血塗られた魔女の話
昔々、気が遠くなるほど遥かな昔。
ウルネルドに、まだ神がいた頃のこと。
大陸イヴハルドには、咎人の娘がいた。
宵闇のような黒髪と、輝く空色の双眸、そして雪の肌を持つ年若い子どもである。
娘の父母は、恐ろしい大罪を犯した罪人であった。
その咎ゆえに、ウルネルドにおわす対の神ウルフェとネルドにより重い罰を命ぜられ、大地の底に燃え盛る業火と、魂をも凍てつかせる闇の中の責め苦にて、贖罪を求められた。
さて、咎人の娘とはいえども、娘のその心根は稀にみるほどたいそう清らかなものであり、娘は父母を深く愛していた。
そして娘は懇願して神々に訴えかけた。
「どうか、どうかこの哀れな奴隷娘のために罪深き両親に情けを。
ああ、どうか、情けを賜りますように。
と申しますのは、いかな罪にまみれた者どもといえども、
この賤しい娘にとっては、ただ唯一の二親でございます。
もし、叶うのでございましたら、わたくしに差し出せるものはなんであろうと、御前に差し出します。
どうか、どうかお慈悲を・・・」
娘の痛切な叫びを聴いた双子神は、だがそれでも重罪人を放免するわけにはゆかぬと、かぶりをふった。
しかし、娘の訴えはあまりに執拗に続いた。
日ごと夜ごとその嘆願は収まることなく、清い娘はその柔肌を刺す粗布をまとい、美しい黒髪には灰をかぶり、サンダルを脱ぎ捨て石畳に額を擦り付けては、神々の前にひれ伏した。
それで思案ののち、神々はひとつの条件を差し出した。
「さあ、清い娘よ。そなたがこれを行えば、あるいは罪深き父母の贖罪の果たされる日も早まるやもしれぬ。
それはつまり、こうである。
ここにひとつの大鎌がある。
それを携え、これから指し示す千の罪人を断罪せよ。その無垢なる魂によって、穢れた魂を刈り取り、罪を祓い去るのだ。
だが、ひとつ心せよ。
穢れた魂を刈り取る際に、その穢れに一切触れてはならぬ。
怖れを抱くことも、憐れみを感じることもならぬ。また、それを愉しんでもならぬ。
さすれば瞬く間にそなたの魂は穢れ、千の千倍、万の万倍の罪を纏うこととなろう。
さあ、行って、戻ってくるがよい。だが自らの魂の清らかさを失ってはならぬ。
もし清さを失い、穢れに染まるなら、その時そなたは咎人となり、父母は地獄の責め苦に遭いながら息絶えるだろう」
清らかな咎人の娘は、神々より授かりし断罪の大鎌を携え、世界を巡る旅に出た。
そうして、一人また一人と断罪をし、大鎌を振り下ろしていった。
年若い娘の身に余る大鎌だが、それが重すぎることはなく、鎌は罪深い魂を嗅ぎ付けると、自らそれを屠った。
だが、無垢なる娘の魂は、いかなる罪を負った者どもの命といえど、大鎌の刃がそれを貪り喰らい、深紅に染まってゆく様を正視し続けることが耐え難かった。
断罪の対象には、娘と変わらぬほど幼い子どももいれば、祝言をあげたばかりの若者もおり、どうしようもない愚者もいれば、不幸のゆえに魂のうちひしがれた者もいた、実に様々。
娘は、誰が何故、何の罪をその背に負っているのか、すこしも知らなかった。ただ鎌が求めるままに、それを行うだけなのである。
清らかな心は鎌を振るうごとに慄き、断末魔の叫びを聞くたび打ち震え、血を浴びるごとに悲しみに囚われた。
それでも父母の為と己が身に言い聞かせ、そして鎌を振りかざし続ける。
すると、やがて清い娘の心は鉛のように重くなってゆく。血にまみれた両手の見下ろすとき、鉄のように冷たくなってゆく。
命乞いをするもの、許しを乞うもの、抗うもの、そのすべてを娘は殺さねばならなかった。たとえ娘の心が拒もうと大鎌がひとりでに動き、娘の腕を動かすのだ。
咎人の愛すべき父母を救うため、そのために殺さねばならないのだ。
―――― ほんとうに?
