しっぽの秘密
本編 (18)の前、初夏の頃
エリザベス視点
あれ、と思ったのは、お姉さまとお庭にいた時。
アニーとメグは東屋でお茶の片付けをして、お姉さまがジョンと部屋に飾るお花のことでお話しを始めたので、少し離れてたくさん咲いた庭の花を見ていました。
そうしたら、見たこともないような大きくてきれいな蝶々が飛んできて、ふと目の前の花にとまったのです。
長いドレスの裾のようにひらめく黒い羽に、宝石みたいな緑色の模様……ゆったりと風に乗るように翔んで、少し離れた花びらにまたとまる。
その姿をもっと見たくて、わたしもそっと後を追います。
「―― 、――」
うっとり見とれていたら、どこからか小さな小さな声が聞こえました。
蝶々はそれが聞こえたのか風に驚いたのか、ふわっと飛び上がりひらひらと飛んでいってしまって。
空に踊るように消えていく蝶々を見送りながら、耳を澄まし弱く魔力を巡らせて、時々小さく聞こえてくる声を探します。
「……こっち?」
覗き込んだのは、小さい頃によく隠れていた茂み。
お姉さまが来るまで、逃げて隠れてばかりいたわたし。
あの頃を思い出して少しだけきゅっとした胸を押さえて、そうっと木の下を見ると――そこには、小さな白い毛玉が長いしっぽを揺らしていました……ねこ。仔猫。
あの時お姉さまがしてくれたように、そうっと手を伸ばしたら、小さな声でニィニィ鳴きながら少しづつ近寄ってきてくれました。
わたしの指を舐めるザラザラの舌にびっくりして手を引きそうになったけど、急に動かすと驚かせてしまうと思って頑張りました。
指先で触れた仔猫の毛はふわふわで柔らかい。
綿毛のように細いのに温かい。
そうっと手を動かしてゆっくり撫でたら、手のひらにスリスリって顔を寄せてきました。
「……かわいい……」
真っ白な仔猫。かわいい仔猫……私のことを怖がらないで近寄ってくれる。
両手でそっと包んだらおとなしく乗ってきました。手のひらに感じる体温と、とくとくとせわしない鼓動。
ゆっくり茂みから出すと現れたのはきれいな黄色い目。ふわふわの白いからだ、黄色いひとみ、耳の内側はピンク色。
かわいい。かわいい。すごくかわいい。
仔猫を抱くのは初めてだったけど、お人形の猫を抱くように片手の上に乗せてもう片方の手は添えるようにしてわたしの体にぴったりくっつけたら、安心したようにコテンと頭をくっつけてきました。
ニイ、と小さく鳴いて私わたしを見上げるまんまるの瞳。
……あったかい。
揺らさないようにそっと、お姉さまがいるところに向かいました。
**
「まあ、エリザベス様!」
「仔猫……ですね」
「向こうの木の下にいたの、わたしが見つけたの」
わたしの腕の中で安心したように大きくあくびをする仔猫……フォークの先っぽのような、小さい小さい白い歯が見えました。
「……可愛いわ」
「ねえ、かわいいの。あったかいのよ」
お姉さまも仔猫をかわいいって思ったみたい。
抱っこする? って聞いたら私が抱いていて、って。
「エリザベス様に抱っこされて気持ちよさそうですもの。動かしたら可哀想ですわ」
「仔猫の近くに親猫はいませんでしたか、エリザベス様?」
「いなかったと思うわ。もしかしたら、ごはんを取りに行ってるだけかもしれないけど」
「首輪もありませんものね、野良猫かしら」
「それにしちゃあ綺麗な毛ですよ」
こんなに小さな仔猫が、たった一匹でこの広い庭にいるのは不思議なのだそうです。
手にかかる軽い体が少し重みを増し、さっきまで時々聞こえていた小さな鳴き声がしなくなったと思ったら、私たちが話しているうちに眠ってしまっていました。
目を閉じて、気持ちよさそうにお腹が膨らんだり引っ込んだりしています。
「……どうしよう、お姉さま」
「どうしましょうね」
お姉さまと困ったように笑って顔を見合わせました。
風も強くなってきて雨が降りそうな雲行きに、とりあえず邸に戻りました。
使用人の誰かが知ってるかもしれないからと、コナーさんに聞いてもらうことにして、眠った仔猫を部屋に連れて行きます。
