表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リアル御伽草子・正伝、桃太郎!  作者: グリーンティー
1/5

桃太郎とその仲間たち

「おらおら! このゴミ野郎!」

 あまりひと気のない公園だった。見れば中学生ぐらいの男子が、四、五人で輪を作ってなにやらわめき()らしている。その輪のわずかな隙間(すきま)からは(くろ)(かたまり)のようなものが見えた。

「なにやってんだお前ら!」

 こちらは、高校生くらいだろうか? コンビニの袋をぶら下げた少年が輪を作っている少年達を(しか)りとばす。

「ちっ……、行こうぜみんな」

 その声を受けて少年達は輪を()き、さっきまでの威勢(いせい)がウソのように小さく舌打(したう)ちをして、そそくさと逃げ出して行った。

「……大丈夫ですか? ……まったく、ヒドイ連中だ」

 コンビニ袋の少年は輪の中にいた『黒い塊』へ話しかけた。話しかけると、少年の声に数秒ばかり遅れて黒い塊はモゾモゾと動き出し、

「お、おお、ありがとう……」

 と、感謝を()べ『にゅっ』と顔を上げた。顔を見れば、『黒い塊』の正体は()の抜けたジイサンだった。身に着けているのは元々が黒いのか、それとも汚れてそうなったのかも分からぬほどになった、ボロボロの服だった。

「いいえ、僕は当然(とうぜん)の事をしたまでです。お礼など……」

 コンビニ袋をさげた少年はさも当たり前のことをしたというような表情で答えた。その顔を、ジイサンはまじまじと見つめる。

「……()ておる」

「……はい?」

 ジイサンは突然(とつぜん)ワケの分からないセリフを言った。突拍子(とつひょうし)もない。

「……おじいさんのお知り合いにですか? 僕が?」

「うむ」

 似ているらしい。このジイサンの知り合いに。この少年が。

(なつ)かしい……! まるで()き写しのようじゃ……。もっとよう見せてくれ」

 ジイサンはそう言うと、少年の了承(りょうしょう)も待たず勝手(かって)に少年の顔や肩をあっちこち(さわ)りながら、『ふむふむ』とか『ほうほう!』と言った(こと)をつぶやいている。正直、少年は助けた事を少しだけ後悔(こうかい)した。

「……うむ! 立派(りっぱ)りっぱ! おぬし、将来は大物になるぞ!」

 ジイサンはしきりに感心したあと、彼の肩を(たた)きながら大声で言った。

「はあ、どうも」

 少年は少し困惑気味(こんわくぎみ)だ。このジイサンは何者だろう? 言っちゃ悪いが、パッと見にはただの浮浪者(ふろうしゃ)に見える。……言っちゃ悪いがね!

「そうだ! おぬしにコレをやろう。助けてくれた(れい)じゃ」

 ジイサンは言うと(ふところ)から古ぼけた書物(しょもつ)を取り出し、少年に与えてやった。

「え? あ、ああ、どうも……」

 少年は思わず受け取ってしまった。ジイサンの顔がえらく嬉しそうだったので(ことわ)りにくかったからだ。

「……だいぶ古いものですね。よろしいんですか? このように価値のありそうなモノを(ゆず)って(いただ)いても」

 ジイサンが差し出した書物は、少年のお世辞(せじ)などではなく、いかにも年代物(ねんだいもの)で価値ありげに見えた。ただし、それを譲ってくれた老人を見る限りそれはなさそうではあったが。

「うむ、(かま)わん。礼と言ったであろう。それに、おぬしはワシの古い知り合いにそっくりだ。顔かたちも似ているが、腕白(わんぱく)小僧(こぞう)どもからワシを(すく)ってくれるあたり、正義感が強いのも似ている。さらにはその丁寧(ていねい)物腰(ものごし)、いかにもというマジメ顔……、まさに(うり)(ふた)つじゃ!」

 ジイサンは懐かしそうに目を細めている。

「は、はあ、どうも……」

 少年は()められて、なんだか()れる気がした。

「良い機会じゃ、その者についての話を聞かせてやろう! まあ、その書物にも、その者についての話が書いてあるのだがな。まあよい。……さあ、(すわ)った、座った!」

『バンバン!』と右手でベンチを(たた)きながら、ジイサンは少年に自分のとなりに座るよう催促(さいそく)した。

(え、ええ~……)

 少年はちょっぴり(いや)だったが、『お礼』に古い本も(もら)ったし、ジイサンは話す気満々(まんまん)だしで、……仕方(しかた)なく少年はジイサンの催促に(したが)い、ジイサンの横に(こし)を下ろした。

「で、どういう方なんですか? その……僕に似ているというのは?」

 少年は聞いた。

「ぐ~!」

 少年の()いに(こた)えるように、ジイサンの腹の虫が()る。

「よかったら、どうぞ」

『ガサゴソ』と少年はビニールから肉まんを二つ取り出し、そのひとつをジイサンに分けてやった。まったく、素晴らしい若者だ。

「ほっほ! ありがたい!」

 ジイサンは嬉しそうに言うと、少しの遠慮(えんりょ)も見せずに肉まんを頬張(ほおば)りながら、さっきの少年の質問に答えてやった。

「……桃太郎じゃ」

 ジイサンは言った。

「はい?」

「だから桃太郎! ……はむはむ、コイツはウマい!」

 桃太郎……!? 少年はどうやら()い行いをしたのにもかかわらず、とんだ災難(さいなん)見舞(みま)われてしまったようだ。も、『ももたろう』ってアンタ……。

「桃太郎さんですか? ……だ、だいぶ変わったお名前ですね……」

左様(さよう)。だいぶ変わった男じゃった。しかし、同時に素晴らしい男でもあった。今からおぬしにする話は、その男の話じゃ。だ~れも知らない、真実のお話。それはむか~し、うんとむか~しのお話じゃ……」





 ……昔々(むかしむかし)、この世界にまだ『異界』と呼ばれる、不思議な生き物が暮らす世界が存在していた時代(ころ)のお話。ある山の(ふもと)に、それはそれは柔和(にゅうわ)親切(しんせつ)なお(じい)さんとお(ばあ)さんが住んでいたそうな。その日、お爺さんは山へ柴刈(しばか)りに、お婆さんは川へ洗濯をしに行っていた。

 その日は少しだけ、いつもに比べて川の流れが早いような気がした。それに、山の雰囲気(ふんいき)もなんだかざわついている(よう)な気がする。

「……アラ!」

 洗濯をしていたお婆さんが何かに気付いた。川の上流から、何かが流れて来る。

「なにかしら……カゴ?」

 お婆さんが手招(てまね)きをすると、あら不思議、上流から流れてきたカゴはお婆さんの所にまるで(まね)()せられるようにして流れてきた。

 それは確かに、(かご)だった。木で()まれた丈夫(じょうぶ)そうなカゴ。その中には(わき)()しが一振(ひとふ)()いてある。

「……あらまあ!」

 お婆さんはカゴの中身を見てさらに(おどろ)いた。

「……『赤さん』じゃないの!」

 カゴの中にはなんと赤ん坊がいたのだ。しかもこの赤ん坊、ただの赤ん坊ではなかった。皮膚(ひふ)が赤くてそれもウロコみたいに(かた)く、おまけに(つの)まで生えていたのだ。その赤い肌を見る限り、確かにホンモノの『赤さん』ではある。

「あらら、どうしましょう?」

 困ったお婆さんはしばし川べりに立ち()くし、それから洗濯ものを片付けると、カゴに入ったままの赤ん坊を家まで持って帰った。



予言(よげん)の子じゃ!」

 お爺さんはたいそう興奮(こうふん)した口振(くちぶ)りで言った。

「予言の子ですか? はて、なんでしたか、それは?」

 ずいぶんと鷹揚(おうよう)口調(くちょう)で、お婆さんはお爺さんに(たず)ねた。

「三日ほど前じゃ。『御山(おやま)』にいた『紫雲(しうん)』様という仙人(せんにん)様が、ちょうど昇天(しょうてん)する前にワシの元へやって来てこう(おっしゃ)ったのだ」

「ああ~、紫雲様ですか。あの方が何か仰っていたのですか?」

「ああ、仰っておったとも。そうだなぁ…、あれはたしか……つい近頃、山へ行った時の事じゃ」


『え~、オホン。翁よ、これから数日の(あと)、この山に『異形(いぎょう)の子』がやって来る。その子はたいへん数奇(すうき)な運命の元に生まれた子で、この世に(あさ)はかならぬ因縁(いんねん)を持って生まれ(いで)たのじゃ。そこでじゃ(おきな)、もしその子がこの山にやって来たら、お前に面倒(めんどう)を見てもらいたいのじゃ。そしてその子が数えて五つの年になった時、山の(いただき)()えた木になる『(もも)』を食べさせてやるのじゃ』

「はあ、『桃』ですか。しかし、山の頂上にそのようなモノが()りましたかな?」

『それはこれから生えてくる。きたる日は、『(きゅう)の重なる日』だ。その日、ワシはこの天地と一つに()り、この人間の肉体とは完全に別れを告げる事となる。そしてワシが昇天したあと、その頭上から一筋(ひとすじ)(けむり)が上り、そこに紫の雲ができる。やがてその雲は世にも不思議な(あま)い雨を()らし、その甘雨が降った地面からは一本の木が生えてくる』

「その場所が山の頂ということでございますか」

『そうだ。そこに生えてくる木に『(せん)(とう)』はなる。木が実をつけるまでちょうど五年。そして実を与えた後は、その子の名を改め『桃太郎』と名付けるのだ。それまでは、その子の元々の名で呼んでやるといい』

「はあ、これまた突飛なお話で……」

 翁は、すっとボケた様な顔つきをしたが、それも数瞬で、にわかに、

「かしこまりました。しかし、その子の元々の名はなんというので?」

 と答え、殊勝な返事をした。

(あん)ずるな。その子の元々の名は、その子の(かたわ)らにある短刀(たんとう)(なかご)()られてある。……いいか、しっかり頼んだぞ、翁』

「はあ、頼まれました」

『うむ(ほんとうに大丈夫か、こやつ?)』


「…というような話じゃったのお。たしかに、三日前には山の方から、世にもめでたい笑い声が聞こえた。『もしや』と思って山のてっぺんを見やれば、そこにムラサキの雲があって、たくさんの雨を降らしておったな……!」

「そうですか、そうですか。それは、それは。……では、今日からこの子はウチの子になるんですねえ」

 お婆さんは『にこ』とカゴの中の赤()さん()にほほえみかけた。

「そうじゃ、そうじゃ! 今日からこの子はウチの子じゃ! お婆さんや。どうやらワシらにも息子……いや、(まご)というモノができたみたいじゃの。ほっほ!」

 二人はゆかいな笑い声を立てて笑った。その声に(こた)えたものか、カゴの中の赤ん坊も、

『おぎゃ~!』

 と、赤い肌の強面(こわもて)に似合わないぐらいの可愛(かわい)らしい声を上げていた。




()(すけ)()(すけ)

 お爺さんが家の外に出て誰かの名前を呼ぶ。

「お~い……、おっ! そこにおったのか」

 お爺さんの頭の高さよりもずっと高い所に、鬼助と呼ばれた子はいた。木の(ほそ)(えだ)に、赤ん坊がちょこんと乗っている。

「おお、おお。よくもまあ、そんな所に……。危ないぞい、鬼助や。いまジイジが下ろしてやるからなぁ」

 お爺さんはそう言うと、

「ひょい!」

 と、(じつ)(かろ)やかに(ちゅう)()び、それから、

「サッ」

 と鬼助を抱きかかえ、音もなく地面に着地するのだった。

()(すけ)

 もちろん、例の『異形の子』の名前である。その名前は仙人の言う通り、カゴの中の短刀にしっかりと(しる)されていた。

 お爺さんとお婆さんは仙人の言いつけ通り、赤ん坊を『鬼助』と呼び、できるかぎりの愛情をそそいでなるべく自由に育ててやった。

 しかしこの赤ん坊、どうも普通の赤ん坊とはちがっていた。なるほど、たしかに外見からしてすでに普通ではない。顔も体も全身(ぜんしん)(あま)すところなく()()っかであったし、皮膚の感触(かんしょく)もまるで岩のようにゴワゴワしていて硬かった。それに犬歯(けんし)がオオカミのように発達していて、とても人間とは思えない。実際(じっさい)、その鬼助を見た村の者が、

