25
ベッドの上で目を覚ました私は、ぼんやりと天蓋の間からのぞく天井を眺めていました。
聖典の一節にある、森の神殿で祈りを捧げる乙女のもとに現れたディナリア神を描いた、素晴らしい天井画。初めて見るその絵は ただひたすらに美しい。
働かない頭で飽きずに眺めていると、申し訳程度の軽いノックの音がして、かちゃりと扉が開きました。
入ってきたのは――
「セルマ妃殿、んぐ、む」
「グレイス! よかった、目が覚めたわね、セルマおばあ様よ!」
杖を放り出したセルマ妃殿下に、横になったままぎゅうぎゅうと抱きしめられて、意識を失いそうになりました。
背中だの腕だのを必死にハタハタと叩いて、ようやく解放してもらえたのですが。
「せ、セルマおばあ様どうしてこちらに? というか、ここはどこですか? 一体どうなって――んむ」
人差し指で唇を押さえられました。この仕草、私どこかで最近……。
……怪我が、自分のせいだと責め始めたエリザベス様の口に同じように指をあてて――
唐突に侯爵家であったことを全部思い出し、慌てました。
「あ、あの、皆はどうしてますか? エリザベス様は?」
「落ち着いて、グレイス。ここは私の離宮よ。今、医師を呼ぶから、診ていただいてからお話ししましょう」
こくこく頷くと、セルマ妃殿下は満足そうに微笑み、いい子いい子と頭を撫でられました。
「こんな時まで、他人の心配が先なのねえ。ラルフォードが気を砕くのさもありなん、ね」
結局、軽い切り傷と打撲くらいで、特に問題はありませんでした。
フカフカのベッドでぐっすり休ませていただいたので、寝不足もありません。
破れた夜着はいつに間にか新しいものに着せ替えられていましたし、寝てる間にある程度身も清めてくださったようで、不快感もなくさっぱりしています。
もうすっかりお昼を回って、夕方に近い時間だったのには驚きましたが。
とりあえず、エリザベス様始め侯爵家の皆様の無事を聞いて、ようやく人心地がつきました。
ですが、聞かされた話には、ただ唖然とするばかり。
「はあ、エルトミナが」
「そうなのよ、王太子が『第二王子を廃するから協力してくれ』って頼んできてね」
魔物の事でもいっぱいいっぱいの上に、隣国のお家事情まで絡まっていて、やけに他人事のように感じてしまいました。
立太子した第一王子を弑して自分が王位を継ぎたい第二王子が、今回の騒動の元凶だというのです。
「魔物で騒ぎを起こした隙に、貴女を攫って第二王子の妻にしようとしたの。アメリアはあの国でとても人気が高いから、グレイスが行けば必ず王妃か王太子妃として迎えられるわ。そうなれば、夫の自分も自動的に王か王太子よね」
「……そんなに単純でしょうか。第一、私はアメリア様ではないのですが」
「当時のエルトミナ国王は、ディランと結婚していたアメリアにそれは激しく求婚したくらいですよ。彼が生きていたら、今度は貴女の元にも来たでしょうね。そんな人があの国には結構いるの、しかも国の上層部に」
エルトミナとアメリア様の関係もお話し下さいましたが、それにしたって理解できません。
セルマ妃殿下は片手を頬に当てて可愛らしくほう、とため息をつきました。
「グレイスのほうが上手くいかなくても、魔物がヴァッシュランドにいるという事実は開戦の理由になりますからね。不意打ちで攻め入って戦果をあげて凱旋、あわよくば王位簒奪も考えていたのでしょうけれど。迷惑な話よねえ」
迷惑どころではありません!
