3)「阪本某狂死事件」の背景と原因についての議論が交わされる。
「皆さん、座る前にビニールシートを敷いてね。」
老人に礼を言って別れ、児童公園横に停車した車まで戻ると、川口からそれぞれに小サイズのブルーシートが渡された。
ヤツは何時もなら座席が汚れるとかを、あまり気にしないか、あるいは気にしているところを見せない男なんだ。
でも今日の俺たちは、頭から塩を被り、それを柄杓に汲んだ清水でざっと落としただけだから、全身塩っぽいし、服もまだ濡れたままだ。
だから、ヤツの車に迷惑を掛けずに済むのは、気分的に有り難い。
ヤツは皆が、沼から汚れ放題になって戻る可能性も考慮していた訳だ。
まさか塩まみれの可能性までは、考えてなかっただろうけど。
着替えは用意して来ているから、銭湯か立ち寄り温泉を見付けたら、一風呂浴びて乾いた服に取り換えようというのが、一同のコンセンサスだ。
「私、今のままだと気持ち悪いから、お風呂に着くまで、水着になっちゃおうかな?」
と三島が問題発言をすると、川口は
「メチャメチャ嬉しいけど、止めて。運転中に横目を使うのは怖いから。」
と返す。
すると井村が
「俺も川口に賛成だな。でなけりゃ、ずっと川口に『前向いてろ!』って怒鳴ってなけりゃならん。」
と淡々と付け加える。
井村め、沼で三島に触る事になった時には、緊張しまくっていたクセに。
三島と俺たちとの間の垣根は低くなり、美貌の知人から親しい友人へと関係が昇格していた。
言葉遣いも、慇懃な敬語から友達言葉に替わっている。
まあ、鼻うがい涙目悶絶の恥ずかしい体験も共有したから、そうなるのも自然な事だろう。
井村に預けていたスマホを、防水バッグから回収すると、谷口からメールが届いていた。
内容を見ると
『もし、沼に入ってしまったら、急いで服を着たまま海水浴をしてきて下さい。ちゃんと頭まで海に浸かること。』
とあって、近くの海水浴場が、幾つかリストアップしてある。
沼に入る心算は無かったが、結果としては入ってしまっているから、ドキリとする。
谷口との約束、破っちゃったよ……。
『了解。感謝。帰着後報告します。』と返信してから、皆に内容を伝えて
「服を着たまま泳いで来いって、どういう事だろう? 頭冷やせって事かなぁ。」
と問い掛けた。
まあ、他の皆にも、谷口の掘りぬき井戸説は披露してたから、沼に入るの彼女が心配していたのは分かっているはずなのだが、このメールは仮に沼に入ってしまった後、つまり「事後の注意事項」だ。
谷口は、A沼の悪鬼について、何か新しい仮説に思い至ったのだろうか?
まさか本気で『加治神基経の怨霊』に怯えているって事は無いと思うけど……。
すると井村は
「意味の無い指示はしない人だからな。ちゃんとした理由が有るのに違いないよ。」
と一も二も無く賛成し、川口も
「行先が決まったじゃないか。海水浴場だったら、シャワーも有るだろ?」
と同意した。
三島は少しの間考えてから
「まるで、薬師堂での塩のお清めを、予想していたというか、観察されていたようなメールね。ちょっと不思議。」
と訝しげに呟いた。
・・・・・・・・・・・・・・・
車が出発して、集落が次第に遠ざかって行く。
そろそろ、三島に問い質してもいいかな?
「あのさぁ、三島。ちょっといいか?」
彼女は悪戯っぽくクスクス笑いながら
「基経様の話? 阪本某幽閉の話?」
話が早い。谷口は精密機械の様な頭をしてるけど、三島も回転が速いな。
「どっちも。守役筆頭として聞くけど、俺は自分が溝口派閥の一員だなんて、初耳だよ? 出身も富山だし。」
「俺んとこは、仙台だな。」と井村も加わってくる。
「お前ら二人は田舎者だな。ウチは三代以上続いたチャキチャキの江戸っ子よ。もっとも、ご先祖様は棒手振りの魚屋だったらしいから、お武家とは無縁だけどな。」
と川口も参戦。
それを受けて井村が
「一心太助みたいで、恰好良いじゃないか。お前だけは本物の守役か?」
と混ぜっ返すと、川口が
「おうよ! 義を見てせざるは勇無きなりって……。あのな、一心太助なんて、今どき講談好きでもない限り、誰も知らないって!」
とアナクロな乗り突っ込み。
二人の掛け合いは、三島が(どれだけ本当の事を語ってくれる心算なのかは判らないけれど)話し易い雰囲気を作るための仕掛けだろう。
三島を嘘つき呼ばわりして、糾弾したいわけじゃないからな。
だいたい『義を見てせざるは勇無きなり』は、論語に有った言葉じゃなかったか?
