6)通り魔の襲撃に遭って、俺は谷口の胸の薄さを実感する。
俺と井村は、夜間・救急入り口まで移動したが、予想した以上に騒々しい事になっていた。
流石にテレビカメラまではいないけれど、報道関係者らしいニオイを漂わせた人物が数人、自動ドアの扉の外に右往左往しているのが、ガラス越しに見える。
もしかしたら敷地の外には、中継車も来ているのかもしれない。
エントランスにパトカーが停まっているのは、先ほど救急処置室の入り口で見た、警官に付き添われた少女を乗せて来た車両だろう。
待合スペース内も、ガラス戸越しに外を眺めている人が多く、浮足立った雰囲気が漂っている。
警備員は受け付け越しに外を睨み、マスコミ関係者の侵入を警戒している。
しかし、病院内外の緊張を他所に、待合スペースに置いてあるテレビからは、呑気なバラエティ番組が流れている。
平日ならばニュースを放送している時間帯だが、土曜日だから番組メニューが違うのだ。
通り魔事件も、日本で二例目のPAMも、特別報道をするまでの価値は無いという判断か。
日本全土を揺るがすような事件ではないから、客観的に考えれば分からないでもない。
しかし、今の俺にとっての現実であるこの場の雰囲気と、テレビから流れてくるタレントの笑い声との間には、余りにもギャップが大きかった。
PAMはまだ診断が確定した訳ではないし、その情報が漏れていると言う事も無いだろうから、PAMに関して言えば、騒ぎになる状況そのものが存在しないのだが、上田氏の顔と通り魔に遭った少女の顔を思い出すと、無常を感じてザラついた気分になる。
「ここはスマホ使ってもいいみたいだ。」
待合スペースの壁に、携帯電話使用可マークを見つけた井村が、スマホを取り出す。
俺も慌ててスマホを取り出すと、ニュースサイトにアクセスする。
ニュースのラインナップを流し見するが、PAMに関するニュースは無い。
「犯人、まだ捕まっていないみたいだぞ。自転車に乗って逃げてる。」井村は、通り魔事件のニュースを読んでいたようだ。「わりかし近い場所だ。川口たちが帰って来る時に、何も無いといいが。車に乗っているから、滅多な事は無いと思うけど。」
井村は救急車に同乗して、直接病院に乗り付けているから、外来者向け駐車場からこの入り口まで、少し距離が有るのを知らないんだ。
「井村、駐車場からここまでは、結構離れているんだよ。川口が付いているとは言え、駐車場まで迎えに行った方がいいかもしれない。」
「ちょっと待て。」井村はスマホで電話を掛けている。
「あ、谷口さん? ……今、病院には、通り魔の被害者が入院したから、騒がしい事になっている。……夜間入り口まで車で来たら、間違えた記者に囲まれるかもしれない。……駐車場まで迎えに行くから。」
通話を終えた井村が、「じきに、着く。行こう。」と言って、受け付けに向かった。
警備員に、この様子だから駐車場まで友人を迎えに行く、と告げると、警備員は、ビジターバッジはそのままで良いから、一時外出の出発時刻だけ名簿のバッジナンバーの部分に追記して下さい、と通してくれた。
自動ドアから外に出た瞬間、俺たちは鋭い視線にさらされたが、誰にも何も言われなかった。
しかし、駐車場に向かう通路の、一番外灯の光が届き難い薄暗がりなった部分で、短髪でパンツルックの、大柄な女性が立ち塞がってきた。
この暑さの中で、律儀にジャケットを身に着けている。
他のマスコミ関係者らしい人影が、まるで見えない場所だから、これには意表を突かれた。
この女性は、功を焦っての行為なのかもしれないが、逃走した後にまだこの辺りをうろついているかもしれない通り魔が、怖くないのだろうか?