思わず眉間にシワが寄ってしまったのは仕方がないと思います。
「それが第二王子の……」
「彼一人じゃなくって派閥ですけれどね、歪んでしまっているのよ。更生の機会は五年前にもあったのに。これ以上は、国にとっても危険だと王太子も判断したわ。エルトミナも自国だけで処理したかったでしょうけれど、既に魔物をヴァッシュランドに仕込んだ後だったのよね。まさかそこまでするとは思わなかったみたい。それはそうよねえ」
「そうでしたか……」
「マクラウド伯爵もね、まんまと口車に乗せられてしまって。確かにここ最近は目立った功績もありませんでしたけれど、貴族であり続けること自体が国益につながるというのに……なにを焦ったのかしら。長い、由緒ある伯爵家なのに、残念なこと」
伯爵と、被害にあった子供たちはまだ目が覚めないそう。
でも、魔物と繋がっていた界が閉じたことで、だいぶ持ち直し、体調は快方に向かっているそうです。
「魔物に触れて、箍が外れて操られたのでしょうね。だからと言って罪は免れないわ……追って沙汰は下されるでしょう」
それを事前に掴みきれなかった王宮も有罪でしょうね、と為政者の顔で仰りました。
魔物の残した爪痕の深さに胸が痛みます。
「……あの、それで私はどうして離宮にいるのでしょう?」
侯爵家の玄関で、何者かに拘束された記憶はあります。
今の話から、きっと、それがエルトミナの関係者だったと思われるのですが。
「王都を出たところで、グレイスに似せた人と入れ替わったのよ。貴女本人の顔はあまり知られていないから、髪と目の色が似ていればすぐに気付かれるということはないわ――ああ、その人から伝言ね『私のかわいい黒猫ちゃん、いい子で待ってなさいな』」
「ジ、ジーナおねえさま!?」
それは、ダッカの華の館のジーナおねえさまの口癖。
外出を制限されていた私に、いつもそう言って出かけて行ったのです。帰りには必ずお土産を手にして……。
「第二王子派がヴァッシュランドに用意した人も物も、サイレイスが把握していたわ。でも首謀者を欺くために、一度貴女を攫わせる必要があったの。……ごめんなさいね、怖い思いをさせて。ラルフォードは最後まで反対したのだけど」
「いいえ、でも……そんな、じゃあ、ジーナおねえさまが危ないのではないですか? どうしましょう、おねえさま……」
「あの子は手練れだから大丈夫。髪を黒く染めて『ちょっとお仕置きしてきますわ』なんて随分楽しそうに出て行ったわよ」
頼もしいわねと、頭を撫でてくださりながら仰る妃殿下に、つい苦笑いしてしまいます。
……お仕置きと聞いて、店に出始めたばかりの子に難癖をつけてきた流れ者を叱り飛ばしていたおねえさまを思い出しました。
その流れ者は、気付けば娼館の下働きになっていたのにも驚きましたが。おねえさまがどこに行くにも影のように付き従っていたので、きっと今回も一緒なのでしょう。
どんな時でも笑っていたジーナおねえさま。実は、怒らせると娼館の誰よりも怖い女性でした。
セルマ妃殿下が、すっと背を伸ばして表情を改められます。
「本当に、今回のこと迷惑をかけましたね。魔物の件は決して公にできないから王宮としては謝罪できないわ。私から謝らせてちょうだい」
「っ、そんな、頭を上げてください、私に謝っていただくようなことでは」
「いいえ、たくさん危ない目にも遭わせてしまいましたし、不安な思いもしたでしょう。なにより、家族のことだって――」
「……エリザベス様は」
「今は魔術院にいるわ。ご両親と一緒にね」
そのあたたかい眼差しで、もう大丈夫なのだと分かりました……よかった、本当に。
「いろいろ問題があったから、渡せる情報も限られていて。全貌を理解していたのは王宮のごく一部と、情報を集約したラルフォードだけよ。エルトミナと手を組んで魔物の贄を探しているのがマクラウド伯爵だというのも、なかなか確証が掴めなかったし。フォーサイス侯爵も、知らないことのほうが多かったはず」
「そう……なのでしょうね」
「――グレイス。ありがとう」
その一言で気が抜けたのか、知らぬ間にほろりと涙が一粒こぼれていました。
だから、柔らかいハンカチで拭ってくださって、にっこり笑った妃殿下の次の一言が理解できませんでした。
「さ、じゃあ行きましょうか。エルトミナに」
それからのひと月は怒涛のように過ぎました。
