最終章)それぞれのハッピーエンドと加治神基経の微笑み。
日曜日の朝になって、俺は個室のベッドで病院食を食っていた。
昨夜、手術室からここに連れて来られた時には、情けない話だけど差額ベッド代の心配をした。
傷害保険には加入していたはずだけど、請求手続きなんかが全然分からない。
もしかしたら、俺の傷は事故ではなく事件だから、加害者(あの大女だ)に民事賠償請求を起こさなければ保険は下りないのかもしれないし、そんな訴訟沙汰になったら法律に疎い俺にはお手上げだ。
非科学研の法学関係のヤツに相談してみるか、という考えが浮かんだが、谷口の手を煩わせる事になるかと思うと気が引ける。
しかし、元気一杯の若い看護師さんから、大部屋に空きが無いからの一時的な収容で、差額は必要無いと説明があった。
その代り、空きが出来次第、大部屋に移動する事になるらしい。
考えてみれば、日曜日には警察が聴取に来たりするだろうから、他の患者さんの迷惑を考えての措置かもしれない。
昨日は夕食を食べそこなったから、今朝は猛烈に腹が空いていた。
パンと牛乳、野菜スープに鶏肉と野菜のサラダというメニューを完食したが、なんだかまだ物足りなかった。
でも、寝たり起きたりするのは勿論、寝返りをうつだけでも傷が痛むから、売店までパンかオニギリを買いに遠征するのも躊躇する。
医師からは、今日は一日安静にしておくように言われているし、あの元気な看護師さんからは、でっかい尿瓶も渡されている。
松葉杖も歩行器も無く、点滴のチューブに繋がった状態で、壁伝いにどこに有るのか分からない売店を探すのは、事実上不可能だろう。
それでも空腹に耐えかねて出撃を決断するとしたら、幸いな事に財布は手元にある。
心優しい井村大先生様が、手術が終わるのを待っていて、カバンごと届けてくれたのだ。
三島が、上田氏ならびに彼女自身のご両親と合流し、一之瀬先生と面談するまで、井村・川口・谷口の三人は三島に付き添っていたらしい。
その後、川口は何かと理屈をこねる谷口を無理やり家に送って行って、井村が残るという形になったそうだ。
俺があの大女を、もっとスマートに制圧しておけば、起こらなかった事態だから、自分の非力さを痛感するが、井村は「いや、お前は良くやったよ。もっと悪い事態だって起こり得た。」と褒めてくれた。
確かに、あの馬鹿女が谷口を傷付けたりしていたら、俺は今頃、過剰防衛の殺人犯になっているかもしれない。
狂気というのは伝染するのだ。
売店問題を頭から追いやるために、俺は耳にイヤホンを差してテレビのスイッチを入れた。
テレビを観るための、テレビカードという病院内で通用するプリペイド・カードは、谷口の差し入れだ。
彼女が川口に連れて帰られる時に、井村に託されたものだ。
彼女は本当に何でも知っているが、こんなカードの存在まで、いつ知ったのだろう。
ニュースでは、地中海難民の大型海難事故報道が流れている。
これはこれで大変な事態だが、今の俺には気掛かりな事が別にある。
俺はニュースを点けたまま、スマホを起動した。
病院内では基本的に携帯不可なのだけれど、個室だから微弱電波の影響が外に及ばないだろうと、ちょっとメールチェックする事にしたのだ。
メールと電話の両方に、着信履歴が結構ある。
電話の方は如何ともし難いから、発信元だけ見ておく。
ほぼ友人関係からのもので、入院中という事情が分かってくれるだろうから、今慌ててコールバックしなくてもいいだろう。
メールの方も同じような状態で、お見舞いメールが寄せられていた。
こっちには『ありがとう。大丈夫です。病院の中なので、詳しい事は後日。』と簡単に返信しておく。
海難事故のニュースが終わって、国内ニュースに切り替わったところで、スマホを閉じた。
通り魔事件の犯人逮捕のニュースは
『冒頭でもお伝えしました通り、昨日、東京都内で発生した通り魔事件は……』
と、キャスターが原稿を読み上げたから、俺がテレビを点ける前に概略は放送されていたみたいだ。
犯人の女は無職。
元会社員とは言わなかったから、一発懲戒解雇された報道関係者ではないようだ。
大女がマスコミ関係者風に装っていたのは、偽装だったわけだ。
ネット掲示板の書き込みに、犯人は『近所の無職』と有ったのを、ふと思い出す。まあ偶然だろうが。
女は、ママチャリの前カゴに、ジャケットと着替えのブラウスの入った袋を入れ、ウイッグを被って女の子を襲った模様だ。
サーベルを握った騎兵が蹂躙攻撃をするように、後ろから自転車に乗ったまま切り付けてきたらしい。
被害者の命に別状が無かったのは、一応俺の読み通り、犯人の狙いが一緒にいた友人の方で、被害者は脅して追い払うだけの心算で、殺す気までは無かったかの様に報道されている。
と言うか、現時点で犯人は『殺意は否定している模様』なんですってさ!
