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「旦那様!?」
「お父さま?」
奥様とエリザベス様の声が重なりました。
――隣国にいるはずの侯爵様がなぜここに?
あまりのことに混乱しますが、ヴィンセント様は驚いた様子もありません。
「侯爵、もう少し待てませんでしたか」
「これ以上は無理だ。ローラ、説明を」
はくはくと唇を動かす奥様からは、声が消えてしまったようでした。
まっすぐに奥様に近づく侯爵様は少しやつれた様子ですが、遠路を旅した様には見えません。ヴィンセント様に譲られて、後ろ手に押さえられたままの奥様の正面に立たれました。
「ラルフォード君の案でね。私の出国は偽装だ」
「ど、どうして……」
「サイレイスの情報網は桁外れだね。彼と部下の調査により、エルトミナと繋がった怪しい動きが国内にあるのが分かった。会議への出席を名指しで指示した私達の不在を狙うだろうということも。自国に招いたこの機会に、なにか仕掛けてくるとは思ったが……ローラ、そのになにかを知っている君は『逃げろ』と言う」
ひゅ、と息を飲む音が奥様から聞こえました。
ブライアン様にがしりと拘束されているおかげでようやく立っていられるほどに、足は震えています。
誰もなにも言えない、気詰まりな沈黙を破ったのはエリザベス様でした。
「――お母さまは、私を嫌いではないの?」
衣装部屋からゆっくりと歩いてきたエリザベス様は、泣きそうな顔でお二人の少し前で足を止めました。
無理につくった痛々しい笑顔を浮かべ、胸元を押さえたエリザベス様が、紙のように白い顔色になった奥様に向かって、そっと話し続けます。
「エ、エリザベス……」
「お母さまは、私を少しは好いてくれているの?」
「――っあ……、あああ!!」
心が痛くなるような叫び声とともに、奥様の目からぼろぼろと涙がこぼれました。
次々と溢れる涙の奥から苦しげな叫びが追いかけます。
「あ、愛しているわ、エリザベス!――っ、だ、抱きしめたかった、ずっと、ずっと……抱きしめて、キスして――わ、私の側で、育てたかったの!」
「おかあさま……?」
「で、でも――出来なかった。愛してるのに……っ、怖いと、思ってしまうの」
ヴィンセント様に促されて拘束を緩められた奥様は、ずるずると床に崩れ落ちていきました。
両手を床につき流れる涙を拭いもせず侯爵様とエリザベス様を交互に見つめ、嗚咽の中から絞り出すように話し始めました。
「愛してるわ、エリザベス……ごめんなさい、ご、ごめんなさい――」
「ローラ……」
エリザベス様は目を丸くして、床に蹲る奥様を呆然と見つめています。
奥様は、混乱した表情を隠そうともしないままの侯爵様へと顔を向けました。
「……父が、強引に進めた結婚だけど、私は嬉しかった。初めて出た夜会で一目見た時から、侯爵様のことをお慕いしていたから。迷惑に思われてるのは分かってた、でも結婚すれば私を見てくださるかと……でも、旦那様の心にはずっと別のひとがいて……」
「ローラ、君は……君も、伯爵に無理強いをされて嫁いできたものと……。マクラウドの令嬢がいくつも縁談を断り続けているのは、想い合う恋人がいるのだという、もっぱらの噂だったから」
奥様は緩く首を振りました。私が想うのは貴方だけです、と小さく呟いて。
「私……妊娠してすごく嬉しかった。この、お腹の子と二人で生きていけたら、もうそれでいいって気持ちになった。でも、生まれたら……怖くて、触ることも出来なかった。私の、私が産んだ、赤ちゃんなのに」
それまでずっと口を閉ざしていた奥様の侍女が、初めて口を開きました。
「エリザベス様のご出産の時は、酷い難産でした……お嬢様の強い魔力に当てられて、お二人とも命が危ない状態だったのです。それが原因で、お互いの魔力が異常に干渉し合うようになってしまったのだろうと、お産に立ち会った医師は言っておりました」
「……聞いていない。出産後、一時体調を崩したとしか、私は――」
侯爵様はコナーさんとスティーブンスさんを見ましたが、お二人とも顔を青くして首を横に振っています。
