18
多岐にわたる蔵書を誇る侯爵家の図書室。
お気に入りのソファーで本を読む私のもとに、エリザベス様は何か思うところのある表情でやってきました。
読んでいた本を閉じると、すぐ隣に掛けたエリザベス様が言いにくそうにこちらを見上げます。
「……あのね、グレイスお姉さま。お姉さまは、ラルフォードお兄さまのところに、お嫁にいっちゃうの? いつ? すぐ?」
「まあ、エリザベス様。急にどうなさいました」
「だって……ラルフォードお兄さまが、また外国に行かれるって聞いたの。お姉さまも一緒に行ってしまうの?」
今にも泣き出しそうな表情で、こちらを見上げるエリザベス様。十一歳になられて、ぐっとお姉さんっぽくなってきたのですが、こうしていると出会ったばかりの頃に戻ったようです。
私はエリザベス様に体を向けて座り直しました。
「ラルフォード様はお仕事で行かれるのですから、私はついては行けません。心配しなくても大丈夫ですよ」
「本当に? 一緒に行かないの?」
「――残念なことに本当だ。できるなら連れて行きたいんだけど。っていうか、そもそも行きたくないんだけど」
「ラルフォードお兄さま? びっくりしたわ!」
私も驚きました。いつの間にか入室していたラルフの後ろから、困った顔のアニーがついてきています。
ラルフはにこりと笑むと、すっとエリザベス様に可愛らしい花束を差し出されました。
「はい、どうぞ。可愛い未来の妹に」
「わあ……かわいいお花! ありがとうございます、ラルフォードお兄さま。早くお水につけてあげなくちゃ」
にこにこ顔に戻ったエリザベス様は、メグを呼びながら図書室を出て行かれました。
「素直だなあ。殿下が焦る気持ちも分かる」
「ラルフ、今日いらっしゃるとは知りませんでした」
「言ってないからね」
悪びれず朗らかに微笑まれては苦笑するしかありません。
エリザベス様が座っていたところに今度はラルフが腰を下ろすと、こちらに向き直り表情を改められます。
「結局、俺が行くことになった。まったく、ようやく婚約までこぎつけたのにまた延びる」
「私のことでしたら、気になさらなくても」
「俺がこれ以上待ちたくないんだよ。今までだって、なんだかんだで時間ばっかりかかって」
「……それこそ私のせいでしょう。神殿のお手伝いもありましたけれど、やっぱり娼館の出は相応しくないと」
「違うね。爺様連中がグレイスを嫁に出したくないだけだよ」
せっかく実績作ってきても棚上げにされるんじゃあな、とラルフは悔しそうに天井を睨みます。
お披露目の翌年の末に婚約は成りましたが、その後は保留の状態が続いていました。
進めようとすると、なにかが起きてその度に延期になりました。もどかしく思うことも残念に思う気持ちも、もちろんあるのですが……。
「まだ時期じゃないということなのでしょう。焦っても仕方ないですし、のんびり待ちましょう?」
「そうは言ってもな……。グレイスは聞き分けがよすぎるのが心配だな、もう少し我が儘を言ったらいいのに」
「あら私、とっても我が儘です。たぶん世界で一番、欲張りで自分勝手です。特にラルフとアニーにはいつも我が儘ばかり言っています」
本当にそう思うのですけど。
ラルフと、アニーにまで怪訝な顔で見られました。
「だって、自分の好きなことしかしたくないですし」
「本とリュートか?」
「服だって、今もコルセットは嫌だってアニーを困らせてますし」
「困っていません、違うドレスも着せたいだけです」
「それに、私の大好きな皆が笑っていてくれないと嫌なんです。泣いたり怒ったりされると凄く嫌です。ほかの人の都合なんて知りません、皆で仲良くしてくれないとダメです……ほら、自分勝手でしょう。女将さんにもよく言われました」
我が儘のうち、一つだけ言えませんでした。
……本当は、一度ダッカに帰りたい、だなんて、とても口に出来ません。
手紙だけでなく女将さんに会いたい、おねえ様達や小さかった子達はどうしてるでしょう。お母様のお墓は……もう一度あの丘に登ってダッカの風に吹かれたい。
ここでこんなに良くしてもらっていて、大切な人達もいるのに。
私はこんなにも欲張りで、我が儘です。
ラルフが私の肩をきゅうと掴んで、がっくりと首筋に額を埋めると大きな溜息を吐きました。
また困らせてしまいましたようです。ごめんなさい。
「グレイス、それは我が儘と違う……」
「ああ、もう、お嬢様ってばっ」
「え、あ、アニー泣くほど嫌だったの? ご、ごめんなさい、気をつけるわ……治るか分からないけど」