あるいは、流石に通り魔も、犯行現場近くの病院の敷地内で、次の犯行は行わないだろうと、タカをくくっているのか……。
彼女は、自分の社名も言わず、名刺や記者証も見せずに「中はどんな様子です? 被害者の女の子を見ましたか?」と矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。
病院は様々な事情を抱えてた人達がやってくる場所だろうに、なんてぶしつけな態度だろう、記者ってこんな人種なのか? と瞬間的に苛立ちを覚えたが
「何か有ったんですか? 僕たち友達の見舞いに行ってただけなんですが?」と、とぼける事にした。
女性は大仰な口ぶりで
「通り魔事件が起きているんですよ。被害者がこの病院に運び込まれたんです。大騒ぎになっています。気が付きませんでしたか?」
と重ねて問い質してくる。
井村が「それは大変ですね。ただ、俺らの友人もシリアスな状態なもので、他に気を回している余裕が有りませんでしたから。」と、強引に彼女の横を突破した。
俺も井村に続いて、彼女の横をすり抜けた。
走りながら後ろを振り向くと、女性が再び暗がりに身を潜めている処だった。
彼女はあのまま、あそこで次の獲物を待ち構えるのだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・
駐車場で川口の車を待っている間、SNSやネット掲示板を確認すると、被害者女性は高校生で確定らしい。
渋谷に遊びに行った帰りに、自宅近くで切り付けられたようだ。
まだ暗くなりきる前の、逢魔が時の出来事だ。
身の危険を感じる時間帯ではないが、目が暗さに慣れ切っておらず物の形があやふやになったり、裏通りでは一瞬だけ真空状態の様に人通りが絶えたりする、奇妙な時間帯でもある。
犯人に関しては、ストーカー化した同級生だとか、近所の無職とか様々な憶測が乱れ飛んでいた。
中には電動アシスト自転車に乗った女を見たとか、男の娘とかいう書き込みも有った。
こちら側は、警察から何らかの会見があるまで、混沌の渦が続くとしか思えない。
先ほど院内で、被害者と友人を見た時には中学生くらいだろうと思ったが、彼女たちがショック状態で幼く見えた為に間違えたのだろう。
そもそも俺は、女性の年齢当ては苦手だし。
・・・・・・・・・・・・・・・
車から降りた三島は、立ち直っていた。
駐車場で立ち番をしていた俺たちに、弱弱しくだが笑って見せた。
無理をしている処も有るのだろうが、上田氏のためにも自分がしっかりしなくては、と気丈に振る舞っているのだ。
顔はスッピンだが、服は品の良いワンピースに着替えている。
三島はスッピンでも美人だ。
川口が「病院の外は、警官があっちこっち居て、なんだか町中がザワザワしているよ。コンビニで食料を仕入れて来ようかとも考えたんだけど、いろいろ時間を取られるのがアレで、取りあえずこっちに急いで来た。」と言葉数の割には情報量が少ない事を言う。ま、雰囲気は伝わるし、気持ちもわかる。
谷口が「上田さんはCTから?」と質問してきたから、「CTに異常は無かった。ICUに入るみたいだ。」と答えると、少しばかりほっとしたように頷いた。
彼女が少ない情報から推理を積み重ねて、機転を利かさなかったら、上田氏は完全に時間切れになってしまっていたかもしれない。
巻き込んでしまって申し訳ないと思う半面、谷口がいてくれて良かったと、つくづく思う。
「じゃあ、一之瀬先生の所に戻るか。」と井村が先導して歩き出した。「途中、暗がりの場所で、女性記者がアンブッシュしてるから、気を抜くな。通り魔事件に刺激されて、凸してきたネット民かもしれないけど、何だか変な女だったから。」
井村を頂点、俺と川口を下辺とした三角形を作り、中に三島と谷口を入れる。
錐行の陣形を組んだまま、早足で前進する。
予定遭遇地点に到達したが、その場には誰もいなかった。
いなければ、いないで良いのだが、どこからか、敵意に近いチリチリと突き刺さって来るような視線を感じる。
これは、俺の思い込みという訳ではないようで、川口もさりげなく周囲を警戒している。
何気ないように見せかけているが、足の運び一つにも最大限の緊張が感じられる。
焦点を固定せずに、視線の放射元を目の端で追うと、植え込みの中で何かが動いたような気がした。
そちらに目をやって、念のためにポケットのブラスシンカーを二つ左手に握り、植え込みに向かって「何にも情報は無いですよ?」と呼びかけてみる。