それでも被害者の女の子は、俺と同等かあるいは更に重い傷を負っている。
それに、移動手段を併用しての蹂躙攻撃は、乗り物の勢いも加わるから力の加減が難しいはずで、命が助かったのは運が良かったからに他ならない。殺す心算が無くとも、刃が首や太い血管に当たっていれば、被害者の女の子はその場で死んでいても不思議は無い。
殺す心算は無いが、死んでも別に構わない、と思っていなければ出来ない事なのだ。
犯人が女の子を襲っている内に、本来のターゲットである友人の方は、被害者を見捨てて逃げてしまったと、ニュースは報じている。
ターゲットが居なくなってしまったから、犯人は一旦自転車でその場を離れた。
友人の行動は少し薄情な様に見えるが、彼女がその場に残っていても何も出来なかったであろうと言う事を考えると、結果的には良い判断だったと言える。
ただし、ここは「助けを呼びに」とその場を去った理由を加えて報道しないと、可哀想な気がする。
被害者の友人にだって、その後の人生があるのだ。
その後犯人は、ウイッグを外し、公園のトイレでブラウスを取り換え、ジャケットを羽織って逃走。
大女は、被害者が近くの休日診療をしている病院に救急搬送されると考え、そこで待っていれば本来のターゲットもやって来るはずと、裏道を通って大学病院に先回りした様だ。
今現在では、着替える前と着替えた後の映像が、それぞれいくつかの防犯カメラに捉えられていたのが分かっている。
そして、夜間入り口前で見かけた第一の事件とは無関係な女性を襲撃し、その場に居合わせた男性に怪我を負わせて、揉み合いの末に、駆け付けた警察官に捕まったのだと。
犯人が警察官に逮捕されたというのは、それでいいんですよ。本当だし。
下手に、俺が女を暴力的に、頭突きでKOしたなんて話が流れるより、ずっと。
でもね……くそー……。『揉み合い』ってなんだよ。
なんだか俺が、あの大女のどこかを『揉んだ』みたいに聞こえるじゃないか!
・・・・・・・・・・・・・・・
俺が馬鹿な感慨に浸っていたら、看護師さんが入って来た。
食器を下げに来てくれたのだ。
昨晩の看護師さんとは別人だが、同じように元気一杯だ。
「お食事、御済みですねー。警察の人が来られてますけどー?」
「ああ、ありがとうございます。入って頂いて下さい。」
テレビは消しておいた方がいいな。
「おはようございます。」と、こちらも元気な挨拶と共に、にこやかに入ってきたのは二人の私服警官だった。
中年と若い刑事の二人組で、どちらも穏やかな表情を作っているが精悍な顔つきだ。
もう犯人は捕まっているから、聴取には制服警官の事務的な来訪を予想していたので、ちょっと意外だったが、俺の外聞とか他の患者さんを刺激しないためとか理由があるのだろう。
もしかしたら、単に規則がそうなっているだけ、なのかも分からないけれど。
「大変でしたでしょうけど、ご協力をお願いします。」笑っているような細い眼が印象的な中年の刑事が、話を切り出す。「昨日は御活躍でしたね。傷は痛みますか?」
「ええ。でも予想していたよりも痛みません。」
これには少し、見栄が混じっている。
でも、ちょっと位タフガイを気取ったって良いではないか。
あるいは、タフガイを気取った脳筋馬鹿に見られるのには、必要なセリフだ。
このセリフの後には、『善良な市民』としてのフォローが不可欠だが。
「刑事さんたちのお仕事を、増やしてしまって申し訳ありません。今後は出しゃばらない様、気を付けます。」と、殊勝らしく頭を下げ、前もって謝ってしまう。
善良な市民は、こうでなくちゃね。
中年の刑事は細い眼を目を丸くしてみせて、「とんでもない。ご協力に感謝していますよ。市民の方々のご協力あっての治安ですから。……ただ今後、ご無理はなさらない様、お願いしますよ。」
この後、友人の見舞いに来て、植え込みで不審な人影らしきものを見た所から始まって、大女がカッターナイフを手に暗がりから飛び出して来た所まで、順を追って話をした。
中年の刑事は、時折「ほう。」とか「なるほど。」と合の手を入れる程度で、あまり口を挿まない。
若い刑事は真剣な顔で、ずっとメモを取っている。
俺は、病院で女が襲って来た動機が、谷口が第一の事件のターゲットと似ていたための誤認ではないかという、救急処置室の中で処置してくれた医師にしたのと同じ推理を披露した。
谷口の名前は出すべきかどうか迷ったが、第二の事件の関係者というか被害者になりかかった訳だから、警察は間違い無く彼女の所へも行くだろうし、そうであれば谷口が大女とは無関係であることは、予め情報を入れておいた方がいいだろうと、思ったからだ。
それに、興奮しているシロウト探偵が、いかにも口にしそうな話題だし。
中年の刑事が真面目な顔で「その、谷口さん? の写真はお持ちですか?」と訊いて来た。
「持ってません。可愛く撮れた写真を入手したら、僕にも一枚分けて下さい。」と答えたら、同じく真面目な顔でメモを取っていた若い刑事が、こらえ切れずに噴き出した。
中年の刑事は
「写真の件は、ちょっと……、私どもからお渡しする事は出来ませんから、ご自分で、その女性にお願いなさっては如何でしょうか?」
と苦笑いしながら答えたが、笑顔はそのままに目だけを真剣に光らせて、ポケットからポリエチレンの小さな袋を取り出した。
袋には、あの時撃ったシンカーが入っている。
「これ、ご存じじゃないでしょうか?」
やっぱり、来たか。回収出来なかったからな。
「僕のです。襲われた時に、ポケットに入っていたので、とっさに女に向かって投げました。」
俺は正直に自分の物だと答える。指紋を調べられれば分かる事だ。
