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「わあ……きれいねえ……」
案内されたのは森にある泉。ちょうどぽっかりと樹々が開けたそこに、静かに湖面をたたえ、とぷりとぷりと透明な水が満ちていました。
辺りには鳥の声と風にそよぐ葉擦れの音。葉と枝の天井が開いた空から差す日の光……森に来るのも泉を見るのも初めてで、なんと言っていいのか言葉になりません。
「小さい頃は夏になるとここでよく水浴びをしたのですわ」
「俺らは今もするけどな」
そんなことを言いながら慣れた手つきで近くの木に手綱を結びつける二人。その声を聞きながら私は泉から、その周りの森から目が離せません。
こんなにきれいな景色、見るだけでなくその中に自分がいるなんて。
「……絵を描く用意をしてくればよかったわ。でも、こんなに素敵な景色は描けそうにないわね」
「ほら、エリザベス様こちらにいらして」
セイラさまに手を引かれた先は泉のほとりの大きな岩の上。ちょうどベンチのように平らになっていて、座ると泉を覗き込めます。
澄んだ水は底の石に光を反射して水面へ戻し、きらきらと光っています。
セイラさまが手袋を外した指先でつうう、と水面を触ると小さなさざ波が起きました。
「冷たくて気持ちいいですよ」
波紋が静まるのを待って、私もそっと水面に触れてみます――冷たい水。静かな水。私の指先が落とす雫から広がる輪の模様。
しばらくの間、飽きずに手を泉に入れ続けるわたしを二人は微笑んで見ていてくれました。
気づくと、草地の上に敷物が敷かれ昼食の入った籠が用意されていました。
二人とも荷物らしきものを持っていなかったはずなのに、と思って尋ねると、フレイザー家の護衛の方が私が気づかないうちに荷物を持ってついていてくれたそうです。
元騎士団員で、ヴィンセントさまが護衛として雇ったとお聞きしました。
「今もその辺にいますよ。なあ、ニール」
「……全然わからないわ。すごいのね」
ブライアンさまが呼ぶとどこかでコンコンと木を叩く音がしました。ぐるりと見回しても影さえ見つけられません。
彼は、守られる本人にも分からないように護衛するのが得意だそうです。
魔力で探査をかけても、気をつけていなければ見過ごしそう。本当、すごい。
サンドイッチやフルーツケーキ、果物に紅茶。外でいただく食事はとても美味しかったです。
ブライアンさまはすごい速さでパクパク食べると、少し走らせてくると言って楽しげに馬を連れていかれました。
「とってもきれいで静かな森ね。小さい頃から何度も来ているなら “妖精の卵” は見たことがある?」
「残念ながら。ずっと見たいと思ってるのだけど」
“妖精の卵” ――それは、清浄な森の奥深くに隠れているという妖精の赤ちゃんたち。
人の目には金色の小さな光に見えるそうです。人が近づくと隠れてしまうので、なかなか会うことは難しいと本に書いてありました。
こんなに素敵な森なら会えそうなのですけど。
私は紅茶のカップを片手に、また泉のほとりの石の上に戻ります。
空気までも緑色に輝いていそうな森の中で日差しにきらめく泉。本当に、妖精や精霊さまがいても不思議でない雰囲気です。
「気に入っていただけましたか?」
「ええ、とっても……お姉さまにも見せたいわ、レンにも」
「そういえば、エリザベス様はレナード殿下と仲が良くていらっしゃいましたわね」
「そうなの。レンは、セイラさまに会うまでの私のたった一人のお友だちなのよ」
「え、私はご婚約者候補だって聞きましたけど」
「え?」
「え?」
二人で顔を見合わせます。
婚約者? 誰が? 誰の?
え、レンと……わたし?
うろたえるわたしを見て、セイラさまは気まずそうにしながら言いました。
「ごめんなさい、私の早とちりでしたわね。きっと、そうなったらいいなあって思ってたから、つい……」
「そ、そうなの。びっくりしたわ……婚約者……そういえば、セイラさまは婚約者がいらっしゃったわよね、どんな方?」
「あ、そう、ですわね、あの……」
慌てて話題を変えようとしたら、今度はセイラさまが真っ赤になって口ごもってしまいました。
それでも、今レンの話に戻るのはなんだか困るので、じっと待ちます。
「……ユージーン様は。ブライアンお兄様と同じ年で、私が生まれる前から家同士でお付き合いのある方なのです。ずっと私のことは妹みたいに思って下さってて」
「そうなの。婚約されたのはいつ?」
「ユージーン様が学園に入られる時、に……」
「それは家のお約束、それとも?」
首まで赤く染まったセイラさまを見れば、返事は聞かなくても分かりました。
今度はセイラさまが私に詰め寄ります。
「もう、エリザベス様ずるいです、私ばっかりっ。エリザベス様は殿下をお好きではないの?」
「好きよ。大好き。お姉さまと同じくらい大好きよ」
これははっきり言えます。セイラさまは少しぽかんとされて、ふと気を取り直しました。
「……どんなところが?」
「レンはね、優しいの。私の思ってることを大事にしてくれるし、待っていてくれる。それに何より、わたしを怖がらないの」
「怖がらない?」
「わたしの魔力は多いでしょう。小さい頃は制御ができなくって、周りのみんなに怪我させてばかりいたわ。だからずっと怖がられていたの。わたしもそんなの嫌だったからずっと一人でいたの」
そんな、と小さく呟いて悲しい顔になってしまいました。
ああ、そうじゃないの。こんなきれいな場所でそんな悲しい顔をさせたいんじゃないの。
