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2)さんざん制止したにもかかわらず、三島が沼に入ってしまいジジイに説教される。

 俺の「少し体を伸ばそうよ。」という発案で、うみほたるサービスエリアで、休息を取る事になった。

 名目は「エコノミー症候群を起こさないよう、身体を伸ばすため」ためだけれど、実質的には「トイレ休憩」だ。


 谷口だったら、出発時に「○○と☓☓とで休憩を取りますから、各自用を足すのを忘れないように。」と、あっちの方から指示をしてくるので、気を遣わずに済むのだが、彼女以外の女性相手だと、男性陣の方で段取りを組んだ方が無難だろう。

 特に夏場は、下手に水分摂取を我慢されでもしたら、脱水症が怖い。

 うみほたるの次は、目的地近くのコンビニか道の駅ででも休息を取ろうと言う事も決めておく。


 サービスエリアでは、俺自身は別に欲求は無かったのだが、率先してトイレに寄って、その後屈伸運動をしておく。

 房総半島方面は、ここから見る限り晴れ渡っていて、天気予報で確認していた通り、雨の心配は無さそうだ。

 むしろこの夏は、来る日も来る日も晴天続きで気温が異常に高く、節水の呼びかけが行われてるくらいだから、屈伸運動よりも雨乞いの踊りを奉納した方が良いのかも知れない。


 今も、海風は吹いているのだが、心地よさを感じさせず、むしろ温くまとわりついてくる感じだ。

 この様子では、もしかしたら、A沼は沼の規模にもよるが、干上がってしまっている可能性もある。

 期待外れの景観であったら、「はい、撤収!」で終わらせられるから、その方が好都合だとも言える。


 全員そろったところで、再び出発。

 海底の長いトンネルを抜けると、そこは雪国……ではなく、対岸と同じくやっぱり暑い上総国だった。


・・・・・・・・・・・・・・・


 高速道路を降りた辺りで、俺は昨日谷口に教えてもらった、突き抜き井戸の仮説を皆に話した。

 「なるほど、突き抜き井戸か。急に底無しになったら事故は起こりそうだな。」

と井村が感心する。

 「上総国だし、上総掘りは有りそうな話だね。流石は船長、お前から中途半端な情報を聞いただけで、よくそんな推理が出来るもんだ。」

 川口にも特に異論はない。


 「現地を見てみなきゃ、正解かどうかは分からんが、その可能性もあるという訳だから、絶対に無警戒に水に入るなよ!」

 三島が長靴をガッポガッポいわせて、いきなり沼中に突入する事はないだろうから、俺は、皆にと言うより井村と川口に念を押した。あるいは、念を押したように見える発言をした。


 でも本当は、二人が軽率な行動を取るタイプの人間ではない事を、俺はよく知っている。

 井村は思慮深い男だし、実はああ見えて、川口もそうなのだ。


 俺たちは非科学研の野外活動では、保安業務に就く事が多いが、ケンカを売って回る訳ではない。

 学生の身だし、乱闘などはもっての外だ。

 危機対応よりも危機回避、が最重要命題なので、荒事に対峙できる能力は持っていても、それは抜いてはいけない伝家の宝刀なわけだ。


 川口が、あえて粗忽そこつに振る舞ってみせるのは、チームとしてのバランスを考えての事だと思っている。

 単独行動時の川口は冷徹そのものだ。

 つまりヤツは、ヒトは自分より逆上した仲間を見れば冷静さを取り戻す、という心理を利用しているのだろう。

 俺は井村、川口に比べれば、最も軽挙妄動けいきょもうどうし易い性格なので、俺を暴走させないために、川口はカリカチュアライズされた脳筋馬鹿を演じていると言って良い。


 だから、二人に言って聞かせているように見せかけて、実は三島に対して『水には入らないし、入らせない。』と意思表示をしているのだ。

 余計な事かもしれないが、三島にはこうでもしておかないと、俺たちに対して「無理なお願いを無理を承知の上で無理やりに」ゴリ押しして来そうな雰囲気が有る。


 現に三島は、少し納得が行かない様子で、

「でも、深みにはまっての溺死だったら、水練をした旗本が『狂死した』という言い伝えとは、趣が異なりますよね? 水に入らずに、伝説の間違いを証明出来たと言えるでしょうか? それに旗本が死んだ場所は……。」

と譲らない。


 伝説が事実を伝えているのであれば、三島の言い分はその通りなのだが、事故多発の池に、河童の絵を描いて「危険だから入ってはいけません」の立て札を立ててもインパクトは弱い。

 悪童どもを恐れ入らさせようとすれば、水に入った旗本が祟りで狂死したと言う方が、圧倒的に阻止効果は大きいだろう。

 逆にインパクトが大きいと、三島タイプの人間を呼び集めてしまう効果も出てきてしまうから、一長一短ではあるのだが。


 それにしても、三島がこんなに強く「入ってみる気満々」だったのには驚いた。

 実地検証主義のオカルトマニアだか反オカルト主義者なのは分かっていたが、何がそこまで彼女を駆り立てているのだろう?