「これ、オモリですか? 魚釣りか何かの?」
刑事はブラスシンカーの何たるかを知っていて、あえて訊ねているのだろう。
これを初めて見た人が、魚釣りを齧った事があっても、投げ釣やサビキ釣りの経験程度しか持っていなければ、魚釣りの錘だとは思いつかないような色と形だから。
「はあ。ブラックバスとか、カサゴを狙う時に使います。」
一般的な説明としては、これで間違いは無いし、指弾モドキに使いますなんて、余計な解説を付け加える必要はない。
「たまたま、持っていた?」
「昨日千葉に行ったんですよ。」
千葉県には、池にも海にも良いポイントが沢山ある。
「オモリだけ持って?」
俺は若い方の刑事に、カバンを取ってくれるように頼んだ。
ボロカバンのポケットのチャックを開くと、中からワームやグラブといったソフトプラスチック製の疑似餌と、ワームフックという大きめの釣り針の入った、コンパクトケースを取り出した。ケースの中には予備のシンカーやビーズ玉、10m巻きのハリスなんかも収まっている。
「竿とリールは、昨日一度家に帰った時に、他の荷物と一緒に部屋に置いて来ました。コンパクト・ロッドなので、小さく畳んでナップサックに入っています。このコンパクトケースはカバンのポケットに、いつも入れっぱなしにしている事が多いです。ゴロタ浜の穴釣りや、堤防のヘチでカサゴやソイを狙うんだったら竿無しでもイケますよ。」
「なるほど。これで、疑問が解けました。現場にタングステン・シンカーが落ちているのだけが分からなかったんですよ。」
やっぱり、知っていたか。食えないオッサンだ。タングステンじゃなくてブラスだけど。
「でも、よく容疑者に命中させられましたね。とっさの事だったでしょうに。」
「運が良かったんですよ。おかげであの女、カッターを落としましたから。でも、もう一本持っているとは思いもよりませんでした。」
刑事は頷いて「この頃の事件では、複数の凶器を用意する犯人が増えているんです。ニュースでテロの手口やなんかが、盛んに報道されますから。……でも、変わった所を切られましたね?」
「ジャケットの中のカッターに気付いてなかったので、正面から組み合って足払いか大外刈りで相手を転がそうとした時に、やられました。未経験者が、とっさに見よう見まねで柔道技をやろうと思っても、上手く行かないですね。」
「でも、運が良かった。腎臓か腸を刺されていたら、大変でしたよ?」
「おっしゃる通りです。軽率でした。たまたま身体を捻った時に、相手が突いてきたので、刃が骨に当たってくれて。」
「それで、そのまま頭突きを?」
「はい。……マズかったですか?」
「いえ。目撃者も大勢いるし、凶器に素手で立ち向かった訳だから、充分、緊急避難の正当防衛が成立すると思います。」
中年の刑事が「ご協力、ありがとうございました。お大事になさって下さい。」と帰りかけた処で、俺は試しに「動機は何だったのですか? あの女が襲撃を思い立った、そもそもの動機は?」と質問してみた。
多分、「取り調べ中です。」と紋切り型の返答が来るだろうと思っていたが、刑事はちょっと間を置いてから
「ここだけの話でお願いしますが、動機は『男』です。」
と教えてくれた。
「男、ですか。」
俺が男女関係に疎いせいかも知れないが、あのマスコミ気取りの大女と中学生みたいに見えた少女とを繋ぐ男性像というのが、今一つピンと来ない。
「はい。容疑者は、あるアイドルグループの青年と恋仲だったのに、恋敵が現れて卑劣な手段で彼を奪ったのが許せなかった、と。その恋敵というのが、第一の事件の被害者の友人の少女だと、言っています。」
俺はゾクッと背筋が寒くなった。
大女の発言が、何となく『ずれている』ように感じたからだ。
人を見かけだけで判断してはいけないけれど、あの少女がアイドルと付き合っているとか、ましてや策を弄して人から彼氏を奪うとか、ちょっと想像出来ない。まだ、ほんの子供に見えたぞ?
「それ、本当なんですか?」
刑事は「調査中です。」と答えを口にしたが、表情は明快に「女の妄想だ。」と伝えていた。
「容疑者がアイドルの青年と付き合っていたという事実も、被害者の友人が、アイドルと付き合っているという事実も、未だ確認出来ていません。……裁判になったら弁護士は、容疑者の精神鑑定を言ってくるかも知れませんね。」
刑法第39条か。
一項では心神喪失時の行為は罪を問わず、二項は心神耗弱時の犯行は罪を軽減する、というやつだ。
刑事が先ほどから、大女の事を「犯人」ではなく「容疑者」と言っているのは、刑が確定するまでは、たとえ現行犯であっても「推定無罪」の原則が適用されるので当たり前だ。
しかし、女が極度の心神耗弱状態であったと裁判で決まったら、二人を切り付け、他にもトラウマ持ちを作ったにも係わらず、微罪で社会復帰するのかもしれない。
計画性のある犯行を行っているし、無罪になるとは思わないけど。
でも、俺が猛烈に気掛かりになったのは、別の部分だ。
「犯人が妄想持ちなら谷口が襲われたのは、『間違われた』のではなく、最初のターゲットに『似ている』様に見えたから、同じく恋敵に成り得ると、犯人は考えたのでしょうか?」
もし、そうであれば、大女は谷口が別人だと判っていた上で、殺す心算だった事になる。
「まだ、何も分かりません。」中年の刑事は、わずかに首を振ると「取り調べの中で、判って来る事もあるでしょうけど。ヒトの頭の中は、合理的に割り切れるものばかりではないのです。……私がこんな事を言っちゃいけませんね。」
刑事は一礼すると、入り口の所に立っていた若い刑事を促して、一緒に部屋を出て行った。