でも、お二人さん、そこまでナイーブに気を遣わなくても、大丈夫だと思うんだよ。
三島はタフなヤツだぞ。多分、間違い無く。
「加治神基経が謀殺されたのと、残された溝口派が里見にレジスタンス戦を挑んだのは本当。」
ほら彼女、余裕綽々で語り始めたぞ。
「でも、歴史書に明記されている訳じゃなく、いろんな言い伝えを突き合わせて見えてくる、未確認情報だけどね。それから、溝口の末裔が江戸期まで固い結束をしていたという部分は、私の創作ね。実際には溝口派は、戦国中期の早い内に歴史の波に消えている。生き残りをかけた合従連衡の激動の時代だから、反里見だけじゃ、やってられないよね。」
「詳しいな。もしかしたら、本当に溝口か里見に、縁が有るの?」俺は、まさかとは思いながらも、聴いてみずにはいられなかった。
言い伝えを突き合わせた事でようやく分かるような、隠された歴史の闇なんて、研究者はいるだろうけど、オカルト雑誌には、そこまで綿密に書かれているとは思えない。
それに関東全域に散った溝口派の動向なんて、老人と出会ったその場での、思いつきの出まかせとしては手が込み過ぎている。
「A沼攻略に向けて、結構、身を入れて勉強したの。国会図書館にも通ったし、色々とね。何時までも谷口さんに水をあけられてばかりじゃ、つまらないから。」
いきなり三島が、話の中に谷口の名前を持ち出してきた。
ふーむ。 全然想定していない訳ではなかったが、やはり三島は谷口に対抗意識を持ってるんだな……。
三島の素敵な所は百も認めつつも、やはり断然谷口派の俺としては、三島の発言に対するコメントが、し難い。
「加治神氏の部分は分かったよ。旗本狂死事件の方は、どこまでが本当?」
井村がサラリと話題をずらす。
三島・谷口間の微妙な関係には踏み込みたくないから、これは有り難かった。
「阪本某狂死事件の方は、事実としては存在するのよ。むしろ狂死事件の前は、A沼は鎧武者の亡霊が出るという伝説がある、単なる忌み地だったわけ。入れば死ぬとか狂うとかいう程度の。身も蓋も無い言い方をすれば、よくある場所ね。……それが、田沼政権末期に狂死事件が起きてから、『頭蓋を握り潰す悪鬼』だの『頭を喰らう物の怪』だのという怪異が強調されるようになったのよ。」
「余程インパクトがある事件だったんだな。」川口がポツリと口を挟む。
「私もそう思った。鎧武者の亡霊に比べて、はるかに具体的になってる。犠牲者が脳をやられた事は事実だと思うの。今、語られているA沼伝説は、加治神より阪本事件の方に大きく影響を受けてる。加治神の方は全体の背景に過ぎないの。」
「確かにさっきの、田沼意次派と松平定信派の暗闘説は、結構、説得力を感じたよ。でも阪本某が水練をしたのは、加治神の怪異伝説があったればこそだろ?」
俺はそれで、溝口派の血脈の行為だという話を信じそうになったんだ。
「そこのところを整理するとね、江戸幕府内での派閥間の争いは歴史的事実だけど、阪本某と加治神の間に縁故関係は無いの。まあ、縁故関係が全く有りませんよという、積極的な証明になる文献が存在するのではないけれど。だから、阪本が溝口一派の縁者だったというのは、私の脚色。阪本に加治神の汚名を晴らすという動機が有れば、A沼で水練をやって見せる積極的な理由付けになるでしょう? 調べている内に、こうであれば、面白いのになぁって思って。」
三島の説明に納得しつつも、阪本の動機が気にかかる。
「じゃあ、なぜ阪本氏はA沼で泳いでみようなんて考えたんだい? ただ単に、蘭学やってみて、西洋式の自然科学知識に目覚めたから、迷信・俗信を馬鹿にして日本の因習に一石を投ずる心算だったのかな?」
もし、そうだとすれば三島がシンパシーを覚えそうな動機と言える。
「『因習に一石を投じる』という所は、その通りだと思う。だけど、それは蘭学者の酔狂な興味に基づいて、という理由ではないの。何故なら、阪本は田沼意知が暗殺されて、意次ら重商主義派の旗色が悪くなったのを感じると、松平定信たち朱子学派に寝返ろうとしていたから。」
「?!」
これには、驚いた。
「さっきお爺さんに説明する時には、対立構造を分かり易くするために、意次を改革派、定信を守旧派と乱暴に色分けしたけど、本当は意次を『重商主義・開国型』財政再建改革派、定信を『緊縮財政・鎖国強化型』財政再建派とすべきなのよね。どちらも幕政改革の必要性を感じていた訳だから。現に定信は、意次が政権を強く掌握している間には、意次の下で働こうと動いていたし。」
「うん。そこの処は日本史の授業で習ったな。」川口が頷きながら、合の手を入れる。「でも、両者とも改革派だとしても、政策が全然違うんだよね。」
「そう。意次は蘭学に理解が有ったけれど、定信は朱子学を重んじ、蘭学を弾圧する事になる。阪本は、その気配を感じたのでしょうね。朱子学派閥に寝返る事によって、蘭学を擁護しようとしたのだと思うの。」