 もしかしたら彼女は今日、服の下には水着を着用してきていたりするのかも知れない。

 水着姿になった三島を拝めるとなれば、彼女のファンなら躍り上がって喜ぶのだろうが、俺はこの時「A沼よ、干上がっていてくれ!」と心の中で念じていた。

 面倒事は出来る限り回避したい。


 しかし彼女、口をつぐむ前に何と付け加える心算だったのだろう?

 『それに旗本が死んだ場所は……。』

 まるで旗本が死んだのは、別の場所だったような口ぶりだけど。


 「まあ、現地を見てからの話しになりますが、沼に入ってみるのは一旦置いておきましょう。『不敬を働けば祟りを成す。』という言葉を検証するのには、中で泳いでみせなくても、石を投げ込むとか方法はいろいろ有りますから。」


 俺の案に、彼女は不承不承ふしょうぶしょうという感じにではあったが、頷いた。


・・・・・・・・・・・・・・・


 A沼という地点は、カーナビには登録されていない。

 「ここだと思う。」という三島の言葉を信じて、田舎と断言してよい集落の、小さな児童公園の脇に車を止めると、着替えなどの大荷物は車内に残して、各自最低限の装備だけになった。


 晴れの土曜日だというのに、公園には子供一人遊んでいない。

 長靴やライト類も、今回は不要と言う事で、出来る限り身軽な格好になる。


 オカルト雑誌の情報から割り出した、A沼と思しき地点を記入した25,000分の1の地図を持ち、三島がナビゲーターを務める。

 先頭の、露払いならぬ蜘蛛の巣払いが俺。

 二番手がナビの三島。

 三番手の井村はナップサックを背負っている。サックには、皆の免許証や財布にスマホの入った防水バッグ、飲み物のペットボトル、救急キット、細いロープが入っている。

 最後尾に後方警戒の川口。

 一列縦隊になって、公園横の細道から照葉樹の森へ分け入った。


 道はなだらかな登り勾配だ。

 高い山が無い地形なので、ルートに険しい場所はない。

 だが、祟りの沼へと行く道だから、訪れる者もほとんど居ないのだろうか、細道、踏み分け道と段々道らしさが失せて行く。

 あるいは歩く人が踏み固める力を上回って、雑草が成長しているのか。


 ただ、目印らしい布切れが木に結んである事と、分岐らしい分岐が無い事とで、今のところ迷う心配は無い。

 出発地点が間違ってさえいなければ、A沼には着くだろう。

 予想していたよりも、蜘蛛の巣が少ないのが、先頭を進む俺には有り難い。

 草いきれとクマゼミの鳴き声とにまみれて前進する。


 歩き始めてしばらくすると、小さなお堂に着いた。

 三島が直ぐ後ろから、小声で「間違い、無い。」と言うのが聞こえた。


 30分は歩いた気がしていたのだが、安物の腕時計を確認すると、まだ15分しか経っていない。

 三島に「このお堂は、何?」と聞くと、彼女は呼吸を整えながら「滅ぼされた加治神氏の館跡。」と答える。


 お堂の周りは簡単に草も刈ってあり、今でも人の手が入っているようだ。

 三島が全身汗だくになっているから、小休止して水分補給を行う事にする。


 三島が井村のナップサックから、スポーツドリンクを出してもらって、喉を鳴らしているのを見ながら、お堂へ近付く。

 中を覗いてみると、ざるに山盛りになった塩が供えてある。

 塩が湿気で溶けてはいないようだから、供えられたのは早くとも今朝の事だろう。


 お堂の裏の崖から竹筒が伸びて、清水をお堂の横の石鉢に注いでいる。

 竹筒にも石鉢にも苔が生えていない。

 お供えの塩といい、掃除されている水回りといい、マメにお参りをしている人がいる。


 アルマイトの柄杓ひしゃくも備えられているので、神社でするように手を洗ってみると、非常に冷たい。

 次に口をすすごうとすると、川口から「待て!」と制止された。

 「基本、うがい位なら大丈夫とは思うんだよ。でも、上でイノシシが生活してたりすると、ジストマの危険性を考えなきゃならんからな。」

 「そうだな。ありがとう。」

 「それでお前、ジストマにかかるとどうなるか、知ってる?」

 「肝臓が腫れるんじゃなかったか?」

 「そうなのか! 俺はどうなるか、知らなかったよ。」


 10分ほど休息して、再び歩き出す。

 5分経過したところで、踏み分け道が分岐した。

 左側は今までと同じダラダラ登りで、右は下りだ。

 三島に「どっち?」と尋ねると、「右。」と簡潔な答えが返ってきた。