昔話では「通り悪魔」に魅入られた人物は、騒ぎを起こした後は自決して事が終わる。
現代の「通り魔」は、罪を軽減されて、再び世に放たれる。
・・・・・・・・・・・・・・・
刑事たちが出て行ったところで、ニュースチェックするかとスマホに手を伸ばしかけたら、なぜか母がズカズカと入って来た。
大きなバッグと紙袋を持っている。
時刻はまだ8時を回ったところで、始発の北陸新幹線は東京に到着していないはずなのに。
「お母さん。どうやって来たの?」
「11時半発の夜行バス。アンタ、思ったより元気そうじゃない。心配して損した。」
「ひとり?」
「お父さんは、ナースステーションの前で、書類書いてる。ハイ、下着と靴下。寝間着は病院のヤツ借りなさい。一日何百円かだから。スリッパは今日のうちに仕入れてくるよ。こっちの袋は鱒寿司。アンタの好きな店のじゃないけど。もう閉まってたから。こっちに着いたのが6時過ぎよ。バスの中じゃあ、寝られないかと思ったけれど、眠れたよ。昨日は慌てて車で飛び出して来そうになったけど、アンタの友達が『お母さん、切られたのは尻だけで、念のための入院ですから、落ち着いて。』って教えてくれたから良かったけど、最初は何かの詐欺かと思ったよ。アンタ友達には、ちゃんとお礼を言った? それにしても、通り魔に切られるなんて怖いねえ。でも、ちょっとだけ、我が子ながら鈍くさい子だなと、思ったよ。お父さんに似たのかねえ。」
母は一息に捲し立てると、ふう、と大きく息を吐いた。
平気そうに見せようと努力しているけど、かなり緊張していたのだろう。
「心配かけたね。ゴメン。」
俺が素直に謝ると、母は、いいから、と言う風に手を振って
「通り魔相手じゃ、気を付けるっていっても限度があるものねぇ。」と理解の有る処をを見せた。
これ以上は怒られずに済みそうだ。
そこで、昨夜から気になっている傷害保険の事を聞いてみた。
母も詳しい事は知らないみたいで
「帰ったら、保険屋さんに聴いてみる。どっちにしろ、退院が決まって先生に診断書書いてもらってからの事になるんだと思うけど。まあ、余計な事は心配せずに、治療に専念しなさい。」
それから母は、思い出したように
「そうそう、病室の前に友達が来てたよ。男の人二人、女の子一人。」
井村と川口、それに谷口か。昨日、遅かったのに、もう来てくれてたんだ。
でも面会時間は、休日は10時からなんだけどな。昨晩の緊急手術だったから、少しは融通が利くんだろうか。
「外で、待っててくれてるの?」
「ここから出て来た警察の人が話しかけてきて、この階の談話室で、少し昨日の状況を教えてもらうって事になったみたい。話が終わったら、こっちに来るって女の子が言ってたよ。真面目そうな良い子じゃない? 女友達の一人も出来ずに、むさ苦しい学生生活送ってるだろうなと思ってたから、ちょっと安心したよ。でも女の子に名前を確認して、刑事さんが変な顔してたけど。」
谷口は服装を、通常営業の状態に戻したみたいだ。
それだと、ターゲットになった女の子とは似ても似つかない外見になるから、刑事が不思議そうな顔をするのも無理はない。
俺と刑事が話をしていなかったら、完全な無差別襲撃事件として扱われた可能性も有るのか。
「今日は夕方くらいまで、こっちに居れるの?」
「お父さんは、ね。」
お父さんは?
で、お母さんは??
「私はアンタが不自由だろうから、何日か居るよ。こっちにいる間は、アンタの部屋に泊まるから。どうせ散らかし放題にしてるだろうから、掃除もしといてあげる。それに、アンタが割合元気そうだから、暇を見つけて東京タワーとスカイツリー登ってくるよ。」
……これはこれで、大ピンチである。
・・・・・・・・・・・・・・・
月曜日には六人部屋に移り、リハビリも始まった。
松葉杖歩行も許可されたから、トイレに歩いて行けるようになったのが嬉しい。
平日の面会時間は、午後1時から7時までだが、その間にも検温や清拭、そして回診なんかがある。
昼食後に、母が洗濯物を取りに来た。
病棟には、入院患者用のコイン洗濯機や乾燥機もあるから、自分で出来ると言ったのだが、母は己の仕事と決めたらしい。
「部屋は思ったほど、汚くなかったね。でも風呂場とシンクを磨いとく。部屋に有った漫画と変な本は縛っておいたから、ゴミの日に出しとくね。」
「……ありがとう。」
パソコンの中までは、覗かれてないと思うけど……。
芥川賞を受賞した、絲山秋子の『沖で待つ』は、ハードディスクの中身を妻に見られたくない幽霊が、ハードディスクの破壊を、友人である主人公に依頼する話だ。
一瞬、川口か井村に工作をお願いしようかと考えるが、無害なデータも全て失う事になるから、思い止まる。
運を天に任せて、母が俺のパソコンを触ったりしない事を祈ろう。
親戚の誰それから電話があったとか、ベッドサイドの椅子に座った母が世間話を始めたので、病室じゃ邪魔になるから談話室に行こうか、と松葉杖を手にしたら、入り口の所から谷口がひょいと顔をのぞかせた。
「こんにちは。お加減、どうですか?」
後ろには、井村と川口もいる。
「今日からは、松葉杖で歩いてもよくなったよ。ありがとう。」
母は椅子から立ち上がって「うちの馬鹿が、ご心配おかけしまして。」と、三人に挨拶する。
昨日、刑事の聴取を終えた三人が、個室に来てくれたから、両親と三人の顔合わせは済んでいる。
その時に、俺が尻を切られた顛末は両親に話した。
内容は刑事に話したのと同じで、指弾モドキや刑事から聞いた『ここだけの話』については触れていない。
