛さん……」
話を聞いたお婆さんはしずしずと泣いていた。それを聞いた弥兵衛は、心にまとっていた鎧がするすると脱げていく気がした。
認めたくはなかったが、誰の助けも借りられず生きてきた自分、誰にも好かれることのなかった自分。それを認めてもらいたい、いや、たった一言でいい、
「頑張ったな」
の労い、その一言がほしかったのだ。それは彼にとって弱い自分を認めてしまったように思えて、今まで意識の表面に浮かんでくることはなかったが、そのつよがりも、桃太郎に負け、そしてようやく得た他人との交わりの中で、彼はいまそれを真正面から見つめる事ができるようになっていた。
ヒドイ境遇にいる自分は生きるためなら悪い事をしても許されると思っていた。それに、そんな弥兵衛の中では、村人と交わりたいという気持ちと、自分を認めさせたいという欲求は相反しないモノだった。
だから、相撲で村人に痛い目を見せて蛇蝎のごとく嫌われようとも、無理に執着を発揮して相撲を取る彼の行動と気持ちは一つのものだった。
しかし、それからの彼はというと、弥兵衛は桃太郎とお爺さんの畑仕事を手伝うようになり、やがてお爺さんの好意で少しだけ土地を分けてもらい、そこで自分なりに自活をするようになっていった。それに加えて、桃太郎と一緒にお爺さんから剣や書も学び、お爺さんの蔵書の中から簡単なモノを選んで読むほどになっていた。
そして、桃太郎が村の子供たちを相手に私塾を開きたいと申し出た時も、
「恩を返す時だ!」
とばかりに尽力してくれた。
で、それからこの二人は、おたがいに桃、弥兵衛という知己を得、ふたりは切磋琢磨し合いながら(とは言っても全ての面で桃太郎が圧倒してはいたが)、学問に勉め、鍛錬に励み、村の子供たちや大人たち、山のお爺さんお婆さん、そして自然豊かな『お山』に囲まれて時を過ごしていった。
それまでお爺さんとお婆さんしか話し相手がいなかった桃太郎の身辺は、以前とは比べられない程賑やかになり、変化に富んだ毎日となった。
野を駆け、山の生き物と自然を相手にするのも悪くはなかったが、そのように一人でいる時よりも、ずっと自分の胸がなにかで満たされるような、ウズウズするような、そんな日々をみなのおかげで過ごすことになった。
しかし、その平和で平穏な生活は突如、終わりを迎えることになった。
その日は週に一度の、私塾である『桃仙塾』の開講日であった。
「さて皆さん、宿題はやってきましたか?」
「は~い!」
「おう!」
子供たちの澄んだ声にまじって大人のダミ声が聞こえたが、みな気にせずに宿題を桃太郎先生のもとへ持っていく。
「みなさんよく出来ました!」
『ガラン!』桃太郎の言うが早いか、桃太郎がみなを褒めたとほぼ同時に戸が乱暴に開く音がした。
「てーへんだぁ~!」
男の声が教室中に響きわたる。
「どうなさいました?」
入ってきた男の元へ桃太郎が駆け寄る。男はケガをしているのか、着物が血でぬれている。
「た、たいへんだ、桃太郎さん! はぁはぁ……。か、かわ」
「川?」
「川の上流からバケモノのむれが……!」
『ばけものォ!?』
教室の子供たちが一斉に声を上げる。
「ばけもの? どういうことです? 村の人たちはどうなったのです?」
桃太郎はせかすように訊いた。
「む、村のもんはとっくに逃げた……。だ、だがよ、ほ、ほとんどの者はすぐに逃げ出したが、ウチの娘がまだ川へ洗濯しに行ったまま帰ってこねえ。このまま……、このままアイツらが戻って来たら! ……だが、い、今ならまだ間に合うかもしれねえ……! た、頼む……先生! 村のみんなを……おらの娘を……!」
男は言い終わると首のチカラが抜けたように『だら~ん』となった。男の腹には、なにか巨大な爪でえぐられたような大きなキズが認められた。
「! ……急がねば!」
桃太郎は教室にいた子供たちにここに残るように言い、あとはそれを弥兵衛に任せると、自分はおっとり刀で村の集落がある方へ駈けていった。
(……な、なんだアレは!?)
村の中心地に着いた桃太郎が見たモノは、およそ桃太郎が見たことのない『異形の者』の姿と、村人がすでに逃げ去って、もぬけの殻と化した集落だった。
「きゃあああ!」
「はは~! つかまえた~!」
ひとりの村娘が異形の者の両手ですくい上げられた。……大きい! 形は人に似ているが、人間よりもはるかに大きい。身の丈は目測でも十尺(約三メートル)は優にあるように思う。それに、頭には二本の角がはえていて、それに肌の色が目に痛いほど鮮やかで派手な黄色をしている。おまけに皮膚は岩か何かのようにゴツゴツだ。
「おや~? こいつはウマそうだ! お~い、あんちゃん! オレは先にいただくよ!」
黄色い肌のばけものは遠くに向かって語りかけると、無造作に若い娘を食べようとした。
「いただきま~す! あ~ん……あれ?」
あわやバケモノのえじきかと思いきや、むすめはバケモノの太い指先から『パッ!』と消えた。
「う~ん? アレぇ? なんだぁ、コイツ?」
バケモノのすぐ手前にある大きな木の下に、娘はいた。そしてそこにはもう一人、見たことのない若い青年。手には、木刀を一本たずさえている。
「もうだいじょうぶ。ここでじっとしていて下さい。すぐ終わります」
若い男はむすめにそう言うと、風のごとくバケモノめがけて駆けて行った。
「うああ! な、なんだコイツ! にん……げん?」
バケモノはあまりに速く近づいてくるそれを大きく振り払った! ……つもりだった。
「……ぐぅ~!」
腹の底にひびくような重々しいうめき声をあげ、バケモノは後方へむかって頭から倒れた。
「あ、ああ! 桃太郎先生!」
むすめは命の恩人の名をさけぶ! 呼ばれて振り返った顔には、安心感を与えてくれる笑みがあった。
「危ない!」
柔軟だが力強いものが桃太郎に巻きつこうとした。
「フッ!」
桃太郎は鋭く息を吐くと同時に腰を急激に沈めて後方へよける。間一髪だ。
「……? なんだ、おまえは? 人間……なのか?」
桃太郎が自身を襲ったモノの戻る方向を見ると、そこには新しいバケモノがいた。どうやら桃太郎を襲ったものは、バケモノの舌だった。
「……人間が鬼を倒した? そんなことがあるのか? いや……」
バケモノはなにか独りゴトを言っている。喋っているあいだも、長い舌がチロチロと口から出ている。
「……へび!」
桃太郎は息をのんで、言葉を吐いた。
新しく現れたバケモノは二本足で立っているさまこそ人間のようであったが、その顔と長い舌、それに無機質な目と緑のウロコ肌は、どうみてもヘビそのものだった。体格はもう一方の黄色い鬼よりも小さいが、それでも桃太郎よりも少し大きいぐらいだ。
「おい、大鬼! 起きろ! 寝ているヒマはないぞ!」
「う~ん……。おっ、兄ちゃ~ん!」
ヘビのバケモノが檄をとばすと、さきほど頭に剣を打ち込んだはずの黄色いバケモノが何事もなかったように立ち上がってきた。
(ば、ばかな!? あの一撃を頭部にもらっておきながら……!)
