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本編後の、エリザベスのお話になります。
馬車には何度も乗っているけれど、乗馬は初めてでした。
地面との距離を怖く思ったのは最初だけで、ゆったりと余裕のある足取りに、すぐにその高さも楽しめるようになりました。
後ろで手綱を握り、私を支えてくれるのはフレイザー家のブライアンさま。去年の一時、私とグレイスお姉さまの専属護衛をしてくださってからのお付き合いです。
「エリザベス様はバランスを取るのがお上手ですね。きっとすぐに一人で乗れるようになりますよ」
「そうかしら。この子はいい子だから乗れてるけれど、難しそうだわ」
栗毛の首元を撫でながら言うと、隣を歩くセイラさまからも声がかかります。
「その子は好き嫌いが激しくて、私のことは乗せてくれないのですよ。エリザベス様にはちっとも嫌がりませんでしたもの、きっとどんな馬でも大丈夫ですわ」
「本当に? そうなら嬉しいけれど……。セイラさまは一人で上手に乗れてすごいわね」
「男兄弟に囲まれてますから。実はおてんば娘なんですよ、私」
どこにでも連れ回したもんなあ、と悪びれもせずに言うブライアン様と三人で笑いました。
ここはフレイザー侯爵家にほど近い森。なだらかな傾斜が続く小道を、木漏れ日を浴びながらゆったりと馬に乗っています。
去年までフォーサイス侯爵家から一歩も出たことのなかった私が、なぜこうしているかというと、話はひと月ほど前に遡ります。
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「グレイスお姉さま、お姉さまも今度ダッカに行かれるのでしょう?」
「私は残ろうかと思っていましたわ。侯爵様も奥様もお留守になりますし、エリザベス様をお一人にするわけには……」
「おや、そうなんですか。それはラルフォードが見ものですねえ」
なんてことはない風に笑ってみせるお姉さまに、ああやっぱりと思ってしまいました。
ラルフォードおにいさまは今は王都と国内外を行き来してお仕事をされているけれど、ゆくゆくはダッカ領に戻りサイレイス辺境伯を継ぎます。
だから時々ダッカに戻って、お仕事やいろんなことをしなくてはいけません。
本当なら、おにいさまと結婚したからお姉さまも一緒に行かなくてはいけないはずなのに、私のために王都に残るとおっしゃいます。
……ちょうど、お父さまが外国に行く時期と重なってしまうから。
今回の渡航はお仕事の都合上、お母さまも同行なさいます。
なので、侯爵邸には私とお姉さまだけ。お姉さまもダッカに行かれれば、私一人。
もちろん、使用人のみんなや護衛の方たちはいますし、みんなの不在が重なっているのはほんの四日間です。
だから大丈夫だと言ったのに。
「だって、四日もエリザベス様を一人にするなんて……」
「まあ、心配なのはよっく分かる」
「ヴィンセントさままでそんなこと。わたしもう、そんなに子どもじゃないわ。お留守番くらいできるわよ」
だってもう十二歳なのよ。もうお姉さんだと思うの。それは、正直……寂しいけど。
「リズ、その間は王宮に来ない? それならグレイスや侯爵も安心だろう」
セルマお祖母様の離宮でもいいよ、ってレンが大変なことを言い出しました。
魔術院へはよく行っているけれど、王宮へはわたしはまだ入れないはずよ。お勉強で習ったわ。ほら、お姉さまも困ってる。
「それは安心には違いないですけれど、エリザベス様はお披露目もまだですし、王宮には……」
「大丈夫だよ、みんなよく知っているし」
「そういう問題では、殿下」
「ああ、じゃあ、フレイザー家はいかがですか? ちょうど学園も休みに入るからブライアンも戻るだろうし、エリザベス様がいらっしゃればセイラもシリルも喜びますよ」
「え、本当!?」
「王都から馬車で半日しないで着きますし。領地に森やなんかもありますから、きっと楽しめますよ」
ぜひどうぞ、とにこにこするヴィンセントさまと反対に、レンは面白くなさそうだったけど、その提案はすごく素敵に思えました。お姉さまもそれならば、と悪い気はしていなさそうです。
お父さまも、娘二人で残すより安心だと賛成してくれましたので話はトントン拍子に進みました。
「私だってこの秋から学園へ入学するから、リズにますます会えなくなるのに……」
「うん、だからレン。ブライアンさまからたくさん学園のお話聞いてきて教えてあげるわね!」
まかせて、と胸を張る私にレンはちょっと困った顔で楽しみにしてる、と言いました。
お姉さまとラルフォードおにいさまが、ダッカに向けてお発ちになってから半月ほど。
