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「お、お待ちくださいっ、お父様!」
マクラウド伯爵を追って、よろめきながら奥様も部屋を出て行き、後に残された私達は声もなくそのまま立ちすくんでいました。
先ほどのエリザベス様の『黒い』『こわい』……それは以前、夢にうなされながらよく口にしていた言葉。
「お取り込み中でしたかな?」
漠とした嫌な感じに飲み込まれそうになった私は、部屋に響いた別の声に我に返りました。
「……アンガス様」
「っ、先生」
コナーさんに案内されて、魔術院監察官長のアンガス様が補佐の方といらっしゃっていました。
部屋をぐるりと見回すと、まだ私にしがみついたまま青い顔で小さく震えているエリザベス様の頭をゆっくりと撫でました。
「すごい剣幕でマクラウド伯爵の馬車が出て行くのを見ましたよ……よく、暴走させずに抑えましたね」
「っはい……はい、先生」
ほっとしたようにぽろぽろと涙をこぼすエリザベス様を、感心感心と褒められます。嬉しそうに何度も頷く様子を愛おしそうに見つめた後、私とスティーブンスさんに向かって声をかけました。
「今日は訓練は軽いものにしましょうか。天気も良いし中庭でやりましょう。その間、少しお話をよろしいかな?」
「……落ち着かれたようで、よかったです」
「普段通りの行動をすることで、日常に戻るものです。大丈夫、エリザベス嬢はお強くなられた。貴女達のおかげですよ」
芝生の上で補佐官の方と軽い調整をゆっくり行うエリザベス様を、少し離れた東屋から眺めます。
魔術に集中するその横顔には、先程までの怯えは見えません。
東屋と芝生の中間くらいにはブライアン様が、まだ静かに警戒しながら立ってくださっています。
心地よい風を感じながら、アンガス様とスティーブンスさんと三人で、アニーの用意してくれたお茶をいただいています。
先程のことがなければ、ただ穏やかな一時ですのに。
どうしても、嫌な予感がして心が落ち着きません。こんな時、そばにいてほしい人たちは今は遠い外国の空の下……しっかりしなくては、と両の手を膝の上でぎゅっと握ります。
「失礼ですが、マクラウド伯爵は何を?」
「突然訪問されて、エリザベス様を連れて行かれようとなさいました……かなり強引に」
「今迄もありましたかな?」
「いえ。エリザベス様とお会いするのは、洗礼式の時以来のはずです」
スティーブンスさんの言葉に少なからず驚きました。接触がないとは思っていましたが、そこまでとは……なのにどうして、今になって。
ふうむ、とアンガス様は考え込まれてしまいました。
「アンガス様、お話とは」
「ちょうど今日は、エリザベス嬢に関してお願いがあって来たのですよ」
アンガス様はあご髭を撫でながら、目元に難しい皺を寄せられました。
「私ども監察官は、国内の高魔力保持者の動向を常に把握する立場にあるのは、ご存じと思う」
「はい」
「最近、私どもの管轄で行方不明になった者が三名おりましてな……誘拐と認識しておる。その全員が、魔力の高い、お披露目前の子どもだ」
その共通点は、エリザベス様にそのまま当てはまります。
ドクリと心臓が嫌な音を立てました。
「彼らは見つかったのですか?」
真剣な表情でスティーブンスさんが尋ねます。アンガス様の表情ははなおいっそう渋く、口調もいつもと違って厳しいものです。
「つい昨日、巡回中の騎士団員が、森の端に捨てるように転がされていた彼らのうち二人を偶然発見し、保護した。しかし本人達は深刻な魔力枯渇の状態にある上、強力な術が深くかけられていて廃人同然だ。下手に触れると命そのものが危ない呪のような魔術で、ドレイク次席でさえ手を焼いている……もう一人は、未だ見つかっておらぬ」
「そんな……」
攫われたうえに、なんて酷いことを。
普段から持て余されがちな高魔力の子どもを、国の宝だと言ってはばからないアンガス様。大きく息を吐いて憤りを抑え、話を続けられます。
「その術の具合や、なんとか取り出せた情報を総合すると、どうやら、魔物の贄にされたらしい」
思わず息を呑みました。
魔物、魔族、魔のモノ――その一体が人百にも匹敵するという強大な力を持つ、人とは相容れぬ異形のものたち。
混沌と殺戮を好み、人を恐慌に陥れるのを愉しむもの。
その昔、大陸中が戦争をしていた時代。魔物もまた大陸に溢れていました。
人は人同士、そして魔物とも戦いを続けていたと、歴史の先生から教わりました。結局、魔物を倒すことを目的に人間同士は一時手を組みどうにか界の隙間を閉じ、退けたそうです。
……その後はまた人同士の争いがしばらく続いたと言いますが。
いまだ、魔物はたまに界を超えて湧いてくるものがありますが、被害が拡大する前に魔術員の方々や各国の軍が討伐をしてくださいます。
