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侯爵邸に到着したのは、午後のまだ早い時間でした。
エントランスには使用人の皆さんがずらりと並んで迎えてくださって……お屋敷の立派さとともに、圧倒されました。
家政婦のマーサさんから挨拶を受けた後、正面にある螺旋階段を上がり、部屋へと案内されます。
左棟の二階の端にある部屋は広く、奥には暖炉。
風の影響か地形のためか、住んでいた南の辺境とは距離以上に気候が違うと聞いてはいました。
備えられた暖炉を見て、ああ本当にここがダッカから遠く離れた王都なのだ、と実感したのです。
部屋には可愛らしい花模様の織地のソファーや、艶やかな木目のテーブル、チェストなどがあり、若い女性が喜ぶようなしつらいです。
右奥の扉を開けると薄紗の天蓋が付いたベッドが見えましたし、さらにその奥には専用の浴室までありました。
「まるでお姫さまのお部屋ですね……!」
たくさんのドレスが用意された衣装部屋もあったのですから、そう思うのも当然でしょう。
感嘆の声を上げた私に、侍女のアニーは笑顔で答えました。
「はい、グレイス様のお部屋でございます」
「えっ」
驚きです。
こんなに立派な部屋を用意されては、まるで、私自身が歓迎されているような気持ちになってしまうではないですか。
戸惑いながら部屋を見回す私の隣で、アニーはダッカから持ってきた物の整理をしてくれました。
といっても、身一つで来るように命じられた私の荷物は少なく、片付けるほどもありません。
旅路用の着替え数枚、母の形見の手鏡とペンダント。
毎日弾いていたリュート。娼館のみんなからのお別れの手紙――それですべてです。
その後は先程見せられた浴室に連れられ、アニーを含めた三人がかりで頭のてっぺんから爪先までピカピカに磨かれました。
娼館では皆でお風呂に入り、洗いっこをしてたので他人の手に抵抗はないのですが……自分一人だけが裸という状況は初めてで、どうもこそばゆいような妙な感じがします。
入浴が済むと、優美な形の清楚な濃紺色のドレスを着つけられました。
普段から結いにくいと言われる、私の真っ直ぐな黒髪をあっという間にまとめ上げる素晴らしい手際に感嘆するしかありません。
淹れてもらった美味しいお茶でようやく一息ついていると、ドアがノックされました。
「失礼いたします、グレイス様」
「まあ、コナーさん。そちらは……?」
「初めまして、グレイス様。当家家令のスティーブンスと申します。……コナーの言う通り、大奥様に生き写しですね」
コナーさんより十歳くらいお若いでしょうか。筋肉質のがっしりとした体躯の方で、綺麗にカールした赤毛の奥にすべてを見通しそうな薄茶色の瞳がのぞいて見えます。
御用でお出かけになっていて、私の到着に間に合わなかったことを謝罪されました。
そして、ご家族との顔合わせの次第を説明してくれます。
「今夜は旦那様もお戻りになります。奥様とエリザベス様も御同席されますので、皆様にご挨拶を」
「分かりました」
着いた当日に早速対面できるとは思いませんでした。
緊張して、思わず手を握りしめた私を安心させるように、スティーブンスさんもコナーさんも微笑んでくれました。
「お疲れでしょうから今日と明日の食事はこちらへ運びますので、どうぞ部屋でおくつろぎください。明日の午前中にでも、私かコナーが屋敷内を案内させていただきます」
「はい、ありがとうございます」
その後、二、三言葉を交わし、コナーさんとスティーブンスさんは退室されました。
気のせいか、少し名残惜しそうにされていたように感じたのですが……とりあえず、お呼びがかかるまでお茶に戻ることにしました。
* * *
「……はあ、緊張したわ」
「グレイス様、とてもそのようには見えませんでしたわ」
「アニー、本当よ」
「では、お顔に出ない性質なのでしょうね」
