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しばらくは奥様が行かれた先を呆然と眺めていたのですが、エリザベス様たちのところへ向かおうと、気を取り直して足を進めました。
なんとなく不安が広がる心をなだめながら廊下の角を曲がると、見たことのない侍従に先導されて、五十代くらいの恰幅の良い男性が応接室から出て来ました。
侯爵様がお出かけになったばかりなのに。一体どなたが、と思っていますと、私に気付いた男性が足を止め、じろりとこちらに目を向けます。
「お前が例の――ふん、これが……」
頭のてっぺんから爪先まで睨め付けるように見た後、面白くなさそうに言いました。
男性の後から出てきたスティーブンスさんが、彼から見えない位置で顔をしかめて言葉を挟みます。
「ローラ奥様のお父上のマクラウド伯爵です、グレイス様」
「……お初にお目もじいたします。グレイス・フォーサイスにございます」
「あまり分不相応な真似は控えるがいい。娼婦の娘ごときが」
「っ伯爵! それは」
「ああ、煩い。いいか、近いうちにまた来る。あれに伝えておけ」
スティーブンスさんの言葉を遮ると、礼を取り続ける私の前を過ぎがてら、言い捨てて去っていきます。
迷いなく玄関へ向かう伯爵を、侍従とスティーブンスさんがこちらを気にしながら追っていきました。
伯爵が去ったのを確認すると小さく息を吐きました………あれが、奥様のお父上。
心の底に澱が溜まるのを感じました。
「お姉さま、どうかなさったの? なにか困ってらっしゃる?」
「……そんな風にみえましたか?」
「うん、なにか考えているみたいです」
アニーやメグには気付かれませんでしたが、相変わらずエリザベス様に隠し事は難しいです。
私はわざとしかつめらしく、夕食に並べられたスープを見つめました。
「ええ……実は、このスープもとても美味しいでしょう? どうして私が作ると味がおかしくなるのかと思って」
「まあ、お姉さま」
「だって、同じ野菜で同じお塩で、同じキッチンで作ってるのに。どうしてかしら」
「そ、そんな事ありませんっ、グレイス様はそのままで! そのままでいいんです!」
「アニー、それはなにか違う話になっているわ」
笑い合う私達を複雑な顔でスティーブンスさんが眺めていましたが、食事が済み部屋に下がろうとした時に呼び止められました。
エリザベス様を先に部屋に戻しアニーも下がらせて、応接室で私はスティーブンスさんとコナーさんと面しています。
お二人はさっきから、昼間は申し訳なかったと頭を下げてばかりで、話もできません。
スティーブンスさん達が謝る事ではありませんのに。
……そもそも、伯爵が言われたことに嘘はないのです。分不相応なのも、娼婦の娘なのも本当ですから。
でも、それを言うとまた話が進まなそうなので取り敢えず置いておきます。
「私は本当に、ほんっとうに気にしていませんから。だからお話をしましょう? ――マクラウド伯爵のことですよね」
「本当に……申し訳ありません」
ようやく顔を上げてもらえました。
「また来る、と仰っていましたね」
「はい。それで、伯爵が邸内にいる時は、お嬢様方にはお部屋から出ないでいただきたいのです」
「私は構いませんが、エリザベス様は? おじい様なのですよね」
「いえ、伯爵がエリザベス様へご関心を向けられたことはありませんので」
……予想はしていましたが。
私が侯爵家に来てから、一度だってエリザベス様の口から「おじいさま」の話題がでたこともありません。
寂しい気もしますが、それでも、私にしたような態度でエリザベス様にも向かわれるのなら、お会いしないほうがいいのかもしれません。
「伯爵は、奥様に会いにいらっしゃるのですか?」
尋ねますと、お二人は忌々しそうに顔を見合わせました。
「以前より、旦那様の留守ばかりを狙ってお越しになるのです。それでもそう頻繁でもなかったのですが、最近は回数が増えて……もともと、マクラウド伯爵家が強引に進めた縁談でしたが――」
「人払いをされてしまうので、父娘で何を話されているのかは分かりません。ただ、どうも不穏な感じが拭えなくて」
マクラウド伯爵は見たままの方のようです。傲岸不遜、というか。あまり侯爵家で歓迎はされていない雰囲気です。
「奥様は、どうお考えなのでしょう」
「伯爵の来訪を喜んでいるご様子はありませんが、あまり親しくお話をなさる方ではございませんので、何とも……」
「いらしたときはすぐにお伝えしますので、なるべく顔を合わせないようにお気をつけください。もう二度とあのような……っ!」
憤りを隠さない様子のお二人に、心がほわんと温かくなりました。勝手に笑顔になってしまいます。
「ふふ、ありがとうございます。私は幸せ者ですね」
「グレイス様……」
「平気ですよ。今までだって色々な事を言われたことがあります。でも、私は母が大好きですし、誇りに思っていますから。……確かに伯爵の言葉に悪意は感じましたが、どなたに何を言われても私の心は変えられません」
だから気にすることはないのだと言う私を、お二人は眉を下げて眺めるのでした。
「おはようございます、お嬢様方。グレイス様、アルからこれを」
腰に下げた剣をかちゃりと鳴らして、王宮から戻ってきたブライアン様が笑顔で差し出したのは、薄い水色の封筒。裏にはラルフの署名がありました。