あの女なり他の記者なりが、植え込みの中に身を隠す必要など無いわけで、そんな所には誰も居ない可能性もあったが、植え込みからは明らかに怯んだような気配がした。
井村は歩速を速める事も遅くする事も無く一定に保って前進を続け、俺たちの一団は夜間入り口に到達した。
マスコミ関係者は、いなくなっている。
敷地の外に出たのか、警察署へ向かったのか、あるいは新しい情報が入ってそちらに殺到しているのかは分からない。
犯人が捕まるか、身元が割れて追いつめられるかしているのだったら、ベストだが。
・・・・・・・・・・・・・・・
受け付けで警備員に、戻って来た事を報告する。
「記者さんたち、いなくなってますね。」と言うと「ここは病院の救急入り口なんだから、もっと気を遣ってくれと注意したら、引き揚げてくれました。敷地の外では、まだ張っているのかもしれませんが。」と教えてくれた。
また赤いラインに沿って、長く感じる廊下を処置室に向かう。
処置室の前には、もう誰も居ないだろうと思っていたが、新たに別の患者さんが運び込まれたようで、作業服を着た男性が二人、看護師さんに説明を受けながら書類を書いている。
事故に遭った同僚の付き添いの人だろうか。
通り魔に遭った少女の家族や、友人の少女、そして付き添っていた警官は、既にその場に居なかった。
手術室の前で、被害者のオペが終わるのを、不安な気持ちで待っているのかもしれない。
谷口と三島が、処置室の入り口に向かう。
俺たち三人は、邪魔に成らないよう、少し離れた所で様子をうかがう。
谷口が、男性に書類を書かせている看護師に声をかけると、看護師は二言三言谷口と言葉を交わして、室内に声をかけた。
室内からもう一人看護師が現れ、彼女たちと話をする。
二分間ほど会話が続いた後、谷口と三島は看護師にお辞儀をした。
谷口が俺たちに手招きして「ICU。」と簡潔に次の目的地を伝える。
エレベーターで三階まで上がり、天井から下がっているプレートを頼りにICUの受け付けを探す。
活気があると言っては変だが、忙しそうだった一階と比べて、このフロアはひどく静かだ。
しかし、訪問者に過ぎない俺が、扉の奥を知らずにそう感じているだけで、中では医師や看護師が忙しく働いているのに違いない。
受け付けを見つけたが、五人ぞろぞろ入る訳にはいかないので、前室へは三島と谷口の二人が入った。
俺たち三人は、受け付け近くのベンチで待機する。
・・・・・・・・・・・・・・・
「川口、PAMの事は?」
俺は井村から、谷口と一之瀬先生の会話内容を聞いていたから、川口の状況把握レベルを確認する。
「三島がシャワーを使っている間に、船長から説明を受けた。厄介な病気だな。」
川口は、忌々しいという様に頭を振ると
「俺は部屋には入らずに、駐車場の車内で待機する心算だったんだ。三島とはだいぶ仲良くなったけど、部屋に入るのは恥ずかしいからな。でも、船長と三島に『通り魔発生』の注意喚起メールが来たんだよ。それで、停めた車の中に一人で、じいっと待っていたら、不審者と間違われて通報されるかもしれないからって三島が言って、船長も同意したから、上げてもらったんだ。海から帰って来た時に、三島に『今度、夜這いに来る。』なんて、冗談を言ったけど、あんな馬鹿な事、言わなきゃよかったよ。」
井村が「注意喚起メールが来たのなら、谷口さんは通り魔の事は知っていたのか。」と言う。
川口は、それに答えて
「女性陣には、メールが来たけど、内容は発生場所と日時だけだったみたいだな。船長は俺にPAMの説明をしながらニュースチェックしてたけど、第一報だから詳細は分からないみたいだった。病原性アメーバについて解説しながら、通り魔のニュースを読み下すなんて、俺には絶対に無理だ。……こっちに戻る車の中で、船長がお前からの電話を受けて、患者がこの病院へ運ばれたのを、初めて知ったよ。コンビニに寄るのを止めたのもそのせいだ。マスコミの車が道を塞いで、中に入れなくなったら困ると思ってさ。……谷口は事件の発生場所を見た瞬間、被害者がここに搬送される可能性も考えたとは思うけど、東京は病院が多いから可能性の一つという認識だったろうね。」
「しかし、駐車場からの植え込みの所で感じた殺気は、何だったんだろうな?」
井村が、ふと思い出したという様にさっきの出来事を話題に上げる。やっぱりコイツも感じていたのか。