 下り道を歩き始めるが、登りの道に比べると、木に縛られた布目印の頻度は半分以下に減っている。

 道の勾配は、登りの時より若干急だ。


 初見が日中で良かった。夜間なら道を外れて迷っても不思議は無い。

 相変わらず熱気の中、クマゼミが五月蠅うるさい。


 10分程度下った所で、全員がオッと声を上げた。

 木立を通して水面が見える。目指すA沼だろう。


・・・・・・・・・・・・・・・


 A沼の位置は、車を置いている児童公園から、徒歩で登り20分下り15分の場所、と言う事になる。

 標高は、地図で見る限り、児童公園よりも若干低い。

 この場所そのものが、微妙に窪地くぼちになっているのだ。

 実際に目にした沼は、直径10mほどの不規則な擂鉢すりばち状で、拍子抜けするほど明るい感じだ。


 いや、はっきり言おう。予想していたのよりも、断然ショボく感じられる。

 幽玄とか陰々滅々とかした所が、全く無い。

 沼から湿地に遷移する途中段階の地形だ。


 伝説を知らなければ、祟りの地だとは思わないだろう。

 もしかしたら、ここしばらくの日照りのせいで水量が減って、今の様な外見を見せているのかも知れない。


 沼の周囲を取り巻くように、踏み分けの痕跡がある。

 痕跡の場所は、水面からは2mほど高い位置で、直径は今の沼の3倍くらいに思えるから、普通だと沼は2倍以上はあるようだ。


 水に近い所と水中には、湿地性の植物が青々としているが、踏み分けの痕跡に近い位置では干からびてしまって、陸生の雑草に取って代わられつつある。


 沼の水は、澄んではいるが茶色に着色している。

 底に溜まった落ち葉などから、色素が溶け出しているのだろう。

 いわゆる「ステイン・ウォーター」ってヤツだ。

 水面をアメンボが何匹もスケートしている。


 俺は水面近くまで、斜面を下ってみる事にした。

 大丈夫とは思うが、不意に泥中に沈み込んだ時の用心に、腰に細いロープを結んで、井村に確保してもらう。

 それに、この地形を見て、怨霊のもう一つの可能性に思い当たったのも、アンザイレンした理由の一つだ。

 その可能性というのは、「凹地に溜まったガス」だ。


 凹地には、酸素よりも比重の重い気体が溜まっている事が有る。

 その気体は、発酵によって生じた炭酸ガスやメタンであったり、火山性の硫化水素ガスであったりと、シチュエーションによって種類は異なるが、そこに踏み入った人間を、窒息させたり中毒させたりする事が有る。


 原因が分かっていなかった時代には、物の怪の仕業だと恐れられていたから、『大台ケ原のひだる神』や『那須の殺生石』の様な有名どころの怪異もある。

 それだけに、危険に見えなくとも、慎重に行動するのが賢明だろう。


 アメンボやイトトンボが視認出来るから、致死性の強い硫化水素は考慮しなくても良いだろうが、少しでも「卵の腐ったような臭い」がすれば、とっとと逃げ戻るつもりだ。

 しかし、炭酸ガスやメタンだと臭いで判断は出来ないから、俺の様子がおかしいと見えたら、井村にロープを引っ張って合図してもらう。


 斜面は途中までは、乾いてカチカチに固くなっているが、水際に近付くにつれて湿気と粘性が増し、水際まで残り1m弱と言う処で前進を諦めた。

 「ここまで、だな。これ以上進むと、靴が埋まりそうだ。」


 その場で、深呼吸してみる。……異常無し。

 硫化水素の臭いはしない。

 朽ちた水草の臭いは若干感じるが、ドブの様な臭気も無い。


 「特に何も無いな。普通の池みたいな臭いがする程度で。」

 「よし、上がって来い。案外、底のシルトは厚くなさそうだな。あるいは落ち葉の層とミルフィーユ状に成ってるのか。」

 「中央部付近は分からんが、周辺は底無しってことはなさそうだ。真ん中に突き抜き井戸が有るのか無いのかは、ちょっと判断付かないね。」


 俺は、踏み分けの痕跡付近まで戻って、腰のロープを解いた。

 井村からペットボトルを受け取って、一口お茶を飲む。

 三島のペットボトルは彼女専用だが、野郎三人は回し飲みだ。


 三島は草の上に体操座りで腰を下ろして、こちらを眺めている。

 がっかりしたのか、疲れたのか、言葉が無い。

 川口が三島に「どうです? 何か感じますか?」と問い掛けたが、三島は無言で首を振った。


 A沼にオカルト的な要素が無い事は、過去の行動パターンから考えれば、彼女はもっと面白がって良いはずなんだが?


