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「アンガス様は、マクラウド伯爵をどう思われますか」
お見送りの馬車に乗り込もうとするところを引き止めて、小さな声で気になっていたことを尋ねました。
あの去り際の、伯爵の闇のような暗い目がどうしても離れません。
僅かに眉を上げたアンガス様は、今日何度も見た眉間のシワをまたぐっと深くされました。
「私に対してだけなら分かります。ですが、ブライアン様はいくらお若いとはいえ、フレイザー侯爵家の方です。なのにあのような……」
「知る限り、身分を軽く見る方ではなかったはずだが……誘拐犯の手掛かりは全く出ておらん。証がないのに疑うべきではない。だが、いささか間が悪すぎますな」
くれぐれも注意するように、と心配そうに仰って侯爵家を後にされました。
馬車が侯爵邸の門へ向け去っていくのを見届けると、近くにいた二人に声をかけます。
「アニー、コナーさん。お願いがあります」
その晩は、早く休もうという話になりました。なにせ明朝には、魔術院からのお迎えが来るのです。
奥様には私たちの避難は報告済みですが、朝早いのなら出立の挨拶は不要と仰っていらしたと、コナーさんが言いにくそうにそっと伝えてくれました。
少し早めに夕食を取り部屋に下がります。
アニーやメグたちが準備してくれた私とエリザベス様のトランクが、数個ずつ部屋の脇に積まれているのを見ると、本当に避難するのだと今更ながら実感しました。
魔術院へ行くのは私達のほかにアニーとメグ、コナーさんとブライアン様。手の足りない分は、王宮からお手伝いにいらしてくださるそうです。
スティーブンスさんは邸や領地の管理のお仕事や、緊急事態に備えて残られます。
コナーさんも執事のお仕事が忙しいのですが、家政婦のマーサさんや侍従長とうまく調整して、ついて来てくださることになったようです。
「お姉さま、魔術院ってどんなところかしら。ドレイク様にはお会いできると思う?」
意外ですが、エリザベス様は魔術院に行ったことがありません。
これだけ長く魔術院の方との交流があるのですが、いつも侯爵邸に来て頂いていたのです。それどころか。
「……そういえば、エリザベス様は大きくなられてから、初めての外出ではありませんか?」
「そうなの。私、洗礼式で神殿を壊しそうになったのですって。そのあと二才くらいのときに一度だけ王宮の医療院へ行ったみたい。どれも覚えていないから、明日が私の初めてのお出かけになるのね!」
わくわくしている気持ちが伝わってきて、つい苦笑してしまいました。
今まで、安全上の理由で魔術院からも侯爵様からも外出は避けるよう厳命されていたのです。
『初めてのお出かけ』がこんな理由でなければ、どれだけ楽しいでしょうに。
最近はお互いの自室で別々に眠っていたのですが、今日は一人にならないように、と言われているので久しぶりに私の部屋で一緒に休むことになりました。
ベッドに横になって、小さい頃からお気に入りの黒いウサギを抱き、天井をぽうっとした表情で眺めているエリザベス様。
せめて明日からの滞在が、少しでも楽しいものになればと願ってやみません。
「私も魔術院は初めてです。さあ、そろそろ休まないと。寝不足で馬車に酔ってしまったら、お出かけを楽しめませんよ」
「それは困るわ! じゃあ、楽しみにしながら眠ることにするわね。おやすみなさい、お姉さま」
「はい、おやすみなさい」
上掛けを肩まで引き上げると、枕元の灯りをごく細くしました。
やはり気が張って疲れていたのか、然程経たないうちに隣のエリザベス様からは軽やかな寝息が聞こえてきます。
薄闇の中でもう一度寝顔を見やり、私もそっと目を閉じました。
薄く開いたカーテンから微かな星明かりが溢れる。
月のない今夜、ベッドサイドの灯りが消えた室内は暗い。静かに繰り返される寝息の音を消さぬように、ゆっくりと寝室の扉が開いていった。