「ふんっ! バカが! 油断しおってからに。鬼一郎さまが見ておったらとんだ恥をかくところだったぞ! それに異界種以外は食うなと鬼一郎さまもおっしゃっていただろう!?」
「え、えへへ~。面目ない兄ちゃん。お腹が空いちゃってさ……。さっきも人間のオジサンを食べようとしたら逃げられちゃって。でも、鬼一郎さまならそのぐらい許してくれるさぁ! おれっちにはやっさしいんだぁ、鬼一郎さまは」
「バカ! ならばそのご好意に報いるのが一人前の鬼というものだ! なのに貴様ときたら……!」
「う、うわっ! い、イタイ! ごめんよ、ゆるしておくれよ兄ちゃん!」
「ふんっ! わかればよい。しかし……」
ヘビのバケモノは桃太郎の方へ視線を戻し、
「それにしても、弟を痛めつけられた借りは返さなければな」
静かに、だが激しい怒りを、バケモノは桃太郎に向ける。
「しゃっ!」
間髪を入れずにバケモノはその長い舌を伸ばしてきて桃太郎を襲う。 桃太郎は剣を構えたまま防御の体勢。
「しゃしゃっ!」
長い舌が桃太郎に襲いかかる寸前、桃太郎は全身がバネになったかのように地面を跳ねて右へカラダを振った。そのわずかな瞬間にも、剣先はバケモノの舌を打ち据えている。
「ぐっ……」
バケモノは一瞬だけ動きが鈍ったが、その攻撃の手が止まることはない。
「せいやあ!」
桃太郎はバケモノの動きを予見していたように舌の動きを避けると、そのまま右足を踏み出してバケモノの面をとらえた。
「ばかな……!」
ふたりが交差したあと、バケモノはうめきながら倒れた。
「うわあああ! 兄ちゃあ~ん!」
黄色のバケモノがまるで泣いている様な叫びを上げ、桃太郎と緑色のバケモノのもとへ近寄って来る。
その時、桃太郎は上段に構えて息をひとつ吸った。その目は、ただ一点、標的のみを見つめている。
「そいやぁ!」
気合一閃。桃太郎が高速で右足を踏み出す、と思った瞬間にはもう、彼は黄色いバケモノの後ろへ背をみせたまま立っていた。
「がっ……、はあ!」
ズシン、と大地が揺れる。
「勝った!」
桃太郎は右手に握りしめた木刀のつかを見て勝利を確信した。木刀はその打ちがあまりに強かったためか、それともバケモノのカラダが硬かったせいなのか、つかの先からボキリときれいに折れていた。
「ふぅ……」
ドサっ、と桃太郎は地面に尻餅をつく。初めての実戦だった。負ければ命を失う。
「……」
桃太郎は地に倒れ伏している二体のバケモノを見た。
(よく勝てた……!)
心の底から思った。地力は桃太郎の方があっただろう。しかし、相手は場慣れしている感じがしたし、なによりも人間ではなかった。人間にはない強さ・能力を持った相手との文字通りの死闘。ほんの少し動いただけであったのに、もうこんなにも疲れてしまっている。
(これが実戦というものか)
稽古とは違う。緊張から体力も余計に奪われるし、精神も削られる。
「先生!」
さっきまで木の陰に隠れていた娘が桃太郎に駆け寄る。
「お怪我はありませんか? ありがとうございます! 先生が来てくれなかったら今頃わたしは……」
娘は自分の言葉でさっきの恐怖を思い出してしまったのか、さめざめと涙を流しては桃太郎に礼をいう。
「いえ……、あなたも、お怪我はありませんか? よかっ……」
桃太郎が返答しているあいだに、娘にむかって大きな張り手がとんできた。
「ぐおおお!!」
ぶんっ! と唸る音が空間を震わした。
「くっ! まだ生きていたのか!」
なんと頑丈な! と二の句を継げるいとま()もないまま、張り手はふたりに襲いかかってくる!
「もうおこったぞ~!」
ダダをこねる童子みたいなセリフを叫び、黄色のバケモノは滅茶苦茶に両手を振りまわしている。
「きゃああ!」
桃太郎は娘を腕で抱えながら逃げる! しかしその追撃を逃れるのに、人を抱えてというのは辛い。
「お嬢さん、わたくしが合図をしたら、振り返らずに思いっきり走って村はずれにある橋の方へ逃げるのです。いいですか、全速力ですよ!」
桃太郎は早口だが良く通る声で娘に告げると、
「いまです!」
怒鳴るように言った。
脱兎のごとく一目散にむすめは走って行ったが、ここで誤算が生じた。
(桃太郎さま!)
娘は、命の恩人を振り捨てて一人だけ逃げるのが忍びなかった。その気持ちが桃太郎の忠告を瞬間忘れさせてしまった。
『チラ』とほんのわずか後ろの桃太郎を見やると、そこには思いがけず大きな手を振り回すバケモノがいた。
「きゃああ!」
娘は驚いた拍子に足をとられて転んでしまった。
「兄ちゃんの仇だ~!」
(神さま!)
娘の祈りが通じたのか、バケモノの攻撃は彼女に届かなかった。
「先生!」
あわや直撃! という所で、バケモノの攻撃は間一髪桃太郎に防がれていた。
「さあ早く!」
桃太郎はバケモノを見据えたまま叫ぶ!