床にクッションを置いて寝かせていた仔猫が起きる頃、汚れてはいないみたいだけど一応、と言ってメグがお湯とタオルを持ってきてくれました。
温かいお湯にタオルを浸してぎゅううっと固く絞って仔猫を撫でるように拭きます。
顔、背中、おなか、足……小さい足、小さい指、小さい爪。かわいい。
「お姉さま、てのひらに丸いのがあるわ!」
「肉球ですよ」
「にくきゅう……ふふ、ぷにぷに」
耳や鼻と同じ、薄ピンク色の丸いぷにぷに。
触った感じが面白くて何度も指でツンツンしてたら、しっぽでぱふんと叩かれました。
「ごめんね、もうしないわ……今は」
拭き終わり、乾いたタオルで撫でるように少し濡れた毛を拭きました。
やっぱりそんなに汚れてはいなかったけれど、さらにツヤツヤのふわふわになりました。
前足の下に両手を入れて抱き上げて顔を合わせます。潤んだ黄色いひとみと視線が合うとニア、と鳴きました。
「それにしても、エリザベス様によく懐いてますねえ」
「そうなの?」
メグがタオルを片付けながら、感心したように言います。
「ちっとも嫌がりませんし。噛まれたり引っ掻かれたりもしていないでしょう?」
「そんなことするの? こんなにおとなしいのに」
「しますよぅ。わたしは近所の猫を構いすぎて、嫌われていました」
眉を下げて笑うメグとお姉さま。膝の上で伸びをする仔猫が突っ張った前足がくすぐったくて、わたしも一緒に笑いました。
そのあと実家で猫を飼っているというメイドの一人が、仔猫のご飯やトイレをを用意してくれたけれど、みんながびっくりするくらい仔猫はおりこうさんでした。
夕食の後コナーさんが来て、使用人で知ってる人はいないみたいだと教えてくれました。
ただ、今日お休みの人が何人かいるので、明日また聞いてみるそうです。
「……お姉さま、誰の猫でもなかったら、わたしが飼ってもいいかしら。お父さまは許してくれると思う?」
「こんなに大人しくてエリザベス様に懐いているのですもの、ダメとはおっしゃらないと思うわ。今夜のお帰りは遅いそうだから、明日にでも聞いてみましょうね」
飼えるかしら。明日も明後日もこの子と一緒にいられるかしら。
メグが持ってきてくれた籠に小さいクッションを引いたのをベッドにして枕元に置きました。
時折、籠の縁から見えるぴょこんと揺れるしっぽに手を伸ばしたくなるのをぐっと我慢します。ちゃんと眠ってるかな、いなくなってないかな……気になってその夜はなかなか寝つけませんでした。
「おはようございます、エリザベス様――あれ、仔猫と一緒に寝たのですか?」
朝、メグに起こされてびっくりしました。すごくあったかいなと思ったけど、仔猫がわたしの首のすぐ横で丸くなって眠っていたのです。
「わたし、ちゃんと籠に入れたのよ。何回も確かめたもの……出てきちゃったのね」
「眠ってて寒かったんでしょうか。お母さん猫が恋しいのかもしれませんね」
そうだ。このこはまだ赤ちゃんで、本当ならお母さん猫といたいはず。
……おかあさん。
お母さま。
……お母さまは、わたしをどう思っているんだろう。
お姉さまのお披露目の後から、お父さまとはお話しするようになりました。
メグは、旦那様は口下手な上に笑顔が苦手ですねえ、ってこっそりため息ついているけれど、そっと撫でてくれる手は温かくて大きくて、胸がほんわりするの。
魔術院の先生からいろいろ教わっていくうちに、わかったことがあります。
わたしの、この他人の感情に関する魔力はお父さまと同系ということ。
お父さまが今までわたしに触れなかったのは、わたしを守るためなんだっていうこと……お父さまは表には出せないけど、わたしやお姉さまのこと、大事に思ってくれてるってわかったの。
いつか、わたしがもっと魔力を上手く使えるようになったら。
お父さまに、もう制御しなくていいのよって言えるかな。
でも、お母さまは、どうなんだろう。
わたしをどう、思っているんだろう。
わたしは、お母さまをどう思ったらいいのだろう。
