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少し申し訳なさそうに、でも毅然とその場を切り替えたのはヴィンセント様でした。
「ご存知の事を話してもらえますね、奥様」
その落ち着いた問いかけに、奥様は何度も首を縦に振りました。繋いだ手はそのままに、話し始めます。
「……父は、確かに強引なところのある人でしたが、でも、最近の父はおかしいのです。まるで違う人になったようで……今までは、もっと侯爵様と上手くやれとか、後継となる男の子を早く産めとか、そんな話ばかりだったのに。男の子でないからとエリザベスに興味も持たずにいたのに、突然、連れて来いって言い出して。急には無理だって言ったら凄く怒って……まるで別人のように激昂して、怖かった。気になって調べたら、実家もおかしなことになっていて……」
「おかしなこと、とは? 騎士団の調べでは上がっていなかったが」
「家令達がどうにか隠しているようです。あの人達も、父が普通じゃないと気付いていて……。父は、今まで慎重だった領地のこともかなり乱暴に推し進めたり、ほんの小さなミスをした使用人に平気で重い処罰をしたり。意見した弟を強引に領地に追いやってしまって。それに、私には、その……」
奥様は言いにくそうに、まだ涙の残る瞳で私の顔を見ました。
「邪魔者の、娼婦の産んだ娘を取り除けとでも言われましたか」
びくりとして顔を伏せました――それが何よりの答えです。
「……そんなこと出来るわけがなくて、でも、父がそれを許さなくて怖かった。あの変わってしまった目つきがとても恐ろしかった。口にする言葉も不穏なものばかりで、周りの全てを見下すような言い方で……あんなの、父じゃありません。今日こそエリザベスを連れて来いって言われていました。でも、絶対に会わせてはいけないと嫌な予感がして……」
「何のために、とは話していませんでしたか」
首を横に振りました。ごめんなさい、と小さく答えます。
「先ほど旦那様はエルトミナがどうと仰っていましたけれど、それについては分かりません。でも、あのように尋常ではない目をしてる父の言うことなど聞けません……今朝の父は特におかしかった。出て行く時も、間に合わなくなるって酷く焦っていました。だから、きっとすぐに戻ってくると思って、それで見つからないように、か、隠して逃げようと、私……」
「――どこに逃げると言うのだね、ローラ? 言い付けの一つも守れないとは、やはりお前は役立たずだな」
突然、本当に突然、なんの気配も無く部屋の中央に人影が現れました。
目に映るのは、恰幅のいい貴族服の男性と、五、六歳の小さい男の子――大きく息を呑んだ奥様は、侯爵様に引き起こされてエリザベス様とともにその背に庇われました。
驚いたのも束の間、騎士団の方達はヴィンセント様の指示のもと瞬時に警戒態勢をとり、私はブライアン様に促されエリザベス様の隣へと移ります。
「お、姉さま、あの子……」
エリザベス様は冷たい汗を浮かべて、侯爵様と繋いでない側の手で私の服を握り締め、ガタガタと震えています。
ヴィンセント様の声が響きました。
「マクラウド伯爵、どうやってここに!? それに、その子は行方不明になっているトーン男爵の息子だな!?」
「だとしたら何だ。儂の役に立てるのだ、光栄に思うがいい」
伯爵がその男の子の肩に触れると、無表情で隣に立っていた彼の目がふっと濁り、足下の影が濃く広がり始めました。
じわりじわりと黒い影は大きくなっていき、伯爵を囲むように陣を取っていた騎士団員の足元近くまで広がります。
そんな異様さにも関わらず、騎士団の方は警戒の構えを崩すことなく伯爵に対峙されています。明かりがついているのに暗く、あまりに重苦しい空気で、私は足の震えを抑えるので精一杯。