流れ上、上田氏の件にも、PAMという難病に罹った友人がここに入院していて、と簡単に話をした。
井村や川口も「いや、すごく勇敢でした。」「元気そうで安心しました。」と両親に当たり障りのないお見舞いを言って、長居すると傷に障るといけませんから、と谷口を促すと、三人で部屋を出て行ったのが昨日の出来事だ。
俺が「大部屋で話をしてたら、迷惑になるかもしれないから、談話室に行こう。」と提案すると、母は「じゃあ、今日は東京タワーに行ってくるよ。」と洗濯物を持ち、三人に「お見舞いありがとうございます。」と礼を言って出て行った。
談話室に向かって明るい廊下を歩いていると、井村が「お母さん、気を利かして席を外してくれたみたいで、悪かったかな?」と小さな声で言った。
俺は「母さん、俺の部屋に泊まって、部屋の掃除してくれてたみたいなんだ。」と返す。
川口が「それは有り難い事だな。でもオマエはちょっとドキドキしただろ?」と言う。
そう言う川口は、自宅通学の筈だけどな……。
くふふ、という押し殺した笑い声がしたと思ったら、声の主は谷口だった。
「お母さんに見られたら困る物が、部屋に置いてあるのですか? なんなら、私が処分しておきましょうか? 鍵を貸してもらえたら、行ってきますけど。」
いやいやいや。母より谷口に見られる方が、余程困る。と言うか、恥ずかしい。
・・・・・・・・・・・・・・・
談話室の椅子に腰を下ろす。
無理をして傷口が開いたら嫌だから、ゆっくりと行うが、実は中間姿勢が一番痛い。
俺が顔を顰めるのを見て、谷口が何か言いたそうな顔をしたが、彼女が口を開くより早く
「やっぱり、まだ痛そうだな。当たり前か。」と川口が感想を漏らす。
「まだ二日目だからね。でも、全く動かなくてじっとしているのも、傷の治りが悪いんだそうだよ。……で、上田氏は?」
俺の質問を予測していた井村が、一つ頷くと
「まだ、入っている。昨日、お前を見舞った後、三人で行ったが。命は助かる……と思う。」
そうか。2%の確率の中に、勝ち残る事が出来たんだ。
川口は俺の顔をじっと見ながら
「三島は気丈に振る舞っているけど、だいぶ無理をしているみたいでね。両方の家のご両親も来てるから、立ち入った話は出来ないが、何だか親御さんたちが妙に諦観してるみたいなのが、気にかかるというか癪に障るんだ。もっと三島を元気付けてやれよって。」
「三島さんが、早く良くなって下さいって言ってました。そしたら六人で、海へ行こうって。」
谷口が優しい声で言う。
そうだ、俺たちは全員そろって海へ行くんだ。
「強化合宿、行こう!」と、俺が宣言する。
「スパルタですよ。」と、谷口は更に優しい声で応じた。
・・・・・・・・・・・・・・・
上田氏は命を取り留め、症状が落ち着いたら、大学を休学してリハビリをする事になった。
記憶障害と若干の知能低下がある、という話だ。
彼の髄液からは、予想通りネグレリア・フォーレリが検出されたから、世界でも数少ない回復例という事になる。
三島も同じく休学し、上田氏と一緒に生活してリハビリの手助けをする事に決めた。
この事を聞いたのは、三島本人の口からだ。
彼女は忙しい中、俺の病室に顔を見せてくれて、上田氏が回復しつつある事を教えてくれたのだ。
「合併症の心配が有るから、まだICUの中だけど、あそこから上田君が出て来れるのと、キミが退院するのと、どっちが早いかな?」
彼女は、疲れの見える顔だけど、微笑んでみせた。
「上田氏が退院したら、六人で海だね!」
「季節が替わっちゃうけど。」
「来年にだって、夏は来るよ。俺としては、今年の内に寒中水泳でも、受けて立つ!」
俺の馬鹿な発言に、三島は「そうだね。元気出さなくちゃあ!」と、今度は大きく笑ってみせた。
・・・・・・・・・・・・・・・
上田氏がICUから一般病棟に移ると聞いて、俺はその情報を教えてくれた谷口と一緒に、彼の病室を見舞う事にした。
俺は既に退院しており、病院へは経過観察に部屋から通院している。
母には迷惑をかけたから、退院したら上野の美術館でも案内しようと思っていたのだが、俺に退院の目途がついた時点で「これ以上アンタに構っていたら、今度はお父さんが実家を散らかし放題にしているかも分からないからね。」と言い残し、つむじ風のように帰って行った。
帰るまでに、タワーは二つとも制覇したみたいだ。
谷口は通り魔事件以来、責任を感じているのか、何かと気を遣ってくれている。
有頂天になってしまいそうなほど嬉しい半面、俺なんかが迷惑をかけて申し訳ないという気持ちが自分の中にある。
自分自身に「勘違いするなよ。これは友情と同情から来ているものだから。」と言い聞かせておかないと、谷口と相思相愛になった! とか妄想に浸ってしまいそうだ。
一時的な「吊り橋効果」を利用して、彼女のような優秀な人材を独占しようとしたら、それは俺の醜いエゴイズムに他ならない。
俺が彼女に猛アタックを掛けて良いのは、彼女に相応しく成長を遂げてからだ。
病院のロビーで、川口、井村と合流し、四人で上田氏の病室に向かった。
上田氏の部屋は個室だった。大きな窓から明るく光が差し込んでいるが、エアコンが効いていて快適な室温が保たれている。
PAMからの回復は、稀に見るケースなので、学用患者認定を受けての特別措置という話だ。
その代り、長期間に渡ってさまざまな精密検査を受けなければいけないみたいだけれど。
上田氏はベッドの上で、俺たちに柔和な顔を見せ
「玲子に深入りしないほうがいい、なんて偉そうな事を言いましたが、皆さんにも彼女にも、いろいろ厄介をおかけしてしまいました。皆さんの手助けのおかげで、A沼の悪鬼を退ける事が出来ましたから、今度は上田の家の因縁にも立ち向かってみようと思います。」