「す、すみません!」
むすめは今度こそ、振り返らずに走り去って行った。橋の方へ行けば『仙桃塾』が近くにあるし、あそこから先は山へ続いていて、洞穴や森の中に隠れて時間を稼ぐこともできる。
「この~! よくも兄ちゃんを!!」
バケモノは矢継ぎ早に攻撃する。
「ぐあっ!」
バケモノの左手が桃太郎を襲う。最初の一撃で少々踏んばりがきかなくなっていた桃太郎のカラダは、まるでまり()みたいに遠くへ弾んでいった。
「がっ……!(くっ、なんと恐ろしいチカラだ)」
木刀はすでに折れていて使えないし、二回も敵の攻撃をもらってしまったせいで、カラダに上手く力が乗っていかない。
(どうすればよいのだ)
「うわぁあ~!」
泣きじゃくるバケモノは、その強面の顔をゆがませて、より怖ろしげな顔つきになっている。
(万事休すか)
桃太郎が目をつむって観念したところに、その声は耳にとんできた。
「桃! 受け取れ~!」
声がしたと同時に桃太郎は『カッ』と目を開き、開いた瞬間、視界になにやら黒くて細長い棒が飛び込んできた。
桃太郎はその棒を左手で受け取るや否や、右手で棒の先をつかみ、それを一気に引き抜いた。
黒い棒が一瞬にしてふたつに分かれ、ギラリ、と青白い光を放った。
「……くそ~!」
桃太郎の眼前にまで迫っていたバケモノは、急に泣くのをやめて静かになり、それから桃太郎の横を通り抜け、徐々(じょじょ)に前のめりになりながら前進していき、
「あ、兄ちゃ~ん……」
と消え入るような声を出し、すでに動かなくなったヘビのバケモノを見て、大粒の涙をこぼした。ズシンと、今一度大きなカラダは地面に倒れ込む。
「も、桃! でえじょーぶか!?」
聞き覚えのあるダミ声がする。
「……ええ、助かりました。弥兵衛さん……」
桃太郎はそう言うと、今度は糸の切れた人形みたいに倒れ込んだ。その右手には抜き身の刀が、左手にはその鞘がにぎられていた。白刃は、赤いしずくで濡れている。
「す、すげえ居合抜きだったな!」
弥兵衛は興奮していた。今の状況では、武技に対する称賛よりも、身の無事を案じる言葉をかけてやるのが普通だと思うが、この男の場合はちがった。いや、彼にもし弁解する余地があれば、きっとこういっただろう。
「まるで稲妻が閃いたような技だった!」
だから仕方がない、と。
「それにしても、大丈夫か桃!? いってえなんだってんだ!? このバケモンどもは!」
弥兵衛は横たわる二つの死体を見て、その声の大きさとは逆に心底怯えた表情をした。
「弥兵衛さん、子供たちは?」
「ああ、橋の下の洞穴に隠れるように言ってある。あそこなら滅多なことでは見つからんし、そうすれば気がねなくソイツを桃に持って行ってやれる。そう思ってな」
弥兵衛は桃太郎が手にしている刀を指差し、この男らしくない、ていねいな説明をした。
「ありがとうございます」
桃太郎は安堵したのか、弥兵衛のらしくない説明をきいたせいか、心底安心したような笑みを見せて天を仰いだ。だがすぐに子供たちの顔を思い出して、
「バケモノは倒しました。さっそく子供たちの元へ参りましょう」
「おう! あいつらを安心させてやらなくちゃあな!」
ふたりは走りながら、子供たちの待つ洞穴へと向かった。
「みなさん!」
「先生!」
橋の下にある洞穴に入って来た桃太郎たちを見ると、今まで不安な顔をしていた子供達も、
「戻って来たぞ!」
「あたりまえだ! 先生は強いんだぞ!」
といった子供たちの言葉が、うす暗い洞窟の中でこだました。
「ご無事だったんですね先生!」
幼い声の中に一人、年頃の娘の声。それはさっきバケモノから桃太郎が助けた、あの若い娘だった。
「ええ。あなたも、無事でなによりです」
桃太郎は優しいほほ笑みを投げかける。
「ああ、アンタか。ちょうど桃に刀を渡しに行く途中ででくわしてよ。ここに隠れるように言っといたんだ。……ところで桃よ、ここにいつまでいるつもりだい?」
弥兵衛がきくと、
「そうですねえ……。とは言っても、村の皆さんがどこへ避難したのか見当もつきませんし……」
「もしかするとよ、もう何人かは様子を見に戻って来てるかもな。バケモノの数もアレだけとは限らねえし、最初から村にいた奴らなら、なんか知ってるかもしれないしよ。……どうよ、俺らだけでもいったん戻ってみるか?」
「……」
桃太郎は少し思案してから、
「そうですね。行きましょう。しかし、弥兵衛さんはここに残ってもらえますか。二人もいなくなれば子供達も不安になるでしょうし……」
「それもそうだな。わかった。ガキどもはオレっちに任しといてくれい!」
「頼りにしています」
頭を下げる桃太郎。弥兵衛はそれを受けて照れている。
「おう! 任されたぜ!」
「はい! それと、」
桃太郎は今度は別の方向を向いて、
「お嬢さんも、皆さんの姉になったつもりで、子供たちをよろしくお願いします」
再び桃太郎は頭を下げて、さっき助けた村むすめに子守を頼んだ。
「はい、任されました。必ず御無事で帰って来てくださいね……」
むすめは小さい声で桃太郎に言うと、桃太郎は視線を外すように、もう一度軽く頭を下げた。
「はい。きっと」
それだけ言うと桃太郎は踵を返して、洞穴を出ていった。
(……やや、あれは!)