と、男の子が顔を上げて私達を見回しました。
濁った目がエリザベス様を捉えたとき。その口がにやりと、確かに声なき音を形作るのが見えました。
――ミツケタ、と。
「……いや、黒いっ……!!」
「エリ――っ!?」
瞬間、ドンというような衝撃音とともに部屋中に暴風が吹き、私も騎士団員も皆吹き飛ばされました。
私はしたたかに背中を壁に打ち付けられて、一瞬息が止まりました。
腕や頬にも痛みを感じ、見れば破壊された天井のシャンデリアの欠片で切れたのでしょう、破れた服の隙間から覗く肌が赤く染まっていました。
今も轟々と渦巻く風の中、なんとか目を開くと、侯爵様も奥様も、マクラウド伯爵も部屋の反対側で倒れているのが見えました。
今、立っているのはエリザベス様と男の子だけ。
「あ……いや、こわい……こ、こないでっ!」
渦の中心にいるエリザベス様は男の子から目を離さないまま震えて、自らが出す風に髪を巻き上げながらかろうじて立っています。
窓は割れ、カーテンも裂けて、ぴしりピシリと壁にも床にもひびが入っていきます。
「――ってぇ……おいそこ、伯爵を拘束!」
「グレイス様、お怪我は!」
触れると肌が裂けるほどの風の中、いち早く自分を取り戻したヴィンセント様とブライアン様が行動を再開しました。
よく見ると、二人とも魔術を発動して体の周りに防護膜を張っています。
衝撃で気を失っていた騎士団の人たちが動き始めるまでに、時間はかかりませんでした。
予備の魔法灯が灯り、部屋の外へ避難させようと私達に手が伸ばされた時――。
ぐじゅり、びしゃり、という粘つく音とともに男の子の足元の影から何本もの怪しい手や蔦が伸びてきました。
骨のような手や、うねる蔦の先端からは、黒いものがぼたりぼたりと滴り落ちています。
「魔物です、叔父上!」
ブライアン様が叫ぶのと同時に、黒い手の一本が近くにいた騎士団員の足首を掴みました。
「うあああっ!?」
「――チッ」
ザン、と音を立てたヴィンセント様の一太刀で、黒い手は切られました。
足首に残った黒いものは掴んだところからしゅうしゅうと煙を上げ、金属プレートのついた皮のブーツを溶かしながら消えていきます。
「ドレイク! 来やがれ!!」
ヴィンセント様が窓の外へ向かって叫ぶと、ぐあん、と頭を揺さぶられたような衝撃の後に静かな男性の声がしました。
「……呼ぶのが遅くないですか」
「ワリィな、取り込み中だったんだよっ」
どこからか現れたのか、魔術院のローブを纏った長身の男性が室内にありました。
彼は周囲をちらりと見渡すと、暴風の中心にいるエリザベス様へと近寄ります――黒いローブも、一つにまとめた白銀の長髪をそよと揺らしもせずに。
そして、震えている細い肩に、ぽうと光る彼の手を乗せました。
「――!」
「心配ない。そのまま息を吐いて。力を抜いて」
「っあ、ふ、うっ――」
見る間に、エリザベス様の魔力暴走が収まっていきました。
荒れていた風が止むと、ローブの男性は、足元から這い上がる黒いものに取り囲まれている男の子を指してエリザベス様に話しかけます。
「アレは貴女に用があるみたいですが」
「い、いやよ! いやっ、ぜったい、行かないわっ!!」
「では、お帰り願おう」
ほとんど叫ぶようなエリザベス様の前に出ると、男の子の正面に立ちました。
足元の影の中では、まだ多くの手や蔓が、なにかを探すようにずるずると動きまわっています。それらを一瞥して、吐き捨てるようにぼそりと言いました。
「この程度で、子どもを三人も駄目にしてくれるとは。ほとほと呆れる」
「あ、おい! 屋敷はなるべく壊すなよ」
「手間だな。殲滅するだけなら楽なものだが」
軽く溜息をついてヴィンセント様をちらりと見た後、すっと右手を前に出しました。
上にしていた手のひらを捻るようにゆっくり、くるりと下に向けた途端、その手の下に腰の高さほどの球形の魔力の塊が現れたのです。