「侯爵様が国内にいらっしゃらない時でしたから、隠すのは難しくありませんでした。医師は高齢で翌年亡くなっていますし、事情を知っている侍女は伯爵家に戻されました。今、屋敷にいる者で知っているのは私だけです」
「ち、近寄ることすら出来ない母親など要らないと、そう言われたら、私は――」
「……お母さまは、私が怖いの? だからいつも、近くに行くと冷たくなっていたの……?」
がっくりと項垂れる奥様の元に、エリザベス様が膝をつきました。
不安げな顔で奥様と目を合わせると、ゆっくりとその前に片手を差し出します。
そっと伸ばされた手に、奥様が恐る恐るご自分の手を触れさせようとなさって――触れるか触れないかの刹那、ばちんと強い火花が出て弾かれました。
エリザベス様は青い顔で呆然として、しゅうしゅうと煙が上がって真っ赤になった奥様の手のひらと、何事もない自分の手を交互に見つめています。
奥様の震えはおこりに罹ったようにひどくなって、座り込んでいるのに今にも崩れそうで、ブライアン様にまた支えられました。
「私はなんともないのに、お、お母さまだけ……?」
「こ、怖いと思っているのが伝わるから、私が近くにいるとあなたは泣き止まないし、眠りもしない。なるべく心を動かさなければ、少しは近づけるけど、体が勝手に怖がって長くは保たない……それでも、遠くからでも、見ることができるなら――」
初めてお会いした時、廊下ですれ違った時……奥様の氷のような無表情と、緊張して固まるエリザベス様を思い出します。
なるべく早く離れようとする後ろ姿に、そんな思いが込められていたなんて。
「乳母は。信用してたのに、あの人は……魔力が荒れるあなたを大人しくさせるのに、薬を使っていた。強い薬ではなかったけれど、私はそれにも二年間も気づけずにいて……! すぐに辞めさせたけど、代わりに世話をできる人がいなくなってしまった……。どんどんあなたは孤立していって、まだ小さいのに、ひ、ひとりぼっちにさせてしまって」
誰も言葉を挟む人はなく、奥様のすすり泣きと切ない声だけが響きます。
「でも、貴女が来て」
奥様はその涙に濡れた目で、私を見つめました。
「よかった、エリザベスは助かったって思ったわ。思ったけど――羨ましかった。どうして、そんなに簡単に抱きしめられるの。どうして、手を繋いで歩けるの。ど、うして、この子が笑いかけるのが私じゃないの……!」
「奥様……」
「グレイス、貴女は悪くないの。本当に感謝しているの。ここに来て七年にもなるのに、エリザベスにだって敬語も崩さないし、旦那様のことだって『お父様』とも一度も呼ばない。成人しても私に気を遣って茶会の一つも開かなくて……」
そんなことまで見ていらしたとは。本当に、この方はフォーサイス家の「奥様」だったのです。
「いつだって一歩置いて、私を立ててくれているのも知っているわ。でも、羨ましくて、妬ましくて……母親の私が出来ないことを、エ、エリザベスが笑うようになったのだって、旦那様の帰る日が多くなったのだって貴女のおかげだって、頭では分かっているの。それでも、どうしても……」
「……お母さまは、私のことが嫌いなのではなかったのね」
エリザベス様がぽろぽろと涙を零していました。
奥様は下がっていた頭をはっと上げ、涙が飛び散るほどぶんぶんと強く振りました。
「嫌いなわけないわ! わ……私が、弱かったの。怖がって、誰にも言うなって口止めして、逃げてばっかり――エリザベス、あなたを不幸にすることしか、できなかっ……た」
「――それは、私にも責任がある。君だけのせいではない」
「旦那様……」
「ローラ。私には触れるか?」
侯爵様は奥様とエリザベス様の間に膝をつくと、片手を奥様に差し出しました。
奥様は暫くその手を見つめた後、先ほどと反対の手を、震えながらそっと重ねます。
侯爵様はその手をぎゅっと強く握ると、もう一方の手を同じようにエリザベス様と繋ぎ、軽く持ち上げました。
「最初からこうすれば、良かったんだ」
「……!」
繋がれた両方の手を見て――奥様の、声にならない泣き声が部屋に響きました。