村に戻った桃太郎は、そこでコソコソと隠れ隠れしながらバケモノの亡骸を見守る一人の老人の姿を見つけた。その少し後ろには、桃太郎より少し年長ぐらいの青年。
「お~い!」
桃太郎は二人を呼んだ。
「……桃太郎さん! 桃太郎さんじゃないか! オヤジ、桃太郎さんだよ!」
「おお? ほんとうだ! 『山の先生』じゃないか!」
桃太郎の姿に気付いた二人はまるで宝物でも発見したがごとき喜びよう。小躍りしながら桃太郎の元へ駈けよって来る。
「ほかの皆さんは?」
桃太郎の問いに、髪も白が目立つ翁がこたえる。
「おお、安心してくれ! みんな無事さ! ほれ、川の下流をくだった所に大きな鍾乳洞があるだろう? あそこならバケモノが追いかけてきても暗いわ、長いわ、で中々つかまらんだろう。それにあそこを見つけること自体が難しいからな!」
川の下流にある鍾乳洞というのは、全長一里(だいたい四キロ)はあろうかという長大なもので、中は複雑な迷路になっており、慣れない者が深追いすれば遭難して死んでしまうこともある。
その鍾乳洞の奥には『男性の大事な部分』に似た鍾乳石があり、村ではこれに女性が触れれば子宝に恵まれたり、安産になるという言い伝えが古くからあった。そのせいで村の娘が子を宿すと村の長老などが案内役を務めて奥まで入ることもあったので、村人たちは鍾乳洞への道を知悉していた。それにあの迷路のような洞窟は、もしもの時には自然の防壁にもなる。
「そうですか! それを聞いて安心しました。子供達も、橋の下の洞穴に避難して全員無事です。ただ、一人は重傷で……」
「分かっておる。漁師の鉄さんが娘さんを捜しに行ったまま戻らんかったからなあ。だが、子供たちが無事なのはなによりの報せじゃ」
桃太郎と老人は双方の無事を確認して安堵した。それを横で見ていた青年が口を開く。
「でもよ、さすが先生だよな! バケモノを倒したのは先生なんだろう?」
「はい、一応。弥兵衛さんの助けもずい分ありましたが」
「あの弥兵衛が? まったく謙遜好きだなぁ、先生も! しかし、あのバケモノ五匹……」
「えっ!?」
桃太郎は聞いてはならない事を聞いた、という顔をした。
「ど、どうしたんだい先生?」
青年と老人は桃太郎の顔をうかがう。
(ご、五匹!? ではまだ……)
「ま、まさか、あっこに転がってる二匹以外は……たいへんだ~!」
青年がさとく察すると、老人と桃太郎はカラダからと血の気が引くのを感じた。桃太郎が倒した二体以外にも、『鬼』はいるのだ。
「……川の上流からやってきた、と鉄さんは仰っていたのですが、それをほかに見た方は?」
「おる。こやつもその一人じゃ。だから嫌がるのを無理やり連れて来たのだ。しかし、そうとなれば不幸中の幸い、おい孫! 先生に見たことをお話するんだ!」
「い、言われなくても分かってるよ! ……あれはたしか、」
「そういうことですか。では、やはり、あの化け物たちは全部で五体。私が倒した二体を除けば残りは三体という事になりますね。困りましたね……」
桃太郎は青年の話を聞いて、事態は思ったよりも絶望的に大変だという事が分かってきた。
青年が目撃したのはこうだ。
「オレがさ、昼休みで畑仕事から家に向かう途中川沿いを歩いている時だった。ボーっと川の上流を眺めてたらさあ、遠くにこ~んな大きな船に乗って川を下って来るやつらがいたのよ。この村にはそもそもよその所から人がやって来ることじたい珍しいからな。オレも気になってさ、船に乗っている連中を見てやることにしたんだよ。そうしたら、それがまさかのまさか、降りてきたのは人間じゃねえ。見たこともねえバケモノだったんだ! 赤いヤツを先頭にして、黄色、緑、青、紫、の色違いのバケモノがぞろぞろ降りてきたってえわけよ!」
「お孫さんのお話では、あそこに横たわっている二体、つまり緑と黄色はここにいるので、残りは赤と、それに青と紫ですね」
「そういう事になる」
「ああ、そういう事だぜ先生!」
「問題は、残りの三体がどこに行ってしまったのか、ですね。一人ずつなら私のチカラだけでどうにかなるかもしれませんが、三体同時だとさすがに難しいかも知れません……」
翁とその孫にとって、心丈夫ではない言葉を桃太郎は言った。
「う~ん、いったいあの化け物どもはこの村に何をしに来たのか……?」
翁は顔をしかめ、困りぬいたような表情をした。
「それが、さきほど緑のバケモノと戦った時に聞いたのですが、どうやら、この村の人間を襲いに来たわけじゃなさそうでしたよ」
「ほんとうか!? しかしそうなると、いよいよもってワケがわからんな」
「でもよ、じっちゃん」
青年は、なにやら自信ありげだ。
「その話が本当ならよ、そのバケモノどもは時間がたてば勝手にいなくなるんじゃないのか? だったらよ、あいつらが目的を果たしていなくなるのをじっと待ってるのが一番賢明なんじゃないか? もしそれが本当ならこのまま時を過ごして、間違ってるならその時に備えて策を練る時間にあてりゃあいい」
「生意気いうな孫!」
老人は青年のあたまをぽかり、と軽くたたいた。
「……まあ、だが言うことは間違ってないな。どうしましょうか先生?」
「な、なんだよ! 間違ってないなら叩くことないだろ! まったく、いつも叩いてから考えるんだからなぁ……。もうちょっと熟慮してから発言……」
ぽかり! とさっきよりも強くあたまに一発。口ごたえは許されないらしい。
「……そうですね。たしかにお孫さんの言う通り……」
『ぐおおおおおお!!!』
「なんだ、なんだ!?」
突然、山の方からおそろしい獣のような叫び声が聞こえてきた。
空気が震える。
「山からだ!」
三人は同時に声を上げる。
「あの方角はたしか……!」
「うん? お、おい、先生? 先生!」
桃太郎は二人が呼びとめるのを聞かずに、そのまま物凄い勢いで雄叫びのする方へ走り去っていった。
(無事でいてください!)