・・・・・・・・・・・・・・・


 「昼間見ただけの感想ですが、何も無さそうですね。引き揚げましょうか?」

 井村の提案に、三島は頷いたが、お堂から歩いてきた道の方を示して、

「申し訳ありませんが、戻る前に、皆さん少し離れた所で、後ろを向いていて貰えませんか?」

と頼んできた。


 俺は不審に思って

「何か雑誌には、鬼神を呼び出す秘密の儀式の方法でも?」

と彼女に訊ねた。


 しかし三島から返ってきた答えは、少し恥ずかしそうな笑顔と

「エチケットとして、女性に聞いてはいけない事です。」

という言葉だった。


 失敗、失敗。俺は察しを付けて二人を促す。

 なんだ、トイレに行きたかったのか。


 川口は「いいのか?」と不満そうだが、井村が「見てちゃマズい事って分かるだろ?」と、俺に賛同したから、三人とも言われた通りに移動する。

 歩いて距離を取る俺たちの後ろから、「その場所で結構ですから、合図するまで、こちらを振り向いてはいけません!」という注意が追いかけてくる。


 イザナギ・イザナミ神話でも、鶴の恩返しの昔話でも、女性から見るなと言われた時に約束を破ると、大抵ロクなことにはならない。

 鮭女房の伝説は、もっとダイレクトな話だし。

 ここは、大人しく状況終了の合図を待つのが賢明だろう。

 『大学生、友人女性のトイレを覗き見』なんて事になったら、身の破滅だ。

 二度と谷口に会わせる顔が無くなってしまう。


 しかし、例外無き法則無しというのも、また真理なわけで……

 3分ほど経過した頃、不意に背後から水音が聞こえた。


 しまった! やられた!

 慌てて振り返ると、目に飛び込んで来たのは、黒セパレーツ水着姿の三島が、沼に入っていく処だった。

 やっぱり、服の下に水着を着ていたのか!

 「言わんこっちゃない!」と川口が叫ぶ。

 三島の性格を甘く見た俺が、馬鹿だった。


 ジーンズや綿シャツは、脱皮したかのように岸辺に脱ぎ捨ててある。

 そこにはキャラバンシューズも置いてあるから、彼女は足袋裸足たびはだしなのだろう。

 分厚い靴下を穿いているとはいえ、尖った物が有ったら、足裏を踏み抜いてしまうかもしれない。


 岸辺まで駆け戻り、俺と川口も急いで沼に足を踏み入れた。

 靴を脱いでいる暇は無いから、靴も服もそのままだ。


 水は冷たくない。

 お堂の横に注いでいた水は氷水の様に冷たかったが、沼の水は日向水ひなたみずのように異様に温かい。

 三島が心臓発作を起こす心配は、取りあえず無さそうだ。

 ただ水の循環の少ない水系では、表面と水底で極端に温度が違っている事がある。

 湖に飛び込んだ素人が心臓発作を起こすのは、それが原因だ。


 井村はナップサックを下ろし、中から取り出したペットボトルに、急いで細ロープを縛り付けている。

 即席の救助グッズを作るのだろう。


 駆け込んだはいいが、水底の泥濘ぬかるみに、一歩一歩足を捕られるから、思ったように前に進まない。

 三島は体重が軽いせいか、俺たちよりも進むスピードが速く、距離が少しずつ開いて行く。


 俺たちが2mほど前進し、股上くらいまで水に浸かった時には、彼女は既に沼の中央近くまで進んでいて、水は腋にまで達している。

 後方からペットボトルが飛んできて、「三島! ロープを掴んどけ!」と井村が叫んでいるのが聞こえるが、彼女は直ぐ近くに着水したロープを手に取ろうともしない。


 くそっ! なんて厄介な女なんだ!

 三島がズボッと音を立てて水中に没するシーンが頭をよぎって、気ばかり焦る。

 コイツは厄介ではあるが、美人というのを抜きにしても、なかなか「いい女」なんだ。

 危険な目には遭わせたくない!