気付けば本当にエルトミナ国にいて、私が来るとは少しも思っていなかったラルフに、ものすごく驚かれて心配されて謝られて抱きしめられて。
エルトミナ国王陛下の御前に、ジーナおねえさまを連れて「この『グレイス・フォーサイス』と結婚する!」などと宣言した第二王子の前に、私が本物です、と現れて第二王子派の皆さまが強制退場になって。
ジーナおねえさまに『待っていられない黒猫ちゃんもお仕置きね』とそれは美しい笑顔で微笑まれて。
エルトミナ貴族のおじい様おばあ様に囲まれて動けなくなっているのを、王太子殿下に助けられて。
王太子妃のマノン様と仲良くなって、膨らみはじめたお腹を撫でさせていただいたりしていました。
そして今、エルトミナ城下にある神殿の小部屋で、私は花嫁衣装を着て立っています。
光沢のあるシルクタフタとレースでできた美しいドレスに、びっしりと刺繍の施された厚いガウンはエルトミナの伝統的な花嫁衣装だとか。
それにレースフラワーの花冠を被っています。
ドレスから何から、いつの間に用意したのかすべて恙無く支度も終わり、オリーブグリーンのリボンで白い秋バラを纏めたブーケをセルマ妃殿下とジーナおねえさまから手渡されました。
「諦めの悪い男たちにしっかり見せつけないと」
「そうそう。金輪際、私の可愛い黒猫ちゃんに手を出そうなんて思わないようにね」
実はセルマ妃殿下の手配で、あの騒動の後すぐに、ヴァッシュランドの神殿には私とラルフの婚姻が届けられていたと聞き驚きました。
向こうでは親馬鹿が多くて進まないでしょ、今回のお詫びとご褒美として受け取って、と軽やかに言われ、ラルフが深々と頭を下げていらっしゃいました。
幸い、エルトミナもヴァッシュランドも同じ国教ですので、そのまま式をあげられるそうです。
アメリア様が、エルトミナの土を二度踏むことはないまま亡くなってしまったことも、ある意味人間離れした伝説のような『アメリア像』を抱かせる一因になったのでしょう。
今後のことも考え、盛大に式を挙げて「グレイスは結婚もしている普通の人間」だと、エルトミナ中に広く知らしめたほうがいいと王太子殿下に説かれました。
エルトミナに来てからは、王宮の奥にばかり居たので実感はなかったのですが……先日うっかり外出したら、道行く年配の方に泣いてお礼を言われたり、拝まれたり。すっかり生き神様扱いで、それもそうかと納得しました。
アメリア様、好かれすぎです。
「さ、行きましょうか。ラルフォードも首を長くしているわね」
「ふふ。婚約者に怖い思いをさせたのだから、いくらでも待てばいいのよ」
ああ、ジーナおねえさまがまだ怒っています。それでも引いてくれる手は優しく温かくて、じわりと嬉しさが心の底に広がります。
階段を降り、回廊を曲がると――大扉の前に立つラルフ。
こちらに気づくと、目を細めて歩み寄ってくださいました。心なしか耳が赤く染まっているように見えます。
「グレイス、とても綺麗だ」
「ラルフも素敵です。その衣装もエルトミナのものですか」
立て襟の形の貴族服に、私のガウンとお揃いの刺繍が施されたマント。初めて見る衣装ですがごく自然に着こなしていて、とても似合っています。
ついぽうっと見とれていましたら、ジーナおねえさまに指先でつつかれてしまいました。
「お二人とも、よくお似合いよ」
「じゃあ、私たちはここまで。若様、しっかりお願いしますわね」
妃殿下とジーナおねえさまが聖堂に入っていき二人だけが残されました。
グレイス、と呼ばれラルフに手を取られます。
「エルトミナで式をすることになるとは思わなかったな」
「本当ですね。なんだか、夢を見ているみたいです。まだ実感がなくって」
夢だったら困るな、と言って指先に唇を寄せたラルフにそのまま引き寄せられて、掠めるように口付けられて……やっぱり夢を見ているみたいに視界が滲みます。
「……フォーサイス侯爵やエリザベスにも見て欲しかったろう? 帰ったら改めてもう一度だな」
「そんな。私のほうこそ、こんなにしていただいて十分過ぎるくらいです」
本当に。どこにいても隣にいるのが貴方なら、それだけで。
高く低く鐘が鳴り始め、大扉がゆっくりと大きく開かれていきました。
「行こうか」
「はい」
もう一度目を合わせ微笑むと前を向き、二人でゆっくり歩き始めました。