「ば、ばけもの!」

 と腰を抜かしてしまったことがある。

 お爺さんとお婆さんの家は村から少し離れた所にあり、めったに村の者が訪れる事はなかったが、偶然(ぐうぜん)山へ山菜(さんさい)を取りに行った若者が、その日は思った以上の収穫(しゅうかく)があったので、お爺さんとお婆さんにも分けてあげようと訪れたのであった。その時、この若者は鬼助が外でひとり遊んでいるのを見て魂消(たまげ)てしまった。

 若者はせっかく取った山菜をその場に残して村へと走り去り、それからすぐ後に、村はずれの山の麓に『ばけもの』が出るという噂がたったのは、言うまでもない。



 鬼助が二人の元へやって来てから、やがて五年が()とうとしていた。

「もうすぐですねぇ、お爺さん」

「そうだなぁ、婆さん」

 二人が短い会話を()わすと、お爺さんはスッと立ち上がり、

「ちょっくら、山の頂上(てっぺん)を見てこようかねぇ」

 と、(ひと)(こと)(のこ)し、戸を開けるなりサッサと山へ向かって行った。お婆さんは目をつぶったままうなずき、(だま)ってその背中を見送った。

「ばあば!」

 鬼助は嬉しそうな声を上げながらお婆さんに抱きついた。

 鬼助はよく遊び相手になってくれるお爺さんにとてもよくなついていたが、お婆さんにもよく甘えていた。

 しかし、その様子をほかの者が見れば『ばけもの』が目を輝かせてお婆さんを食べようとしている姿に見えたかもしれない。その証拠に鬼助は、

「がぶり」

 と、このウチに来た当初(とうしょ)から、お婆さんによく()みついていた。それは()にいる(けもの)が母親に甘えるような可愛らしいものではなく、獲物に食らいつく肉食獣のようであった。それなのに、この赤い肌の童子(どうじ)は、この五年というもの、ただの一度も物を食べるという事がなかった。

「あれま~イタイ!」

 初めて噛みつかれた時には、その力が幼児とは思えぬほど強く、噛みつかれたお婆さんの腕の肉の表面がひどく傷つき、出血もだいぶヒドかった。

 さすがにその時は、

「これこれ鬼助。人に噛みついてはいけないよ」

 と、拍子抜(ひょうしぬ)けするほどの声音(こわね)でお婆さんは(さと)してくれた。それからというもの、説教(せっきょう)のかいなく鬼助は事あるごとにお婆さんに噛みついたが、最初の時みたいに血が出るほど強く噛みつくということはなかった。

 お婆さんは鬼助が噛みつくごとに「これこれ」といさめたが、自分に噛みついてくる時の鬼助はやたら目を輝かせていたので「このくらいなら」と許していた。

「お~い! あったぞ婆さん! あった、あった!」

 戸の外から、お爺さんの嬉しそうな声がした。

 お婆さんは鬼助を抱えながら戸を開け、

「ほれ、婆さん。これだ!」

 戸を開けると、そこから十間(じゅっけん)(だいたい十八メートルぐらい)先の所にお爺さんが立っていて、右手をたかだかと差し上げて、その手の中の物を見せていた。

「あらあら、お爺さんったら。家に着いてからでよろしいのに」

 お婆さんはお爺さんに向かって優しく手を振り、お爺さんもそれに手を振って笑顔で応えた。手を振ったお爺さんの右手には、黄金色(こがねいろ)に輝く桃がしっかりと(にぎ)られていた。



「どれ、鬼助。食べてみい」

「ほら、鬼助。お上がんなさい」

 ふたりは取ってきた桃を鬼助に食べさせようとした。だが鬼助はそれを一向(いっこう)に食べようとはしない。

「うーむ……」

 二人は困った顔を見合わせる。鬼助はそんなの関係ねえ! とばかりに元気よく、

「だぁ!」

 と、わめきながら家を()け回っている。

「やはり食べませんねぇ、お爺さん」

「うむ、やはり食べぬなぁ、お婆さん……」

 二人とも、実は鬼助が食事を全く取らないことを心配していて、今回は仙人の予言通り桃を食べてくれるものと期待していたせいもあり、内心(ないしん)かなりがっかりしていた。

 それにしても不思議なのは、一体この子はなぜ食物を取らないのに、こんなにも平気な顔をしているのだろう。いったい、世に生まれた生物たるもの、こんなにも食物を口にせずに生きていかれるものだろうか?

「だぁー!」

 が、そんなことにはまるで頓着しない、と言わんばかりに(にく)らしいほど元気だ。この赤ん坊は。

(ふーむ、全くどうしたものか……)

 お爺さんとお婆さんが思案(しあん)(がお)をしていると、

「だぁー!」

 と、例のごとくわめきながら鬼助が突進(とっしん)してきた。そしてその(いきお)いそのままに、

「パクッ」

 と無造作(むぞうさ)に桃へ食いついた。

「お」

 ふたりはあまりに唐突なできごとに少々驚き、それから、

「おお~!!」

 拍手をしてから勢いよく諸手を上げて万歳(ばんざい)をした。

「エライぞ、エライぞ鬼助!」

「まあ、びっくり!」

 ふたりはもう大喜び。だが、桃をかじってからも、

「だぁー!」

 と再び家中をドタバタ暴れ回っていた鬼助だったが、その(うち)うめくようにして足が止まり、ついにはその場にうずくまってしまった。

「お、おお。これ、どうした鬼助」

「あらあら、どうしたことでしょう」

 ふたりはオロオロするばかり。

「だぁー!」

 鬼助は大きな(さけ)び声を(はっ)したかと思うと、すぐさま彼の体は(ふる)えはじめた。

「き、鬼助!」

「あらま~!」

 鬼助の肉体は(ふる)いうごめきながら、その姿をみるみる変えていった。




「一万と二十! 一万と二十一!」

『ビュン!』。

 風を切り、うなりを上げながら木刀(ぼくとう)()(えが)く。

 もう山は真っ赤にそまり、太陽は一日の役目(やくめ)を終えようとしていた。

「お~い! 桃太郎や~い!」

「一万と二十二! 一万と……ん?」

「お~い! ももた……うん!?」

 ()(しげ)る木と(えだ)をかき分けてやってきたのはお爺さんだった。

「おお! ももた……え~!!」

 ()頓狂(とんきょう)な声を上げて驚くお爺さん。

「どうなさいました、おじい様」

 若者は(おだ)やかに、しかし(りん)とした口調で話す。

「桃や! まさかとは思うが、朝からずっとそうしていたのかね?」

「え? ああ、はい。今日は野良(のら)仕事もなく、おばあ様も自分の手伝いはよろしいからと仰りましたので『それなら!』と、今日は思う存分(ぞんぶん)稽古(けいこ)(つと)めさせて頂きました」

「そ、そうか……。しかし何も朝からずっとやらなくてもよいのに……」

 お爺さんは(なか)ばあきれたような、半ば感心したような、そんな感想を桃太郎に言う。

「いえいえ。せっかくお時間を頂いたのですから、自分なりに考え、有意義(ゆういぎ)に時を過ごそうと思っただけで御座(ござ)います。……それはそうと、おじい様、わたくしになにかご用で?」

「う、うむ。いや、(ばん)御飯(ごはん)の用意ができたとお婆さんが言うのでな。呼びに来たのさ」

「そうですか! それはわざわざありがとう御座います。そうとあらば早速(さっそく)おばあ様の元へ(まい)るとしましょう」

 桃太郎はそう言うなり木刀を着物の(おび)()しこみ、(すそ)からげで走り出した。

「そうじゃな。お腹も()いたしのう。急ごうか、桃や」

 お爺さんは言いながら桃太郎の後ろをついて行った。その足の速いこと。まさに疾風(しっぷう)のごときであった。もしこれを村の者が見れば、

「やや! 風の化生(けしょう)か!?」

 と、いぶかしんだかも知れない。



 さて、お爺さんと仲良くお婆さんの元へ駆けていった若者の名は『桃太郎』。かつては赤い色に岩のような肌を持つ赤ん坊であったが、数えて五つの年、世にも不思議な桃を(しょく)したのをキッカケに人間の姿を手に入れし『異形の子』。人間の姿に変化(へんげ)したのを(さかい)に、名も『鬼助』から『桃太郎』へと(あらた)めた。彼はもう、赤く岩のような肌も、お婆さんに噛みついては目を輝かせていた悪癖(あくへき)も持ってはいない。

 それと、桃太郎という名の由来(ゆらい)であるが、単純に『仙人の桃を食べて人間に生まれ変わった男の子』という事で、『桃太郎』ということらしい。



「…美味(おい)しい! おばあ様のお料理はいつも美味しゅうございます。それに、今日は思う存分剣(けん)の稽古に励んだおかげで、今晩(こんばん)一層(いっそう)格別(かくべつ)のお味のような心地(ここち)(いた)します!」

 桃太郎は端然(たんぜん)とすわりながら、少し大袈裟な(かん)のする賛辞(さんじ)をお婆さんに言った。

「あらあら、嬉しいことを。まだまだあるから、たんとお食べ」

「ほんに、桃ときたら朝から晩まで狂ったように木刀を振っておったからなあ。そりゃあ飯もウマいだろうがよぉ」

 三人は楽しそうに食卓を(かこ)んでいる。

「桃も今年で十五かあ。まったく、子供が育つのははやいなあ~……!」

「そうですねぇ、お爺さん。はやいですねえ。桃がこのウチに来た時なんかは、まだこ~んなに小さかったんですものねえ」

 お爺さんとお婆さんは昔を懐かしむようにしみじみと語る。

 確かに、三人で食卓を囲んだ姿を見ると、ひとりだけ頭の位置が全然ちがう。桃太郎はお爺さんとお婆さんに自由で大らかに育てられたせいか、はたまた食べ物がよかったのかなんなのか、彼の体はすくすくと成長を続け、気付けば()(たけ)六尺(ろくしゃく)三寸(さんすん)(だいたい百九十センチぐらい)の大男になっていた。

 彼を見た近くの村の者などは、

(なんだぁ、こいつはぁ……! バケモンか?)

 と信じられないモノを見たような顔をするのが(つね)であった。

「さぁ、お腹もいっぱいになったし、おらは寝る!」

「そうですねえ、日も落ちましたし、私もなんだか眠たくなってきちゃいましたねぇ」

「そうですか。明日も早いですし、そうするのがよろしいでしょう。どれ、わたくしがお布団(ふとん)をご用意致しましょう」

 桃太郎はテキパキと布団の用意をすますと、

「では御休(おやす)みなさいませ」

 深々(ふかぶか)と一礼(いちれい)し、それから(きびす)を返して食事の後片付(あとかたづ)けをはじめた。



『ピュン!ピュン!』

 夜の山に、空気を切り()くような甲高(かんだか)い音がこだまする。

「……ふう」

 音の正体は桃太郎だった。彼は夕食後、こうやって毎日素振りをするのが日課(にっか)だった。いや、『夕食後も』と言った方が正しい。彼は剣の修行に熱心(ねっしん)だった。

「……」

 彼は夕食後の素振りが終わると決まって、昼の内にお日さまの光を吸収した、まだほんのり温かい地面に寝そべりながら、ただひとり満天(まんてん)の星空を(なが)めるのだった。

(いったい、わたしは何者だろう?)

 桃太郎は、近ごろはそんなことばかりを考えていた。彼ももう十五だ、自分の存在を確認する作業は、若者にとって重要な意義(いぎ)をもつ。特に、桃太郎ぐらいの思春期の若者にとってはなおさらだ。

 しかし、この十五になったばかりの少年の場合、ほかの同じ年代の若者とは、その問いの本質を異にしていた。

(赤く岩のような肌だった……)

 彼は『今』の姿になる前の自分をよく覚えていた。普通の人間とは明らかに異なる姿。

(それだけじゃない! わたしは、わたしは……!)

