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「――はい、ここまでにいたしましょう。本日も大変結構でございました」
「ありがとうございました」
家庭教師による講義が終わり、ふうと一息ついて振り向くと、出窓の下には一心不乱にお絵描きをする、まあるい姿。
「エリザベス様、見せてくださいな」
「うん! あのね、たくさんかいたの!」
床に広げていた大きな紙を、ばっとこちらに向けて持ち上げてくれるエリザベス様は、今日も可愛らしい。
あの東屋での邂逅の翌日から早速、エリザベス様は私の部屋を訪れてくださるようになりました。
実際に、エリザベス様はよく魔力暴走を起こされました。
荒れた中庭で、時には家具が倒れ窓ガラスが割れた彼女の部屋で。私は何度も、エリザベス様が泣き疲れて眠るまで抱きしめました。
台風の中心は凪いでいるのと同じで、ぴったりとエリザベス様を抱く私に傷がつくことは決してありません。
怖い夢を見るのか、夜中に取り乱すこともあり、泣きながら部屋を飛び出したエリザベス様をメグ達と一緒に探して回ったことも一度や二度ではありませんでした。
そんな風にしながらも、少しずつ少しずつ落ち着かれるようになりました。
そうして半年たった今では暴走もほぼなくなり、私が講義を受けている間は、一人でお絵描きなどして待っていることができるほどに変わりました。
年齢的に講義自体はまだ早いのですが、二人でできるようなマナーレッスンや、隣国の言葉などの授業は一緒に受けたりもしています。
私の部屋にはエリザベス様の洋服や小物などを侍女に頼んで置いてもらい、ここは二人の部屋のようになりました。
二人で休んでもまだまだ余裕のある大きな寝台の上には、エリザベス様のお気に入りの黒いウサギのぬいぐるみがいつもちょこんと座っています。
「まあ、綺麗なお空……上手ですね。もっとお絵描きをしますか?」
「ううん、グレイスおねえさま。こんどは、おにわであそびたいの」
「それじゃあ、ジョンにお花を見せてもらいましょうか?」
アニーが承知したと頷き、メグが支度のためにさっと退室します。
侯爵家の侍女は優秀ですから午後のお茶はあの東屋でいただけそうですね。
私は籠にお人形遊びの道具を入れて、エリザベス様は布で作った鞠を手に。
中庭へ向かう途中、廊下で奥様と偶然行き合いました。
「奥様」
廊下の端に寄り礼をとる私などいない者のように、奥様は侍女を連れて通り過ぎていかれます。私の傍で、息を殺して小さくなるエリザベス様にも一瞥もくれません。
これが奥様の距離感なのだと、理解するのに時間はかかりませんでした。
貴族の子育ては乳母に任されます。エリザベス様にも乳母がいたのですが、体調を崩し二歳の頃に辞してしまいました。
人見知りで警戒心の強かったエリザベス様は、後任の乳母と合わなかったのか、その頃からいわゆる問題行動や魔力暴走を頻繁に起こすようになったそうです。
結果、怪我や精神的負担に悩んだ乳母や侍女が次々と辞めてしまっていたのが、私が来た半年前当時の状況でした。
魔術院の担当官が定期的に来てくださるとはいえ、侯爵邸内では彼らに出来ることも限られて。
ほとんど帰宅しない父親に、子どもに関心を寄せない母親。
心を許せる乳母も、気楽に近寄れる侍女もなく、自らの魔力によりさらに孤立する……そんな状況、まだ幼い子なら当然、癇癪の一つも起こしたくなるでしょう。
優しい子です。自分の力が他人を傷つけると知っていました。
それならば、他人と距離を取るしかありません。困らせようと悪戯で逃げ出していたのではなく、守ろうとしていたのです。
言葉も拙い小さい子が、人恋しい心に重い重い蓋をして。
私は特別何ができるわけでもありません。ただ、娼館でお母さまやおねえさまにしてもらい、私が子どもたちにしていたことを、エリザベス様にしました。
泣いた時は膝に抱き、一緒に食事をとり、眠れない夜は子守唄で寄り添って。
そんなごく普通のこと、でも侍女では身分差のために簡単にはできないことを。
夜に深く眠れるようになると昼の行動が落ち着き、少しずつ語彙が増えていきました。
花が開くように笑顔が増えていくお顔を見るたび、ほんとうに何気ないことにこんなに飢えていたのかと胸が痛くなりました。
エリザベス様は、皆が言うような「癇癪持ちの暴君」ではなく、ただの寂しがりの小さい女の子だったのですから。
手をつないで中庭に出ると、向こうからジョンが来てくれます。
「こんにちは、お嬢様方。おや、エリザベス様いいものをお持ちですね。遊ぶのでしたらこちらでどうぞ」
「グレイスおねえさまが、つくってくれたのよ! ころがすと、おとがするの」
そう言ってエリザベス様は私が作った手鞠を高く掲げました。
端切れに刺繍をして作った丸い玉は、綿とともに詰めた鈴がチリンチリンと鳴りながら転がっていきます。
ジョンに勧められた場所は薔薇の花壇からは離れているので、多少行き過ぎても棘の茂みに入り込むことはないでしょう。
「ジョン、ありがとう。お仕事中にごめんなさいね」
「今年は球根も守れましたし、この程度。いつでもお呼びください」
冗談めかして片目を瞑ってみせるジョンと笑い合います。
しばらく鞠を転がして遊び、東屋でお茶をしていると、屋敷からコナーさんが来るのが見えました。珍しく慌てているようです。
「失礼いたします。急に旦那様がお戻りになられまして――お客様をお連れになりました。お嬢様方にお相手をお願いするとのことです」
「まあ……わかりました。どちらのお部屋に伺えば?」
「いえ、こちらにいらっしゃいます」
「こちらに?」
――驚きました。
侯爵様が昼間にご帰宅されたことももちろんですが、定期的にいらっしゃる魔術院の方を除けば、この半年で私達がお相手をするようなお客様は初めてです。
もちろん奥様がお茶会や夜会を催してはいるのですが、まだお披露目前の私達には関わりのないこと。それゆえ、お客様とも顔を合わせたことがありません。
なのに今日に限っては、私たちにお相手をしろと仰る。
考えられるのは……そう。
「お相手をするのは、お客様が連れになったお子様でしょうか?」
「……そうとも言えますし、そうでないとも」
これまた珍しく、歯切れの悪い返事をいただきました。あまり追求しないほうがよさそうです。
そうこうするうちに貴族服を着た男の子がやってきました。近づいてきた男の子の姿形、後ろに従えた護衛の方を見て――膝を折った私に慌てて皆が倣いました。
「レナード殿下にはご機嫌麗しゅう」
「なんだ、知っているのか。つまらないなお前」
突然のお客様は、この国の王子殿下でいらっしゃいました。