ちょっと待ってくれ。混乱してきた。
井村も同じ思いだったらしく
「朱子学派に寝返る事が、蘭学の擁護に繋がるってところが、よく理解できん。そこの部分を分かり易く説明してもらえるか?」
「『窮理』という言葉があるでしょう? 理を窮めるという意味の。」
「物理学のことじゃなかったかな。」福沢諭吉の論文だか、漱石の小説だかで出てきたよな。確か。
「窮理学は、そうね。江戸末期から明治にかけては、物理学がそう呼ばれている。でも窮理という概念は、もっと古くからあるの。『物の理を極限まで突き詰める』という意味で朱子学の基本修養なの。だから窮理学と言ったら朱子学を指す事もあるわけ。」
「何となく、読めてきた。」川口が三島の顔を見ながら、考えを口にする。「阪本は、理を究めるという方法において、蘭学が朱子学を補完する役割を持ち得ると誘導したかったんだな。」
「川口! 前向け、前!」井村が慌ててヤツに注意する。「細いぐねぐね道だから、対向車が来たらヤバい!」
川口は前方に向き直って
「でも定信は、庶民の楽しみにも介入するくらい、相当偏屈な人物だったろ? 蘭学が窮理に繋がるなんて理屈に納得するかな?」
と続けた。
「定信は狷介ではあったけれど、筋の通った人物でもあったから、可能性が無くはなかったでしょうね。……でも、結果的には阪本は失敗している。定信の考えなのか、定信という神輿を担いでいる人達の意見の総意なのかは判らないけれど。」
「それで阪本の行いは、宙に浮いてしまったというわけか。」井村がしみじみとした様子で、言葉を受ける。「定信派には容れられず、意次派には裏切りと白眼視され。」
「厳しい立場だったでしょうね。だから蟄居を申し付けられたのは、もしかしたら、救いの手だったのかもしれない。意次も定信もクレバーな人物だから、阪本の気持ちはある程度理解出来たでしょう。でも、
それぞれの派閥を構成する末端の人物までが、阪本の気持ちを忖度出来るとは思えない。どちらの派閥からも攻撃される可能性がある訳だから、蟄居させる事によって攻撃の危険性から遠ざける心算だったとも、思えるの。……今のは私の勝手な希望的観測。ただ単に、目障りだっただけかもしれないし。」
三島の解説を聞いて、俺にも阪本事件の背景がつかめてきた。
ただ狂死事件とされた、そのディティールがイマイチよく分かっていない。
昨日三島から、A沼の悪鬼は人の頭蓋を握り潰すとか、頭を喰らう物の怪だとかの、伝説風のサワリは聞いていたし、先ほど老人との会話の中で、阪本が蟄居を命じられて悶死したという件も聞いたのだが、その二つが上手く結び付かない。
そもそも俺は、旗本が死んだのは沼の中か、せいぜいその周辺だろうと思っていたから、旗本が阪本某という人物で、蟄居させられた事実もその場所も知らなかった。
「なあ、三島。阪本氏の悶死が、なんで伝説になるほど皆をビビらせたんだ? お上に都合の悪い人物が変死したのなら、耳と目を塞いで『そんなことも、あるよね。』って肩をすくめるのが、小市民のあり方ってモンじゃないのかな? それとも、その死にざまが、人の口に戸を立てられぬくらい凄まじいものだったのか?」
「凄まじい苦しみ方だったのよ。それだけに幕府は悪疫かもしれないと、その流行病化を恐れたの。東北を中心に『天明の大飢饉』だったし、社会不安が増していたから。だから、犠牲者が阪本一人で終息したのを、他の人たちは祟りだ呪いだと理由付けして、胸を撫で下ろしたフシがあるの。」
三島が説明してくれた事件の時系列は、以下の様な具合だ。
気合を入れて勉強したにしても、余程の記憶力だと言える。
まず天明三年(1783年) 4月13日 岩木山噴火。
次いで同年 8月3日 浅間山噴火。
二つの噴火が、降灰と日照の減少をもたらす。
実際には『天明の大飢饉』は1782年から始まっているから、冷害の原因は岩木・浅間の両火山の噴火だけが原因ではなく、海外でのスーパー噴火が原因とする説もある。
天明四年(1784年) 3月24日 田沼意知暗殺事件。
天明五年(1785年) 8月4日 『阪本某狂死』。
天明六年(1786年) 8月27日 田沼意次御役御免。
天明七年(1787年) 6月19日 松平定信老中就任。10月2日 田沼意次蟄居。
天明八年(1788年) 6月24日 田沼意次死去。
阪本某狂死事件に絞ってみると
7月20日 親戚筋の婚礼に出席するため、A沼近郊へ到着。
7月21日 婚礼に出席。
7月23日(22日とも。両説あり。)制止を聴かず、A沼で水練。
7月24日 江戸へ向けて出立。水路・陸路のいずれを採ったかは不明。
7月29日 帰着。
7月30日 自宅で発熱。
7月31日 蟄居を命じられる。
8月1日 頭痛と嘔吐。
8月2日 医者が新しい流行病を疑う。
8月3日 悪寒、意識混濁。錯乱状態?