 桃太郎には、今まで誰にも言ったことのない秘密があった。言えば変に思われる、というのもあった。

 彼は一体なにを隠しているのか? それは、

()まわしい! ……だが、わたしはハッキリと覚えている。『あの時』のわたしは、間違いなく、おばあ様のことを……)

「……食べ、……たいと思っていたのだ」

 桃太郎はそのおそろしい言葉を口にすると『ハッ!』と我に返る思いがした。

「……そんなバカな」

 桃太郎は、気付けば立ち上がって闇の中にひとり、ポツンと立っていた。

「……明日も早い。寝るとしよう」

 言い聞かせるような(ひと)(ごと)をポツリと()き、桃太郎はもうすっかり寝静まってしまった自分の家へ『スッ』と音もなく入って行く。

 空には、たくさんの星が金色(きんいろ)にきらめいていた。




「おはようございます! おじい様、おばあ様」

 彼の一日は早い。まだ日が少しも上がらぬうちに起床し、剣の素振りを始める。それもお爺さんとお婆さんがまだ起きぬうちに寝床(ねどこ)からただ一人むくっと起き上り、スッと物音ひとつ立てぬようにして戸を開けて外に出る。

 たった今お爺さんとお婆さんの両人に朝のあいさつをしたのも、実は早朝稽古(そうちょうげいこ)の帰りだったりする。

「はい、おはよう。本当に毎日精(せい)がでますねぇ」

「かんしん、感心!」

 二人は寝ぼけ(まなこ)の目をこすりながら桃太郎を()めた。布団を片付けている真っ最中なので、今起きたばかりなのだろう。

「あらあらお爺さん。そこは押入れじゃないですよぉ」

「ほげぇ? おお、ここは玄関か?」

 ……どうやらお爺さんの方はまだ夢うつつのようだ。



「ふぅ~! そろそろ昼休みにしようかい!」

 お爺さんは握りこぶしをつくって腰を叩く。

「では、そう致しましょうか」

 お爺さんと桃太郎のふたりは、午前中は畑に出て二人で仕事をして、それがはかどれば昼過ぎに柴刈りや(まき)を拾いに行き、もしくは夕食の魚釣りをすることもあった。

 お婆さんといえば、三日に一度はふたりの仕事を手伝うが、そうでない場合はいつも洗濯や()い物、ふたりの食事の用意などをして過ごしていた。

「今日はぁこれで仕事もおしまいじゃあ。……どれ桃、時間もある事だし、久々に試合(しあ)ってみるかね?」

「よろこんで!」

 お爺さんは畑の近くにある切り(かぶ)に腰を下ろしてから桃太郎にそう訊くと、今度はその返事を聞いてほほ笑み、嬉しそうにうなずいた。



「せいやあ!」

 お爺さんの上段へ向かって桃太郎の木刀が勢いよく(おそ)いかかる! だがお爺さんはその恐ろしい速度(そくど)の斬撃を、自分の木刀のよこ()ばら()を桃太郎の木刀に重ね合わせるようにして(さば)く。

「うわ!?」

 桃太郎のカラダが大きく泳ぐ。

「?」

 つんのめるようにして地面に転がる桃太郎。しかしその勢いを利用して回転しながら受け身を取り、素早く体勢を整えた……のだが、

「……参りました」

 綺麗に回転受け身をとった桃太郎だったが、立ち上がった時にはその喉元にはもう木刀の切っ先が当てられている。

「お美事(みごと)でございますおじい様」

「ふむ。おぬしも、ずいぶんと成長した」

 ふたりは互いに称賛の言葉を言い合うと、互いに後ろへ半歩下がり一礼した。

「桃よ。毎日の鍛錬の成果がようでておる。しかし……」

 桃太郎は真っすぐな(ひとみ)でお爺さんを見据(みす)える。

「勝負とはなにも(おのれ)の絶対的な力だけで決まるものではない。剣の速度やそこに込められた力だけでは決まらぬ。勝負とは相対的なものなのだ。したがって、勝負で求められる速度や力も、相対的なものになる。今の試合、もしもほんとうの勝負ならまぎれもなくワシが勝っておっただろうが、だからといってなにもワシがおぬしより優れているワケでもない。力も速度も体格も反射神経も、何もかもがおぬしの方が上じゃ。しかし、そんなワシでも勝つ(すべ)がある。それが本物の武術というモノじゃ。おぬしは少々、力や速度にとらわれ過ぎておる。大切なのは、相手との関係における自己のあり方だ。そこに、おぬしのように高い力量(りきりょう)を持ってさえいれば、よもや言う事はあるまい」

 お爺さんは滔々(とうとう)と桃太郎に武の心得を()いた。いつものボケた感じのするお爺さんと、剣について語るお爺さんとでは、平生(へいぜい)慣れ親しんだ桃太郎といえども、誰か別の人物と接しているかのような気分にさえなってくる。

「ありがとうございます! 今の御言葉、この桃太郎のむねにしかと刻んで稽古に邁進(まいしん)いたします!」

 桃太郎は慇懃にすぎるぐらい深々と御辞儀をしてからお爺さんに感謝と決意を述べた。

「ふぉふぉ。まぁ、そうは言っても、練習相手がこの老いぼれ一人しかおらぬのでは、素振りなどの一人稽古に頼りがちになるのは無理もないがのぅ。これからは、食後の運動も()ねて、メシのあとには一刻(いっこく)(三十分)ほど桃の稽古に付き合っちゃおうかのう!」

「ありがとうございます!」

 桃太郎はお爺さんの申し出に対して、もう一度深く体を曲げてそう(こた)えた。

 顔を上げた桃太郎の顔は、お爺さんがなにやら気恥ずかしくなるくらい真面目くさったものだった。



「先生! 書けたよ! どう?」

 そこはずい分賑(にぎ)やかな場所だった。

 わぁわぁ騒ぐ(わらべ)たちに、整然(せいぜん)と並べられた机。それに、部屋のうしろには、

清廉潔白(せいれんけっぱく)

質実(しつじつ)剛健(ごうけん)

至誠(しせい)一貫(いっかん)

 といった、四字熟語が、黒々(くろぐろ)と紙に大書(たいしょ)されては()り出されてある。

 ここは、桃太郎が週に一度開いている私塾(しじゅく)。外見は小さいが中々立派な小屋で、対象者は十二歳までの童子と一応なってはいるが、中には大人の姿もあってすいぶんと賑わっている。もちろん無料(ただ)だ。はじめは今のような立派な小屋などはなく青空教室でやっていたが、ある日村の者達が、

「いやさ、これも村の子供たちの、ひいては村全体のためになる」

 と言い、好意で学舎(がくしゃ)()ててくれた。

 子供たちに勉学を教えるようになってからというもの、桃太郎は村で一番の人気者だった。誰に対しても敬語(けいご)(せっ)する柔和(にゅうわ)丁寧(ていねい)物腰(ものごし)、体格は人目を集めるほどの大男、それに目鼻立ちも(ととの)い見た目も(すず)やかで爽やかそのものだったので、誰からも良い印象を持たれた。

「他人に教える事で、また自分も教えられる」

 という考えのもとに、桃太郎は十四の時に村の子供たちに学問を教授するようになった。ほかにも、剣術や書道なども教えている。

「せんせい、せんせい!」

 (した)ってくれる子供たちが、彼は可愛くて仕方がなかった。年は桃太郎とさほど変わらないせいか、子供達も頼れる兄貴分のような気持ちを多分に持っているらしい。それが、子供たちに親近感を持たせる結果となっているのかも知れない。

 その中にはさきほど言ったように、大人も数人いる。その内のひとりに、『()兵衛(へえ)』という名の男がいた。

 彼は小さい頃からワルガキで、長じてからもその悪さは止むコトがなく村の者達からは『(あく)兵衛(べえ)』と呼ばれていた。むらの子供たちをイジメたり、大人をからかったりしてずい分とイキがっていた。その行動は日に日に目に(あま)るようになっていき、ついには村の者達が大事に育てている家畜(かちく)をかってに殺して食べたり、畑の作物を無意味に()らして、そのくせそれを注意されると逆に悪態(あくたい)をついてくる始末だった。

 なぜ誰もそれを止めなかったのか? いや、村人の誰もが彼にその悪行(あくぎょう)をやめてほしいと願った。しかし、それを実現させることは叶わなかった。

 弥兵衛は小柄だったが、その激しい気性に比例したのか、彼のカラダは野生の獣のように機敏(きびん)ですばしこく、その上チカラも大人二人分の強さがあった。

 彼には『悪兵衛』の他にも、もう一つ通り名があった。それが、

『うっちゃり弥兵衛』

 というものだった。

 彼は無類の角力(すもう)好きで、村の者を見つけると必ず、

「角力とろうや!」

 と言ってはいつも嫌がる相手を無視してかってに取り組みをはじめる。そうすると相手も仕方なしに彼に付き合うのだが、このあとがヒドかった。

 彼は必ず最初は相手に自分をわざと押させる。そして相手が『いける!』と思った瞬間、四つに組んだ状態から全身のバネを()かして相手を持ち上げては左右に振り()てる『うっちゃり』をしかけるのだった。

 しかけられた相手は両足が高く跳ね上がるほどに投げ飛ばされ、そのまま地面に打ちつけられるのだ。しかもワザと相手がより痛い目にあうように角度をつけて受け身の取りづらいように投げる。それはまるで自分の力をみなに誇示(こじ)するかのごとくで、実際に彼はその力を自分の心の()(どころ)にしていた。

 彼は小さな村の横綱であった。

 そしてその横綱は、それからも自分の力を確認するように、取り組みを所かまわずふっかけ、相手を痛めつけ続けるのであった。

 無論、強制的に相手をさせられる村人には堪ったものではない。

 そんな彼がある日、する事もなく山の中を散歩していると、小さな家を見つけた。その家の前には、大柄(おおがら)な体に、まだあどけない表情をしたひとりの少年が木刀を懸命(けんめい)に振るう姿があった。

(なんだぁ? こんな所に家が? ああ、あれが噂の『山の(じい)(ばあ)』の家か)

 しかし、村の者の話では、あの家には年老いた夫婦しかいないはずであった。

(ジイサンとバアサンの子か? いや、それにしてはずいぶん若い……)

 少し思案すると、弥兵衛はなにか思いついたように、

「よっしゃあ!」

 と嬉々(きき)とした気合を発し、少年のもとまでひと()けし、その前に(おど)り出た。

「おうおうおうおう! こんな所でなにしてるんでぇ!?」

 少年は目を丸くして、いきなり目前に現れた男を見た。

「おうよ! 棒っ切れなんか振っちゃってよお! それよかもっといいもんがあるぜえ。お前、オレと角力とれ!」

 目を丸くし驚いた少年などにはおかまいなしで、弥兵衛はまくしたてる。

「す、すもうですか? 和術(やわら)なら少々心得がありますが……。わたくしなどでよろしいので?」

「おうおう! いいに決まってらあ! こっちはヤワラでもカワラでもお構いなしよ! ……おし! ならきまりだ!(きゃっほー! これでオレは村の英雄だぜ!)」

 弥兵衛の考えはこうだ。

(たしか昔、(おう)(すけ)ジイサンのとこのせがれが、山の方で『赤いばけもの』を見たとかぬかしてやがったな。たぶん、酒に酔ってたかなんかで赤ん坊の頃のこいつをバケモノと見間違えたんだろう。そうと分かりゃあ、コイツをちぎっては投げ、村のみんなに『バケモノ退治』を成し遂げたと喧伝(けんでん)してやらぁ(まあ、体格もでかいヤツだし、あとはハッタリでなんとかならあな!) そうすりゃあ村の女どもは……へへ……)

 顔の筋肉を(ゆる)ませ、おまけに鼻の下を目いっぱい伸ばしながら、弥兵衛は足で地面を(けず)土俵(どひょう)を描いた。

「これで、よし、と。……準備はいいかガキ? はっけよ~い、ではじめるぞ!」

「どうぞ」

 桃太郎の立派すぎる肉体と真向かうと、樽のように屈強な肉体をした弥兵衛でさえも見劣りした。ふたりの体格差は歴然(れきぜん)としているがしかし、弥兵衛には自信があった。体格に差はあっても腕力(かいなぢから)では誰にも負けないつもりだったし、それに百戦(ひゃくせん)練磨(れんま)の技もある。

「はっけよ~い、のこっ……」

 たっ! と言い終わるよりも早く、弥兵衛は桃太郎に向かって体を突進させていた。これが彼のいつもの手だ。相手の(きょ)()いて恫喝(どうかつ)する。汚いと言えば汚いが、普通の相手はこれでもう委縮してしまい、あとは弥兵衛の思うつぼとなる。

「よっしゃ……な……ぬ!?」

 勢いよく突進した弥兵衛だったが、激突した瞬間、まるで壁にぶち当たったみたいになって、自分の力が全てはね返されたような心地だった。

(お、(おめ)え! なんだコイツ……! ふだん鉄でも食ってんのかコノ野郎!?)