と深く頭を下げた。
三島は、そんな上田氏の隣に立ち、充実感の有る笑顔を見せている。
上田氏には、記憶障害と知能低下があると聞いていたけれど、そんな様子は微塵も無い。
あるいは元が滅茶苦茶に優秀な人で、多少知能が低下したと言っても、常人以上のレベルなのかもしれない。
「大丈夫。ゴーストバスター三島が付いていたら、大概のモノは避けて行きますよ。」
と川口が言ったが、井村は
「じゃあ、ご結婚を決断されたんですね?」
と上田氏に問うた。
「はい。学生結婚に成りますが、籍を入れようという事になりました。」
「参ったな。四人衆から一人、抜け駆けが出たぞ!」
川口が大げさに騒ぐ。
上田氏は笑って「強化合宿の件は、玲子から聞いています。その時は、僕も教官側に回れるかもしれませんね。」
三島は川口に向かって
「川口くん。抜け駆け一人、なんて言ってるけれど、来年の夏には抜け駆け二人になってるかも知れないよ。」
と言って、何故か意味有り気に、俺の方にウインクした。
気が付くと、俺の隣で、谷口が真っ赤な顔で俯いていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
上田氏を見舞った後、四人で病院の喫茶室に寄り、何となく言葉少なにコーヒーを飲んでいたら、意を決したような表情の二人の少女が近づいてきた。
一人は入院中なのか、学校指定らしい飾り気の無いトレーニングウェアを着ており、丸顔にビックリしたような大きな目が特徴的だ。
もう一人の方は学校の制服を身に着けている。こちらの方はお見舞いに来たのだろう。
思い切った短髪で、スポーツ系の部活でもやっているのかもしれない。トレーニングウェアの女の子とは対照的に切れ長の目だ。
トレーニングウェアの少女が、俺に向かってペコリと頭を下げ、「初めまして。トトキと申します。九時、十時の十時と書いてトトキです。」と自己紹介した。
大きな目が印象的な女の子だけれど、本人が初めましてと言っているように、まるっきり初めて見る顔だ。
俺もとりあえず、初めましてと頭を下げたが、何の事やら分からない。
だが谷口は瞬時に
「あ、通り魔の被害に遭われた。」と気付いた。
ああそうか。あの女の子も、この病院に入院したんだ。
十時さんは
「はい、そうです。……犯人を捕まえてくれた人も、切られて入院したと聞いていて、いつかお礼を言わなくちゃと思っていたんですけれど、あの……なかなか言い出せなくて。あの……ありがとう、ございました。」
と、深々と最敬礼をした。
俺が大女と戦いになったのは、成り行き上、谷口を守るためにやったことで、この十時さんの仇を討とうとかいう考えで行った行為ではないから、彼女のお礼に対して
「いやー、僕が、たまたまあの場に居合わせただけの事で、切られたのも自分のヘマだし、十時さんが責任を感じないといけない話じゃないから。……いや、どうも、こちらこそ。……頭を上げて下さい。」
と、年長者にあるまじき支離滅裂な返礼をした。赤面モノである。
不甲斐無い俺の姿を見かねたのか、谷口が
「お元気そうになられて、何よりです。……と言いたいみたいです。」
と無難に通訳してくれた。
谷口の翻訳を理解した十時さんは
「あの……実は……何回か、外科のフロアでお見かけしていたのですけれど、……あの……勇気が無くて。」
そうか。この子は俺と同じく、外科に入院していたから、廊下や談話室で、すぐ横を通り合わせたりしていても不思議は無いんだ。
入院している時は、女性患者が近くを通っても、しげしげ観察したら失礼かと思ったから、なるべく見ない様にしていたからなぁ。
それにネットを観る時にも、気に障る書き込みが有ったら嫌だから、通り魔事件関連のスレは意識して避けていたし。
十時さんはそれから「それで……あの……。」と言い掛けた切り、固まってしまった。
見かねた井村が「お礼はもう充分ですよ。コイツには切られた事が文字通りの怪我の功名で、ちょっとばかり良い事も有ったみたいだから。」と、場をとりなしたが、彼女は黙って突っ立ったままだ。
何だか傍から見たら、俺たちがこの女の子を、虐めているように見えないだろうか、と心配になる。
固くなった場の雰囲気を解すように、川口が「君たちも一緒にコーヒー飲むかい? 別にコーヒーじゃなくてもいいけど。レート・ボトルド・ヴィンテージ・ポルトーなんか注文するのはナシで。」と誘うと、二人の女の子は、ちょっと顔を見合わせてから頷き、俺たちの隣に腰掛けた。
川口の発言の後半部分は、ノベライズ版の『刑事コロンボ 別れのワイン』を読むか、ドラマの方を観ていない限り理解不能なネタだから、女の子二人には意味不明だっただろう。
その物語の終わりでは、犯人がコロンボ刑事に向かって『最高のデザートワインだ。そしてまた、別れの宴にも相応しい。』と評する名シーンがある。
俺と谷口がコーヒーのお代わり、井村が餡蜜、川口がヨーグルトシェイク、十時さんがバナナシェイク、もう一人の女の子がレモンスカッシュを注文する。
一応全員で、初めての合コンみたいに自己紹介をすると、制服の女の子は「今里です。十時さんと一緒に襲われた。」と、少し言い難そうに名乗った。
「あれ? 髪……。」
今里さんの自己紹介を聞いて、俺は襲われた時の彼女は、谷口みたいなストレートヘアだった事を思い出した。それに、コンタクトに換えたのか、眼鏡も掛けていない。
外見がかなり変わっていたから、救急処置室の前で見かけた女の子だとは、気が付かなかったのだ。