8月4日 体温は下がるが昏睡状態。
8月5日 未明に死亡。
「旅先で水練をやって見せるような元気なお侍が、泳いでから2週間足らずで、江戸で錯乱死か……。」
何らかの病気を疑うべきなのだろうが、診たのが当時の漢方医だったとしても、医者にも診断が付いていないのが判らない。
当時の漢方医学だと、経験則としての知識は集積されていたから、診立ては出来ても治療は出来ないというのであれば、それなりに理解は出来るのだが。
俺の拙い知識に照らすと、水辺で起きる感染症で、初期状態が風邪に似た発熱を起こすものだと、日本脳炎・日本住血吸虫・ツツガムシ病などがある。
しかし、日本脳炎は体調の良い成人だと感染しても症状が出ない事がほとんどだし、日本住血吸虫による感染症は発生地域が限定的だ。
また、ツツガムシ病は重篤化するまでに時間がかかる。
発熱の始まりから4日で錯乱、5日で昏睡とか、悪性のインフルエンザだと可能性が無いこともないだろうが、それならば被害者が周囲にも広がっているはずだ。
「それでシャーロック・三島としては、粛清説を考えた訳か。」井村が了解という様に、小さく片手を上げて言う。「手段は毒殺?」
三島は腕を組むと「当時から、そういう疑いが無かったわけではないようでね。南蛮渡来の秘薬がどうとか。」
川口は「阪本が前に所属していた、蘭学友の会にとっては、都合の悪い展開だ。」と感想を付け加える。
「慌てて、呪いだの祟りだのという噂が広まっても、不思議はないね。」
「でも政治マターにまで成りそうな案件だったら、意次派・定信派の両陣営ともが検証するだろう?」
俺はまだ病死の可能性があるのではないかと、毒殺説を全面支持するのには懐疑的だったから、異議を挿んだ。
「人を錯乱させる作用があって、当時の国内でメジャーじゃない毒って何だ?」
「だから、南蛮渡来の秘薬なんだろう?」と、川口は簡単に秘薬の一言で片付ける。
しかし、三島にはその毒についての具体的なアイデアが有った。
「『聖アントニウスの火』じゃないか、と思う。」
「麦角菌か!」
麦角菌は、イネ科植物やカヤツリグサ科の植物が感染するカビの一種だ。
この菌は麦角アルカロイドを生産する。
麦角アルカロイドの中毒を起こすと、手足に燃え上がるような痛みを覚え、幻覚を見る。
重篤化すれば、手足の壊死・精神異常・意識不明を起こし、死に至る。
米での中毒は報告が無いから、日本ではキノコの毒などに比べて、あまり知られていないが、ヨーロッパでは古くから、大麦やライ麦の麦角菌を原因とした集団中毒が起きている。
例を上げると、中世の魔女事件の原因も、麦角菌による集団中毒の可能性が疑われている。
そして、その中毒が『聖アントニウスの火』と呼ばれたのだ。
ちなみに、麦角アルカロイドの化学合成誘導体が、悪名高いLSDだ。
俺が何故麦角菌の事を知っていたかと言うと、イギリスの高名な冒険小説作家の、ホラー風味の海洋冒険小説に、正に『聖アントニウスの火』を扱った作品があったからだ。
面白いから読めと、川口と井村にも薦めたから、二人とも麦角菌や『聖アントニウスの火』の事は知っている。
「麦角菌は高温は好まないんだったな。」井村が記憶を絞り出すように、唸る様な声を発する。「天明の飢饉の頃は、冷害が続いたんだから、麦角が出来ても不思議じゃないのか。」
三島は頷いて
「レアケースだけど、日本でも麦角中毒が皆無という訳ではないの。麦角菌に汚染された、笹の実を食べての中毒事件が起きてる。」
笹は稀にしか実を付けないが、笹の実は麦に似た高カロリーの食品になるらしい。
「それに、ごく少量の麦角だったら、薬としても用いられた事があるの。偏頭痛薬とか、堕胎薬とか。」
「麦角なぁ。」川口も感心した様に「『狂を発した。』とされても、納得だな。でも、俺の不勉強のせいかも知れないけど、推理小説じゃ、あまり扱われたのを見ない毒だね。」
井村が「『ノックスの十戒』の第4項に抵触するかもって理由で、使い難いんじゃないかな。『ヴァン・ダインの20則』なら第14項だ。麦角アルカロイドは未知の化学物質という訳ではないけど、ヒ素や青酸化合物に比べれば、弩マイナーだから。」
『ノックスの十戒』と『ヴァン・ダインの20則』は、共にフェアな推理小説を書く上でのルールとされている取り決めだ。