 弥兵衛が心の中で意味のない啖呵(たんか)を切っている()に『壁』は動き出した。

「お、おお……!」

 弥兵衛はそのまま横に滑るように後退させられた。こんなの、初めてだった。

「くそったれ!」

 弥兵衛は大きく叫んだ! しかし、これも彼の計略(けいりゃく)の内だった。

 実際、突進した時の、まるで巨大な壁と激突した様な感覚には驚かされた弥兵衛だったが、それでも彼には今まで自分を支えてきた技の存在があり、それが彼から絶望を追い出し気力を奮い立たせる結果を生んだ。弥兵衛は小柄だ。いつか必ず出会うと思っていた。自分よりも体格に優れ、さらに腕力に優る者に。

「くそっだらあ!!」

土俵(どひょう)(ぎわ)に追いつめられた弥兵衛であったが、渾身(こんしん)の気合を発するやいなや全身のバネを()かして相手のカラダを持ち上げにかかった。 持ち上がれば、あとは左右のどちらかに相手を思いっきり投げ捨てるだけだ。

「ひゃっはあー! もらったぁああ!!」

 ぐん! とカラダが勢いよく(ちゅう)()う! しかし舞ったのは……。

「んだぁあ!?」

 弥兵衛が相手を跳ね上げたと思った瞬間、彼のカラダから一切のチカラが抜け去り、逆に重心(じゅうしん)が『ふわり』と浮き上がるのを感じた。瞬間、彼のカラダは天高く差し上げられていた。

「うわああああ!」

 弥兵衛は一瞬ワケがわからなくなった。下を見ると空が見え、上を見上げたら地面がある。

「お、おっかさ~ん!!」

 地面にぶつかる! そう思い弥兵衛は叫んだ!! 脳裏(のうり)に浮かぶは優しき面影(おもかげ)

「……アレ?」

 知らぬうちに涙を浮かべていた瞳が、すとん、と優しい軽い感触とともに(ひら)く。気付けば、天地は上下を違えずそのままの位置にある。

「……へ?」

 弥兵衛があっけにとられていると、

「今日はわたくしの勝ちでございますね。良い勝負でした。またこちらにいらっしゃる機会があれば、もう一度勝負いたしましょう」

 優しげな声が耳に入ってきた。

「それはそうと……あまりに突然のことで、名乗るのを失念(しつねん)しておりました。わたくしの名は桃太郎。この山の生まれでございます」

 端然(たんぜん)と正座をしつつ、深々と(こうべ)をたれる桃太郎。

「……ズズ!」

 弥兵衛は鼻水をすするばかり。きょとん、とした顔つきのままだ。

「……よろしければあなた様のお名前をうかがってもよろしいでしょうか?」

 優しげな笑みを浮かべると、これまた優しい声音(こわね)で桃太郎は聞いた。

「……弥兵衛」

「弥兵衛さんですか! ……どうぞよろしくお願い致します」

 桃太郎がそう言ってから、ふたりの(あいだ)沈黙(ちんもく)の時が流れた。桃太郎は茫然(ぼうぜん)としたままの弥兵衛を気遣(きづか)ってのことだったが、弥兵衛はなにやらモジモジしながら口をモゴモゴさせて戸惑(とまど)っている。

「…☆△□&h¥(ボソ)」

「……はい?」

 ()のなくような(たよ)りない声で、弥兵衛はなにかつぶやいた。むろん、桃太郎には聞き取れない。

「……な、内緒にしててけろ……。さっきの……」

「さっきの?」

 桃太郎はさっきと言われて、何事かを思いだそうとしている。しかし、『さっきの』というのがなんなのか、とんと見当(けんとう)がつかない。

「あ、アレだよ……。おっ……」

「おっ?」

「おっかさ~んっての……」

 (しり)()わりにはほぼ聞き取れない程の声だったが、(さと)い桃太郎はすぐに、

「いいや、わたしはなにも聞いていませんよ」

 と笑顔で首を横に振った。

「ほ、ほんとけ?」

「ええ。よければ、もう一度なんと仰っていたかうかがいたいくらいです」

「い、いやあ、なんでもねぇ、なんでもねぇ! ……ありがとよ」

 弥兵衛はお礼を言うと、すぐに立ち上がって着物の汚れを払い、

「……あ、明日また来る」

 とだけ言い残してサッサとどこかへ立ち去ってしまった。

 桃太郎も、その背中を最後まで見送ると、再び木刀をとって構え、みずからの鍛錬を再開した。




 翌日、弥兵衛はどこからもってきたのか、鳥の肉を持参してきて、桃太郎に(おく)った。それはいつもの彼のやり方と違い、盗んだものでは決してなく、わざわざ村から山を二つ三つ()えた所まで遠出(とおで)(つか)まえてきたものだった。

 それからというもの、弥兵衛は一日とあけずに桃太郎へ会いに行き、弥兵衛は桃太郎だけでなくお爺さんやお婆さんとも仲良くなっていった。

「さあ、さあ、飲んでくだせえ!」

 と、彼は野の獣を捕まえ、それを売った金で酒を買ってきてはお爺さんに飲ませようとしたが、お爺さんは年も年だし、それに、

「ワシは下戸(げこ)なんじゃあ!」

 という事でほとんどその酒は飲まなかった。

 どうやら弥兵衛の目的は彼らと話す事にあるらしく、無理に酒はすすめなかった。

 話している内に、桃太郎は弥兵衛の事も知った。今は数えて二十二になること、生まれて間もなく(やまい)によって立て続けに父、続いて母をうしなったこと、それからは独りで生きてきたこと。

「苦労なさったんですねえ。弥兵衛さん……」

 話を聞いたお婆さんはしずしずと泣いていた。それを聞いた弥兵衛は、心にまとっていた(よろい)がするすると()げていく気がした。

 認めたくはなかったが、誰の助けも借りられず生きてきた自分、誰にも好かれることのなかった自分。それを認めてもらいたい、いや、たった一言でいい、

「頑張ったな」

 の(ねぎら)い、その一言がほしかったのだ。それは彼にとって弱い自分を認めてしまったように思えて、今まで意識の表面に浮かんでくることはなかったが、そのつよがりも、桃太郎に負け、そしてようやく得た他人との交わりの中で、彼はいまそれを真正面から見つめる事ができるようになっていた。

 ヒドイ境遇にいる自分は生きるためなら悪い事をしても許されると思っていた。それに、そんな弥兵衛の中では、村人と交わりたいという気持ちと、自分を認めさせたいという欲求は相反しないモノだった。

 だから、相撲で村人に痛い目を見せて蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われようとも、無理に執着を発揮して相撲を取る彼の行動と気持ちは一つのものだった。

 しかし、それからの彼はというと、弥兵衛は桃太郎とお爺さんの畑仕事を手伝うようになり、やがてお爺さんの好意で少しだけ土地を分けてもらい、そこで自分なりに自活(じかつ)をするようになっていった。それに加えて、桃太郎と一緒にお爺さんから剣や書も学び、お爺さんの蔵書(ぞうしょ)の中から簡単なモノを選んで読むほどになっていた。

 そして、桃太郎が村の子供たちを相手に私塾を開きたいと申し出た時も、

「恩を返す時だ!」

 とばかりに尽力(じんりょく)してくれた。

 で、それからこの二人は、おたがいに桃、弥兵衛という知己(ちき)を得、ふたりは切磋琢磨(せっさたくま)し合いながら(とは言っても全ての面で桃太郎が圧倒(あっとう)してはいたが)、学問に(つと)め、鍛錬に(はげ)み、村の子供たちや大人たち、山のお爺さんお婆さん、そして自然豊かな『お山』に囲まれて時を過ごしていった。

 それまでお爺さんとお婆さんしか話し相手がいなかった桃太郎の身辺(しんぺん)は、以前とは比べられない程賑やかになり、変化に()んだ毎日となった。

 野を駆け、山の生き物と自然を相手にするのも悪くはなかったが、そのように一人でいる時よりも、ずっと自分の胸がなにかで満たされるような、ウズウズするような、そんな日々をみなのおかげで過ごすことになった。

 しかし、その平和で平穏(へいおん)な生活は突如(とつじょ)、終わりを(むか)えることになった。




 その日は週に一度の、私塾である『桃仙(とうせん)(じゅく)』の開講(かいこう)()であった。

「さて皆さん、宿題はやってきましたか?」

「は~い!」

「おう!」

 子供たちの()んだ声にまじって大人のダミ声が聞こえたが、みな気にせずに宿題を桃太郎先生のもとへ持っていく。

「みなさんよく出来ました!」

 『ガラン!』桃太郎の言うが早いか、桃太郎がみなを褒めたとほぼ同時に戸が乱暴(らんぼう)に開く音がした。

「てーへんだぁ~!」

 男の声が教室中に(ひび)きわたる。

「どうなさいました?」

 入ってきた男の元へ桃太郎が駆け寄る。男はケガをしているのか、着物が血でぬれている。

「た、たいへんだ、桃太郎さん! はぁはぁ……。か、かわ」

「川?」

「川の上流からバケモノのむれが……!」

『ばけものォ!?』

 教室の子供たちが一斉(いっせい)に声を上げる。

「ばけもの? どういうことです? 村の人たちはどうなったのです?」

 桃太郎はせかすように()いた。

「む、村のもんはとっくに逃げた……。だ、だがよ、ほ、ほとんどの者はすぐに逃げ出したが、ウチの娘がまだ川へ洗濯しに行ったまま帰ってこねえ。このまま……、このままアイツらが戻って来たら! ……だが、い、今ならまだ間に合うかもしれねえ……! た、頼む……先生! 村のみんなを……おらの娘を……!」

 男は言い終わると首のチカラが抜けたように『だら~ん』となった。男の腹には、なにか巨大な爪でえぐられたような大きなキズが認められた。

「! ……急がねば!」

 桃太郎は教室にいた子供たちにここに残るように言い、あとはそれを弥兵衛に(まか)せると、自分はおっとり(がたな)で村の集落がある方へ()けていった。



(……な、なんだアレは!?)