今里さんは俺の呟きに気付いて
「切りました。怖くて。」
と言った。
今里さんが大女の通り魔のターゲットになったのは、今里さんに確たる原因が有る訳ではなく、ただ単に外見が通り魔の妄想のお眼鏡に適ったという理由でだから、外見を変えたくなるのも不思議ではない。
もしかしたら、理由はそれだけではなく、友達を置いて逃げた事への謝罪の意味も込められているのかも分からないが、彼女に訊いてよい事ではない。
「今の恰好だと、あの時とは全くの別人に見えるから、安心して大丈夫。」井村が太鼓判を押す。「こっちの谷口さんも、君の次に狙われてね。この馬鹿が切られたのは、谷口さんを守ろうとした時に、相手に近付くというヘマをしたからなんだ。間合いを取って対処すれば、シロウトの振り回すカッターナイフは強力な武器とは言えない。だから、君たちはこの馬鹿の負傷に対して、何の負い目も感じる必要は無いんだよ。」
井村が俺の事を馬鹿馬鹿言っているのは、俺が無神経に今里さんの髪の事を口にしたからだろう。
きれいな長い髪を短く切り落としてしまったのは、余程ショックを感じたのに違いない。
でも、十時さんと今里さんの二人の間の関係に、事件の後で何も無かったのかどうかは分からないけれど、二人が今こうして一緒に居られるのを観ると、少しホッとする。
あのサイコ女は、怪我をしなかった女の子の心も切り裂いていたのだ。
「ここの喫茶室のシェイクは、なかなかだね。大学の軽食堂のオバちゃんは、ここに修行に来るべきだよ。」
川口が一口飲んで感想を述べる。そんなに味に差が有るとは思えないけれど、血生臭い話題を横に追いやって、緊張気味の十時さんと今里さんに対して、話の接ぎ穂を作るためだろう。
はたして、十時さんは「そんなに味に差がありますか?」と乗って来た。
「味の差よりも扱いの差だね。あそこのオバちゃんは、俺たちの事、デクノボー扱いするから。」
と井村が答える。
「美味しいトコなら、駅の近くの甘味屋さんが、お薦めだよ。この谷口さんは、一度に冷やし汁粉と甘酒と善哉を食べた事がある。」
俺の発言に谷口は
「ヒトを怒らせるからですよ。相談も無しに危ない事しようとするから。」
と怒ってみせた。
今里さんが興味深げに「危ない事って、どんな事しようとされてたんですか?」と尋ねてきた。
俺たち四人は顔を見合わせたが、谷口が頷いたから、当たり障りの無い範囲で答えてあげる事にした。
トップバッターは俺だ。
「千葉県中部の、昔は上総国って呼ばれていた所に、A沼という祟り伝説が残る沼が在って……」
・・・・・・・・・・・・・・・
派手なオカルト現象が起こるわけでもないから、高校生が聴いてもあまり面白い話ではないだろうと思うのだが、二人が身を入れて聞き入っているので、歴史的な出来事や生物学的な事象に解説を交えたりしながら、四人で代わる代わる物語った。
童貞がどうした、とかいう変な部分は全部カットだ。
しかし、最後に川口が、先ほどの上田氏のお見舞いの時の、三島の発言と谷口の様子について触れ、
「それで、僕はどうも自分が失恋してしまったらしい、という事実を認識したんだよ。いや、認識じゃなくて、確認だな。まあ、僕だけじゃなしに、こっちの井村君もね。」
と締め括った。
おいおいおい!
でも、井村も、そして谷口も、否定しなかった。
「……私も、『小さく前に倣え』みたい、です。」
十時さんが、意気消沈して、消え入るような声で言う。
ちょっと!ちょっと!!
井村は「さっき十時さんが固まっちゃった時、なんだかちょっとだけ、そんな気配を感じたんだけど、でも言えなかったって後悔は、後を引くから。……受験の障りになったりしたら、良くないからね。」
この時、黙って話を聞いていた今里さんが突然
「井村先輩、家庭教師になって、勉強看てもらえませんか? あと半年で受験なんです。」と言い出した。
さすがの井村も面喰って
「女子高生の家庭教師は、普通は女子学生に頼むものだけど……。」と言葉を濁す。
しかし、今里さんは
「女の人、怖いです。急に意味も無く、暴力振るったりされたらと思うと。」と口をつぐんだ。
井村が困ったように谷口を見る。
谷口は「この場は、アドレスの交換までにして、ご両親と相談なさい。井村さんは、優秀で信頼のおける人物だけど、ご両親が納得してくれるかどうか判らないから。」
と、今里さんにアドバイスする。
十時さんは、先ほどまでの意気消沈した様子と打って変わって、大きな目を更に大きく見開くと
「いっちゃん、何だか大胆。」
と言って、同じく驚きを隠せない川口と、顔を見合わせた。
・・・・・・・・・・・・・・・
大洗の海は、水平線まで遮る物が何もない。
通り魔に遭ってから一年後の夏、俺たちは約束通り、海に来た。
波打ち際では、それぞれに魅力的な四人の女性が、波と戯れている。
三島(今では上田夫人だけど)は、いつぞやの黒のセパレーツの水着だ。
相変わらず、ビーチの視線を集めている。
水着姿を披露する時に「これ、覚えてる?」と、俺たちの前で笑ってみせたから、去年の夏を意識しての選択だ。
今里はオレンジのパレオ付き。
井村の包容力のせいか、神経質な部分が消えて、明るい穏やかな女性になっている。
長い黒髪も復活させた。
彼女は井村を家庭教師として親に認めさせ、この春、本当に井村の後輩となり、非科学研に加入した。
十時は紺のラッシュガードに水色のビキニパンツ。
水着の選択は、もしかしたら傷跡が残っているのを気にしているのかも知れない。
彼女が通う事になったのは、都内の別の大学だが、非科学研の支部を作ろうと暗躍中だ。