 もがきながら悪戦苦闘する俺たちをしり目に、遂に中央にまで達して肩上まで水に浸した三島は、こちらを振り向くと、

「見て! 何も無い。底なし沼も、掘りぬき井戸も、何もない!」

と高らかに宣言した。


 しかし、何かを目にした三島の笑みが、急に強張こわばり、次の瞬間……


 「馬鹿モンがぁ! 早う、水から上がらっしゃい!」

と、怒声が襲って来たのだった。


・・・・・・・・・・・・・・・


 三島がこちらに戻り始めるのを確認し、俺たちは顔を見合わせると、また悪戦苦闘して岸の方へと向かった。

 岸辺には怒り狂ったジジイが仁王立ちになっている。


 拳骨げんこつの二、三発は、覚悟しなくちゃならないかもしれないが、ここは抵抗せずに土下座してでも許してもらう他ないだろう。


 この沼が、心霊スポットかどうかは知らないが、さっきのお堂を見ても、少なくとも民間信仰の場である事は間違いない。

 他人の家に押し入って、祭壇だか仏壇だかに乱暴狼藉を働けば、そりゃあ怒られない方が不思議なわけで、「信仰が違うから、これを神とは認めません。」では、話にならない。

 また、「センセー、悪いのは三島さんです。僕たちは止めようとしただけです。」と逃げを打つのも、潔くなくて見苦しい。


 俺が自分に納得のいく格好の付け方を考えると、「素直に謝り、率先してぶん殴られる事で、三島には手出しをさせずにこの場を収める。」ぐらいの事しか思いつかない。


 だから、水深が膝くらいにまで浅くなった時点で、ジジイに向かって深々と頭を下げ

「騒ぎを起こして、申し訳ありません。悪いのは私です。」

と皆に先制して謝った。


 「謝って済む問題か!」と怒鳴られるのを覚悟していた俺だが、ジジイは意外にも

「謝るのは後にして、女の子に手を貸してやらんかぁ!」

と紳士なところを見せてきた。

 これなら三島が殴られる事はないだろう。


 俺たち三人は、引き返して再び沼の中央部へと向かう。


・・・・・・・・・・・・・・・


 無敵の三島も、泥で体力を消耗したのか、動きが鈍くなっていた。

 あの深さが有れば、歩くより泳いだ方が速そうだが、流石に沼に顔を浸けるのには、抵抗があるのだろう。


 彼女をインターセプト出来たのは、水深がまだ腹くらいある場所でだった。

 俺が少し腰を落とし、背中を向けて「おぶされ。」と言うと、ためらいも無く乗っかってきた。


 うわわわわ! 背中の三島が柔らかいよ。

 経験値が低いと、こういう場面で狼狽ろうばいするもので、俺はもっと筋肉質なモノを予想していたから、彼女の搗き立てのお餅のような軟質感に、無駄に意表を突かれて腰が砕けそうになった。


 でももし仮に、背中に乗せたのが谷口の身体であったのならば、俺は湧き上がるアドレナリンの力で唐・天竺てんじくまでノンストップで突っ走ってみせただろう。

 負け惜しみの強がりなんかではなく。

 しかし、三島相手ではそこまでの奇跡を起こす事は出来ず、浮力の助けが無くなった彼女の体重は、現実的な荷重として作用し、俺の靴は深く泥の中にはまり込んでしまった。

 う、動けん……。


 「そのまま、動くなよ。下手に動くと二人して転ぶぞ。」

 井村がそう言って、川口と左右に分かれて俺の後ろに回る。

 「荷重を分散させよう。騎馬戦スタイルがいい。」

 井村の指示通りに、三人で騎馬の態勢に徐々に組み換え、三島を担ぎ上げる。

 それから俺は足を小刻みに動かして、慎重に泥から靴を抜き、馬の先頭になって、ゆっくりと前進する。


 後から考えれば、井村と川口が左右から三島の脇に手を入れて、支えてやれば済むだけの事なんだが、あの瞬間にはそんな簡単な事も思い付かなかったのだ。

 普段は冷静沈着な井村も、俺と同じく女性というモノに対する経験値が浅いから、密着しないといけないシチュエーションになって勝手が判らず、騎馬戦スタイルなんていう妙な解決法を編み出したのだろう。