桃太郎の胸中には、言いようのない嫌な予感でいっぱいになっていた。
「……は、はええ~!」
「ま、まるで疾風のようじゃのお……」
残された二人は顔を見合わせている。
「い、行っちまったな先生」
「う、うむ……」
ふたりは息をのみ、
「も、戻ろう!」
と合唱し、目一杯の速度で鍾乳洞へと仲良く駆けて行った。
「ふぅ~、疲れた……」
お婆さんは、腰をトントンと叩きながら腰をむしろに下ろした。
一昨日から桃太郎とお爺さんの破れた着物をきれいに直していたのが、やっと終わった。
「これで、よし」
お婆さんは「これであんしん!」と言いたげにほほ笑み、縫い物を片付けると今度は食事の支度をはじめた。外に出て働くのも大変だが、家の仕事を任されるというのもまた大変だ。
お婆さんはそれから、いつものゆったりとした動きで台所に立った。それが急に、ぴたりと金縛りにでもあったように止んだ。
お婆さんは食事の支度を急きょ取りやめ、今度はいろりのある方に向かった。……ここで食事の準備を? と思いきや、用があるのはいろりではなかった。
『こんこんこん、かんかん』
お婆さんはウチの床を確かめるように叩き、そのウチの一か所だけ音がちがう場所があった。
ガタと床が外れると、そこには、普通なら気がつかないほどの小さな取っ手があって、お婆さんはそれを引っ張ると床の下から鞘におさめられた刀を二本取り出した。
「……」
お婆さんはそのウチの一本を手に取ると、再び残りの一本を元にもどした。
その足で、お婆さんは玄関へ向かって行き、そのまま外へ出る。いつもの足取りとは少し違う。
少し建てつけが悪くなった戸は、やかましい音を立てて開いた。空が青い。今日は晴れの日の中でも特別お日さまの光が強いように思う。開いた戸の前には沢山の雀がいて、お婆さんがやった家の残り飯をつついている。
「おや、まさかこのような所にいらっしゃろうとは。異界に住まわぬとはいかな了見です?」
バーッ! と雀たちが一斉に羽ばたく音がした。先ほどまでは全てのいきものが息をひそめたような静寂につつまれていたのに、その声がした瞬間に森中が騒ぎはじめたようだった。
森の中から現れたのは、三体の、巨躯を持った赤と紫と青のバケモノだった。三体のバケモノは赤を先頭に、左右には鳥に似た顔と翼を持った紫と青のバケモノがうやうやしく控えている。
「……やはり鬼の方でしたか」
お婆さんは眼前に現れた三体の異形のものを見てつぶやく。
「ふむ。我らが姿を見ずして知ることができるとは、やはり異界の方とお見受けしますがいかが?」
先頭の赤い鬼が慇懃に訊ねる。
「はい、『羽人』の者にございます」
「ほう、『羽人』ですか。羽人といえばあの『天城山』の……? では、あなたはその最後の生き残り、という事に……なりますかな?」
赤い鬼は悲しげな顔をする。
「鬼一郎さま。お情けは無用ですぞ。いや、なにも私は慈悲の御心や感謝の念を忘れよと申しているのではありません。これは仕方のないことなのです。食べなければ、我らが飢え死に致すのです」
「……わかっている」
紫の鬼が『鬼一郎』と呼ばれた赤い鬼をさとす。
「鶯鬼の言う通りですぞ。食べなければ死ぬ。それが自然の摂理です。そこからは何人たりとも逃れることはできませぬ」
「わかっている!」
自分に言い聞かせるように鬼一郎は言葉を吐き捨てた。言動は大人びているが、年の程は桃太郎とそう変わらないように見えた。
「お刀自さま。我々のことをご存知なら、いかにして我らが空腹を満たしているのかもすでに承知しているかと思います」
お婆さんは小さくうなずく。
「では、観念よろしいでしょうかな」
鬼一郎が動き出した時だった。
「お待ちください!」
お婆さんは歩み寄る鬼一郎を制するように言った。
「一つ、どうしてもお訊きしたいことがございます」
「なんですかな?」
鬼一郎は問い返し、ほかの鬼ふたりは顔を見合す。
(どんな了見だ? まさか諦めがつかんのか? さもあらん……)
顔を見合わせたふたりはかってにお婆さんの気持ちを想像する。
「この山にやってきたのは『お食事』だけが目的なのですね?」
お婆さんは神妙な顔で尋ねる。その背には、密かに刀を一振りひそめている。もしもの時は、これでせめて鬼の一人と刺し違える覚悟だった。もっとも、実際に鬼を目の当たりにしたお婆さんにはもう、そんな気持ちはつゆほども残っていなかった。今となってはもう、背に隠した刃で一太刀を浴びせることすら諦めてしまっている。ならば、せめて他の者だけでも無事に……。
「はて、異なことを。むろん、この山に『異界』があると聞き、異界種を求め参ったまでのこと。ほかになにか、お心あたりでも?」
「いえ、なにも……」
お婆さんは安堵の表情を浮かべる。彼らは『桃太郎』を迎えに来たのではないのだ。
「お刀自さまはなにか御心配がおありのようですな。……安心されるがよろしい。この山の麓にはたしか人間の村がありましたが、我らは人間など滅多に食べませぬ。もちろん意味のない殺戮も。……もしやお刀禰も異界の?」
「いいえ、良人は人間です」
「ならば、御約束致しましょう。あなたの御身さえ頂ければ、我らは必ずやすぐさまにココを立ち去りましょう。ご無念だとは思いますが、こちらも生きる為。世の理にしたがってアナタ様を我が血肉にかえさせて頂きます」
鬼一郎は深々と御辞儀をし、今度こそは制止する者もおらず、力強い足どりでお婆さんに近づく。
「……」
お婆さんはうつむいて目をつむったまま両の手を合わせている。もはや、観念し切っているのだろう。
「では……ごめん!」
瞬間、骨を砕くような凄まじい音がし、それからゴリゴリと骨を削るような世にも恐ろしげな音が聞こえた。
山のようすはと言えば、それ以外には音もせず、じつに静かなものだった。
「お食事はお済みになったようですね、鬼一郎さま」
鶯鬼と呼ばれる、鳥の顔をした紫の鬼が鬼一郎に話しかける。
「うむ。……不思議だ。カラダがぽかぽかしてきて、なんだか心まで満たされた気分だ。それに、カラダに力が……みなぎる!」
鬼一郎は自分のカラダが、さっきまでの自分とは変わりかけていることを感じた。
「ええ、そうでしょう、そうでしょう。鬼なれば誰もが通る道です。この瞬間はなんとも言えないほどの至福を覚えるものです。それはほかの生き物が感じるように、食べたモノが我らの血肉となり、己の成長の糧となる事を感じるものです。我々鬼族はほかの異界種や人間などとは違って、食事というものを日になんども摂取する必要がありません。しかし、生涯に一度、もしくは幾度か、鬼族の血をひかぬ異界種を食わねばならず、また、その一回の食事で自らの力を増し、長きにわたって自身の命を世につなぐことにもなるのです。特に鬼一郎さまのような若い時分に『食事』は必須で御座います。さらに鬼一郎さまのような鬼族の血を強く継承する『赤鬼』ともなれば、その量は我々凡百の鬼どもをはるかにしのぎます。量が多いという事はそれだけチカラをたくわえる器もまた大きいということ。お優しき鬼一郎さまは、同じ異界種であり言葉を解する彼らを憐れんでしまうでしょうが、なにとぞ、のちには現『鬼王』に代わって我らを導く立場になられるお方。ご養生くだされ!」
鶯気は少しいさめるような調子で鬼一郎をさとす。
「……満足だ。心も、そして体も」
鬼一郎はそう言うと、お婆さんの家にむかって手を合わせた。お婆さんのカラダは、骨一つ残さずにたいらげた。
「鶯鬼。お前の言う通り、食事というものは有り難く、また悲しいものだな……」
生きるということは即ち『食べる』ということだ。だれもその業からは、逃れられない。
「左様ですな。食べた分だけ、相手の痛みを知り、生きる喜びを知り、立派な王になられてくだされ」
鶯鬼は厳かに言い放ち、黙ってお婆さんの家にむかって礼をした。
横にいたもう一人の青鬼も、その鳥のような顔を真剣にして、黙ってそれにならう。
その時、三人の鬼の後ろで物音がした。
「き、貴様らは!?」
そこには柴刈りを終えて帰って来たお爺さんの姿があった。
「……まずいな」
鬼一郎は一言もらすと、ほかの二人に目配せをする。
クイとあごで方向を指し示すと、鬼一郎、つづいて他のふたりもそれに続き森の中へ逃げ去ろうとする。
「ちぇい!」
お爺さんは気合を発すると、すぐさま青鬼との距離を詰めていた。
「うぉ!?」
「鶴鬼!」
鬼一郎と鶯鬼が青鬼の名をさけぶ!