その4項と14項では、大雑把に言うと「トリックに未知の毒を使ってはならない。」と言及されている。
井村が更に続けて
「阪本事件に、仮に毒殺犯がいたとして、後の世の読者相手にフェアプレーを試みる必要はないんだから、犯行が発覚しにくい毒を使うのは、有り得る選択だね。」
「三島としては、どっちの陣営を疑ってるの? 意次派か定信派か。」川口が三島に話を振る。
「証拠は何も無いし、『聖アントニウスの火』というのも勝手な憶測だから、決めつけると冤罪になっちゃうかもしれないけれど、どちらかと言えば7:3で意次派かな。定信陣営としては面倒なヤツだと感じても、黙殺しておけば良いのだし。裏切られたと思っているのは、蘭学仲間って所も、動機を考えると自ずから、ね。」
「そうかな?」三島の判定に疑問を挿んだのは井村だ。「現に反意次派は、意知暗殺という強行手段に打って出ている。現体制を破壊しようとする者の方が、より過激な手段に訴える傾向が高いような気がするけど。だから、これは意次派対定信派という対立構造だけではなく、意次派対反意次派という点も考慮に入れなくちゃいけないんじゃないか? 反意次派と定信派は、重なる部分は有るかも知れないけど、イコールというものでもないだろ?」
「なるほど。私、その観点は抜けていたわ。阪本が定信派への接近を図っていたという文書を見付けて、固定観念に嵌ってしまったのね。」
三島は、元蘭学仲間の犯行という自説に固執する事無く、井村の考えにも一理あるのを認めた。
これは簡単そうに見えて、なかなか出来る事ではない。
「いや、正しいのは三島案の方かもしれないよ。俺は話を聞いてふと思い付いただけのアイデアだし。一次資料に当たっている三島の方が、正確にニュアンスを掴んでいるのかもしれん。」
井村は少し慌てて言うと
「しかし、よく調べたね。三島の専攻は現代美術だろ? 俺は草書体の文は読む事も出来ないんだ。」
「ああ、それは正直に告白すると、Iホテル廃墟探索の時に知り合いになった加藤さんに、いろいろ手伝ってもらったの。」
加藤氏は、第一回三島案件の時にサポート隊に加わっていた、日本史専攻の大男だな。
日本史専攻なら、草書体文書でも、お茶の子サイサイだろう。
「さっきから、口数が少なくなっちゃっているけど、お前はどう思ってる?」
井村が今度は俺に話を振ってきた。
俺は言おうかどうしようかと、少し逡巡したが、結局は疑問を口に出した。
「……うん、実を言うとな、ちょっと引っかかっている事があるんだ。阪本事件については、三島の推理は鋭いなと感心してるんだが、昨日軽食で話をした時には、『不敬を成さば 身の終わりとぞ知れ』っていう怨霊だか悪鬼だかの言葉を引用した後に、『その後たびたび祟りを成した』っていう話だったろ?」
「確かにそうだったな。」と井村。
「それならば、阪本事件以外にも、あの場所では何か、悪鬼の仕業と恐れられるような事件は起きていたんじゃないのか? それを受けての薬師堂建立と塩のお清めなんじゃないかと。だから、阪本事件には黒幕に当たる人物が居たとしても、それ以前の祟り案件には、別の原因が有る様な気がするんだよ。」
「本物の怨霊の仕業だったりして。」と返してきたのは川口。
井村は「伝説の悪鬼が頭に執着しているのも、野武士になった加治神の残党か溝口派が、近隣に潜伏して、里見派の首を獲ったりしていたのが原因かもしれんな。加治神・溝口のレジスタンス活動が、怨霊の仕業と恐れられたというのは、確かに有り得るな。」と現実的な感想を述べた。
「もしかしたら、さっきの爺さんは、そのレジスタンスの末裔かも判らないぜ?」川口が真面目なのかフザケているのか判らない意見を述べる。「あそこで、加治神を馬鹿にした様な事を言っていたら、今頃四人とも首無しになってたりして。三島が姫様を演じてくれて助かったよ。命の恩人だな。」
しかし、当の三島は上半身を捻って俺の方を向くと
「谷口さんのメールを気にしてるのね? 海水浴してきなさい、っていう。」
図星だった。
・・・・・・・・・・・・・・・
「まあ、ここで議論していても、谷口船長の思い付きは、データ不足で予想が付かないから仕方がないよ。ナビでは、もう少しで海に着くみたいだから、ひと泳ぎして海の家で焼きそばを食べよう。俺はお腹が空いちゃったよ。」