しかし俺には、敵意を含んだ注視程度にしか感じられなかった視線を、井村は明快に殺気と断じた。
「俺たち全員に、というよりも、三島か船長あるいはその両方に向けられていたね。」
川口は、視線の向けられていた対象まで、絞り込んでいたらしい。
日常生活の中でも、視線を感じるとか、不意に目が合うというような出来事は、誰しも経験した事があるだろう。
別にテレパシーがどうとか、第六感が刺激されてどうとかいう様な、オカルトチックな話ではなく、ただの経験則として、視線を感じるという事はある、というだけの事象だ。
だが、俺の様なボンヤリに比べると、井村や川口は抜群に勘が鋭い。
二人が二人して、殺気だと感じたのなら、その視線には明らかに敵意か害意が含まれていたのは間違い無い。
「お前もあの時、ポケットに手をやったろ?」
川口の視線はICUに向いているが、発言の内容は俺に向けてのものだった。
「うん。二つ、握った。」
コイツに隠してもしょうがない。
「撃つ気だったか?」こう訊いてきたのは井村だ。感情を交えない、平坦な口調だった。
「念のために握っただけだよ。気配が異常過ぎたろ?」
井村は間近で見ていて、かろうじて分かるくらい微かに頷いた。
俺の特技は「指弾」あるいは「鋼弾」と呼ばれる技に似せた、イカサマ技「指弾モドキ」だ。
指弾というのは手に握った錘を、指で弾いて飛ばすという単純なものだが、伝説の暗器だ。
暗器術というのは奇襲技や暗殺技の事で、指弾は眼球直撃でもさせない限り殺傷能力は無いが、奇襲効果で相手を牽制する技だ。
子供の頃にビー玉やボールペン弾きに自分の才能を見出した俺は、この指弾を習得しようと猛烈に練習した。
しかし、いくら練習を重ねても、命中率はともかく威力が全く増強しない。
2m先の10円玉やゴキブリに、なんとか錘を命中させる事が出来るようになっても、ゴキを殺す事は出来ないのだ。
そこで、肘と手首のスナップを効かせて、出来るだけ小さな動作で錘を投げる方法に変更したところ、指弾っぽい動きで、そこそこの威力を発揮する事が可能となった。
今では有効射程の3m以内でなら、500円硬貨の大きさに弾着を集める事が出来るし、缶ビールを弾き飛ばす事も出来る。それ以上の距離を攻撃する事も可能だが、命中率も威力も落ちてしまう。
指弾モドキは、指で弾いているのではなくて、実際には手で投げているだけだから、暗器術の分類で言えば「飛蝗石」というただの石礫や、「金銭鏢」と呼ばれる銭形平次の銭投げみたいな投擲技なのだが、動作が小さいので投げるのが見えず、奇襲効果が高い所がミソなのだ。
植え込みの茂みに隠れていたモノは、記者やスクープカメラマンなどとは、考えられなかった。
あのネタ漁りをしていた非常識女も、テンションは高かったが、敵意の様なものは感じられなかった。
俺の知らない所で、三島か谷口が、あの女を一気に逆上させるような関係を持っていたという偶然が、全く無いとは言い切れないが、二人とも逆恨みでもなければ、強い恨みを買うような人間ではない(と思う)。
それよりも、あそこにいたのが通り魔ではなかったのか、という事の方が気掛かりだ。
警備員が注意をして、マスコミ関係者がどこかに移動した後も、非常識女だけが残って取材の機会を窺っていたら、あの敵意の塊と遭遇している可能性が、無いとは言い切れない。
スラッシャー映画の犠牲者役みたいな目に遭っていたら後味が悪い。
「確認なんか、しに行くなよ。」川口が俺に向かって言う。「病院の中にいる俺たちには、関係の無い事だから。心配するなら、上田氏の事を心配してろ。手術中の女の子の心配をしていてもいい。」
川口の言うのはもっともだ。しかし井村は、他の懸念を感じていたようだ。
「でも、もうそろそろ上田氏の親御さんが、やって来るぞ。三島の親御さんもだ。」
車で来るのなら、駐車場へ車を置いて、あのルートを通らなければならない。
川口は舌打ちして「それが、有ったか。今、どの辺りなんだろう?」
井村は首を振って「電話したいけど、ここではまずい。三島たちが出て来たら、確認するか。……いや今一階まで行って電話してくる。途中に公衆電話を見付けたら、そこでするよ。」
そう言い残すと、井村が立ち上がった。
ちょっと待てと、俺はありったけの小銭を井村に渡す。今どきテレホンカードは持っていないから。
川口も小銭を渡しながら「はぐれたら、夜間入り口の待合スペースで合流しよう。」と不測の事態が起こった際の行動を決めた。