娘が旅をするようになって十回目の冬が訪れるころ、ついに刈り取られた魂は九百九十に達した。
このころには娘は何の躊躇いもなく罪人を切る捨てるようになっていた。その衣は赤銅色に染まり、輝く青い双眸は濁り、長く伸びた爪には血の塊がこびりついて取れなくなっていた。だがもはや娘は頓着しなかった。―――いくら擦っても血の臭いがとれないのだから。
さて残る十の魂は、大変にどうしようもない悪党たちのものであった。
それは村々を渡り歩いては非道の限りを尽くすことで有名な悪党である。
そして、悪事のまさにその時に、娘は断罪に現れた。
すると、娘の心に炎のような激しい怒りが宿った。
娘は踊るようにして、次々と魂を刈り取った。
そして刃が貪り終えた時のこと、娘の身体をいまだ知り得ぬ戦慄が駆け抜けた。
すなわち、殺戮の喜びである。
娘は悦びに満たされていた。怒りに走り、次々と打ち倒し、大地を血で染めることを悦んでいた。
あかい。あかいぞ。あかだ。あかだ。あかだ。
まだ足りぬ。まだ血が足りぬ。魂が足りぬ。
我こそが正義である。さあ魂を屠るぞ。
あかくなれ。もっとあかくなれ。あかだ。あかだ。あかだ。
娘は狂ったように笑い声を上げながら血を求め続けた。そして、救済したはずの村さえも血で染め上げた。
娘は走り続けた。罪なき血が、大地を覆った。娘の前に立ちはだかる者は何もなく、全ての者は娘の前に膝をつき、こうべをたれる。娘は微笑んでその首の上に鋼鉄の接吻を下す。
深紅を浴びた大鎌を黄昏の空に振りかざした娘の魂は、もはや穢れなきものではなかった。娘は命を狩ることに喜びを見出してしまった。
娘が歓喜の叫びをあげた、その時のこと、突如雷鳴の轟きと共に雲が裂け、鐘の響き渡るような神々の声がした。
「娘よ、かつて無垢なる娘であった者よ。
そなたは父母の罪を洗い流す為に、千の魂を刈り取ったのではなかったのか。
穢れなき心でそれを行うことにより、彼らの現世の罪を祓い、千の善を行うのではなかったのか。
だが今そなたは人間の弱さに打ち負かされ、清らかな魂を穢れで覆った。
それゆえもはや、そなたは清い者ではなくなった。
咎人を生んだ父母の罪は一層重く、彼らは苦しみのうちに地獄で死ぬ。
そしてそなたは、はじめの呪い通り、これまでのすべて、千の罪を背負い、またそれを果てしなく償い続けねばならないだろう。
これよりそなたの名は殺戮者イヴゲルネゼルと呼ばれることになる。
さあ、行くがいい。
罪人の手によって罪人の魂を狩るのだ。
穢れた裁きの仕事が、そなたのなすべき務めとなる。
そして世の定めの時に至るまで、その罪を償い続ける。
世界が終焉を迎えるその定めの日まで、この楔はそなたの元を決して離れないであろう」
神々は、殺戮者イヴゲルネルの名を冠す娘を誰もが見分けられるよう、印を与えた。
娘の宵闇の髪は鮮やかな血の色に、空色の双眸は野獣と同じ黄金色。雪の肌には、幾何学模様に恐ろしい深紅の痣が浮かび上がった。
そして神々は一つの定めを設けた。
「誰でも忌むべき穢れた心によって流血の罪を負う者は、この娘と同じように、その心に相応しく呪いが身に刻まれるように。
その者は必ず裁きを受けねばならない。
どこへ逃れようとも、呪いは殺戮者を呼び、殺戮者によって罪人は裁かれることになる」
こうしてウルネルドには、イヴゲルネゼルという名の裁き人が生まれた。
無益な殺生を行うことは禁じられ、破る者は必ず殺戮者が地の果てまでも追いかけてきて魂を奪う、と、今に至るまでそう語り継がれている。
人々は彼女を「死神」と呼んだ。彼女は常に身の丈以上の大鎌を携えていることから、死神の絵面には大鎌が描かれるようになっているのである。
これこそがウルネルドに君臨する“七人の魔女”のうちの一人である。
神代の頃から存在するとされる殺戮者。
しかし、その姿を目にしたことのある者はごく少ないという。
それがまことに何千年の昔から生き続けるという魔女なのか、あるいは魔女の遺志を継ごうという誰かなのかは、誰も知らない―――そう、殺戮者本人と、偉大なる魔女たちを除いては。
もしあなたがどこかへ行って、血色の髪に野獣の双眸、大きな鎌を持つ女を見かけたら―――それは誰か、新たな咎人の血を求めて彷徨っている血塗られた魔女かもれしれない。
Fin