 村の中心地に着いた桃太郎が見たモノは、およそ桃太郎が見たことのない『異形の者』の姿と、村人がすでに逃げ去って、もぬけの(から)と化した集落だった。

「きゃあああ!」

「はは~! つかまえた~!」

 ひとりの村娘が異形の者の両手ですくい上げられた。……大きい! 形は人に似ているが、人間よりもはるかに大きい。身の丈は目測でも十尺(約三メートル)は優にあるように思う。それに、頭には二本の(つの)がはえていて、それに肌の色が目に痛いほど鮮やかで派手な黄色をしている。おまけに皮膚は岩か何かのようにゴツゴツだ。

「おや~? こいつはウマそうだ! お~い、あんちゃん! オレは先にいただくよ!」

 黄色い肌のばけものは遠くに向かって語りかけると、無造作に若い娘を食べようとした。

「いただきま~す! あ~ん……あれ?」

 あわやバケモノのえじきかと思いきや、むすめはバケモノの太い指先から『パッ!』と消えた。

「う~ん? アレぇ? なんだぁ、コイツ?」

 バケモノのすぐ手前にある大きな木の下に、娘はいた。そしてそこにはもう一人、見たことのない若い青年。手には、木刀を一本たずさえている。

「もうだいじょうぶ。ここでじっとしていて下さい。すぐ終わります」

 若い男はむすめにそう言うと、風のごとくバケモノめがけて駆けて行った。

「うああ! な、なんだコイツ! にん……げん?」

 バケモノはあまりに速く近づいてくるそれを大きく振り払った! ……つもりだった。

「……ぐぅ~!」

 腹の底にひびくような重々しいうめき声をあげ、バケモノは後方へむかって頭から倒れた。

「あ、ああ! 桃太郎先生!」

 むすめは命の恩人の名をさけぶ! 呼ばれて振り返った顔には、安心感を与えてくれる笑みがあった。

「危ない!」

 柔軟だが力強いものが桃太郎に巻きつこうとした。

「フッ!」

 桃太郎は鋭く息を吐くと同時に腰を急激に(しず)めて後方(こうほう)へよける。間一髪(かんいっぱつ)だ。

「……? なんだ、おまえは? 人間……なのか?」

 桃太郎が自身を襲ったモノの戻る方向を見ると、そこには新しいバケモノがいた。どうやら桃太郎を襲ったものは、バケモノの(した)だった。

「……人間が鬼を倒した? そんなことがあるのか? いや……」

 バケモノはなにか独りゴトを言っている。喋っているあいだも、長い舌がチロチロと口から出ている。

「……へび!」

 桃太郎は息をのんで、言葉を()いた。

 新しく現れたバケモノは二本足で立っているさまこそ人間のようであったが、その顔と長い舌、それに無機(むき)(しつ)な目と緑のウロコ肌は、どうみてもヘビそのものだった。体格はもう一方の黄色い鬼よりも小さいが、それでも桃太郎よりも少し大きいぐらいだ。

「おい、大鬼(だいき)! 起きろ! 寝ているヒマはないぞ!」

「う~ん……。おっ、(あん)ちゃ~ん!」

 ヘビのバケモノが(げき)をとばすと、さきほど頭に剣を打ち込んだはずの黄色いバケモノが何事もなかったように立ち上がってきた。

(ば、ばかな!? あの一撃を頭部にもらっておきながら……!)

「ふんっ! バカが! 油断しおってからに。()一郎(いちろう)さまが見ておったらとんだ恥をかくところだったぞ! それに異界(いかい)(しゅ)以外は食うなと鬼一郎さまもおっしゃっていただろう!?」

「え、えへへ~。面目(めんぼく)ない兄ちゃん。お腹が空いちゃってさ……。さっきも人間のオジサンを食べようとしたら逃げられちゃって。でも、鬼一郎さまならそのぐらい許してくれるさぁ! おれっちにはやっさしいんだぁ、鬼一郎さまは」

「バカ! ならばそのご好意(こうい)(むく)いるのが一人前の鬼というものだ! なのに貴様ときたら……!」

「う、うわっ! い、イタイ! ごめんよ、ゆるしておくれよ兄ちゃん!」

「ふんっ! わかればよい。しかし……」

 ヘビのバケモノは桃太郎の方へ視線を戻し、

「それにしても、弟を痛めつけられた借りは返さなければな」

 静かに、だが激しい怒りを、バケモノは桃太郎に向ける。

「しゃっ!」

 間髪を入れずにバケモノはその長い舌を伸ばしてきて桃太郎を襲う。 桃太郎は剣を構えたまま防御の体勢。

「しゃしゃっ!」

 長い舌が桃太郎に襲いかかる寸前(すんぜん)、桃太郎は全身がバネになったかのように地面を跳ねて右へカラダを振った。そのわずかな瞬間にも、剣先はバケモノの舌を打ち据えている。

「ぐっ……」

 バケモノは一瞬だけ動きが鈍ったが、その攻撃の手が止まることはない。

「せいやあ!」

 桃太郎はバケモノの動きを予見(よけん)していたように舌の動きを避けると、そのまま右足を踏み出してバケモノの(めん)をとらえた。

「ばかな……!」

 ふたりが交差(こうさ)したあと、バケモノはうめきながら倒れた。

「うわあああ! 兄ちゃあ~ん!」

 黄色のバケモノがまるで泣いている様な叫びを上げ、桃太郎と緑色のバケモノのもとへ近寄って来る。

 その時、桃太郎は上段に構えて息をひとつ吸った。その目は、ただ一点、標的(ひょうてき)のみを見つめている。

「そいやぁ!」

 気合(きあい)一閃(いっせん)。桃太郎が高速で右足を踏み出す、と思った瞬間にはもう、彼は黄色いバケモノの後ろへ背をみせたまま立っていた。

「がっ……、はあ!」

 ズシン、と大地が()れる。

「勝った!」

 桃太郎は右手に握りしめた木刀のつかを見て勝利を確信した。木刀はその打ちがあまりに強かったためか、それともバケモノのカラダが(かた)かったせいなのか、つかの先からボキリときれいに()れていた。

「ふぅ……」

 ドサっ、と桃太郎は地面に尻餅(しりもち)をつく。初めての実戦だった。負ければ命を失う。

「……」

 桃太郎は地に倒れ()している二体のバケモノを見た。

(よく勝てた……!)

 心の底から思った。地力は桃太郎の方があっただろう。しかし、相手は場慣れしている感じがしたし、なによりも人間ではなかった。人間にはない強さ・能力を持った相手との文字通りの死闘(しとう)。ほんの少し動いただけであったのに、もうこんなにも疲れてしまっている。

(これが実戦というものか)

 稽古とは違う。緊張から体力も余計に奪われるし、精神も(けず)られる。

「先生!」

 さっきまで木の(かげ)に隠れていた娘が桃太郎に駆け寄る。

「お怪我(けが)はありませんか? ありがとうございます! 先生が来てくれなかったら今頃わたしは……」

 娘は自分の言葉でさっきの恐怖を思い出してしまったのか、さめざめと涙を流しては桃太郎に礼をいう。

「いえ……、あなたも、お怪我はありませんか? よかっ……」

 桃太郎が返答しているあいだに、娘にむかって大きな張り手がとんできた。

「ぐおおお!!」

 ぶんっ! と(うな)る音が空間を(ふる)わした。

「くっ! まだ生きていたのか!」

 なんと頑丈(がんじょう)な! と二の()()げるいとま()もないまま、張り手はふたりに襲いかかってくる!

「もうおこったぞ~!」

 ダダをこねる童子(どうじ)みたいなセリフを叫び、黄色のバケモノは滅茶苦茶(めちゃくちゃ)に両手を振りまわしている。

「きゃああ!」

 桃太郎は娘を腕で抱えながら逃げる! しかしその追撃(ついげき)を逃れるのに、人を抱えてというのは(つら)い。

「お(じょう)さん、わたくしが合図をしたら、振り返らずに思いっきり走って村はずれにある(はし)の方へ逃げるのです。いいですか、全速力ですよ!」

 桃太郎は早口だが良く通る声で娘に()げると、

「いまです!」

 怒鳴(どな)るように言った。

 脱兎のごとく一目散(いちもくさん)にむすめは走って行ったが、ここで誤算(ごさん)(しょう)じた。

(桃太郎さま!)

 娘は、命の恩人を振り捨てて一人だけ逃げるのが(しの)びなかった。その気持ちが桃太郎の忠告を瞬間忘れさせてしまった。

『チラ』とほんのわずか後ろの桃太郎を見やると、そこには思いがけず大きな手を振り回すバケモノがいた。

「きゃああ!」

 娘は驚いた拍子(ひょうし)に足をとられて(ころ)んでしまった。

「兄ちゃんの(かたき)だ~!」

(神さま!)

 娘の祈りが通じたのか、バケモノの攻撃は彼女に届かなかった。

「先生!」

 あわや直撃! という所で、バケモノの攻撃は間一髪桃太郎に(ふせ)がれていた。

「さあ早く!」 

 桃太郎はバケモノを見据(みす)えたまま叫ぶ!

「す、すみません!」

 むすめは今度こそ、振り返らずに走り去って行った。橋の方へ行けば『仙桃塾』が近くにあるし、あそこから先は山へ続いていて、洞穴(どうけつ)や森の中に隠れて時間を(かせ)ぐこともできる。

「この~! よくも兄ちゃんを!!」

 バケモノは矢継(やつ)(ばや)に攻撃する。

「ぐあっ!」

 バケモノの左手が桃太郎を襲う。最初の一撃で少々踏んばりがきかなくなっていた桃太郎のカラダは、まるでまり()みたいに遠くへ(はず)んでいった。

「がっ……!(くっ、なんと恐ろしいチカラだ)」

 木刀はすでに折れていて使えないし、二回も敵の攻撃をもらってしまったせいで、カラダに上手く力が乗っていかない。

(どうすればよいのだ)

「うわぁあ~!」

 泣きじゃくるバケモノは、その強面(こわもて)の顔をゆがませて、より怖ろしげな顔つきになっている。

万事休(ばんじきゅう)すか)

 桃太郎が目をつむって観念したところに、その声は耳にとんできた。

「桃! 受け取れ~!」

 声がしたと同時に桃太郎は『カッ』と目を開き、開いた瞬間、視界になにやら黒くて細長い棒が飛び込んできた。

 桃太郎はその棒を左手で受け取るや(いな)や、右手で棒の先をつかみ、それを一気に引き抜いた。

 黒い棒が一瞬にしてふたつに分かれ、ギラリ、と青白い光を放った。

「……くそ~!」

 桃太郎の眼前(がんぜん)にまで(せま)っていたバケモノは、急に泣くのをやめて静かになり、それから桃太郎の横を通り抜け、徐々(じょじょ)に前のめりになりながら前進していき、

「あ、兄ちゃ~ん……」

 と消え入るような声を出し、すでに動かなくなったヘビのバケモノを見て、大粒(おおつぶ)の涙をこぼした。ズシンと、今一度大きなカラダは地面に倒れ込む。

「も、桃! でえじょーぶか!?」

 聞き覚えのあるダミ声がする。

「……ええ、助かりました。弥兵衛さん……」

 桃太郎はそう言うと、今度は糸の切れた人形みたいに倒れ込んだ。その右手には抜き身の刀が、左手にはその(さや)がにぎられていた。白刃(はくじん)は、赤いしずくで()れている。

「す、すげえ居合(いあい)()きだったな!」

 弥兵衛は興奮していた。今の状況では、武技(ぶわざ)に対する称賛よりも、身の無事を(あん)じる言葉をかけてやるのが普通だと思うが、この男の場合はちがった。いや、彼にもし弁解(べんかい)する余地(よち)があれば、きっとこういっただろう。

「まるで稲妻(いなずま)が閃いたような技だった!」

 だから仕方がない、と。

「それにしても、大丈夫か桃!? いってえなんだってんだ!? このバケモンどもは!」

 弥兵衛は横たわる二つの死体を見て、その声の大きさとは逆に心底(しんそこ)(おび)えた表情をした。

「弥兵衛さん、子供たちは?」

「ああ、橋の下の洞穴に隠れるように言ってある。あそこなら滅多(めった)なことでは見つからんし、そうすれば気がねなくソイツを桃に持って行ってやれる。そう思ってな」

 弥兵衛は桃太郎が手にしている刀を指差し、この男らしくない、ていねいな説明をした。

「ありがとうございます」

 桃太郎は安堵(あんど)したのか、弥兵衛のらしくない説明をきいたせいか、心底安心したような笑みを見せて天を(あお)いだ。だがすぐに子供たちの顔を思い出して、

「バケモノは倒しました。さっそく子供たちの元へ参りましょう」

「おう! あいつらを安心させてやらなくちゃあな!」

 ふたりは走りながら、子供たちの待つ洞穴へと向かった。




「みなさん!」

「先生!」

 橋の下にある洞穴に入って来た桃太郎たちを見ると、今まで不安な顔をしていた子供達も、

「戻って来たぞ!」

「あたりまえだ! 先生は強いんだぞ!」

 といった子供たちの言葉が、うす暗い洞窟(どうくつ)の中でこだました。

「ご無事だったんですね先生!」

 幼い声の中に一人、年頃の娘の声。それはさっきバケモノから桃太郎が助けた、あの若い娘だった。

「ええ。あなたも、無事でなによりです」

 桃太郎は優しいほほ笑みを投げかける。

「ああ、アンタか。ちょうど桃に刀を渡しに行く途中ででくわしてよ。ここに隠れるように言っといたんだ。……ところで桃よ、ここにいつまでいるつもりだい?」

 弥兵衛がきくと、

「そうですねえ……。とは言っても、村の皆さんがどこへ避難(ひなん)したのか見当もつきませんし……」

「もしかするとよ、もう何人かは様子を見に戻って来てるかもな。バケモノの数もアレだけとは限らねえし、最初から村にいた奴らなら、なんか知ってるかもしれないしよ。……どうよ、俺らだけでもいったん戻ってみるか?」

「……」

 桃太郎は少し思案(しあん)してから、

「そうですね。行きましょう。しかし、弥兵衛さんはここに残ってもらえますか。二人もいなくなれば子供達も不安になるでしょうし……」

「それもそうだな。わかった。ガキどもはオレっちに任しといてくれい!」

「頼りにしています」

 頭を下げる桃太郎。弥兵衛はそれを受けて()れている。

「おう! 任されたぜ!」

「はい! それと、」

 桃太郎は今度は別の方向を向いて、

「お嬢さんも、皆さんの姉になったつもりで、子供たちをよろしくお願いします」

 再び桃太郎は頭を下げて、さっき助けた村むすめに子守(こもり)を頼んだ。

「はい、任されました。必ず御無事で帰って来てくださいね……」

 むすめは小さい声で桃太郎に言うと、桃太郎は視線を外すように、もう一度軽く頭を下げた。

「はい。きっと」

 それだけ言うと桃太郎は(きびす)を返して、洞穴を出ていった。




(……やや、あれは!)