顔合わせが終わって部屋に下がるとすぐ、行儀悪くもソファーに座り込んでしまいました。
クッションを抱きしめる私を咎めることもせず、アニーは眠る前の香草茶を用意してくれています。
侯爵様の応接室で行われた顔合わせは、侯爵様、奥様とエリザベス様、家令のスティーブンスさん、執事のコナーさん、家政婦のマーサさんと私が揃いました。
侯爵様は背が高く、整った顔立ちの黒髪の方でした。
青い目元が涼やかで冷たい印象を受けます。お歳は三十四歳と伺っておりましたが、もっとお若く見えました。
王宮で外国との折衝などを中心にお仕事されていらっしゃるそうで大変忙しく、そのため屋敷にお帰りになられないことも多いそうです。
黙ったまま私をちらりとご覧になった後、感情のこもらない声で、私を娘と正式に認め、今後の養育を担うと宣言されました。
一度だけ合った目はすぐに逸らされて、それきり。
私を引き取ることを望まれたと伺っておりましたが、それはご本人の希望ではなく「侯爵」としての行動なのでしょう。
そのように感じました。
奥様は巻き毛の金髪が美しい、茶色の大きな目をなさった美しい御方でした。
一言もお話になられなかったので、お声は分かりません。
ご実家は伯爵家で、姿勢や立ち居振る舞いは貴族として素晴らしく、侯爵夫人らしく一分の隙もないお姿でした。
エリザベス様は、奥様とよく似た巻き毛の金髪と茶色の目をなさっていました。
皆から離れて、一人入室を許された専属侍女に隠れるようにして立っていました。
四歳の女児ながら、貴族の成年男子と同じくらいの魔力量を生まれつき持つ稀有な体質のため、定期的に王宮魔術院の方が様子を見に来られているそうです。
小さな両手を細い体の脇でぎゅっと握りしめて、始終心配そうにそわそわしていらっしゃいました。
目が合った時に、怖くないよと微笑んでみせたのですが、大きな瞳をさらに丸くして余計挙動不審になってしまわれました……娼館の小さい子たちにするのと同じ対応では、ダメだったようです。
「……私よりも、エリザベス様の方が緊張されてたみたい。でも、そうよね。突然現れた人に『お姉さんですよ』なんて言われても、困ってしまうわよね」
「まあ、そんなことありません。エリザベス様は、その……そう、人見知りをされていて」
「きっとそうね。仲良くなれるといいのだけれど」
「グレイス様にそうしていただければ、エリザベス様もお喜びになられます」
アニーは、私の専属侍女になるそうです。
半日ほど一緒に過ごして、随分打ち解けられたと思います。
アニーは親戚筋の男爵家の娘で、行儀見習いを兼ねて三年前に侯爵家へ来たそう。彼女には私と同じ歳の妹がいるそうで、専属に決まったのはそういうことも関係したのかもしれません。
私より四歳上の十七歳。濃い金髪をきちっと一つにまとめ、流れるような所作で淹れてくれるお茶はとても美味しいです。
ぽっと出の私などより、世子であるエリザベス様の専属の方が良かったでしょうに。
『グレイス様とはうまくやっていけそうで、安心しましたわ』なんて優しく言ってくれるから、思わず娼館のおねえ様達を思い出して抱きつくところでした。
敬語と、さん付けの呼び方だけは頑として許してくれませんでしたけれど。コナーさんといい、侯爵家の皆さんはいい方達ばかりです。
――お母さま。
とても急にいろいろなことが起こって、正直どうしたらいいか目の前のことで精一杯です。
侯爵様にもお会いしました……お父さま、とは呼べもしない間柄ですが。
でも、一時とはいえお母さまとご縁のあった方ですもの。少しでも親しくなれたらいいと思います。奥様やエリザベス様とも。
お母さま、どうか見守っていてくださいね。
さすがに疲れていたようで、私は夕食もそこそこに床につきました。
月の光が密かに差し込む部屋の奥。
夢で会った母に涙を零したことも、そんな私を覗き込んでいた誰かがいたことも。
なにも気が付かないまま、私は深く眠り続けたのでした。