・・・・・・・・・・・・・・・
ICUの受け付け扉が開いて、三島と谷口が出て来た。
三島は落ち着いているようで、ちょっと安心した。
俺と川口が立ち上がって二人を迎えると、谷口が
「井村さんは?」と聞いてきた。
川口が「何時ごろ到着しそうか、親御さんに連絡を取りに行っている。」と応じ「……どうだった?」と中の様子をたずねた。
谷口は、一瞬三島を見てから
「予断は許さないけれど、ミゼラブルというものでもない様です。親御さんが来られるまで、一階の入り口で待ちましょう。」
詳しく聴きたいが三島の前では、谷口も話しにくいだろう。
それに俺が知ったからと言って、何が出来る訳でもない。
今、頑張っているのは医師と看護師と上田氏本人で、俺の出る幕ではない。
三島を元気付けてやりたいが、やみくもに「元気出せ。絶対治る。」なんて無責任な事を言っても逆効果だろう。
ただ心配しながら付き添っている事しか出来ない。
『雨ニモマケズ』の中の
ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ
サムサノナツハ オロオロアルキ
という一節を、ふと思い出した。
・・・・・・・・・・・・・・・
歩き始めて直ぐ、駐車場からの通路脇の茂みにいた「敵意の塊」について、二人に話しておくべきかどうか気が付いて、ちょっと悩んでいたのだが、簡単に解決した。
エレベーターに乗った処で、川口がしゃべり出してしまったからだ。
「気が付いたかどうか分からないけど、駐車場から下の入り口に着くまでの間に、ちょっと暗い場所があったろ?」
三島は「さあ……?」と不得要領な顔だ。無理も無い。そんな事に気を配る余裕は無かっただろうから。
谷口は少しの間、脳内記憶映像を再生チェックしている様だったが
「外灯の光が届き難くなっている部分、植え込みの横を通る場所ですね?」
と正解を出してきた。谷口の凄さは充分に知っているから、驚かないけど。
「でも、そこがどうかしましたか?」
茂みに潜んでいたモノには、気が付いていなかったようだ。
エレベーターが一階に着いて、ドアが開く。
「茂みの中から、凄い殺気が出ていた。俺だけじゃなくて、コイツと井村も感知してた。記者や野次馬なんかじゃない、と思う。」
廊下に出たので、川口が心もち声を潜めて言った。
「通り魔?」三島が呟く。
俺は「かも知れないし、別のモノかも知れないけど、そういうモノが居たと言う事は、記憶に留めて警戒した方がいい。」と、だけ告げた。
そいつの発していた殺気が、三島か谷口に向いていた事まで伝えたら、徒に彼女たちを怖がらせる事になるだろうと考えたからだ。
しかし川口の考えは、俺とは逆だったようだ。
「三島か船長に向かって、発せられていた。もしかしたら、女子供だったら、誰でもいいのかも知れない。通り魔なんて、無差別とか言いながら、強そうな相手は狙えない腐った屑ばかりだから。通り魔がヤクザを襲った話なんて聞かないでしょ?」
なるほど。二人に最大限の注意喚起をした上で、話を一般化するのか。
ヤツの言い方の方が、適切だ。
三島は怯えた表情を見せたが、谷口は「ありがとう。注意していた方がいいですね。」と頷いた。
三島は「警備の人に言っておいた方が……」と言い掛けて口をつぐみ、谷口は少し考えてから
「言っておくのは良いかもしれませんね。でも、あそこを通ってから時間が経っていますから、誰かが潜んでいたとしても、もう居なくなっているかも知れません。それに殺気を感じたと言っても、真面目に取り合ってくれるかどうか……。茂みの中に隠れている人が居たと、少し誇張になりますが具体的に言うしか無いでしょう。捜査にとって、ノイズになるかもしれない情報を上げるのは、本意ではありませんが。」
俺たちが救急処置室の前に到達した時、入り口方向からやってくる井村を見つけた。
大きな声を出す事は出来ないから、ヤツは大きく手を振りながら近づいて来た。
井村は、三島に「上田氏のとこも、君のご家族も、だいぶ飛ばしたみたいだが、首都高に入ってからが渋滞してる。やはり11時を過ぎそうだね。」と言って、谷口の顔を見た。
谷口は「心配していたよりも、良かったみたいです。」と上田氏の容体を簡略に伝え、三島に「もう少し待ちましょう。」と待合スペースへの移動を促した。
・・・・・・・・・・・・・・・
消灯時間が過ぎているから、待合スペースのテレビは消してある。