「ぐお……」
青鬼、『鶴鬼』はいつの間にか老人に組み伏せられていた。
「な、なんと! 人間が鶴鬼を!?」
「どうやら、ただものではなさそうだな」
鬼一郎は、「これは困った事になった」という顔をしたが、それはお婆さんに「ほかの者には危害を加えない」という旨の説明をしたてまえ、あとは穏便に事をすませたかった思いがあるからだった。
老人に自分たちが敗北を喫するかもしれないとの危機感は、微塵もない。
「鶯鬼! 私があの老人をひきつける!お前はその隙に鶴鬼を!」
風を切りながら、ジグザグに距離を詰め、鬼一郎はお爺さんに接近する。その速度は、普通の者ではなにが起きているか分からぬほどだった。
「うむ!」
鬼一郎は右にカラダを振ると見せかけて、お爺さんの元へ一直線に飛び込んで行った。
だが、お爺さんは力を込めたとも思えぬほど軽い動作で『ひょい』と手を招くように右手を動かし、たったそれだけで下にいる鶴鬼が頭から持ち上がった。まるで重さのない操り人形のように。
「なに!?」
鶴鬼はカラダの自由を失い、鬼一郎めがけてふっ飛んで行く!
鈍い音を立てて二人は互いの頭で相手の頭を受け止める。
「ぐ、ぐう……」
さすがの鬼も、これには面を食らったようだ。
「き、鬼一郎さま!」
鶯鬼がそれを見て叫ぶ。
「(これはいよいよマズイことになったぞ!)」
鬼一郎はそう思い、目でお爺さんを捜した。家の玄関あたりに、老人は立っていた。
(雰囲気がある。これは……手強いぞ)
老人の手には、いつの間にか剣が握られている。
(さっきの刀自が持っていたものか!)
それは、お婆さんが背にひそませていたものだった。鬼一郎は『食事』を終えた後、それを丁寧に戸に立てかけておいたのだった。
「鶯鬼よ。……どうやら、この老人からは逃げられぬようだ」
「まさか、人間相手に我々がこのような事にならねばならぬとは……!」
鶯気は悔しそうに唇をかむ。
「とお!」
お爺さんは小さく短い気合を発する。カラダの動作自体は緩慢なのに、その剣は恐ろしいほど迅い。
「逃げろ鶯鬼!」
鬼一郎は地面に転がっていた石をお爺さんに投げた。当たれば、人間の頭など簡単に粉々(こなごな)になりそうな勢いがあった。
お爺さんは動いたとも思えない程の小さな動きでそれをかわす。
「しゃあ!」
鬼一郎は右手の鋭い爪でお爺さんを狙った。もはや、穏便にすまそうなどという余裕は、鬼一郎にはない。
(やらなければ、やられる!)
「とお!」
「むん!」
二人は短い気合を攻撃にこめ、火花を散らす。
その二人の死闘を、二人の鬼たちは黙って見ているしかなかった。
「くっ……! よもやあのような人間がおろうとは……一生の不覚!」
「今は嘆いても何にもならんぞ鶯鬼! いいか、あの人間の隙を見つけたら、すぐに鬼一郎さまと共にヤツの及ばぬ空へ逃げるのだ!」
そう言うと二人は、背中に生えた大きな羽を広げて、静かにその時を待った。
「くっ!(なぜ当たらぬ……!)」
鬼一郎は苦戦していた。正直、いくら手強いとはいえ人間の、それも老人に『赤鬼』の自分がてこずるなど、毛ほどにも思っていなかった。体格も、大人と子供ほどの差がある。鬼一郎は八尺以上(約二メートル四十センチ)もの巨体を誇る。それに対してお爺さんは五尺そこそこしかないのだ。普通なら、鬼一郎の勝ちは疑いようがないように思う。
だが、それは大きな間違いだった。
「でやあっ!」
びゅうん、と空気を切り裂く音がしてとなにかに当たった音がした。それからしばらく経つと重々しい音を立てて木が倒れていく。それは鬼一郎の攻撃が目標をそれて木に当たったものだった。怖ろしいほどの膂力、そして速度。これほどの力を備えていればどんな相手も圧倒できるはずだった。
「ぐうっ!」
鬼一郎が小さくうなる。お爺さんはしかし、その恐ろしいまでの鬼一郎の猛攻を華麗にかわし捌きつつ、かわし捌いてはその度に剣先をわずかに鬼一郎の体へかすめさせていた。その刃は鬼一郎の命には届かずとも、確実にその肉体を削り取っていく。
(なんと奇妙な攻撃なのだ。体は緩慢な動き、かと思えば剣は速く、そう思えば今度は体は速く、剣は遅く。そして右かと思えば左、左かと思えば……)
「下かっ!?」
鬼一郎はお爺さんの真下からの斬り上げをのけ反ってかわす。もう少し遅ければ、鬼一郎の面は顎先から二つに分かれていたことだろう。
「はあっ!」
のけ反りながら一撃を加える! しかし、あんなに近くにいたはずのお爺さんは、その時にはもう遠くにいってしまっている。
(私の心が読めるのか!? この老人は!)