言葉に詰まった俺に助け舟を出すつもりか、川口が空気を換えるように、昼飯の話題を持ち出してきた。有難う川口。
「折角、美女と一緒に海に来てるのに、海の家の焼きそばは無いだろう?」井村も川口に乗っかる様だ。「急いで海に浸かったら、服を着替えて海鮮丼の美味しそうな店を探そうぜ。」
「三島と一緒だから、海の家がいいんじゃないか!」川口は更に海の家を押す。「何時もみたいに、見た目の怪しい野郎三人で、ビーチをさまよってばかりじゃ、海に来るのが切なくなっちゃうだろ!」
これには三島も笑い出し
「海には、また今度、皆で一緒に来ましょう。今日は私も海鮮丼に賛成。二杯くらい食べれそう!」
「俺、海パン持って来てないから、海鮮丼が採用されて助かったよ。」
三島に一睨みされて、何も言えなくなっていた俺も、やっと声が出せた。
・・・・・・・・・・・・・・・
海水浴場の中央部分は、金平糖の大袋をぶちまけたかの様に、色とりどりの水着の人々ですごく混んでいた。
しかし、端の方には人影の疎らな場所も有って、膝まで海に浸かってキス釣りをしている人もいる。
日焼け対策なのか、上半身にシャツを着ている海水浴客も多いから、生乾きの服を着たまま海に入るとしても、派手な行動をしなければ奇異な目で見られずに済むかもしれない。
俺たちはあまり目立たぬ様に、投げ釣師たちの傍らで、ひっそりと海に入ったのだが、三島が海中で服を脱ぎ、大胆水着姿に変身して波打ち際で仁王立ちになったから、結果的にはえらく注目を集める事になった。
ただ、人間の目は(あるいは脳は)、観たいモノしか見えないように調整されているので、俺たち野郎三人組は、透明人間か書き割りの背景みたいにスルーされていたに違いない。
ビーチ中から幾多の視線を浴びて胸を張る三島の後ろを、俺たち三人は濡れた服のまま、砂漠の敗残兵の様にトボトボと追いかけて歩き、海の家群立地帯まで移動した。
それから、有料シャワーで潮を洗い落とし、Tシャツ・短パン・ビーチサンダルという防暑略衣に装備変更を行って、やっと人心地を取り戻した。
俺は自分の身繕いが済むと、三島は女性特有の理由で、着替えプラスαに時間がかかるだろうと思って、谷口に連絡を入れるためにスマホを取り出した。
しかし「今は止めとけ。」と井村に制止されてしまった。行動を読まれちゃってるな。
川口も「そうだよ、馬鹿だな。さっき三島に睨まれたばっかりだろ。女の子は一緒にいる野郎が、他の女の子の事を気にしていると、すごく不愉快になるんだよ。殊に三島は船長に対抗意識持ってるんだから。」
俺がスマホをしまいながら「二人とも女性心理に詳しくなったな。」と嘆息すると川口は
「『男子三日遭わざれば、括目して見るべし。』って言うだろ? まあ何だかんだ言って、オマエとは毎日のように顔を合わせちゃいるけどさ。俺も日々進歩しているんだよ。この二日間ばかりは特に。」
「日々進歩って何の話?」不意に後ろから三島の声がした。
振り返ると、彼女も俺たちと同じく、Tシャツ・短パン姿に着替え終わっていた。
俺の予想より、かなり早いタイミングでの登場だ。危なかった。
川口は全く動揺したところを見せずに「子供のころには、ウニとセロリが嫌いで、食べれなかったという話なんだ。今日の海鮮丼ではチャレンジしてみるかどうか、迷ってさ。」
「ふぅん……。」
三島は納得がいってない様に見える。どうしよう……。
しかし、今度は井村が「ウニが食えないかもって言うんなら、無理せず生シラス丼とかマグロ丼を選べばいいんじゃないか? あるいはお前だけ、焼きそばかカレーを注文するとかさ。」と上手くいなしてくれる。
これには三島も「あっ! 生シラス丼も良いな。どうしよう。!」と反応した。
意外にも三島は食いしん坊の様だ。ここは一気に押そう。
「両方頼めばいいじゃないか。さっき、二杯食べれそうって言ってたろ?」
昨日谷口は、冷やし汁粉と冷やし甘酒にプラスして、善哉まで食べてたけど。甘いモノばかりで胸が焼けないかと、ちょっとだけ心配したんだ。
「あのねぇ、これでもダイエットには、気を遣ったりしているわけですよ。……でも、誘惑に負けそう。」
三島は割と真剣に悩んでいるようだ。三島も痩せているんだけどなぁ……。失敗だったか?