通り魔事件が起きたのが近所だから、ニュースを流しそうなチャンネルが点いているかと思っていたが、病院だから時間が過ぎれば消されても仕方が無い。
どうしてもニュースが観たければ、ここでスマホを使ってワンセグ放送を観る事は可能だし、動ける患者には、入院病棟にも携帯使用可エリアが、各フロアの談話室に有るみたいだ。
現に、ここで待機している付き添いらしい人達の内の数人は、疲れた顔でスマホや携帯を触っている。
谷口と川口が受け付けに行って、警備員に茂みの人影の話をすると、彼は真面目に取り合ってくれて、交代の警備員に受け付けを任せ、確認に行ってくれる事になった。
通り魔だという可能性が低くても、つぶせるリスクは出来る限りつぶしておくべきと判断したのに違いない。
警備員は「警察の人にも話をしておきましょう。」と、入り口に停車しているパトカーに行き、中で少女の手術の終了を待っている警官にも話をしてくれた。
それで、警備員と警官、そして案内役として川口と井村の計四人が茂みの探索に向かう事になった。
井村と川口は、それぞれ柔道と空手という各々の特技を自己申告したが、警官は不審者が抵抗をした場合にも手出し無用、と念を押した。
俺も同行したかったのだが、谷口と三島をノーガードにするのは避けるべき、というのが井村の判断だ。
俺は殺気の感知能力が、二人に比べて劣っているのを自覚していたから、ガード役として残る事を受け入れた。
病院にはもう一人警察官が来ているのだが、その警官は、通り魔被害者と一緒にいた少女と共に、手術室の前でオペが終わるのを待っているようだ。
事情聴取もしているのだろうけれど、呆然としていた少女の様子から考えれば、時間がかかっていても不思議はない。
自動ドアの外で、「10分。長くても15分で戻る。こっちに逃げて来るヤツがいたら、その時は頼む。」と、井村が俺にその間の二人のガードを託し、川口は「ここで決着が付けば一番いいんだけどね。そんなに都合よくはいかないかな?」と、ちょっとだけ笑って出発した。
俺は四人が遠ざかって行くのを、扉の外で見守っていたが、外来者向け駐車場とは別の方向、大通りから救急車が入って来る通路側から、フッと視線を感じた。
特に熱量の無い乾いた視線だったから、敷地の外で張っているマスコミ関係者が、夜間入り口で動きがあったのを注目しているのかと、視線が送られてくる方向を目で追ってみた。
しかし、明るい場所から暗い方向を眺めても、何も分からない。
そちらに行って確認しようかと、一瞬考えたが、入り口をガラ空きするリスクを考えて、思い止まる。
救急車通路を探るのは、四人が戻って来てからでも遅くないだろう。
背後の自動ドアが開く音がした。
振り向くと、谷口が出て来るところだった。
「三島に付いていなくていいの?」と言った俺の横に、彼女はスッと並んで「今、お母さんと電話しています。もう到着するそうです。隣に座っていたら邪魔かなと思って。」と答えた。
こちらに向かって送られていた視線が、いきなり凶暴なものに変化した。
うなじがチリチリするような、強烈な害意だ。
俺は谷口を背後に庇うと、「中に戻れ!」と怒鳴る。
彼女の身体は、ビクッと反応したが、とっさの事で動けない。
俺はポケットに手をやると、シンカーを握った。
暗がりから女が飛び出してくる。
取材っぽい事をしていた大女だ。
大きく見開かれた目が吊り上がって、般若の様な形相に変わっている。
手には、大ぶりのカッターナイフを握っている。
女は、ヒイイイイイ!! と、悲鳴のような叫び声を上げながら、一直線に突っ込んで来た。
谷口が、俺の背後で息を呑む。
間合い3mでシンカーを撃つ。
手首を狙う余裕は無いから、顔面に。
二発一度に飛ばしたシンカーは、一発は顎に、もう一発は歯に命中した。
額か鼻に当たれば一気に制圧出来たのだが、眼球に当てるのが怖くて照準が下に向いてしまったのだ。
それでも、思いもかけない反撃を受けて、女は「グオッ!」と呻き、カッターを取り落とした。
しかし、アドレナリンが痛みを感じさせないのか、喚きながら落としたカッターを拾おうとしゃがんだ。
この時俺は、落ちたカッターなど無視して、低い絶好の位置にある女の頭なり肩なりを蹴り飛ばせば良かったのだ。
だが、実際に俺がやったのは、落ちたカッターを踏み付ける事だった。
立ち上がった女は、ジャケットのポケットに手を入れた。
何か別の武器を隠してる!