そうとしか思えなかった。でなければ、あんなに小さい動きで、それもあんなにゆっくり、いや、ゆったりとした速度で私の攻撃が避けられるはずがない! ……鬼一郎は思うのだ。
「とおっ!」
お爺さんが攻めに転じて気合を発する度に血が勢いよく吹き出る。
「ああ! 鬼一郎さま!」
「だ、だめだ! もう見ておれん!」
二人が飛び出そうとした時、
(来るな!)
と言わんばかりに鬼一郎は右の掌を向けて、彼らの加勢を阻止した。
「くっ!」
二人はもう、とっくにそれに気付いていた。気付いていたからこそ、鬼一郎と一緒に老人を攻撃する事ができなかったのだ。
「……」
お爺さんは背を見せながらも、まるで両の目でしかと見えているがごとく、この鳥のような顔をした二人の鬼をけん制しているのだった。
(動けば斬る!)
無言の圧力が、その背から発せられている。
本物の戦いに『もしも』はないが、彼らがもし鬼一郎の制止を聞かずにそのまま助けに入っていたら、今ごろはきっとこの森の土の養分になっていたことだろう。
(どうする鬼一郎! この難局を、おまえはどう乗り切る?)
鬼一郎は先ほどからそういう自問を繰り返していた。が、二人は急に動くのを止め、
「……」
互いに『構え』をとったまま長い時間制止した。
「そろそろこの戦いも終わりが近い」
二人はそう考えていた。
「はぁはぁ」
お爺さんも年だ。体力は、そう続かない。相手に気付かれない様に細心の注意をはらってはいるが、実はもう足が棒みたいに屈伸がキかない。息も激しくなるのを止められない。
対する鬼一郎の顔からは、左のこめかみからお()と()がい()にかけ、赤々とあざやかな血がしたたり落ちている。いや、それだけじゃない。ほかにも、よく見ればお爺さんの斬撃によって浅くない傷が体中に散見できる。
「……破ぁああああ!」
ふたりが同時に動き出す。裂ぱくの気合は、お互いがお互いに相手の息の根を止めようという証だ。
剣を上段に構えたお爺さんは、構えた剣をそのまま右袈裟に斬り下ろす!
全ての力をふり絞り、鬼一郎もまた自分の右手にありったけの力と速度をこめる!
「……!」
それは、とても奇妙な感覚だった。鬼一郎が今までに感じたことのない感覚。
裂ぱくの気合と共に、二人は渾身の一撃を放った。
(なんだこの感覚は? まるで型が決まった舞踊のように……!)
ふたりの動き。剣と鋭い爪は打ちだされた『点』から『線』をえがき、相手のカラダという『面』へ向かう! だが、その点から線、そして面までの動き、その呼吸。ふたりの動きは、驚異的なほどピッタリと符合する。まるで元はひとつであったものが、本来のすがたに戻ろうとするような。
(しまった! これは『合わされ』ているのだ! すでに術中にハマっていたか!)
鋭すぎる爪と剣が、高速で交差する!
ぞくり、と鬼一郎の肉体はこれから受けるであろう多大な損害を予想し、肌を粟立たせ、背に寒いものを走らせた。
(あ、相討狙いか!)
鬼一郎が思った刹那、
スルリと、ほんのわずか、まったくの毛ほどの変化を、この老人はした。
(な、なに!? なんという妙技!)
ふたりの拍子は完璧だった。そのままならば共に互いのトドメの一撃を受け、おそらく絶命していたであろう。しかし恐るべきことに、この老人はその最後の最後、これ以上はないという拍子で変化した。鬼一郎の攻撃の軌道をわずかに逸らし、己の体の安全を確保しながら、自らの刃は相手をとらえたまま進む。そのあまりの美技に、鬼一郎も思わず心中感嘆の声をあげたのだ。
交差の刹那、お爺さんと鬼一郎、まるでこの二人のあいだに向かって、狙いすまされたように一陣の突風が吹き荒れた。
突風ごときで止まる二人ではなかったが、しかしこの一陣の風が、彼らの運命を決定づけた。
「ヒラリ」
突風にたなびき、鬼一郎の懐から一枚の布切れが顔を出した。
「!」
それを見た瞬間、完璧だった流れに、少しのほころびが生じた。
「ば、ばあさん……!」
この戦いを通して初めて、お爺さんは言葉らしい言葉をしゃべった。
(好機!? ゆけ~!)