一体でも手元に置けば、それだけでもう大陸中から非難されるほどの大罪です。隣国から正当防衛を理由に攻め込まれても反論できないほどの。
魔物に対する恐怖心は、一部では逆に、魔物信仰として地下深くに根付いてしまったとも聞きましたが……もしかして。
「魔物の復活を望む愚か者がいる、とお考えですか?」
どうやら、スティーブンスさんも同じことを考えていらしたようです。
「忌々しいことにな。王宮の見解もそうなった。界を繋ぎたいのか、単騎の魔物に対してなのかは分からんが……攫われたのは家格の低い子どもばかりで、普段から護衛などおらんかったし、いなくなってからも即座に十分な捜索が行われたわけではない。だからこそ狙われたのだろう」
「それでも、エリザベス様も危険だと、アンガス様はお考えなのですね」
アンガス様は、ますます渋いお顔で重々しく頷きました。
「界に穴を開け、こちらと領域を繋げるには強大な魔力が必要になる。エリザベス嬢の魔力は非常に高い。攫われた子達も高いが、比較にならん……たとえ侯爵家の令嬢だとしても、手に入れ試す価値はあると考えるだろう」
「そんなことっ」
「これ以上の愚挙を許す訳にはいかない。騎士団も全力で捜査に当たっているが、未だ手掛かりも薄い。それでだ、せめて侯爵がお帰りになるまでの間、魔術院に避難をお願いしたい。フレイザー君が護衛として有能なのに間違いはないが、ここはどうしても死角や隙が多い。魔術院ならば騎士団や王宮にも近く、警備もしやすいだろう」
私に異論はありません。スティーブンスさんと顔を見合わせ頷きます。
「侯爵にも連絡を出したが、先に王宮の許可は取ってある。もっとも、レナード殿下は魔術院ではなく王宮に来させたがったがな。魔術院のほうが高魔力保持者に慣れとると、さんざん説明して渋々引き下がっていただいた」
魔術院でお会いになる分には構わぬと言えば、ようやく納得された、とアンガス様のお顔に少しだけ笑みが戻りました。
「ではよろしいかな。避難されるのはエリザベス嬢、そして保護者としてグレイス様に同行を。奥様は屋敷の主人でもあるし、警護対象からも外れる。よって避難の必要はない」
奥様は『保護者』として認められない、とアンガス様は遠回しに断言しました。
母から溢れるほどの愛情を注がれて育った私は、胸が重くなるものを感じます。
エリザベス様は以前、奥様の近くに寄った時はいつも冷たかった、と言われました。
憎しみや嫌悪の感情というより、ただ氷のような冷たさが流れ込んできて、自分も寒くなると。
――でも、先ほどの奥様の様子。あの必死さはまるで……。
その後、補佐官の方も交えて最終的な人数や細かいことを打ち合わせました。使う馬車も、魔術院から専用に防護が施されているものが用意されるということです。
急ぎ準備をして、明日の昼前に魔術院へ向かうことに、その場で決まりました。
「お姉さま、見て!」
芝生からかかった嬉しげな声に目を向けると、エリザベス様が魔術を使っていました。濃紅の小花をふわふわと身の回りに浮かせています。
足元にまだ花の残っている籠と、先ほどまでいなかったジョンが近くにいるので、きっと彼がこの花を持ってきてくれたのでしょう。
私とアンガス様は東屋を出ました。
「きれいね。ジョン、貴方が用意してくれたの?」
「今日の剪定で出た分ですが、こういったものでも少しは気散じになればと」
「そうね……ありがとう、ジョン」
エリザベス様は、そのまま見ていてね、と片目を瞑ると片手を小花の一つに向けました。
指先から細い空気の流れが見えた気がしていると、向けられた花から金色の細い細い鎖のようなものが伸びていきます。
エリザベス様の指先の動き通りに、鎖はきらきらと光りながら隣に浮いていた小花と繋がり、またその隣の小花へと向かい……見る間に、浮かんだ花々はエリザベス様の周りを螺旋状に囲んでいきました。
「まあ……」
「おや、これはまた」
アンガス様は面白そうに目を細めて見つめています。
まるで繊細な金鎖に繋がれた紅玉のステーションネックレスのようなそれは、そのまま光の強さを増していきました。
エリザベス様がさっと両手を高く持ち上げるのと同時に、一段と発光を強めぱっと高く上がり――きらりと最後に光を残して散りました。
「先生、お姉さま! どうでしたか?」
少しだけ肩で息をするエリザベス様は、誇らしそうに、はにかんだ笑顔でふわりと落ちてきた濃紅色の小花の上に立っています。
私は近寄ると、金色の巻き毛についた花びらを一枚そっと摘みました。
「こんなにきれいな魔法、初めて見ました。消えてしまうのがもったいないくらい」
「そうですな。そう……エリザベス嬢の力は、こういう風に使うのがいいですな。人を、喜ばせるものに」
魔物のためなどでなく。その力は幸せのためにあるのだと。