俺は、女がポケットから武器を取り出す前に腕を封じようと、女の肘関節を掴んだ。
しかし、女はポケットから手を抜こうとはせずに、肘から先だけでジャケットの布地越しに突きを入れてきた。
中に持っているのは刃物だろう。内臓を刺されるのはマズい。
俺はとっさに下半身を捻って、腰骨の一番張り出した部分、腸骨の厚い骨で女の突きを受ける。
予測通り、腰骨に熱い衝撃が伝わると、そのまま尻の方へ肉が切り裂かれる感触がした。
普通だったら立っていられない痛みに襲われるところなのだろうが、女同様今の俺にもアドレナリン・ブーストが掛かっている。
女の瞳孔が開いた目を睨み付け、俺は全く容赦の無い頭突きを、女の顔に叩き込んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
騒ぎを聞きつけた人たちが、夜間入り口から次々に外に出て来た。
いつになく取り乱した谷口が、座り込んだ俺にしがみついて泣いている。
「通り魔?!」「担架持ってこい!」「血が出てる!」いろいろな叫び声が聞こえる。
俺は谷口に「大丈夫だから。尻を少し切られただけだから。」と出来るだけ穏やかに声を掛け、優先順位を考えて、まず地面に落ちたカッターを拾い、次に大の字になった大女のジャケットを探って、破れたポケットから血で汚れた二本目のカッターナイフを取り上げた。
出来れば飛ばしたシンカーも回収したかったが、どこに転がったのか見当たらなかった。
目を丸くしている交代したばかりの警備員に、二本の凶器を渡し
「こいつ、まだ持っているかもしれない。それと、こいつを縛るものを、何か。」
と後を頼んだ。
映画だと、殺し屋は予備のナイフを足首に縛り付けていたりするから、大女が模倣していないとも限らない。
カッターナイフを渡されて、わなわなしているこの警備員じゃ、ちょっと頼り無いかなと思ったが、呼び声の方を振り向くと、外来者向け駐車場の方から、探索に出かけた四人が、変事に気が付き走って来るのが見える。
あの四人が来てくれたら、もう安心して良い。
それに、気が付くと救急処置室の所で見かけた作業服を着た人が、腰のベルトを抜いて大女を縛ってくれている処だった。
三島が、俺にしがみついたままの谷口の肩に手を当てて、大丈夫だから落ち着いて、と言い聞かせている。
三島は、アスファルトにへたり込んでいる俺に向かっては、「お医者さんが来るまで、しっかりするのよ!」と、強い三島を復活させて、姉貴の様に声を掛けてくれる。
まあ、俺に姉はいないから、もしいたとしたら、こんな感じかなという想像だけれど。
流石に切られた部分の痛みが耐え難くなってきたので、傷の無い側を下にして横になると、谷口が泣きじゃくりながら膝枕をしてくれた。
彼女の服が血で汚れてしまう、と思ったが、彼女の体温の何という心地よさよ!
彼女の涙が、ぽたぽた顔に降りかかる。
涙が塩っぱい。今日三回目の「塩のお清め」だ。
谷口は今日は短パンを穿いているから、俺にとっての初膝枕は膝じゃなくて生腿だなと、童貞コジラセ隊特有の馬鹿な考えが頭に浮かんだが、この発見は痛みをかなり和らげてくれた。
俺は谷口に
「今日は一日いろいろ有ったけど、尻切れで終わっちゃうなあ。」と笑ってみせた。
泣いている谷口も抜群に綺麗だったけど、彼女の笑顔が観たかったからだ。
でも彼女は全く笑わず、俺の頭に覆いかぶさるように薄い胸を押し付けて、一層激しく泣き出してしまった。
・・・・・・・・・・・・・・・
俺はストレッチャーに乗せられ、さんざん外から眺めていた救急処置室の中に運び込まれた。
医師は俺の傷を診察し、「消毒と止血をしたら、手術室で縫合手術をします。大丈夫、スッパリきれいな切り口だから月曜からリハビリを始められるよ。まだ痛いとは思うけどね。」と太鼓判を押してくれた。
この処置室で対応出来る傷よりも、多少は深いという事みたいだな。
医師は俺の意識をハッキリさせておく目的があるのか、やたらと話しかけてくる。
整形外科系の手術は、術後は長々寝かせておくよりも、適度に動かした方が筋肉の着きが良い、などという情報を聞かされる。
アメリカでは、股関節の手術など、手術した次の日から歩かせられることもあるらしい。
まさか縫合が終わったら、歩いて帰れなんて言われるんじゃないだろうな?