 でも、泥の中で三島の靴下は脱げてしまっていて、完全な裸足になってしまっていたから、彼女の足裏を傷つけないという意味では、怪我の功名だった。


 「もう少しだぁ。焦らず慎重に来い!」

 岸からジジイも応援してくれている。

 何だか申し訳ない。ジジイは止めて「ご老人」にしよう。


・・・・・・・・・・・・・・・


 岸で三島を降ろし、改めて老人に頭を下げる。

 老人も少しクールダウンしたのか、若干穏やかな口調で

「お前たち、ここがどんな場所だか知っているのか?」

と聞いてくる。

 いきなりぶん殴られはしなかった。


 俺が「沼地から湿地へ遷移しようとしている、湖沼の植生を……」と懸命に誤魔化ごまかそうとしていると、横合いから三島が

「存じています。加治神一族の終焉しゅうえんの地です。」

と爆弾を投げた。


 「知った上での狼藉か!」

 老人が再び怒声を上げる。 ……そりゃそうだろう……。

 しかし、三島の対応は、俺の想像も付かないものだった。


 「おだまりなさい! 加治神基経様が怨霊と化したなどの戯言ざれごと、見過ごす訳には参りません!」

と老人を叱り付けたのだ。


 何というか、正に『姫』の気品と迫力。

 水着しか身に着けていないのが、逆に凄みを増している。

 「私は基経様の宿老、溝口丹波に連なる者。この三人は、私の守役もりやくです。」

 ……? はい? 守役? いったい何がどうなってるの?


 俺はナンノコッチャ判らずに混乱していたが、老人も同じく気勢を削がれたてい

「事情がお有りのようだが、今は一刻を争う。靴だけ履いて、ついて来なさい。」

と三島を促した。


・・・・・・・・・・・・・・・


 先頭に老人が立ち、その後ろに水着にキャラバンシューズだけの三島が続く。

 広葉樹林を歩くのには、あまりにもシュールで、エロい格好のはずなのだが、彼女は威厳を失わない。

 むしろローマ神話のダイアナの絵画のような、神々しい感じまで漂わせている。


 三島の後ろには、彼女が脱ぎ捨てていたシャツとジーンズを抱えた俺。

 なんだか最初に謝ったのが俺だったせいで、守役筆頭と言う事にされてしまったみたいだ。

 彼女の服からは、洗剤と汗の混じった艶めかしい匂いが香り、いたく嗅覚を魅了する。


 これは良くない。いや、本当に良くない。

 登り道だから、俺の目の前に三島の形の良い尻が、水着一枚に包まれただけで揺れているのと相まって、健全な青少年には刺激が強すぎる。

 俺の後ろに続く、井村と川口の監視の目が無かったら、問題行動を起こしてしまいそうだ。

 谷口よ、済まぬ。 俺はなんて不甲斐無い意志の弱い人間なんだろうか。

 これしきの刺激に、オロオロしてしまうとは!


 しかし俺の葛藤かっとうは、15分ばかりで終わった。

 登り終えて、例の分岐点に着いたからだ。

 老人は道を左に折れ、下り始めた。


 「もう少しだけ、我慢しなさい。」

 老人が三島に呼びかける。

 どうやら向かう先は、行きがけに小休止したお堂のようだ。


・・・・・・・・・・・・・・・


 お堂の前に着くと、老人から「横一列になりなさい。」と指示が出た。

 俺たちが真面目な顔で、整列した小学生みたいに横一線になると、老人はお堂に深く頭を下げてから、扉を開いた。

 次に、塩を笊ごと捧げ持つと、またうやうやしく一礼。

 そして塩を掴むと、俺たちの頭からバッサバッサと振り掛け始めた。


 うわ、塩っぱい。


 ジジイが塩を握った瞬間、お清めだろうな、と予想は付いていた。

 それにしても……


 老人に対する呼称が、ジジイに戻ってしまったのは、ここはちょっとの間、見逃して欲しい。

 何しろ、塩の量がハンパではないのだ。

 白菜漬けを作る時でも、今風ならもうちょっと、塩分控え目なはずだ。


 お清めには、神に参拝する前に精進潔斎しょうじんけっさいする場合と、神未満の存在のけがれをはらう場合との二通りがある。

 『神』については、基本的には怒りを買った場合に祓ったり出来ないとされている。

 『神』には、謝罪して許しを請い、怒りを収めてもらうより仕方がない。

 祓ったり、呪い返しといった方法が有効なのは、対象が『神未満』の存在である場合だけだ。

 それ故、神様が下すのが『祟り』であり、神未満の存在が行使するのが『呪い』と、言葉上では一応の区別がある。

 「一応の」と断りを入れたのは、日本は一神教文化ではないので、下位の神的存在と上位の神未満の存在との境界が割と曖昧あいまいな所が有るからだ。


 だから塩を使うのは、ある意味セオリー通りとして、ジジイがA沼の悪鬼と称されるモノを『神』と捉えているのか『神未満』と捉えているのかには、ちょっと興味が有った。

 前者であれば、お清めは前工程であり、その後に本格的な神への謝罪ステージが来る。

 後者であれば、お清め自体がキモであり、すでに祓いの一環なわけだ。

 A沼が「祟りの沼」とされている以上、悪鬼は神化しているのかと思っていたが、どうやらそうでもないのかな?