僅かに開いた隙間から滑り込んだ影は、右手に何かを隠し、裸足で毛足の長い絨毯をそっと踏みしめ、その行き先を寝台へと定める。
大きなベッドには二つの膨らみ。
一人は漆黒の闇に溶けそうな黒髪の女性、もう一人はその向こう側でこちらに背を向けて横になる金髪の少女。
影は微かに逡巡した後、手前の黒髪の女性に狙いを定めた。
その左手が女性の白い首元に触れるほどに近づき、右手に持つ何かを――
「そこまでだ。手に持っている物を離せ」
影であった人を後ろ手に捻りあげ、喉元に小剣を突きつけているのはブライアン・フレイザー様。
「お嬢様っ! ご無事ですか!?」
アニーの声を先頭に、明かりのついた寝室にスティーブンスさん達が次々飛び込んできます。
私は近くに置いていたガウンを夜着の上に羽織り、ベッドから下りました。ブライアン様に拘束されている人をまっすぐに見つめます。
――予想が外れて欲しかった。
ああ、でも、まだ分からない、だってこの人は……。
「こんばんは、奥様。エリザベス様ならこちらにはいらっしゃいませんよ」
「っ!」
私の隣で眠っていた『エリザベス様』は、起き上がると金色のかつらを取りました。出てきたのは焦げ茶色の髪の、エリザベス様の侍女――メグです。
奥様は、驚愕に開かれた瞳で私達を見ました。
その体は小刻みに震えていましたが、入室してきた騎士団員の言葉にさらに大きくビクリと震えます。
「失礼します。小屋に物資を運んでいた、協力者と思える侍女を拘束しました」
「庭の園芸小屋です。毛布や飲み物が用意されていました」
「クリス! ど、どうして……」
邸の警備にあたっていた護衛騎士が拘束してきたのは、奥様の専属侍女でした。
奥様はますます顔を青くされ、ブライアン様の拘束に耐えきれなくなった右手からは、小さなガラス瓶が絨毯の上に転がり落ちます。
ころころと遠ざかっていく瓶の中には、青い液体が。
「……毒ですか?」
「ち、違うわ! 毒なんてそんな恐ろしい物っ、ね、眠り薬よ!」
「私が邪魔でしたか……でも、ごめんなさい。エリザベス様を連れて行かれると、守れなくなってしまいます」
「そんなっ、ここにいると危ないのに! 早く隠さないとお父様が来てしまうわ!」
「ローラ・フォーサイス。今の発言、フォーサイス侯爵令嬢エリザベスへの犯罪行為の計略に、自身及びマクラウド伯爵が関係しているとの自白証言とみなす。異議は騎士団で聞こう」
寝室の隣にある衣装室から出てきたヴィンセント様が、奥様の前に立ちました。
衣装室の奥では、エリザベス様が騎士団員の方に庇われて呆然と立ちつくしています。
「……おかあさま……」
奥様はその苦しげな声に目を向けると、今にも泣きそうに顔を歪めました。
ブライアン様は奥様の首元に当てた剣を下げ、両手を後ろで押さえ直しました。ヴィンセント様と目を合わせた護衛騎士が報告を始めます。
「マクラウド伯爵の所在は現在も不明です。本日、フォーサイス侯爵邸を出て後の足取りそのものは掴めておりませんが、一刻ほど前に王都外れで車輪が壊れた状態で馬車を発見。馭者と従者はその近くで倒れており、医療院に搬送されていますが意識不明です」
「伯爵の捜索は」
「継続中です」
「警戒を怠るな。ブライアン、ケビン。ローラ・フォーサイスとその侍女クリスの二人を騎士団へ連行しろ」
ブライアン様に移動を促されても、奥様はエリザベス様から目を離さず、決して動こうとはなさいません。
「……っだめよ、早く逃げて! どこでもいい、隠れてっ!!」
あまりの必死さに皆の動きが止まりました。
今のヴィンセント様には、いつもの気安さは全くありません。射るような目で奥様に近寄り見下ろしますが、奥様も決して目を逸らさず噛み付かんばかりに言い返します。
「ローラ・フォーサイス。何を知っている?」
「いいから早く! 娘を、連れて、逃げなさい!」
触れれば切れるような空気の中。
「――どういうことか話してくれ、ローラ」
廊下から聞こえたのは、ここにはいないはずの人の声でした。