「そんなら、俺とシェアしようか?」川口の怒涛の突き押しが炸裂する。「海鮮丼とシラス丼、半分半分。」
「それで決まり! 運転してる川口さんには悪いけど、ビールも頼んじゃおうかな?」
三島の疑念を、見事に土俵の外へ押し出した川口は、穏やかに笑って
「じゃんじゃん飲んじゃって。俺は元々アルコールが苦手な質だから、気にしないで良いよ。」
・・・・・・・・・・・・・・・
「でも、川口君がビール飲まないって、不思議な気がする。」
そう言う三島は、ご機嫌な様子で既に三杯目に口を付けている。呼び方も、『川口さん』から『川口君』に替わっているし。
「昔、平井和正の『ウルフガイ』シリーズを読んだ時、登場人物の中に、不良なのに酒も煙草も嗜まないストイックな悪役が居てさ、ちょっと格好良かったんだ。その影響かな?」
川口は、そう返事しながらウーロン茶を飲んでいる。
最初ヤツは「トマトジュースを。」って注文したんだが、アルバイトらしい女の子から、にべも無く「有りません。」って言われて、泣く泣くウーロン茶に路線変更したのだった。
川口は、非科学研の飲み会でもアルコールを飲まないから、アセトアルデヒドデヒドロゲナーゼが少ない体質かと思っていたが、そういう過去があったのか。これは今まで知らなかった。
もっとも、ヤツは飲み会の時にも、素面の人間より騒々しかったりするから、ヤツが飲んでいないのに気が付かない参加者もいるくらい、違和感が無い。
だから三島に対して「じゃあ、もう一杯。」と、実際に飲む方の相手役は、井村が務めている。
井村はどんなに飲んでも、乱れる事の無い男だから、適任だ。
しかし井村からは、以前彼の苦悩を聞いた事がある。
ヤツ曰く、「飲んでも酔えない体質なんだよ。不経済極まりない。酔ったモン勝って時には、必ず負け戦だ。」
かく言う俺は、飲めば普通に酔っぱらう人間だから、今日は川口に何か有った時のサブの運転手役という口実で、ノンアルコール・ビールを選択している。
何と言っても、一番やらかしそうなのは、俺だから。
現に今日も、川口や井村の助け舟が無かったら、三島を激怒させていたかも知れない場面が、何回か有ったし。
一同満腹になると、夕方のラッシュに巻き込まれない内に帰ろうかと話が纏まって、出発前のトイレタイムとなった。
「今月は、貯えを大分遣っちゃったなあ。夏休みの内にド短期バイトを幾つか頑張らないと、秋からが厳しくなるね。」
川口がトイレでそんな心配を口にする。
理系の学生は、長期休暇以外の時期にはバイトの時間を工面するのが、結構厄介だ。
まあ休みの間にも、課題やらレポートやらを、そこそこ真面目にこなさなくちゃならないし、自己投資としての勉学は不可欠だ。
それでも、昼夜休み無しに研究室に籠り切りになる卒論課程よりは、多少の自由時間が有るから、その間に資本の蓄積も行わなければならない。
それをサボると、欲しい専門書に手を出せないとか、皆が楽しそうな時に、金欠で身動きが取れなくなるという、厳しい現実が待っている。
ちなみに、以前Iホテル跡廃墟やD峠心霊スポット探索なんかに動員された時には、非科学研の正式動員案件だったから、面白いと賛同してくれたOB連からカンパが集まったので、個人的にはあまり懐は痛まなかった。
やれ! と力押しした先輩はもちろんだけど、止めようとしてくれていた先輩も、かなりの額を出資してくれていた。
ただ、カンパが集まったといっても、個人負担がゼロという訳ではないし、「外せないバイトがある。」とか「金欠で動けん。」という現役組もいたから、ある程度の余裕を持っておく事は重要なのだ。
「それよりお前は、帰りの車の中で、気を抜くなよ。」井村が俺に向かって注意ポイントを指摘してくる。「三島は酔って寝ちゃうかも知れないけど、眠り込んではいないかも知れないから、船長の話題は出すな。完全に別れるまでは、警戒継続だ。」
・・・・・・・・・・・・・・・
出発する段になっても三島は御機嫌で、「生シラス最高だった! でもビールより日本酒の方が合うよねぇ。」とか言っている。
「トイレに行きたくなりそうだったら、早めに言ってよ。」川口が運転席に乗り込みながら念を押す。「高速に乗ったら、『ちょっと後ろ向いてて。』とか言われても、どうしようもないから。」