 ジジイは俺たちを塩まみれにしながら

「おん ころころ せんだり まとおぎ そわか。」

と繰り返し唱えている。

 これは薬師如来の真言だ。

 お堂は薬師堂だったのだ。


 お堂・やしろほこらの違いは、一般外国人にはちょっと区別が付き難いかもしれないが、日本人なり日本文化に造詣の深い外国人には、一目瞭然だ。

 俺たちは、この建造物を一目見た瞬間に「お堂である。」と判断していたから、ジジイが真言を唱えても、特に驚きはしない。


 また、薬師如来は病気平癒の現世利益をもつかさどっているから、この地では薬師堂に供えた塩は、沼の悪鬼のさわりに対して、清める力が有ると同時に、薬効が有ると判断されている、と考える事が出来る。

 薬師如来の塩で、清め祓う事が出来るのであれば、悪鬼は強力な怨霊レベルの扱いで、神とまではされていない様だ。

 そうすると、ジジイは俺たちに対して「怨霊を刺激した馬鹿者」という意味で怒っているのであり、「神を怒らす不届き者」として鉄槌を下しているのとは違う。


 だから、塩の量が多いなとは思っても、これはジジイの好意なのだから、俺たちはされるがままになっていた方がいい。

 三島にとっても、塩をかけられるくらいのお灸を据えられた方が、彼女の為だ。


 ひとしきりジジイの塩吹雪攻撃が終わると、川口と井村は八甲田雪中行軍中の青森五連隊の兵士みたいに白くなっていた。


 井村は自らの姿をを眺めて、「君がため 春の野に出でて 若菜つむ。」と百人一首の光考天皇の和歌の上の句を呟いた。

 服に積もった塩を雪に見立てたのだろう。 風流なヤツ。

 ちなみに下の句は「わが衣手に 雪は降りつつ」だ。


 それを受けて川口は「これが塩なら 大儲け。」と続けた。

 落語『雑俳』の「初雪や これが塩なら 大儲け」から引っ張ってきたのだろうが、連歌のつもりなら下の句に成ってねェぞ。

 しかも、塩ならじゃなくて塩そのものだし。


 まあ、白くなっているのは、俺と三島も同様で、特に三島は黒水着に塩の白が映えて、フェチ感満載の外見になっている。

 何というか、冷凍光線を浴びたピンチ・シチュのスーパーヒロインみたいだ。

 可哀想だけれど、見た目にはちょっと格好良い。

 しかし三島は文句一つ言わず、口を真一文字に結んでいる。 健気なヤツ。


 ……いや、違った。 そもそもこんな事態に至ったのは、彼女の暴走のせいなんだよな……。

 ジジイに非は無い。「老人」に復帰だ。


 次に老人は、アルマイトの柄杓に清水を汲むと、大量の塩をぶち込んだ。

 生理的食塩水よりも大分濃そうだ。海水レベルか飽和食塩水レベルか。


 そして、三島の顔を天に向けさせ、目に流し込んだ。

 沁みそう……。 

 彼女もさすがに、「うぐっ。」とうめく。


 更に、鼻にも流し込んだ。

 「ゲホッ。」

 三島は、鼻腔と口から塩水を噴き出し、激しく咳き込んだ。


 彼女の顔が歪み、涙と鼻汁と涎を垂れ流しながら、大きくあえぐ。

 しかし、まだ終わりではなかった。

 老人は三島の首を横に傾けさせると、左右の耳にも塩水を注いだ。


 その間ずっと「おん ころころ せんだり まとおぎ そわか。」と唱え続けている。

 頭部にある穴、全てに対する責めが終わった時、三島は立っている事が出来ずに、その場にへたり込んだ。


 老人は、しゃがんだまま動けない三島に

「これで、清めは終わりだ。もう鬼も手出し出来んだろう。」

と安心させるように言うと、俺たちには

「やり方は解ったろう。守役は、自分でやりなさい。塩水は濃いほど良い。」


 やっぱり、俺たちもやるんですか?