 村に戻った桃太郎は、そこでコソコソと隠れ隠れしながらバケモノの亡骸(なきがら)を見守る一人の老人の姿を見つけた。その少し後ろには、桃太郎より少し年長ぐらいの青年。

「お~い!」

 桃太郎は二人を呼んだ。

「……桃太郎さん! 桃太郎さんじゃないか! オヤジ、桃太郎さんだよ!」

「おお? ほんとうだ! 『山の先生』じゃないか!」

 桃太郎の姿に気付いた二人はまるで宝物でも発見したがごとき喜びよう。小躍(こおど)りしながら桃太郎の元へ駈けよって来る。

「ほかの皆さんは?」

 桃太郎の問いに、髪も白が目立つ翁がこたえる。

「おお、安心してくれ! みんな無事さ! ほれ、川の下流をくだった所に大きな鍾乳洞(しょうにゅうどう)があるだろう? あそこならバケモノが追いかけてきても暗いわ、長いわ、で中々つかまらんだろう。それにあそこを見つけること自体が難しいからな!」

 川の下流にある鍾乳洞というのは、全長一里(ぜんちょういちり)(だいたい四キロ)はあろうかという長大(ちょうだい)なもので、中は複雑な迷路(めいろ)になっており、慣れない者が深追(ふかお)いすれば遭難(そうなん)して死んでしまうこともある。

 その鍾乳洞の奥には『男性の大事な部分』に似た鍾乳石(しょうにゅうせき)があり、村ではこれに女性が()れれば子宝(こだから)(めぐ)まれたり、安産になるという言い伝えが古くからあった。そのせいで村の娘が子を宿(やど)すと村の長老などが案内役を務めて奥まで入ることもあったので、村人たちは鍾乳洞への道を知悉(ちしつ)していた。それにあの迷路のような洞窟は、もしもの時には自然の防壁(ぼうへき)にもなる。

「そうですか! それを聞いて安心しました。子供達も、橋の下の洞穴に避難して全員無事です。ただ、一人は重傷で……」

「分かっておる。漁師(りょうし)(てつ)さんが娘さんを捜しに行ったまま戻らんかったからなあ。だが、子供たちが無事なのはなによりの(しら)せじゃ」

 桃太郎と老人は双方の無事を確認して安堵した。それを横で見ていた青年が口を開く。

「でもよ、さすが先生だよな! バケモノを倒したのは先生なんだろう?」

「はい、一応。弥兵衛さんの助けもずい分ありましたが」

「あの弥兵衛が? まったく謙遜(けんそん)()きだなぁ、先生も! しかし、あのバケモノ五匹……」

「えっ!?」

 桃太郎は聞いてはならない事を聞いた、という顔をした。

「ど、どうしたんだい先生?」

 青年と老人は桃太郎の顔をうかがう。

(ご、五匹!? ではまだ……)

「ま、まさか、あっこに転がってる二匹以外は……たいへんだ~!」

 青年がさとく(さっ)すると、老人と桃太郎はカラダからと血の気が引くのを感じた。桃太郎が倒した二体以外にも、『鬼』はいるのだ。

「……川の上流からやってきた、と鉄さんは仰っていたのですが、それをほかに見た方は?」

「おる。こやつもその一人じゃ。だから嫌がるのを無理やり連れて来たのだ。しかし、そうとなれば不幸中の幸い、おい孫! 先生に見たことをお話するんだ!」

「い、言われなくても分かってるよ! ……あれはたしか、」




「そういうことですか。では、やはり、あの化け物たちは全部で五体。私が倒した二体を除けば残りは三体という事になりますね。困りましたね……」

 桃太郎は青年の話を聞いて、事態(じたい)は思ったよりも絶望的に大変だという事が分かってきた。

 青年が目撃したのはこうだ。

「オレがさ、昼休みで畑仕事から家に向かう途中川沿(かわぞ)いを歩いている時だった。ボーっと川の上流を(なが)めてたらさあ、遠くにこ~んな大きな船に乗って川を下って来るやつらがいたのよ。この村にはそもそもよその所から人がやって来ることじたい珍しいからな。オレも気になってさ、船に乗っている連中を見てやることにしたんだよ。そうしたら、それがまさかのまさか、降りてきたのは人間じゃねえ。見たこともねえバケモノだったんだ! 赤いヤツを先頭にして、黄色、緑、青、紫、の色違いのバケモノがぞろぞろ降りてきたってえわけよ!」




「お孫さんのお話では、あそこに横たわっている二体、つまり緑と黄色はここにいるので、残りは赤と、それに青と紫ですね」

「そういう事になる」

「ああ、そういう事だぜ先生!」

「問題は、残りの三体がどこに行ってしまったのか、ですね。一人ずつなら私のチカラだけでどうにかなるかもしれませんが、三体同時だとさすがに難しいかも知れません……」

 翁とその孫にとって、心丈夫ではない言葉を桃太郎は言った。

「う~ん、いったいあの化け物どもはこの村に何をしに来たのか……?」

 翁は顔をしかめ、困りぬいたような表情をした。

「それが、さきほど緑のバケモノと戦った時に聞いたのですが、どうやら、この村の人間を襲いに来たわけじゃなさそうでしたよ」

「ほんとうか!? しかしそうなると、いよいよもってワケがわからんな」

「でもよ、じっちゃん」

 青年は、なにやら自信ありげだ。

「その話が本当ならよ、そのバケモノどもは時間がたてば勝手にいなくなるんじゃないのか? だったらよ、あいつらが目的を果たしていなくなるのをじっと待ってるのが一番賢明(けんめい)なんじゃないか? もしそれが本当ならこのまま時を過ごして、間違ってるならその時に(そな)えて(さく)()る時間にあてりゃあいい」

「生意気いうな孫!」

 老人は青年のあたまをぽかり、と軽くたたいた。

「……まあ、だが言うことは間違ってないな。どうしましょうか先生?」

「な、なんだよ! 間違ってないなら叩くことないだろ! まったく、いつも叩いてから考えるんだからなぁ……。もうちょっと熟慮(じゅくりょ)してから発言……」

 ぽかり! とさっきよりも強くあたまに一発。口ごたえは許されないらしい。

「……そうですね。たしかにお孫さんの言う通り……」

『ぐおおおおおお!!!』

「なんだ、なんだ!?」

 突然、山の方からおそろしい獣のような叫び声が聞こえてきた。

 空気が(ふる)える。

「山からだ!」

 三人は同時に声を上げる。

「あの方角はたしか……!」

「うん? お、おい、先生? 先生!」

 桃太郎は二人が呼びとめるのを聞かずに、そのまま物凄(ものすご)い勢いで雄叫(おたけ)びのする方へ走り去っていった。

(無事でいてください!)

 桃太郎の胸中(きょうちゅう)には、言いようのない嫌な予感でいっぱいになっていた。

「……は、はええ~!」

「ま、まるで疾風(はやて)のようじゃのお……」

 残された二人は顔を見合わせている。

「い、行っちまったな先生」

「う、うむ……」

 ふたりは息をのみ、

「も、戻ろう!」

 と合唱(がっしょう)し、()一杯(いっぱい)の速度で鍾乳洞へと仲良く駆けて行った。




「ふぅ~、疲れた……」

 お婆さんは、腰をトントンと叩きながら腰をむしろに下ろした。

 一昨日(おととい)から桃太郎とお爺さんの破れた着物をきれいに直していたのが、やっと終わった。

「これで、よし」

 お婆さんは「これであんしん!」と言いたげにほほ笑み、縫い物を片付けると今度は食事の支度をはじめた。外に出て働くのも大変だが、家の仕事を任されるというのもまた大変だ。

 お婆さんはそれから、いつものゆったりとした動きで台所に立った。それが急に、ぴたりと金縛りにでもあったように止んだ。

 お婆さんは食事の支度を急きょ取りやめ、今度はいろりのある方に向かった。……ここで食事の準備を? と思いきや、用があるのはいろりではなかった。

『こんこんこん、かんかん』

 お婆さんはウチの床を確かめるように叩き、そのウチの一か所だけ音がちがう場所があった。

 ガタと床が外れると、そこには、普通なら気がつかないほどの小さな取っ手があって、お婆さんはそれを引っ張ると床の下から鞘におさめられた刀を二本取り出した。

「……」

 お婆さんはそのウチの一本を手に取ると、再び残りの一本を元にもどした。

 その足で、お婆さんは玄関へ向かって行き、そのまま外へ出る。いつもの足取りとは少し違う。

 少し()てつけが悪くなった戸は、やかましい音を立てて開いた。空が青い。今日は晴れの日の中でも特別お日さまの光が強いように思う。開いた戸の前には沢山の雀がいて、お婆さんがやった家の残り飯をつついている。

「おや、まさかこのような所にいらっしゃろうとは。異界に住まわぬとはいかな了見(りょうけん)です?」

 バーッ! と雀たちが一斉に羽ばたく音がした。先ほどまでは全てのいきものが息をひそめたような静寂(せいじゃく)につつまれていたのに、その声がした瞬間に森中が騒ぎはじめたようだった。

 森の中から現れたのは、三体の、巨躯(きょく)を持った赤と紫と青のバケモノだった。三体のバケモノは赤を先頭に、左右には鳥に似た顔と翼を持った紫と青のバケモノがうやうやしく控えている。

「……やはり鬼の方でしたか」

 お婆さんは眼前に現れた三体の異形のものを見てつぶやく。

「ふむ。我らが姿を見ずして知ることができるとは、やはり異界の方とお見受けしますがいかが?」

 先頭の赤い鬼が慇懃に訊ねる。

「はい、『羽人(はねんと)』の者にございます」

「ほう、『羽人』ですか。羽人といえばあの『天城山(あまぎやま)』の……? では、あなたはその最後の生き残り、という事に……なりますかな?」

 赤い鬼は悲しげな顔をする。

「鬼一郎さま。お情けは無用ですぞ。いや、なにも私は慈悲(じひ)御心(みこころ)や感謝の念を忘れよと申しているのではありません。これは仕方のないことなのです。食べなければ、我らが()()に致すのです」

「……わかっている」

 紫の鬼が『鬼一郎』と呼ばれた赤い鬼をさとす。

(おう)()の言う通りですぞ。食べなければ死ぬ。それが自然の摂理(せつり)です。そこからは何人(なんぴと)たりとも逃れることはできませぬ」

「わかっている!」

 自分に言い聞かせるように鬼一郎は言葉を吐き捨てた。言動は大人びているが、年の程は桃太郎とそう変わらないように見えた。

「お()()さま。我々のことをご存知なら、いかにして我らが空腹を満たしているのかもすでに承知しているかと思います」

 お婆さんは小さくうなずく。

「では、観念(かんねん)よろしいでしょうかな」

 鬼一郎が動き出した時だった。

「お待ちください!」

 お婆さんは歩み寄る鬼一郎を制するように言った。

「一つ、どうしてもお()きしたいことがございます」

「なんですかな?」

 鬼一郎は問い返し、ほかの鬼ふたりは顔を見合す。

(どんな了見(りょうけん)だ? まさか(あきら)めがつかんのか? さもあらん……)