お父さまたちが出発の日に、学園からフレイザー侯爵家に戻るところだというブライアンさまが私を迎えに来てくださいました。
「では侯爵、責任もってお嬢様をお預かりします」
「ああ、頼んだよ。ご両親にもよろしく伝えてくれ」
いってきますといってらっしゃいを両方伝えて、お父さまにギュッてして、お母さまと指先でちょん、として馬車に乗り込みます。
荷物はメグがもう一台の馬車に積んでくれていて、門番の人にも手を振って外に出た馬車は、私の知らない道をどんどん進んでいきます。
馬車も外の景色も新鮮で、キョロキョロする私をブライアンさまは面白そうに見ていました。
「楽しそうですねえ」
「楽しいわ! あ、あれは何?」
「――ああ、あそこは最近流行りのレストランですね。劇場のように凝った造りでしょう? 店の奥が舞台になっていて夜に芝居や演奏を披露するんですよ。食事しながら観られるって評判です」
「ブライアンさまも行ったことあるの?」
「学園からは抜け出せませんから。残念ながら話ばかりですよ」
向こうはなに、こっちは、などと言う私にいちいち丁寧に答えてくださるブライアンさまのおかげで、ちっとも退屈も馬車酔いもしないうちにフレイザー侯爵家の領地に入りました。
建物の大きさは同じくらいに見えるけど、フォーサイス侯爵家に比べるとがっしりして男性的な造りのフレイザー侯爵家。
誰かのお家に来るのも初めてで、馬車を降りる時になってドキドキしてきてしまいました。
「緊張してますか? 急に静かになりましたね」
「今日は初めてのことばかりだって、今、気がついたの」
「はは、そうでしたね。セイラが待ちわびてますよ、どうぞ」
ブライアンさまに手を引かれて玄関の扉をくぐると、ホールで待ち構えていたセイラさまに飛びつかれてギュッてされました。
後ろに倒れそうになった私を、ブライアンさまが支えてくださいます。
「エリザベス様、ようこそいらっしゃいませ! お待ちしてましたわ!」
「セイラ姉様ずるいです。僕にもご挨拶させてください」
「セイラ、シリル。離しておあげなさい、エリザベス様がつぶれてしまいますよ」
フレイザー家の皆さんからあたたかい歓迎を受けて、そのまま奥に連れて行かれました。
「いらっしゃいませ、エリザベス様。初めましてですわね、この子たちの母親のフィオナ・フレイザーですわ。主人は今日は帰りが遅いので、明日にでもご挨拶させてくださいませね」
四日間どうか自分の家だと思ってくつろいで、と応接室ではなく家族用の居心地の良い居間に案内してくださったフィオナ様。
手ずから淹れてくださったお茶は、ミルクがたっぷりでとても美味しい。
「お友だちが泊まりに来てくださるのは多くないから、この子たちもそれは楽しみにしていましたのよ。特にセイラが」
「だって、私のお友だちが泊まりに来るのは初めてなんだもの! いつもお兄様たちばかり楽しそうで」
「そうなの? 私はどちらも初めてよ。いつもセイラさまに来ていただいてましたわね」
「今度は私がエリザベス様に教える番ね。お茶を飲んだら家の中を案内するわ!」
セイラさまとは、あの事件の後にブライアンさまから紹介されて知り合いました。
ゆるくウェーブした黒髪に、ヴィンセントさまに似てるけどもう少し濃い緑色の瞳の、一つ年下の女の子。少し雰囲気が、グレイスお姉さまに似ています。
私の魔力制御は魔術院の先生にも褒められるくらいになってきているけれど、初めて会う年下の女の子にどう思われるか心配していました。セイラさまは魔力が少ないと聞いていましたし。
けれど、初めて会った時セイラさまはすぐに握手してくれて。
聞いたら、ちっとも気にならないって笑ってくれたの。
セイラさまからは私を怖がる気配が一つも感じられなくて、すごく安心してそばにいることができました。
一緒に絵を描いたり、私のピアノに合わせてセイラさまが歌ったり、それにお姉さまがリュートを合わせてくれたり。
セイラさまが来てくれる時はとても楽しくて、何日も前からわくわくしちゃうの。
そういえば、セイラさまとレンと三人ではまだ一緒に遊んだことがなかったです。
大好きなお友だちの二人が仲良くなってくれたら嬉しいのだけど、この頃レンはとっても忙しいみたいで前のように家に来るのが難しいと言っていました。
私も会えないと寂しいのだけれど……いつか機会はあるかしら。
屋敷の中をセイラさまと弟のシリルさまに案内してもらっているうちにその日は暮れていきました。
たくさん喋ってたくさん笑って。
気づけば、明日お天気が良ければ森へ行くことになっていたのです。