初めて病院で会った時の、引っ込み思案な女の子とは別人のように見える。
彼女は護身のためにと、川口に押しかけ弟子となり、休日には仲良く稽古を積んでいる。
谷口が着ているのは、案の定というか驚くべきと言うか、高校時代の学校指定の水着だった。
三島は、さもありなんと肩をすくめただけだったが、今里と十時からは、容赦の無いダメ出しを喰らって、上にTシャツを着せられてしまった。
彼女はこの春、非科学研会長の座は後進に譲ったが、現船長から何やかやと相談事を持ち込まれている。
ただ、問われたことに助言をするだけで良いから、今までと比べると遥かに楽らしい。
代々船長はそうしたもので、谷口も先代やそれ以前の船長経験者に、よく相談しながら事を進めていたのだそうだ。
PAMの件でお世話になった一之瀬先生も、若い時に船長を務めていた事が有り、以前から懇意にしていたという事だった。
俺と谷口とは非常に親しい間柄となって、信頼関係を刻んでいる。
もしかしたら、もう恋人同士だ、と言って良いのかもしれない。
……だけど、俺には魔法使いになって空を飛ぶチャンスが、まだ残っている。
井村と川口については、どうなっているのかは知らないが、似たり寄ったりではないのかな? と想像している。
俺は、パラソルの陰で寛いでいる上田の隣に腰を下ろした。
彼はほんの少しだけ、足に麻痺が残った。
井村と川口は、川口がどうしてもエッチガニ釣りにチャレンジしたいと言うから、カニ網なる不思議な仕掛けをセットした投げ竿を持って、近場の防波堤に出撃した。
夕食にはエッチガニのカニ汁だ! と川口は意気込んでいたけれど、付き合わされる井村は少しでも長く今里の水着姿を眺めていたいのが本音みたいで、すごく迷惑そうだった。
上田が、「あの時の約束通り、海に来れたね。」と言う。
「うん。しかも、三島いや違った奥さんに、怒られる事も無く済みそうだし。」
上田は笑って「強化合宿の予定だったからね。」
今夜の予定は、鬼教官によるスパルタ式教育ではなく、バーベキューだ。
「そろそろ、復学だろ?」
「前期試験の前までにはね。ちょうど一年間の休学だ。少し頭が悪くなったから、身を入れて試験勉強しなくちゃいけない。」
「でも、A沼の悪鬼を、振り切ったな。」
俺は皆に影響を与えたあの日の出来事を、思い出しながら感無量だった。
上田は少し間を置くと、穏やかな口調で
「加治神様が気を遣ってくれたんだろうね。ネグレリア・フォーレリに感染した場合、治癒率が非常に低い事を考えたら、僕はとても運が良かったと考えられないかい? 僕がA沼に潜った後に、悪鬼の正体がPAMの事じゃないかと疑いを持った人が、たまたま近くに存在して、しかも、感染症の先生と連絡を取り合っていただなんて。」
俺はA沼の薬師堂で、老人が『やっこさんに、何事も無きゃいいが。』と心配していたのを思い出した。
もしかしたら、あの老人は館跡の薬師堂で、加治神様に彼の無事を祈ってくれていたのかもしれない。
老人が、危険を知らせに姿を現した加治神基経本人だのでは、とは流石に思わないけれど。
そして、この件が俺たち経由で谷口の耳に入り、彼女が関与しなかったら、彼は手遅れになっていても、おかしくなかった。
「加治神基経は、里人を沼の悪鬼から守るために、敢えて怨霊の悪名を着ている、と?」
俺の疑問に上田は頷くと、彼と三島しか知らない事実を教えてくれた。
「あれから一つだけ、不可解な事があったんだ。僕が退院して、玲子と暮らし始めて直ぐの事だけど、洗濯物の中に靴下が混じっていたんだよ。」
靴下?
「厚手の、登山靴を履く時に着けるような靴下でね。」
そうか、三島が沼の中で無くした靴下だ。
「それを見て、玲子は何かを悟ったらしい。子供は作らない、と言い出した。」
三島の反オカルト主義に、疑問が生じたと言う事だろうか。加治神様が本物なら、上田家に纏わる呪いも、発動する可能性が有る、と。
「ただ僕はもう、因縁に立ち向かってみると、決めてたからね。今更決意を翻すつもりは無かったんだ。……でも、僕と玲子の間には、子供が生まれない事が、判ったよ。」
俺は驚いて、上田の顔を見た。
彼は淡々と
「無精子症って事でね。」
「PAMが関係しているのか?」
「分からない。成人の普通の髄膜炎や脳炎では、関連は低いらしい。高リスクなのはオタフク風邪の合併症くらいみたいだ。PAMについては情報が無いから、念のために産科の診断を受けてみたんだよ。以前には、そんな事を気にした事も無かったから、初めての経験だけどね。……そしたら、僕は上田家の呪いなんて気にする必要が無いって事が判ったんだ。生まれつきだったのか、加治神様の計らいなのかは知らないけど。もしかしたら、上田家を呪っていた怨霊の方が、めんどくさくなって決着を付けただけかもね。」
上田が言うのが本当なら加治神基経は、上田の命を救い、三島と彼の仲を取り持ち、上田家と三島家に纏わる呪いを力技で終息させた事になる。
そしてそのついでには、通り魔被害を受けてトラウマ持ちになってもおかしくない二人の少女も助け、更にさえない童貞三人組に、夢と希望を与えてみせたと言う事か。
なんと八面六臂の大活躍じゃないか。
何だか谷口一人が貧乏籤を引いたような恰好だが、貧乏籤のままで終わるか、当たり籤に昇格するかは、自己研鑽を積んで彼女に相応しい男に成れるかどうか、俺の努力次第って事だ。
生半可な努力じゃ追いつけないぞと、考え込んでいた俺の耳に
『ま、頑張れ。』
と、あのジジイの声が聞こえた様な気がした。
慌てて顔を上げると、谷口と三島が、笑いながら大きく手を振って、波打ち際からこちらに駆けて来る処だった。
了