 顔を見合わせたふたりはかってにお婆さんの気持ちを想像する。

「この山にやってきたのは『お食事』だけが目的なのですね?」

 お婆さんは神妙(しんみょう)な顔で(たず)ねる。その背には、(ひそ)かに刀を一振りひそめている。もしもの時は、これでせめて鬼の一人と刺し違える覚悟だった。もっとも、実際に鬼を目の当たりにしたお婆さんにはもう、そんな気持ちはつゆほども残っていなかった。今となってはもう、背に隠した刃で一太刀を浴びせることすら諦めてしまっている。ならば、せめて他の者だけでも無事に……。

「はて、()なことを。むろん、この山に『異界』があると聞き、異界(いかい)(しゅ)を求め参ったまでのこと。ほかになにか、お心あたりでも?」

「いえ、なにも……」

 お婆さんは安堵の表情を浮かべる。彼らは『桃太郎』を迎えに来たのではないのだ。

「お刀自さまはなにか御心配がおありのようですな。……安心されるがよろしい。この山の麓にはたしか人間の村がありましたが、我らは人間など滅多(めった)に食べませぬ。もちろん意味のない殺戮(さつりく)も。……もしやお刀禰(とね)も異界の?」

「いいえ、良人(おっと)は人間です」

「ならば、御約束致しましょう。あなたの御身さえ頂ければ、我らは必ずやすぐさまにココを立ち去りましょう。ご無念だとは思いますが、こちらも生きる為。世の理にしたがってアナタ様を我が血肉にかえさせて頂きます」

 鬼一郎は深々と御辞儀(おじぎ)をし、今度こそは制止する者もおらず、力強い足どりでお婆さんに近づく。

「……」

 お婆さんはうつむいて目をつむったまま両の手を合わせている。もはや、観念し切っているのだろう。

「では……ごめん!」

 瞬間、骨を(くだ)くような(すさ)まじい音がし、それからゴリゴリと骨を削るような世にも恐ろしげな音が聞こえた。

 山のようすはと言えば、それ以外には音もせず、じつに静かなものだった。




「お食事はお済みになったようですね、鬼一郎さま」

 鶯鬼と呼ばれる、鳥の顔をした紫の鬼が鬼一郎に話しかける。

「うむ。……不思議だ。カラダがぽかぽかしてきて、なんだか心まで満たされた気分だ。それに、カラダに力が……みなぎる!」

 鬼一郎は自分のカラダが、さっきまでの自分とは変わりかけていることを感じた。

「ええ、そうでしょう、そうでしょう。鬼なれば誰もが通る道です。この瞬間はなんとも言えないほどの至福(しふく)を覚えるものです。それはほかの生き物が感じるように、食べたモノが我らの血肉となり、己の成長の(かて)となる事を感じるものです。我々鬼族はほかの異界種や人間などとは違って、食事というものを日になんども摂取する必要がありません。しかし、生涯に一度、もしくは幾度か、鬼族の血をひかぬ異界種を食わねばならず、また、その一回の食事で自らの力を増し、長きにわたって自身の命を世につなぐことにもなるのです。特に鬼一郎さまのような若い時分(じぶん)に『食事』は必須(ひっす)で御座います。さらに鬼一郎さまのような鬼族の血を強く継承する『(あか)(おに)』ともなれば、その量は我々凡百(ぼんびゃく)の鬼どもをはるかにしのぎます。量が多いという事はそれだけチカラをたくわえる器もまた大きいということ。お優しき鬼一郎さまは、同じ異界種であり言葉を()する彼らを(あわ)れんでしまうでしょうが、なにとぞ、のちには現『()(おう)』に代わって我らを導く立場になられるお方。ご養生(ようじょう)くだされ!」

 鶯気は少しいさめるような調子で鬼一郎をさとす。

「……満足だ。心も、そして体も」

 鬼一郎はそう言うと、お婆さんの家にむかって手を合わせた。お婆さんのカラダは、骨一つ残さずにたいらげた。

「鶯鬼。お前の言う通り、食事というものは()(むず)く、また悲しいものだな……」

 生きるということは(すなわ)ち『食べる』ということだ。だれもその(ごう)からは、逃れられない。

左様(さよう)ですな。食べた分だけ、相手の痛みを知り、生きる喜びを知り、立派な王になられてくだされ」

 鶯鬼は(おごそ)かに言い放ち、黙ってお婆さんの家にむかって礼をした。

 横にいたもう一人の青鬼も、その鳥のような顔を真剣にして、黙ってそれにならう。

 その時、三人の鬼の後ろで物音がした。

「き、貴様らは!?」

 そこには柴刈りを終えて帰って来たお爺さんの姿があった。

「……まずいな」

 鬼一郎は一言もらすと、ほかの二人に目配(めくば)せをする。

 クイとあごで方向を指し示すと、鬼一郎、つづいて他のふたりもそれに続き森の中へ逃げ去ろうとする。

「ちぇい!」

 お爺さんは気合を発すると、すぐさま青鬼との距離を詰めていた。

「うぉ!?」

(かく)()!」

 鬼一郎と鶯鬼が青鬼の名をさけぶ!

「ぐお……」

 青鬼、『鶴鬼』はいつの間にか老人に組み()せられていた。

「な、なんと! 人間が鶴鬼を!?」

「どうやら、ただものではなさそうだな」

 鬼一郎は、「これは困った事になった」という顔をしたが、それはお婆さんに「ほかの者には危害を加えない」という(むね)の説明をしたてまえ、あとは穏便(おんびん)に事をすませたかった思いがあるからだった。

 老人に自分たちが敗北を(きっ)するかもしれないとの危機感は、微塵(みじん)もない。

「鶯鬼! 私があの老人をひきつける!お前はその(すき)に鶴鬼を!」

 風を切りながら、ジグザグに距離を詰め、鬼一郎はお爺さんに接近する。その速度は、普通の者ではなにが起きているか分からぬほどだった。

「うむ!」

 鬼一郎は右にカラダを振ると見せかけて、お爺さんの元へ一直線に飛び込んで行った。

 だが、お爺さんは力を込めたとも思えぬほど軽い動作で『ひょい』と手を招くように右手を動かし、たったそれだけで下にいる鶴鬼が頭から持ち上がった。まるで重さのない操り人形のように。

「なに!?」

 鶴鬼はカラダの自由を失い、鬼一郎めがけてふっ飛んで行く!

 鈍い音を立てて二人は互いの頭で相手の頭を受け止める。

「ぐ、ぐう……」

 さすがの鬼も、これには面を食らったようだ。

「き、鬼一郎さま!」

 鶯鬼がそれを見て叫ぶ。

「(これはいよいよマズイことになったぞ!)」

 鬼一郎はそう思い、目でお爺さんを捜した。家の玄関あたりに、老人は立っていた。

(雰囲気がある。これは……手強(てごわ)いぞ)

老人の手には、いつの間にか剣が握られている。

(さっきの刀自が持っていたものか!)

 それは、お婆さんが背にひそませていたものだった。鬼一郎は『食事』を終えた後、それを丁寧(ていねい)に戸に立てかけておいたのだった。

「鶯鬼よ。……どうやら、この老人からは逃げられぬようだ」

「まさか、人間相手に我々がこのような事にならねばならぬとは……!」

 鶯気は(くや)しそうに(くちびる)をかむ。

「とお!」

 お爺さんは小さく短い気合を発する。カラダの動作自体は緩慢(かんまん)なのに、その剣は恐ろしいほど(はやい)い。

「逃げろ鶯鬼!」

 鬼一郎は地面に転がっていた石をお爺さんに投げた。当たれば、人間の頭など簡単に粉々(こなごな)になりそうな勢いがあった。

 お爺さんは動いたとも思えない程の小さな動きでそれをかわす。

「しゃあ!」

 鬼一郎は右手の(するど)(つめ)でお爺さんを狙った。もはや、穏便にすまそうなどという余裕は、鬼一郎にはない。

(やらなければ、やられる!)

「とお!」

「むん!」

 二人は短い気合を攻撃にこめ、火花を散らす。

 その二人の死闘を、二人の鬼たちは黙って見ているしかなかった。

「くっ……! よもやあのような人間がおろうとは……一生の不覚!」

「今は(なげ)いても何にもならんぞ鶯鬼! いいか、あの人間の(すき)を見つけたら、すぐに鬼一郎さまと共にヤツの(およ)ばぬ空へ逃げるのだ!」

 そう言うと二人は、背中に生えた大きな羽を広げて、静かにその時を待った。




「くっ!(なぜ当たらぬ……!)」

 鬼一郎は苦戦していた。正直、いくら手強(てごわ)いとはいえ人間の、それも老人に『赤鬼』の自分がてこずるなど、毛ほどにも思っていなかった。体格も、大人と子供ほどの差がある。鬼一郎は八尺以上(約二メートル四十センチ)もの巨体を誇る。それに対してお爺さんは五尺そこそこしかないのだ。普通なら、鬼一郎の勝ちは疑いようがないように思う。

 だが、それは大きな間違いだった。

「でやあっ!」

 びゅうん、と空気を切り裂く音がしてとなにかに当たった音がした。それからしばらく()つと重々しい音を立てて木が倒れていく。それは鬼一郎の攻撃が目標をそれて木に当たったものだった。怖ろしいほどの膂力(りょりょく)、そして速度(スピード)。これほどの力を備えていればどんな相手も圧倒できるはずだった。

「ぐうっ!」

 鬼一郎が小さくうなる。お爺さんはしかし、その恐ろしいまでの鬼一郎の猛攻を華麗にかわし捌きつつ、かわし捌いてはその度に剣先をわずかに鬼一郎の体へかすめさせていた。その刃は鬼一郎の命には届かずとも、確実にその肉体を削り取っていく。

(なんと奇妙(きみょう)な攻撃なのだ。(たい)は緩慢な動き、かと思えば剣は速く、そう思えば今度は体は速く、剣は遅く。そして右かと思えば左、左かと思えば……)

「下かっ!?」

 鬼一郎はお爺さんの真下からの斬り上げをのけ()ってかわす。もう少し遅ければ、鬼一郎の面は顎先から二つに分かれていたことだろう。

「はあっ!」

 のけ()りながら一撃を加える! しかし、あんなに近くにいたはずのお爺さんは、その時にはもう遠くにいってしまっている。

(私の心が読めるのか!? この老人は!)

 そうとしか思えなかった。でなければ、あんなに小さい動きで、それもあんなにゆっくり、いや、ゆったりとした速度で私の攻撃が避けられるはずがない! ……鬼一郎は思うのだ。

「とおっ!」

 お爺さんが攻めに転じて気合を発する度に血が勢いよく吹き出る。

「ああ! 鬼一郎さま!」

「だ、だめだ! もう見ておれん!」

 二人が飛び出そうとした時、

(来るな!)

 と言わんばかりに鬼一郎は右の掌を向けて、彼らの加勢を阻止(そし)した。

「くっ!」

 二人はもう、とっくにそれに気付いていた。気付いていたからこそ、鬼一郎と一緒に老人を攻撃する事ができなかったのだ。

「……」

 お爺さんは背を見せながらも、まるで両の目でしかと見えているがごとく、この鳥のような顔をした二人の鬼をけん制しているのだった。

(動けば斬る!)

 無言の圧力が、その背から発せられている。

 本物の戦いに『もしも』はないが、彼らがもし鬼一郎の制止を聞かずにそのまま助けに入っていたら、今ごろはきっとこの森の土の養分(ようぶん)になっていたことだろう。

(どうする鬼一郎! この難局(なんきょく)を、おまえはどう乗り切る?)