仔猫を抱きながらぼんやり思っていたらドアがノックされました。
「エリザベス様、おはようございます。朝ごはんの前に仔猫を連れて侯爵様にご挨拶に行きましょう?」
「お姉さま、おはよう! 仔猫がね、カゴにいたはずなのに出てきちゃったのよ」
あらあら、と笑うお姉さまと一緒に仔猫を抱いて部屋を出ました。
お父さまは仔猫を見て驚いたようだったけれど、飼うのは構わないって言ってくれました。
抱っこさせてあげたらこんな小さい仔猫にすごくおっかなびっくりで、壊してしまいそうだってあっという間に私に戻されて。
こんなお父さま、初めて見たからなんだか面白かったです。
朝ごはんの後は、お姉さまは神殿からお迎えが来てお手伝いに出かけてしまったし、わたしは家庭教師の先生とお勉強。
その間は家政婦のマーサさんの部屋で見ていてもらって、ようやく午後にメグが仔猫を連れて来てくれました。
「いい子でしたけど、少し寂しそうにしてたって言ってましたよ。エリザベスさまと一緒がいいんですねえ、この子」
「そうなの? わたしも会いたかったわ!」
ラブラブですねえって面白そうに仔猫を渡してくれました。
おかえりなさいと抱っこして顔を覗き込むと、また小さく鳴いてまるで返事をしてくれたみたいで嬉しくなります。
転がした鞠を追いかけたり、ベッドに登ってみたがったり。室内でかわいい冒険をしていたら、コナーさんがメイドの一人を連れて部屋に来ました。
「エリザベス様。もしかしたら、このキャシーの猫かもしれないと」
「あ、あの、昨日持ってきた荷物に入り込んだかもしれなくて……」
言いにくそうに切り出したコナーさんの後ろで、気まずそうに確認させてもらえるかと尋ねてきました。
昨日、お休みだったキャシーは近くの実家から私物を籠に入れて持ってきて使用人部屋へ置き、また出かけたそう。
夜に実家に帰ったら仔猫が一匹いなくなって探していたと言います。
白い毛で黄色い眼、大人しく、あともう少しお母さん猫と一緒に過ごしたら、貰われていく先がもう決まっている仔猫――。
貰われ先では仔猫が来るのを本当に楽しみに待っていて、絶対に大事に育てると約束していますので――そう申し訳なさそうにするキャシーに連れられて、仔猫は帰ってしまいました。
メグが居心地悪そうにこちらをうかがっています。
「……残念だわ。かわいかったのに」
「エリザベス様によく懐いていましたものねえ」
「お母さん猫と一緒がいいわよね。それに大事にしてもらえるって言ってたし……」
どんどん下を向いてしまうわたしに、お茶の支度をしてまいります、たしか新しいお菓子が、と焦ったように言ってメグはパタパタと部屋を出て行きました。
――誰もいない部屋。さっきまで仔猫がいた部屋。
ソファーの上のあのクッションに登ろうとして、登りきれずにわたしの手にコロリと落ちた仔猫。
カーテンの房が気になるのか、一生懸命触ろうとして小さな体で伸び上がっていた仔猫。
あったかい、白いふわふわの仔猫。
さっきまでここにいたのに………わたしは部屋に居たくなくって、こっそり外に逃げ出しました。
**
あの、仔猫を見つけた茂みに潜り込んで膝を抱えた。
もうどのくらい、時間が経ったのかわからない。
そろそろお姉さまが帰ってきているかしら。
わたしがいないと心配してくれているかしら。でもまだ、ここから動きたくない。
だってこんな顔見せたら、お姉さまも悲しくなってしまう。
……わかってる。仔猫はお母さん猫と一緒がいい、だってまだあんなに小さいんだもの。
そうは思っても、さっきまでこの手にあった温度を思えば胸にぽっかり穴が開いたよう。
あの柔らかい毛、くったりと体を預ける重み、眠息に合わせて上下するお腹のふくらみ。ぴょこぴょこ動くしっぽ。
たった半日一緒にいただけなのに会いたくて切なくて仕方がない。
わたしが見つけた仔猫。小さかったわたしが隠れてた木の下にいた仔猫。
……ああ、そうか。
あの仔猫はわたしなんだ。
わたしは、見つけて欲しかったんだ。わたしは、寂しかったんだ。