「ダイジョウブ、ダイジョウブ! でもナビ・シートでイビキかいたら、さすがに川口君に悪いから、後席に移ります。」
「後ろは狭いからね。前の方が良いと思うよ。」井村がやんわりと前席を薦める。「変な格好で寝ると、身体が痛くなるから。」
「そうだな。でも三島が川口に気を遣うというんなら、俺が助手席に行くよ。サブドライバー役だし。」
俺がいち早く、前席に退避しようとすると、三島は
「いやいや、ずっと窮屈な思いをしていた井村君がナビシートに座るべきでしょう? 井村君、座席思いっきり後ろに下げて、楽にして。」
俺たちは顔を見合わせると、観念して配置に着いた。
三島は俺の隣に座ると、俺の顔をじいっと見ながら
「トイレから帰って来た時、三人とも深刻そうな顔をしてたけど、何かあった?」
と早速尋問してきた。
井村の肩が、僅かに緊張するのが、シート越しに見える。
連合した敵を叩くには、「弱い部分を集中的に」が兵法の鉄則。三島は基本に忠実だ。
しかし、ここは正直に答えれば良いので大丈夫。
「休みが終わるまで、バイトして稼がなきゃって、現実的な話をしていたから、シビアな顔つきになったんだ。」
「バイトかぁ。それじゃあ真面目な顔にも成るよね。どんなバイトするの?」
「反社会的じゃない真面目なバイトだったら、何でもするけど。交通整理の旗振りとか、引っ越しとか、交通量調査とか。」
「えー?! イメージだと『正義のヒーローを陰ながら支える訳ありバーテンダー』みたいな感じなのに。」
どんな「感じ」だよ……。
しかしこの応対は、間違ってはいなかったようで、井村の肩から緊張が抜けている。
俺の事を意味不明なキャラに捉えているらしい三島は、「じゃあ、今までやった中で、きつかったバイトって何?」と重ねて訊ねてきた。
「県境の目印の、コンクリ杭を埋設するヤツかな? コンクリ杭とか水・砕石・セメントなんかを手分けして、背負子で背負って、道無き道を一列縦隊でゾロゾロ登るんだよ。現地まではヘリで持って行くのかと思っていたけど、全部人力だった。あと別の意味でキツかったのは、お祭りの行列かな? 鉄砲足軽の扮装で行進しただけなんだけど、外人さんとかアマチュアカメラマンが真面目な顔で写真撮ったりしてるから、ニヤニヤしないように顔を引き締めるのが大変だったな。京都の時代まつりのニュースなんかで、行列の武官役が皆不機嫌そうな顔に見えるのは、多分同じ気持ちなんじゃないかな。」
こんな話題なら、無難にやり取り出来そうだ。
三島もだんだん眠たそうになってきた。
「私も巫女さんした時に、顔面をアルカイック・スマイルに固定するのは、大変だったな。」
こういう時にこそ油断が生じるもので、俺は、つい「へえ、三島が巫女さんをね……。」と口走ってしまった。
これはマズかったのかもしれない! 井村の首の筋肉がピクッと反応した。
「何?! その反応は!『どうせ巫女さんするなら、三島より谷口だろ。』って言いたいわけ?」
案の定、三島が過剰反応した! そうだよ彼女酔ってるんだよ! 感情の制御が緩くなってる!
「それは誤解だ! 冤罪です、裁判長! 三島には、さっきの姫様のイメージが強くって……。」
俺は慌てて言い訳をする。それに、これは正直な気持ちだ。
さっきの姫様は、本当に水際立った美しさだったんだよ!
「あ、そういう事か。ごめん、ごめん。これは悪かったね。」
本心からの弁明だったせいか、三島も素直に受け入れてくれたようだ。
「いや、いいんだけどさ……。巫女さんやる人って、何か月も前から、髪を伸ばすの?」
「これだから、男性諸氏は。夢を壊して悪いけど、あれは付け髪なのです。腰までの黒髪ストレート・ヘアなんて、そうそう保持出来るものではナイのですよ。痛むし、乾かすの大変だし。」
「そうかぁ。付け髪かぁ。」
「がっかりした? 長い髪、好きなの? ……伸ばして欲しい? ……。」
三島の言葉が途切れ途切れになり、遂には静かになった。
彼女は首を前に倒し、口を少しだけ開いている。開いた唇から、舌先がちょっとだけ覗いていて、わずかに寝息が聞こえる。
声を潜めて「寝ちゃったよ。」と言うと、井村が同じく声を潜めて「試験対策進んでいるか?」と聞いてきた。
了解、了解。静かにして時を過ごそう。