・・・・・・・・・・・・・・・


 野郎三人のセルフSMが終わる頃には、三島も徐々に回復し、塩まみれのままだが、服を身に着けていた。

 それにしても、鼻うがいはキビシイ。

 頭の奥に、ジーンと来る。


 三島に成り代わって俺たちがグロッキーの間、三島と老人とが話をしていた。


 「……なるほど。あんたの祖先は、加治神様の重臣だったんだな。」

 「はい。基経様が里見に謀られた時、溝口丹波は関東管領に合力するよう派遣されていて、基経様をお守りする事が出来ませんでした。」

 「この辺りに残っているのは、加治神様が鬼と化してからの話ばかりだから、どういう人物だったかは、伝わっておらんのだ。」

 「基経様は、義に厚く領民思いの良将でした。それだけに怨霊や悪鬼となって里人に災いを成すなど有り得ません。この地を一時手に入れた里見が、旧主への追慕を嫌って作り上げた嘘です。」


 「しかし、江戸期になってから、沼で水練した旗本が、狂死しておるのだよ?」

 「その話ですが……実は狂死したと伝えられている阪本某は、溝口の一族の者なのです。」

 「それは、初めて聞く話だな。」

 「そのはずです。溝口の一族は、亡き主のための復讐を誓って、反里見の陣営であれば、何処いずこへでも参陣し、陣借りもいといませんでした。そのため、広く関東に散り、様々な系統に分かれました。」


 「なるほど、中には結果として徳川に使える者もおった訳だな。」

 「はい。阪本某も徳川への忠誠は揺るぎないものでしたが、基経様への悪評も耐え難く、あのような行為に及びました。」

 「あんたと似ておるな。」

 「同じ気持であったと思います。」


 「それが本当ならば、何故、その者は責めを受けたのだ? 加治神様は守護しこそすれ、怒りを下す事はなかっただろうに……。」

 「A沼や基経様とは、全く関係の無い争いに巻き込まれたのです。阪本は蘭学を好み、また田沼意次の積極財政を支持していましたから。」


 「ほう。幕府老中の田沼意次か。評判の良くない人物のようだが。」

 「田沼意次は重商主義の財政再建派で、身分にとらわれない実力主義の人材登用を行いましたから、守旧派からは忌み嫌われました。また蘭学を好み、平賀源内とも親交を持っていました。田沼と阪本は、源内を介して親しくなったようです。」

 「幕府要人と親交があったのなら、安泰であっただろうに。」

 「意次の息子の田沼意知たぬまおきともが、江戸城内で暗殺された時から、風向きが変わります。」


 「意知を刺殺して切腹した佐野政言さのまさことは、死後『世直し大明神』と称されておるよ?」

 「意知は意次の右腕として、鎖国政策の撤回を目指していましたから、守旧派としてはどうしても排除しなければならない人物でした。」

 「それが意知暗殺の真相であると?」

 「はい。同時に、守旧派の財政再建派への攻撃と追い落としとが、激化します。」


 「田沼意次失脚後、松平定信が『寛政の改革』を成し遂げたと、日本史の授業では習うようだがな?」

 「定信の緊縮財政政策は、実質破たんしています。しかし定信は密告を奨励する恐怖政治を行い、反対を封じます。蘭学に対する弾圧も、その一つです。」


 「阪本氏はその渦にまれた、と言いたいのだな。」

 「阪本が狂死したとされる時期は、意知暗殺後で意次失脚の前に当たります。ちょうど守旧派が攻勢を強め始めた時期でもあります。阪本はA沼で水練を行った事で『狂を発した。』とされ、蟄居ちっきょを申し付けられ、解かれる事無く悶死もんししています。その後、阪本家は取り潰しに遭いますが、遺児は溝口の一族に養われ、血脈を保つ事となりました。」


 「それが、旗本狂死事件の裏事情か。」

 「少なくとも、溝口に連なる者の間では、そう伝えられています。」

 「あんたが、沼に入らざるを得なかった気持ちは理解出来た。しかしだな、あんたの守役たちの立場も考えてやれ。あれ達も、加治神様と溝口殿に連なる者なのだろうが、姫様がオテンバじゃあ、気の休まる時が無かろう。」


 俺たち三人は、密かに目配せを交わし合った。

 俺たちが溝口の一族であるとか、三島が姫様であるとか言うのは、とんだ初耳だが、ここは口を挟まない方が良さそうだ。


 老人は、出会った時とは打って変わった穏やかな口調で

「お前さんがたの、事情は分かった。加治神様は怖いお方ではないようだな。でも、この集落には沼を恐れている者もおるんだ。清水で塩を落としたら、目立たんように帰った方が角が立たんだろう。この前にも、ハイカーみたいな若者が、沼に入っていた事があってな。そいつには清めを施す前に、逃げられた。いきなり、殴りかかってきおってな。怯んだ隙に逃げられた。一週間ばかり前だ。やっこさんに何事も無きゃいいが。」

 「乱暴な話ですね。」

 老人は頷くと、「本当にな。そいつは、あんたの守役と違って優男だったがな。だから、あんた方を見た時に、もう知らんふりしようかと、ちょこっとだけ思ったよ。今回はちゃんと話の出来る人間で良かったが……。オカルト本なんかに、載ってしまったせいで、ここ何年か年に一、二回は、そんな事がある。」


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