「それにしても、お手柄だったね。通り魔を取り押さえたんだろう?」
手際よく処置を進めながら話しかけてくる医師の言葉に、俺は先ほどから考察していた事を口にした。
本当は谷口の腿と胸との感触の余韻に、もっと浸っていたかったのだけれど、術後に外科病棟の大部屋に送られたら、中で某欲求のセルフ処理が出来ない以上、何か別の事で頭をいっぱいにしておく必要が有ったからだ。
「今日の『通り魔事件』は、無差別切り付けではない、と思うんです。」
「ほう?」医師が手を止めずに聴き返してくる。
「狙われていたのは、事件が有った時に、被害者と一緒にいた被害者の友人だと思います。被害者自身は、巻き添えですね。」
「どうして、そう思うの?」
「で、なければ谷口が、ああ谷口というのは女を捕まえた時に、僕と一緒にいた友人なのですが……、彼女が襲われる理由が無い。」
「女子供だったら、誰でもよかったのかも知れないよ?」
一般的に通り魔というものは、医師の言っているようなキャラクターだと考えられているのは、その通りだ。
しかし、あの大女は、明らかに特定のターゲットに固執している。
視線に込められていた熱量と、彼女の行動とに、それはハッキリと表れていた。
「今日の谷口は服装のせいで、被害に遭った少女の友達と、よく似た外見になっているんです。この僕が一瞬でも二人を間違えそうになったくらいに。」
俺は、どんなに遠くの人ごみに紛れていても、谷口の姿は一発で探し出せる自信がある。
今日はいつもと服装が違っていたという点を考慮に入れても、それでも他の女性と間違えそうになるなど、二人がよほど似通っていないと有り得ない。
二人のTシャツの色が、濃い赤と黒という点で異なっているのは認識している。
しかし大女が谷口を見た可能性があるのは、外来者向け駐車場からの暗い通路と、夜間入り口の外に出て来た時の二回だけだ。
視細胞の機能上、暗い場所では、濃い赤と黒とは色の区別が出来なくなる。だから、暗い通路で女が谷口を見た時には、黒いTシャツの少女だと認識したはずだ。
また、二回目に、夜間入り口の外に出て来た谷口を見た時には、明るい病院の入り口をバックにしているから、谷口は黒いシルエットととして見えたのだと思う。
だから谷口を、被害者の友人と取り違えても不思議は無い。
医師は「まあ、犯人が逮捕されたから、動機は追々報道されるだろうね。ニュースは大騒ぎみたいだよ。君は退院してからの方が大変かもね。ほとぼりが冷めるまで、しばらく入院しておくかい?」と陽気に言った。
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救急処置室を出ると、手術室の中に運ばれるまで、みんなストレッチャーにぞろぞろ付いて来てくれた。
ただ三島は、エレベーターの所から夜間入り口に引き返した。ご家族がもう到着しているかもしれない。
彼女は上田氏の事で手一杯のはずなのに、悪いことをした。
だけど、俺の騒ぎのせいで、空元気かもしれないが気合は入り直した感が有る。シャキッとした三島に戻っている。
井村が「今度は、お前の親御さんに連絡を入れておいたよ。慌てて車で走って来そうだったから、尻をちょっと切られただけだから、明日で大丈夫ですと言っておいた。朝イチの新幹線に乗るそうだ。」と教えてくれた。
持つべきものは冷静な友人だ。
俺はアッと気が付いて「保険書のコピー!」
井村は抜かりが無い。
「お前のぼろいカバンの中だな。出しとくよ。明日になれば本物が届くけど。」
川口は「上田氏と三島のご両親が到着したら、一段落したところで、船長は家まで送って休ませるよ。船長は一晩中付き添う心算みたいだけど、憔悴してるから。」と、谷口の方に目をやってから言った。
「スマン、川口。」
「でもオマエ、役得だったな。船長にハグしてもらってさ!」
……それは否定出来ない……かもしれない。だけど恰好悪い所も見られちゃっているんだよ。
尻を切られたくらいで、尻餅をつく、とか。
アニメやテレビドラマのタフガイみたいには、なかなか行動出来ないものだ。
谷口は、ちょこっとだけ俺に笑ってみせて
「はしたない処を、お見せしました。恥ずかしい限りです。」と、変な事を言った。
ここで、君が無事で良かったよ、とか返せれば俺も少しはモテる男になるのかもしれないが、俺の口から出たのは
「あのオンナ、怖かったよねぇ。」という、マヌケな感想だった。