「ううん、でもお姉さまがいらしてくれて。すごく……すごく変わったの。それにレンは私をひとつも怖がらなかった。わたしに会った最初から防御も張らずに怖がりも怯えもしなかったのは、お姉さまとレンだけ。ケンカしても、私が何をするかって構えたりしなかったし」
「け、ケンカ?」
「初めて会った時に、鞠の取り合いになったの。あ、そのあとはケンカしてないけれど」
思い出してふふ、と笑うわたしを不思議そうに見るセイラさま。
……あれはもう何年前だろう。わたしの、大事な思い出。
そういえば、いい機会なのでセイラさまに聞いてみたいことがありました。
この前お父さま、お母さまから、わたしの結婚についてお話があったのです……フォーサイスの跡取りのことは考えなくていいって。
お姉さまはお嫁にいったから、わたししかいないのだけど、色々方法はあるから、好きな人がいるなら家のことは気にしないで一緒になりなさいって言われました。
政略結婚などで、わたしにこれ以上の負担を負わせたくないからと。
正直、好きな人も政略結婚もよくわからない。
けれど、お父さまとお母さまが、すごくわたしのことを考えてくれているっていうことは分かったから、ありがとうございますってお返事をしました。
でも、好きな人と言われても……お姉さまとレン、メグ、セイラさま。あ、アニーやブライアンさま、アンガス先生も好き。ドレイクさまも、ヴィンセントさまも。
それに、結婚するってことは相手も私を好きでいてくれたほうがいいのよね、きっと。
お姉さまたちみたいにお互いが好き同士がいいはずよね。
でもそれってどうしたらそうなれるのかしら。
好きな人に好きになってもらうのって、どうしたらいいのかしら。それより何より――
「ねえ。セイラさまはユージーンさまがお好きなのよね。でも、お家の付き合いがあるなら、婚約しなくとも会えるわけよね。どうしてわざわざ?」
婚約や結婚をする“好き”は、一体どんな“好き”なの?
「――私も、そう思いました。ユージーン様は私を妹として見ているし、結婚しなくともこれまで通りお付き合いはできます。兄たちとは本当の兄弟みたいに仲が良いですし」
「でしょう。それなのに、どうして?」
「……嫌だ、って思ってしまったんです」
「嫌?」
「子どものうちは一緒にいられても学園に入ったり、お仕事をしたりするようになった時に……私のいないところで、ユージーン様が誰か素敵な女性と並んで歩くのを想像したら、嫌だって。こんなのただの我儘なのに、他の誰でもない、私が隣にいたいって思ってしまったんです」
小さい声で赤くなった頬を両手で押さえながら、涙目で話してくれるセイラさま。
「ユージーン様にとって私は妹でも、私にはとっくに兄ではありませんでした。でも、内緒にしていていつか諦めるつもりでした……だって“妹”に言われても困るでしょう? だから、申し込まれた時は嬉しくて。断るなんてできなかったの」
「……そうなのね」
もし、レンが。わたしの知らないところで誰か他の女の人と……?
お姉さまがラルフォードおにいさまと一緒にいるのは――うん、平気。仲良くていいなあって思う。
でも、レンは? レンが誰かと仲良くして、わたしをもう見てくれなくなったら? わたしじゃない誰かの手にもキスをするの?
……わたしは、知らないうちにすっかり冷えた紅茶のカップを両手で握りしめていました。
「――そういえばエリザベス様は学園へは行かれるの?」
「魔術院の先生には行ったほうがいいって言われてるわ。セイラさまは行かないのよね」
きっとわたしは困った顔をしていたのでしょう、セイラさまが明るい声で話を変えてくれました。
「私は魔力も低いですし、特に結びたい縁もないですから……お父さまたちもそれでいいと」
「すてきな婚約者さまもいらっしゃるものね」
「え、エリザベス様っ!」
セイラさまはまた真っ赤になりました。色が白くてすぐ赤くなるところも、お姉さまみたい。
「でもどうしようかと。だって学園って人がたくさんいるんでしょう? わたしそんなところ初めてで。魔力だってまだ持て余しているのに……危なくないかしら」
「大丈夫だと思うよ、エリザベス様なら」
「お兄様! もう、またびっくりさせて。戻られたのですね」
馬に乗っているのに足音もしませんでしたわ。護衛の彼もだけれど、ブライアンさまもすごいのですね。
「たくさん走れましたか? わたしが乗っていたから、ゆっくりで物足りなかったのでしょう」
「そんなことないですよ。でも、馬は走るのが好きですからね。特にコイツはいくらでも走りますから」
わたしを乗せて来てくれた馬の首をそっと叩くと、顔を寄せてきたのでつやつやの鼻面を撫でました。
気持ちよさそうに目を閉じるのがかわいいです。
「おとなしい子ね。かわいいわ」
「わたしにはちっとも懐かないのに……エリザベス様、なにかコツがありますの?」
コツ? 少し考えてハッとしました。
「わたし、人に対しては構えてしまうのだけど、動物が相手だと緊張しないわ。それかしら」
「ああ、そうかもしれないですね。時に馬なんかは乗る人の心を読みますから、怖いって思ってると伝わるんですよね……学園に行ったら周りの人は馬だと思えばいいんですよ、エリザベス様」
「まあ、それなら平気そうね?」
うんうんと頷くと、泉の水が湧いている方に移動して馬たちに水を飲ませるブライアンさま。
気づけばすっかり午後の日差しになっていましたので、名残惜しいですが帰り支度を始めます。
最後にもう一度、この景色をしっかり目に焼き付けて泉と森を後にしました。