寂しいってこともわからないまま、お姉さまと会えたから忘れていたけれど。
わたしはきっと、あの仔猫みたいに見つけて欲しかったんだ。
お父さまに、お母さまに。息をひそめるわたしの声が、聞こえた誰かに――
「リズ、見つけた」
頭を低くした金色の髪が覗くと、その声はどこか当然のように、安心したようにわたしの名前を呼びました。
「……レン?」
「そうだよ。ほら、出ておいで。みんな心配しているよ」
そう言いながら茂みの隙間に入ってくるレン。小さいわたしにちょうどよかった空間は、二人分にはかなりきつい。
ぴったりくっついて地べたに座るレン。
「……レンが入ってくるから、出られないの」
「そうだね――へえ、なんだか落ち着くね、ここ」
「そう?」
「うん。木に包まれているみたい」
にっこり笑って、狭い中でなんとか腕を動かしてレンは私の涙の跡をそっとなぞる。
その指先は間違えようもなく優しい。
でも、優しくされるとまた涙が出てきちゃう。
「リズに泣かれると困るけど……一人で泣かれるのはもっと困るよ」
「――ここにいたの。見つけて欲しくてないてたの」
「うん」
「見つけたのに、いなくなっちゃったの」
「うん」
「もっと、抱っこしてあげたかった、の」
ぽろぽろ落ちる涙が止まるまで、レンは隣にいてわたしの髪をゆっくり撫でてくれました。
「――リズは優しいね」
「わたし、優しくないわ。だって自分のことばっかり……仔猫だっておかあさんと一緒がいいのに」
ぶんぶんと首を振る。わたしが優しいわけない、優しいのはお姉さまと、レン。それなのに。
「僕には君が誰よりも優しい子に思えるよ、リズ。だから一緒に行こう? こうしてれば大丈夫だから」
繋がれた手は温かくて――また、涙が出ちゃったから、そこから出るのにしばらくかかってしまいました。
ようやく出ていけるくらい落ち着いたら、なんだか恥ずかしくなりました。
「あ、あのね、レン」
「ん、なあに」
「……内緒にしてくれる?」
何が、とは言わなかったけれどレンはわかってくれたみたい。
ちょっとだけ考えてから、繋いだままの手を持ち上げて言いました。
「約束するよ、誰にも言わない」
そのまま、ラルフォードおにいさまがお姉さまにするように、レンがわたしの指にちゅってして――今度は真っ赤になってしまって、また出て行けなくなりました。
そんなわたしを見て楽しそうにするから、狭いなかでぐいぐい押しちゃったけど悪くないと思うの。
邸に戻ったら、心配してたと涙目のお姉さまにぎゅううって抱きしめられて、苦しかったけど嬉しかった。
メグも、コナーさんも他のメイドさんたちも、たくさん探してくれていたから。
「エリザベス様のこと、久しぶりに探しました。わたしの勘も鈍ってしまったようですぅ」
「メグ……」
すぐに見つけられなかったと頭をさげるメグ。
メグも、いつも探してくれていました。お仕事だからとわかっていたけれど、見つかりたくはなかったけれど、探しに来てくれることに安心していたわたし――ここにいてもいいのだと、そう思えたから。
心の中でごめんねと言って、メグのことをぎゅっとしました。
「それにしても、グレイスの次は仔猫とは……殿下のライバルは大概、強敵ですねえ」
「言うな、ヴィンセント。自分が一番分かっている」
なんだか楽しげにレンをからかうヴィンセントさま。みんなにつられて、わたしも少し笑うことができました。
ヴィンセントさまに仔猫をもらってきてあげようかって言われたけれど、大丈夫って断りました。
わたしはあの子だから一緒にいたかったの。
ほかの子は、今は考えられないの。
母さん猫のところに戻って、貰われた先で大事にされて……幸せになってねって、ようやくその時思えました。
レンが帰る時にもう一度、あのことは秘密ねってこっそり言ったら、また手を取られそうになったから、思わず両手を後ろに引っ込めてしまいました。
レンが少ししょんぼりしてたけど――だって、なんだかドキドキして顔も赤くなっちゃうんだもの、仕方ないよね?




