冬の日は花の香り
本編 (14)のあとの冬
エリザベス視点
外は冷たい風が吹いて、昼間なのにどんよりとした今にも雪が降りそうな曇り空。
暖炉の前のソファーに座ってグレイスお姉さまにご本を読んでもらっています。
最近はわたしとお姉さまのお勉強を見てくださるのが違う先生になることが多いので、こういう風に二人で一緒にゆっくりするのも久しぶりだからとっても嬉しいです。
お話のドキドキする場面でお姉さまが声を小さく話すので、思わずぴったりくっついてしまうと、いつもと違うことに気がつきました。
さっきまでは、お茶とお菓子の甘い匂いで気づかなかったのですね。
「お姉さま、なんだかいい匂いがします」
「え、そう?」
「うん、お花の香り……バラね!」
「きゃ、ちょ、ちょっと、エリザベス様っ、ひゃんっ」
お姉さまはいつもきれいだけど、今日のお姉さまからはふわりふわりとバラの香りがしています。
とってもいい香りなので首のところに鼻を近づけてくんくんしていたら、くすぐったがって手のひらで遮られてしまいました。
「ええ、もっとぉ……」
「もうダメですっ、くすぐったいです」
真っ赤な顔で断られてしまったので、我慢して戻ります。
息を落ち着けたお姉さまがソファーから立ち上がって、少し待っててくださいね、と本を置いて奥の寝室の方へ向かいました。
「冬なのにバラが咲いていたの、お姉さま?」
「違いますよ。きっと昨夜これを使ったからです」
部屋に戻ってきたお姉さまが手にしていたのはバラの花束ではなくて、細いガラス瓶。
私の隣に座りなおすと、きゅぽん、と瓶の蓋を開けました。
ふわっと広がる濃いバラの匂い。
中にはとろんとしたものが入っています。
「昨日、ラルフが少しだけいらしていたでしょう? お仕事で行った外国のお土産に、これをいただいたんです」
「わたし、お人形もらったわ、可愛いの。お姉さまにはこれ?」
「そう。香油っていうんです。お化粧に使う油にお花の香りをつけてあるの。髪の毛や肌につけて使うんですよ」
寒くなると手がカサカサして痛くなることがあるので、こういうのは助かります、と嬉しそうに瓶に入った『こうゆ』を見つめるお姉さま。
一緒になって見つめる視線に気づいたのかふと、わたしの顔を覗き込んで言いました。
「エリザベス様も使ってみますか?」
「え、いいの!?」
「もちろん。でも、そうですね。エリザベス様はまだ小さくて肌が弱いですから、直接香油を塗るとピリピリしてしまうかもしれませんね……」
**
だから、お風呂で使いましょう、と言われたのが今日のお昼すぎ。
もっと小さい頃はいつもお姉さまと一緒にお風呂に入っていたけれど、お披露目の後からはお姉さまも神殿のお手伝いに行ったりして時間が合わなくて、この頃は別々のお風呂でした。
だから久しぶりに一緒に入れるだけで嬉しいのに、いい匂いの『こうゆ』まで使わせてもらえるなんて!
わくわく楽しみにしていたら、夕ご飯の人参サラダをいつの間にか食べ終わっていて自分でびっくりしました。いつも残してしまうのに。
メグのほうが驚いていたけれど、お風呂パワーすごい、グレイス様最強ってなあに? お姉さまって力持ちだったの?
お風呂の支度が待ちきれなくって、お姉さまのお部屋でうろうろしてしまいます。今夜はそのまま一緒に寝られるの、もう今日はとってもいい日!
ニコニコしていたらお姉さまがわたしの髪を解いて、ブラシをかけてくれました。
「髪を洗う前によく梳かしておきましょうね。エリザベス様の髪の毛は細いから、絡まらないようにしないと」
楽しそうに何か歌いながら丁寧に丁寧にブラシをあててくれるお姉さま。
あんまり気持ちよくて眠くなっちゃいそう……だめだめ、お風呂に入るの!