鬼一郎は偶然生まれたその隙に自分の全てをたくした。
「き、鬼一郎さま!」
固唾をのんでいた二人も思わず悲痛な叫び声。
水が勢いよく噴き出すのに似た音だった。しかし噴き出した水は赤くて生々しい生命の色をしていた。
「ぐっ……ぐがああぁあぁぁ!」
鬼一郎が崩れ、片膝が地につく。その咆哮は、地を揺るがす力を持つのではないかという錯覚を起こすほど強烈なモノだった。
「ああっ!」
あたりに二つの悲鳴がこだまする。
「……た、助かった」
鬼一郎は胸のあたりを左手で押さえ、天を仰ぎながらつぶやいた。その姿はどこか、祈りを捧げる者を連想させた。
澄ました音をたてて、刀がお爺さんの手からこぼれ落ちた。
「……」
お爺さんは剣を落とした後もそのままの姿勢で『残心』したまま、一人だけ時が止まってしまったかのようだ。
「鶯鬼、鶴鬼! ……終わったぞ」
力なく鬼一郎は立ち上がる。今にも崩れてしまいそうなお爺さんのカラダを左手で支えながら。
「危なかった」
鬼一郎は信じられないものを目撃したという顔で、自分の右手に視線を移した。
右手は、お爺さんの心の臓を完璧に貫いていた。
ズボリ、と実に生々しい音。それは鬼一郎の巨大な腕がお爺さんの腹から引き抜かれる音だった。溶け合った空気と血が不気味に交わる音だった。
鬼一郎はそれから、お爺さんのカラダを優しくその場に横たえた。
「わ、若さま! ご、ご無事でございましたか!」
鶯鬼と鶴鬼のふたりが駆け寄って来る。
「若さまはやめてくれ、鶯鬼……。照れる」
「あいや、これはスミマセぬ」
見るからに怜悧で、落ち着き払った雰囲気の鶯鬼にも、どうやら慌てふためく場面はあるみたいだ。
「しかし……」
横でお爺さんの亡骸を眺めながら鶴鬼が尋ねる。
「なぜこの老人は、最後の最後で動きを止めてしまったのでしょう。それまではたとえ遅くとも淀みのない、流れるような動きであったのに……」
「……ふむ。やはり、お前たちにも分かったか。私も不思議に思った。しかし、たった今わかったよ。あの老人の動きを止めたモノの正体が」
「えっ」
「……これだ」
鬼一郎は地面に落ちていた布切れを拾い上げる。それは絹で出来た、山暮らしには不似合いの上等な腰帯だった。
「それは? なんでございます、鬼一郎さま?」
「これは、さきほど私が『頂いた』、あの刀自さまのモノだ。『鬼が島』に戻ったら、島の供養場で弔いでもしようかと思ってな」
「……左様ですか」
それっきり、三人は黙ってしまった。
命を拾った喜び、命を失った者のはかなさ、命の持つありがたさ。彼らはこの瞬間に、そんなことを感じていた。
が、それまで気丈に振舞っていた鬼一郎がよろめく。
「鬼一郎さま!」
ふたりは鬼一郎の肩をつかんで彼を支える。
「すごい血だ……!」
鬼一郎は体中にある無数のまだ新しい傷口のほかに、もう一つ、胸に大きく刻み込まれた真一文字の、深い刀創があった。その鮮烈な傷口から静かに血が流れ続けている。
鶯鬼と鶴鬼は両方から脇に腕を差し込んで鬼一郎を持ち上げる。
「ま、待て二人とも! 大鬼と蛇鬼がまだ残っている!」
「鬼一郎さま、ことは一刻を争うのです。あと一人でも今のような力のある人間がこの山におれば、我らの敗北は火を見るよりもずっと明らかです。それに、あの二人ならかってに帰って来るに決まっています。もしも……、あの二人が帰ってこないとしたら、それこそ我らは今とてつもない窮地にある。そう申してもよいでしょう」
「左様。鶴鬼の言う通りにございます。それになにより、アナタ様の出血がヒドイ。二人を捜している時間などありませぬ。私と鶴鬼、ふたりならば鬼一郎さまを抱えたまま飛ぶことができます。ご自重くだされい!」
大きく羽を広げる音がして、鶯鬼と鶴鬼は背中の羽を目一杯広げていた。二人は鬼一郎がなんと言おうが絶対にこのまま飛び立つ覚悟を決めていた。鬼一郎はやがて『異界・鬼が島』の王となる身だ。その彼を、こんな所で死なせるワケにはいかない。
「ま、待ってくれ! 二人とも! 頼みごとがあるのだ!」
「大鬼と蛇鬼のことなら聞きいれられませぬ!」
「いや、ちがうのだ…。それは、あの二人を信じることに決めた。……頼みごとというのは、あの老人がつかっていた刀を拾って欲しいのだ」
「刀をですか? よろしいでしょう。そういうことなら、刀はこの鶴鬼がお持ちしましょう」
鶴鬼は刀を、自分の粗末な腰ひもにくくりつけた。
「これでお心残りはございませぬな?」
「……」
鶯鬼は念押しの確認を鬼一郎にしたが、鬼一郎は朦朧としているのか恍惚にも似た表情をして、そのまま黙っている。たぶん、もう誰の言葉も耳に入らぬほど、肉体が弱り切っているのだろう。
「急ぐぞ! 鶴鬼!」
「あいよ!」
四枚の大きな翼は風を叩くようにして大空を浮揚する。
「お、おい鶯鬼! あ、あれ!」
ちょうど村の真上に来た辺りで、鶴鬼が下を確認するよう鶯鬼にうながす。
「あ、あれは!? 大鬼! 蛇鬼!」
上空からでも一際目立つ黄色い巨体、そして横には緑の鬼。
「ああ! なんということだ! あの二人がやられるなんて!」
慟哭せんばかりに二人は悲しみ嘆く。
「おい……なんだ? あれは!」
鶴鬼が大声でさけぶ。
「どうした? うん? なんだあれは!?」
ふたりは先ほどまで鬼一郎が人間の老人と死闘を繰り広げていた場所へ向かって進む、ひとりの人間の姿を発見した。
「人間……なのか?」
「お、俺達は悪い夢でも見てるのか?」
疾風のごとき速さ。それは人間とは思えぬほどの速度だった。もしこれが『鬼』だといわれても信じてしまうかもしれない。
「鬼では……あるまいな?」
「いいや、あんな鬼みたことない。信じられんことに、あれはどう見ても人間のようだ」
ふたりは瞬時に悟った。山を駈け上って来るあの人間こそが大鬼と蛇鬼を倒したのだ、と。
「……危ないところだった。急ごう、鶴鬼」
「……ああ」
四枚の翼はさっきよりも風を強くたたきながら、さらに上空へと舞い上がっていった。……まるで怖ろしいものから、必死で逃れるように。
「おじい様! おばあ様!」
我が家へ辿り着いた桃太郎が見たものは、信じようと思っても信じられない、いや、信じたくない、そんな光景だった。
「お、おじい様……!」
家の前には、お爺さんが横たわっていた。大量に血を流したのだろう。そのせいで渋緑の着物が黒ずんでいた。とうに絶命している事は、三才の童子でも理解できた。胸に大きな穴があいている。
「な、なぜこんな事に!? はっ! ……おばあ様はっ!」
桃太郎は物言わぬお爺さんを背におぶって、お婆さんを捜しに家の中へ。
「おばあ様っ!」
勢いよく戸を開ける。いつもの彼なら、そんな不調法な開け方はしない。
(……これは!)
戸を開くとそこには誰もいなかった。しかし足元を見ると、そこには土間一面に血が乾いて固まった痕がある。
「……うう」
桃太郎は足元の血痕を見ながら立ち尽くし、それから目を閉じては静かに涙を流して泣いていた。
お爺さんがすでに絶命していることは気付いていたし、お婆さんもまた、この自分の足元にある血だまりのあとを見れば、どうなったかはおよそ想像がついた。
桃太郎はもう一度閉じていた目を開き、茫然と視線を固定したまま、乾いて不気味に赤黒く変色した血の痕を見つめたいた。