「仕事の報告書より先に届いたって、ぼやいてましたよ。ラルフォード様、どれだけ行きたくなかったんでしょうね」
「まあ……ありがとうございます」
自分でも赤くなったのが分かる頬を押さえながら受け取ると、そっと封を開けました。
別れの日からは四日ほどが過ぎていました。
「お姉さま。ラルフォードお兄さまは、なんて書いていらっしゃるの?」
「そうですね……無事に着いたということ、こちらは変わりないか――あら、侯爵様は少し体調を崩されたみたいですね。移動の疲れと軽い風邪だけど、大事をとって会議に出ずに宿で休んでるそうです。早く快くなられるといいのですけど」
見慣れた筆致の手紙は当たり障りのない文面でしたが、なにか言外に含んでいるものがあるように感じがしました。
「ブライアン様は、今回のお仕事について何かご存知ですか?」
「いやあ、俺は外交の方はサッパリで。ご心配でしたら、アルかヴィンス叔父に聞きましょうか?」
「いえ、いいの。少し……気になっただけだから」
ラルフォード様は学園にいる時も、ダッカ領の私に度々お手紙をくださいました。
ご自分の近況はほんの少しで、いつもいつも、内容は私を気遣うことばかり――風邪をひいていないか、困ったことはないか……。
この手紙も書いてあることは同じようなのに、どうしてか何かもっと、逼迫した雰囲気を感じました。
「で、今日は神殿に行かれるんでしたか?」
「ああそれは、朝早くに連絡が来て延期になったの。だから予定は特にないわ。魔術院の方がもうじき来られますから、お邪魔じゃなければエリザベス様がお勉強するところを見せてもらおうかしら」
「ほんとう? お姉さま、一緒にいられるのね、嬉しいわ!」
「ふふ、頑張るエリザベス様を応援させていただきます」
「はあい! わあ、どの魔法を見ていただこうかなぁ」
「……いいなあ、癒される……」
そんなことを話しながら手紙をしまっていましたら、廊下の向こうから騒がしい音が聞こえてきました。
「なんでしょう、見てまいります」
アニーが目配せをして、頷いたブライアン様とメグがアニーの出て行った扉の前に控えました。
「魔術院の先生たち?」
「……違うみたいですよ。なにを言ってるかよく分からないけれど、怒鳴ってるみたいですね」
エリザベス様は私にぴったりくっつくと、ぎゅっとスカートを握りしめました。
怒りや悲しみなど、エリザベス様は特に負の感情を強烈に受け取ってしまいます。
自身から漏れ出す魔力を抑える制御はかなり上達されたとはいえ、精神系のコントロールはとても難しく、未だ外から入るものを遮断することはかないません。
今は屋敷内でばかり過ごされていますからいいのですが、お披露目後は外に出る機会も増えます……レナード殿下の事もありますし。
そのためにも、定期訪問以外にも魔術院の方に来ていただいて制御の訓練を続けているのです。
他人の感情が入り込んで受ける精神の消耗は大きく、特にまだ成長途中の心身にはよろしくありません。
小さい時にたくさん辛い思いをしたエリザベス様が、これ以上心を乱されるような事は少ないに越した事はないのですが……。
そんなことを思っていると、怒鳴り声がどんどん近付いてきました。嫌な予想がします。
制止するアニーやスティーブンスさんを押し切って、突然扉が乱暴に開かれ、部屋の中央で警戒してらしたブライアン様がさっと私たちを庇って前へ出ました。
「伯爵、おやめくださいませ!」
「見ろ、いるではないか! 祖父が孫に会いに来て何の問題がある?」
やはり、というか、マクラウド伯爵でしたが――孫に会いに来た?
目的は奥様ではなくエリザベス様なのでしょうか。でも、今まで関心を持ったことがなかったはず……。
「――っ、お姉さま、いや、この人……黒い、……怖いっ」
「エリザベス様……」
小さな声で呟き、真っ青な顔でカタカタと震えながら、ぎゅうとしがみついてくるエリザベス様の肩をしっかり抱き込みました。
「……御機嫌よう、マクラウド伯爵様。お孫様のお部屋を訪ねるにしては、いささか物騒なお越しようかと思われますが」
「黙れ小娘、お前ごときが話しかけるな。エリザベス来い」
不躾に伸ばされた腕は、ブライアン様にがしりと掴まれ止められました。
「お待ちください、伯爵。侯爵様より任命された護衛役として許可できかねます」
「……なんだお前は」
「騎士団のブライアン・フレイザーと申します。侯爵様が御留守の間、お嬢様方の護衛を務めております」
「フレイザー……この手を離せ! 祖父が孫を連れて行ってなにが悪い!」
「本日エリザベス様は、これより魔術院よりの訪問を受けるご予定でいらっしゃいます。侯爵様のご指示のない予定変更は受け入れられません」
「……この、フレイザーの小倅が」
大きく舌打ちをした侯爵様とブライアン様が睨み合っていると、開いたままの扉から駆け込んでくる人がいました。
こちらを見もせず青い顔で伯爵様に取り縋ります。
「お父様!? お止めください、どうしてこちらにっ」
「黙れ! この役立たずが。お前がさっさとしておけば……っ」
「お、かあさま?」
奥様に縋られ、ブライアン様に睨まれ、使用人に囲まれた伯爵様は分が悪いのを感じたようで、心底面白くなさそうにゆっくりと腕を引きました。
そして盛大に顔を顰めると、奥様を乱暴に振りほどき扉に向かって歩き始めます。
「――また来る。次は必ず来てもらうぞ」
扉の前で振り返りエリザベス様に向けた目は……人のものと思えないほど暗く。濁った闇のようでした。