眠っちゃわないようにって、わたしもお姉さまの髪の毛を梳かしてあげたら、懐かしいって笑いました。
ここに来る前に住んでいたところでは、毎日かわりばんこで髪を梳かしっこしていたそう。
「おねえさまが私の髪を梳かしてくれて、私がすぐ下の子の髪を梳かして、その子がまた下の子の髪を……って、ね。思い出すわ。ふふ、引っかかると痛いのよね」
「そうなの」
「……エリザベス様もいつか――」
ちょっとだけ寂しそうな目をするお姉さま。それが、前に住んでいたダッカを思い出してのことなのか、お友だちも兄妹もいないわたしを思ってくれてのことなのかはわからない。
でも、わたしは「お友だち」ってよくわからない。
お姉さまがいて、時々レンが遊びに来てくれて……それでいいの。
また誰かに怪我をさせてしまったり、怖がられたら嫌だなって思うから。
今は魔力をおさえる練習をいっぱい続けているから、いつか絶対大丈夫ってなったら、わたしのことを怖いと思わないでくれる誰かと会えたらいいなあって。そう思うの。
支度ができました、と告げられていそいそ浴室に向かいます。
湯船に入ろうとしたら、お姉さまが『こうゆ』の瓶をゆっくり傾けてお湯の中にとろりと流し入れました。
ちゃぷりとかき混ぜるたびに湯気と一緒に広がるバラの香り……うっとりしてしまいます。
最初にそのお湯を足と腕に少しかけて、ピリピリしないか確かめてから、湯船にそっと入りました。
温かいお湯に浸かってバラの香りの湯気を胸いっぱい吸い込めば、外が冬だなんて忘れてしまいそう。
「とってもいい匂いね、お姉さま!」
「昨日は肌に塗ったのだけど、お湯に入れるのもいいわね」
お姉さまの膝に乗せてもらって後ろから抱っこされるようにして、揺れる水面と立ち昇る湯気に包まれています。
お姉さまは両手でお湯をすくってはわたしの目の前で手から零して、より香りをたててくれました。
手のひらから落ちる水音が心地よくて、温かい湯船が気持ちよくって、体も心もとってもぽかぽか。
髪も体もやさしく洗ってもらって、花の香りに包まれて。
乾かした髪の毛の先に少しだけ香油を塗りこんだせいか、その日の夢は満開のバラ園でした。
**
「いらっしゃい、レン! 今日は何しよう?」
「やあ、リズ……あれ、なんだかいい匂いがする――んぐ?」
レンが顔を近づけてくんくんするのをヴィンセントさまが猫の子をつまむようにして止めました。
うんお姉さま、これされるとくすぐったいのね、分かったわ。
「殿下、何なさってるんですか、侯爵令嬢に」
「わ、わかったから! ヴィンセント、さすがにひどくないか!?」
「今はお忍びで無礼講ですから」
「ああ、確かにいい香りだね。でも、どこかで――」
今日は王宮から一緒に来ていたラルフォードおにいさま。
ご自分がお姉さまに贈ったものなのに、覚えていないの? それなら教えてあげなくちゃ。
「ラルフォードおにいさまのお土産の『こうゆ』よ! レンも知ってる? 昨日の夜、お風呂に入れてお姉さまと一緒に入ったの」
「香油? え、あ、お風呂。そ、そうなんだ」
レンってば、こうゆのことをあんまり知らないみたい。
お風呂のことも、どれだけ楽しかったか教えないと。
「そうなの。それでね、髪も洗ってもらったから、わたしもお姉さまを洗ってあげたの」
「え、か、髪?」
「髪の毛は難しいから、背中とか腕とか足とかお腹とか! あのね、こういう丸いのを持ってね、石けんつけてなでなでして洗うのよ。ゴシゴシはダメなのよ、レンも同じ?」
「え、あの、どうだ、ろう……?」
「それでね、お姉さまの背中って白くてとってもきれいなの、それであったまるとピンク色になってね、あとね、さわるとふわふわしててやわらかくって、洗うときにわたし、つるんってしちゃって……」
「エ、エリザベス様、その辺で」
いつに間にか後ろにいたお姉さまの手で、やんわり口を隠されました。
お姉さまお顔が真っ赤です。
あれ、レンも真っ赤です。
ヴィンセントさまは窓の外のお空を見て、ラルフォードおにいさまは壁におでこをぶつけて立っています……痛くないのかしら。
みんなどうしたの?
「殿下方、いらっしゃいませ。ご挨拶が遅くなりまして……少々失礼を。エリザベス様、ちょっとこちらに」
お姉さまに廊下の先に連れて行かれて、お風呂の話はおしまいね、と泣きそうな顔でお願いされてしまいました。
お話ししたらいけなかったのかな、とっても楽しかったから話したかったの、としょんぼりしたら、アニーやメグにならいいですよって言ってくれました。
みんなのところに戻ったら、そのままラルフォードおにいさまがお姉さまを連れて行ってしまって。一緒に遊びたかったのに。
それなのにヴィンセントさまは「仕方ないですねえ……エリザベス様、最強ですね」なんて言うの。
わたしだってそんなに力持ちじゃないと思うんだけど、メグまでうんうんって頷いてるの。どうして?
「ねえ、レン。わたしもお姉さまみたいに、きれいになれるかなあ」
「リ、リズはもっと綺麗になるよ!」
「そ、そう?」
レンはやっぱり真っ赤な顔をして、って……なんだかお腹がムズムズして変な気持ち。なにかしら、これ。
レンからはたまに、こういう気持ちが流れ込んできます。
怖い気持ちや痛い、嫌だ、とかいうのならすごくよく伝わってきてわかるのだけど、この、あったかくてちょっと恥ずかしいような気持ちがなんなのか、よくわかりません。
その後どうしてかレンはなかなか目を合わせてくれなかったけど、久しぶりにたくさん遊べたから楽しかったです。
それから。
ラルフォードおにいさまがお土産にはいつも『こうゆ』を下さるようになったので、お風呂の棚にはいろんな香りの瓶が並んで綺麗だし、お姉さまとまた一緒に入ることが多くなって楽しいし嬉しいです。
それもみんな、おにいさまのお土産のおかげなんだけど。
ラベンダー、ジャスミン、ローズマリー。
ユリ、すずらん、マグノリア。
沢山のお花の香りの中で、お姉さまが『バラのこうゆ』が一番好きって言っていたことは――お姉さまを連れて行っちゃうラルフォードおにいさまには、教えてあげないの。
「こういう丸いの」――海綿と思われます。