不思議なことに、エリザベス様の風が収まってからのほうが、騎士団の方々が苦しそうにされているようでした。
彼は――この状況でもう、疑うことはないでしょう。魔術院のジェラルド・ドレイク次席に違いありません。
あまりに余裕の態度に、こちらもつられて落ち着いてしまいます。
ドレイク様がそのまま魔術文言をつぶやくと、足元で蠢いていたものたちが一斉に動きを止めました。
「ドレイク、そいつらをどうする?」
「屋敷を壊さずにというなら、吸って消すしかないだろう」
言い終わるが早いか、ゴッ、ともギュッともつかない音とともに球体の一部に開いた穴へ足元の影ごと吸い込まれていきます。
瞬きを三回するくらいの間に、黒い手も影も全て球体に中に渦を巻きながら収まってしまい――そこには男の子が立っているだけになりました。
ドレイク様が黒いものが入った球体にまた手を向けると、大きかった球はで床の上でどんどん小さくなっていきます。
手のひらに収まる大きさでになったところで、ドレイク様は指先で摘み上げ、魔法灯の明かりに透かしました。
「ヴィンス、いるか?」
「いらねえよっ!!」
ヴィンセント様に却下されたドレイク様はそのままそれを小さくし続け――しゅ、と最後には小さな音だけを残して跡形もなく消えてしまいました。
「……たいしたものだな」
「いや、まだだ」
満身創痍ながら感心した声を上げた侯爵様を断ずると、男の子に一歩近づき同時に魔術で拘束しました。
見えない力で後手に縛り上げられた男の子は、その場に倒れ込み――意識のないであろう震える唇から出た低い声に、背筋が凍りました。
『……エリザベス、来ないのか?』
とても少年のものと思えない、遠いところから響く声。
名前を呼ばれたエリザベス様は、大きくびくんと震え、庇うドレイク様の背後から、横たわる男の子に目を向けました。
『我の花嫁になる者……扉を開けて、こちらに来い』
「いや……。い、行かない……!」
『こちらに来れば、その魔力を忌む者などいない。ああ、そうだ。そこの男も来るか? なかなかの地位につけてやる』
「間に合ってるのでね、お断りする」
『……エリザベス。お前の場所はこちらだ。その力が疎まれ避けられる、其処にお前の幸せは無い』
「わ、私の……」
『恐怖を感じるのは惹かれているからだ。認めれば楽になる、お前はこちら側だ』
「――勝手に決めないで」
一方的な物言いに私の中で何かがプチンと切れました。いつもより低い声が出た私をエリザベス様が驚いて見つめています。
『黒い』『こわい』『扉を開けて』……そのすべてが差すのは、エリザベス様の悪夢。
これがずっとこの子を苦しめてきた元凶。
私は立ち上がり、男の子の中にいるモノに向かって言い続けました。
「グレイス、お姉さま……」
「人の幸せを勝手に決めるなと言ったのよ。エリザベス様の幸せはエリザベス様のものであって、貴方のではないわ。今までのこの子の涙も想いもみんな、この子だけのものよ。夢で覗き見していた程度の貴方には、関係無い!」
『加護の娘か。あ奴らめ……触れぬ者の分際でありながら、小癪な真似を』
隣に立った私の腕にエリザベス様がぎゅっと掴まって、男の子の方に真っ直ぐに向かいました。
もう、震えていません。
「――帰って。わたしはここにいるの。ここにいたいの! 帰って、もう来ないで!!」
「だ、そうだ。妻問いを断られた以上、お引き取り願おうか」
『千年に一度の嫁取りを邪魔するとは、無粋な人間どもだ――この脆弱な体ではもう繋げていられない。今日は下がるが、エリザベス……いつでも来るが良い』
「ぜったい、行かないわ!」
『ヒトの気は、変わるものだ。絶対などない』
愉しみだ、と軽い嗤い声を最後に男の子の口が閉じられました。