 鬼一郎は先ほどからそういう自問を繰り返していた。が、二人は急に動くのを止め、

「……」

 互いに『構え』をとったまま長い時間制止した。

「そろそろこの戦いも終わりが近い」

 二人はそう考えていた。

「はぁはぁ」

 お爺さんも年だ。体力は、そう続かない。相手に気付かれない様に細心(さいしん)の注意をはらってはいるが、実はもう足が棒みたいに屈伸(くっしん)がキかない。息も激しくなるのを止められない。

 対する鬼一郎の顔からは、左のこめかみからお()と()がい()にかけ、赤々とあざやかな血がしたたり落ちている。いや、それだけじゃない。ほかにも、よく見ればお爺さんの斬撃によって浅くない傷が体中に散見(さんけん)できる。

「……()ぁああああ!」

 ふたりが同時に動き出す。(れっ)ぱくの気合は、お(たが)いがお互いに相手の息の根を止めようという(あかし)だ。

 剣を上段に構えたお爺さんは、構えた剣をそのまま(みぎ)袈裟(けさ)に斬り下ろす!

 全ての力をふり(しぼ)り、鬼一郎もまた自分の右手にありったけの力と速度(スピード)をこめる!

「……!」

 それは、とても奇妙な感覚だった。鬼一郎が今までに感じたことのない感覚。

 裂ぱくの気合と共に、二人は渾身(こんしん)の一撃を(はな)った。

(なんだこの感覚は? まるで型が決まった舞踊(ぶよう)のように……!)

 ふたりの動き。剣と鋭い爪は打ちだされた『点』から『線』をえがき、相手のカラダという『面』へ向かう! だが、その点から線、そして面までの動き、その呼吸。ふたりの動きは、驚異的なほどピッタリと符合(ふごう)する。まるで元はひとつであったものが、本来のすがたに戻ろうとするような。

(しまった! これは『合わされ』ているのだ! すでに術中(じゅつなか)にハマっていたか!)

 鋭すぎる爪と剣が、高速で交差(こうさ)する!

 ぞくり、と鬼一郎の肉体はこれから受けるであろう多大(ただい)損害(ダメージ)を予想し、肌を粟立(あわだ)たせ、背に寒いものを走らせた。

(あ、相討(あいうち)(ねら)いか!)

 鬼一郎が(おも)った(せつ)()

 スルリと、ほんのわずか、まったくの毛ほどの変化を、この老人はした。

(な、なに!? なんという妙技(みょうぎ)!)

 ふたりの拍子(タイミング)は完璧だった。そのままならば(とも)に互いのトドメの一撃を受け、おそらく絶命(ぜつめい)していたであろう。しかし恐るべきことに、この老人はその最後の最後、これ以上はないという拍子(タイミング)で変化した。鬼一郎の攻撃の軌道(きどう)をわずかに()らし、己の(たい)の安全を確保しながら、自らの刃は相手をとらえたまま進む。そのあまりの美技(びぎ)に、鬼一郎も思わず心中感嘆(かんたん)の声をあげたのだ。

 交差の刹那、お爺さんと鬼一郎、まるでこの二人のあいだに向かって、狙いすまされたように一陣の突風が吹き()れた。

 突風ごときで止まる二人ではなかったが、しかしこの一陣(いちじん)の風が、彼らの運命を決定づけた。

「ヒラリ」

 突風にたなびき、鬼一郎の(ふところ)から一枚の(ぬの)()れが顔を出した。

「!」

 それを見た瞬間、完璧だった流れに、少しのほころびが生じた。

「ば、ばあさん……!」

 この戦いを通して初めて、お爺さんは言葉らしい言葉をしゃべった。

好機(こうき)!? ゆけ~!)

 鬼一郎は偶然生まれたその隙に自分の全てをたくした。

「き、鬼一郎さま!」

 固唾(かたず)をのんでいた二人も思わず悲痛な叫び声。

 水が勢いよく()き出すのに似た音だった。しかし噴き出した水は赤くて生々しい生命(せいめい)の色をしていた。

「ぐっ……ぐがああぁあぁぁ!」

 鬼一郎が(くず)れ、(かた)(ひざ)が地につく。その咆哮(ほうこう)は、地を揺るがす力を持つのではないかという錯覚(さっかく)を起こすほど強烈(きょうれつ)なモノだった。

「ああっ!」

 あたりに二つの悲鳴がこだまする。

「……た、助かった」

 鬼一郎は胸のあたりを左手で押さえ、天を仰ぎながらつぶやいた。その姿はどこか、祈りを(ささ)げる者を連想(れんそう)させた。

 ()ました音をたてて、刀がお爺さんの手からこぼれ落ちた。

「……」

 お爺さんは剣を落とした後もそのままの姿勢で『(ざん)(しん)』したまま、一人だけ時が止まってしまったかのようだ。

「鶯鬼、鶴鬼! ……終わったぞ」

 力なく鬼一郎は立ち上がる。今にも崩れてしまいそうなお爺さんのカラダを左手で支えながら。

「危なかった」

 鬼一郎は信じられないものを目撃したという顔で、自分の右手に視線を移した。

 右手は、お爺さんの(しん)(ぞう)を完璧に(つらぬ)いていた。

 ズボリ、と実に生々しい音。それは鬼一郎の巨大な腕がお爺さんの腹から引き抜かれる音だった。溶け合った空気と血が不気味に交わる音だった。

 鬼一郎はそれから、お爺さんのカラダを優しくその場に横たえた。

「わ、若さま! ご、ご無事でございましたか!」

 鶯鬼と鶴鬼のふたりが駆け寄って来る。

「若さまはやめてくれ、鶯鬼……。()れる」

「あいや、これはスミマセぬ」

 見るからに怜悧で、落ち着き払った雰囲気の鶯鬼にも、どうやら慌てふためく場面はあるみたいだ。

「しかし……」

 横でお爺さんの亡骸(なきがら)を眺めながら鶴鬼が(たず)ねる。

「なぜこの老人は、最後の最後で動きを止めてしまったのでしょう。それまではたとえ遅くとも(よど)みのない、流れるような動きであったのに……」

「……ふむ。やはり、お前たちにも分かったか。私も不思議に思った。しかし、たった今わかったよ。あの老人の動きを止めたモノの正体が」

「えっ」

「……これだ」

 鬼一郎は地面に落ちていた布切れを拾い上げる。それは(きぬ)出来(でき)た、(やま)()らしには不似合(ふにあ)いの上等な腰帯(こしおび)だった。

「それは? なんでございます、鬼一郎さま?」

「これは、さきほど私が『(いただ)いた』、あの刀自さまのモノだ。『鬼が島』に戻ったら、島の供養場(くようば)(とむら)いでもしようかと思ってな」

「……左様(さよう)ですか」

 それっきり、三人は黙ってしまった。

 命を拾った喜び、命を失った者のはかなさ、命の持つありがたさ。彼らはこの瞬間に、そんなことを感じていた。

 が、それまで気丈に振舞っていた鬼一郎がよろめく。

「鬼一郎さま!」

 ふたりは鬼一郎の肩をつかんで彼を支える。

「すごい血だ……!」

 鬼一郎は体中にある無数(むすう)のまだ新しい傷口のほかに、もう一つ、胸に大きく(きざ)み込まれた真一文字(まいちもんじ)の、深い(とう)(そう)があった。その鮮烈(せんれつ)な傷口から静かに血が流れ続けている。

 鶯鬼と鶴鬼は両方から(わき)に腕を差し込んで鬼一郎を持ち上げる。

「ま、待て二人とも! 大鬼と(じゃ)()がまだ残っている!」

「鬼一郎さま、ことは一刻(いっこく)(あらそ)うのです。あと一人でも今のような力のある人間がこの山におれば、我らの敗北は火を見るよりもずっと明らかです。それに、あの二人ならかってに帰って来るに決まっています。もしも……、あの二人が帰ってこないとしたら、それこそ我らは今とてつもない窮地(きゅうち)にある。そう申してもよいでしょう」

「左様。鶴鬼の言う通りにございます。それになにより、アナタ様の出血がヒドイ。二人を(さが)している時間などありませぬ。私と鶴鬼、ふたりならば鬼一郎さまを抱えたまま飛ぶことができます。ご自重(じちょう)くだされい!」

 大きく羽を広げる音がして、鶯鬼と鶴鬼は背中の羽を目一杯広げていた。二人は鬼一郎がなんと言おうが絶対にこのまま飛び立つ覚悟を決めていた。鬼一郎はやがて『異界・鬼が島』の王となる身だ。その彼を、こんな所で死なせるワケにはいかない。

「ま、待ってくれ! 二人とも! 頼みごとがあるのだ!」

「大鬼と蛇鬼のことなら聞きいれられませぬ!」

「いや、ちがうのだ…。それは、あの二人を信じることに決めた。……頼みごとというのは、あの老人がつかっていた刀を拾って欲しいのだ」

「刀をですか? よろしいでしょう。そういうことなら、刀はこの鶴鬼がお持ちしましょう」

 鶴鬼は刀を、自分の粗末(そまつ)な腰ひもにくくりつけた。

「これでお心残りはございませぬな?」

「……」

 鶯鬼は念押しの確認を鬼一郎にしたが、鬼一郎は朦朧としているのか恍惚にも似た表情をして、そのまま黙っている。たぶん、もう誰の言葉も耳に入らぬほど、肉体が弱り切っているのだろう。

「急ぐぞ! 鶴鬼!」

「あいよ!」




 四枚の大きな翼は風を叩くようにして大空を浮揚(ふよう)する。

「お、おい鶯鬼! あ、あれ!」

 ちょうど村の真上に来た辺りで、鶴鬼が下を確認するよう鶯鬼にうながす。

「あ、あれは!? 大鬼! 蛇鬼!」

 上空からでも一際(ひときわ)目立(めだ)つ黄色い巨体、そして横には緑の鬼。

「ああ! なんということだ! あの二人がやられるなんて!」

 慟哭(どうこく)せんばかりに二人は悲しみ嘆く。

「おい……なんだ? あれは!」

 鶴鬼が大声でさけぶ。

「どうした? うん? なんだあれは!?」

 ふたりは先ほどまで鬼一郎が人間の老人と死闘(しとう)を繰り広げていた場所へ向かって進む、ひとりの人間の姿を発見した。

「人間……なのか?」

「お、俺達は悪い夢でも見てるのか?」

 疾風のごとき速さ。それは人間とは思えぬほどの速度だった。もしこれが『鬼』だといわれても信じてしまうかもしれない。

「鬼では……あるまいな?」

「いいや、あんな鬼みたことない。信じられんことに、あれはどう見ても人間のようだ」

 ふたりは瞬時に悟った。山を駈け上って来るあの人間こそが大鬼と蛇鬼を倒したのだ、と。

「……危ないところだった。急ごう、鶴鬼」

「……ああ」

 四枚の翼はさっきよりも風を強くたたきながら、さらに上空へと舞い上がっていった。……まるで怖ろしいものから、必死で逃れるように。



「おじい様! おばあ様!」

 我が家へ辿(たど)り着いた桃太郎が見たものは、信じようと思っても信じられない、いや、信じたくない、そんな光景(こうけい)だった。

「お、おじい様……!」

 家の前には、お爺さんが横たわっていた。大量に血を流したのだろう。そのせいで渋緑の着物が黒ずんでいた。とうに絶命(ぜつめい)している事は、三才の童子でも理解できた。胸に大きな穴があいている。

「な、なぜこんな事に!? はっ! ……おばあ様はっ!」

 桃太郎は物言わぬお爺さんを背におぶって、お婆さんを捜しに家の中へ。

「おばあ様っ!」

 勢いよく戸を開ける。いつもの彼なら、そんな不調法(ぶちょうほう)な開け方はしない。

(……これは!)

 戸を開くとそこには誰もいなかった。しかし足元を見ると、そこには土間(どま)一面に血が(かわ)いて固まった(あと)がある。

「……うう」

 桃太郎は足元の血痕(けっこん)を見ながら立ち尽くし、それから目を()じては静かに涙を流して泣いていた。

 お爺さんがすでに絶命していることは気付いていたし、お婆さんもまた、この自分の足元にある血だまりのあとを見れば、どうなったかはおよそ想像(そうぞう)がついた。

 桃太郎はもう一度閉じていた目を開き、茫然(ぼうぜん)と視線を固定したまま、乾いて不気味(ぶきみ)に赤黒く変色(へんしょく)した血の痕を見つめたいた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