「違いますー、もう、もう、っラルフォード様っ! お願いいたしますね!」
「任せておけと言えないところが辛いな、これは………はあ、本っ当に行きたくない……」
「……お姉さまたち、どうしたの?」
項垂れてしまった二人にどうしたらいいかと思っていましたら、お花を花瓶に挿し終えたエリザベス様が戻ってこられました。
おかげで場の空気が戻りましが、出立はまだ先だと思っていたのに、お仕事には今日これから出発だと聞いてまた驚きました。
「ラルフが外国に行ってしまうと、また連絡を取ることも難しいのでしょうね」
「今回は公式の訪問だから、その点は大丈夫。アルバートが連絡役になる」
「よかった! それなら少し安心です。怪我とか病気とか、気をつけてくださいね?」
「ああ。……グレイス、戻ってきたらダッカに行こう。一度も帰ってないだろう」
さらりと告げるラルフを思わず見つめてしまいました。
――どうしてこの人には分かってしまうのでしょう。私の弱いところまで全部。
泣きそうになる私を、オリーブグリーンの瞳が優しく見下ろします。
「グレイス、返事は?」
「……はい。ありがとう、ございます」
子どもにするように頭をポンポンと撫でられているとノックの音がして、侯爵様が初めてお会いする男性を連れて入ってきました。
私より年下のようですが、腰には剣を下げ、大柄で背が高く、鍛えられた体つき。短めに揃えた金髪に、悪戯っぽい灰紫の瞳の目元が印象的なかたです。
「待たせたね、ラルフォード君」
「いえ、侯爵。グレイス、エリザベス、紹介するよ。君たちの護衛役になるブライアン・フレイザーだ」
「護衛?」
名を呼ばれた彼は唇の両端をにっと持ち上げると、こちらをまっすぐ見て挨拶なさいました。
「初めまして。いつもヴィンセント叔父と、兄のアルバートがご懇意をいただいております。学園に在学中ですが騎士団に所属しておりまして、本日よりお嬢様方の護衛任務に就くことになりました」
「ブライアンは若いが優秀だよ。あまり歳が離れていない方がいいんじゃないかと思ってね、特にエリザベスが」
侯爵様の人選なら間違いはないのでしょう。
それを裏付けるように、ラルフも頷きます。
今回ラルフが携わる外国でのお仕事は、侯爵様も同行なさいます。
なんでも、膠着状態にあった国境線についての話し合いで、隣国――エルトミナに招かれたのだそうです。
エルトミナと言われ、お披露目で王弟殿下に忠告されたことを思い出して、胸騒ぎを覚えました。侯爵様もラルフも、大丈夫と請け負ってくださったのですが……。
今までも、侯爵様が邸を長期間留守にする時は、騎士団から護衛の方が派遣されておりました。
ですが、私のお披露目が済み、神殿のお手伝いなどで外出する機会が増えたことから、邸での護衛とは別に専属の方をお願いすると聞いていました。
が、まさかヴィンセント様のご縁の方とは思わなかったです。
「グレイスです、よろしくお願いいたします。フレイザーの皆様には、お世話になってばかりですね」
「フォーサイスの深窓の姫君方にお会いできて、役得ってもんですよ。俺のことは気軽に使ってください」
立ち上がって返礼をしますと、手の甲に挨拶のキスが落とされました。
さすがヴィンセント様の甥御さまです。眼の色は違いますが、表情と雰囲気がそっくりです。
でも、「深窓の」ってなんのことでしょう。エリザベス様はお披露目前だから当然ですし、たしかに私は、神殿と図書館くらいにしか出かけませんが……。
少し考えている間に、ブライアン様に持たれていた手は、ラルフによって解かれていました。
「ブライアン。……くれぐれも、分かってるだろうな」
「ラルフォード様、怖いっ、怖いですって! 大丈夫ですよ、俺ほど安全なのはいませんから! うちにも妹がいますしね」
「ああ、セイラ様ですわね。ヴィンセント様がよくお話しになりますわ。とても可愛らしいって」
「可愛いですよー。フレイザー家は男系でして、数十年ぶりの女の子ですから尚更ね。エリザベス様と年が近いですし機会があれば是非、遊び相手にでも」
「ほんとう? 嬉しい!」
にこにこと話していると、コナーさんが馬車の支度ができたと呼びに来ました。これから王宮に行って、その足でエルトミナへと発たれるそうです。
湿っぽくならないようにそのまま図書室で軽く別れの挨拶をすると、お二人はお発ちになりました。
残された私達は、しばらくそのままお喋りなどしておりましたが、気さくなブライアン様に早速懐いたエリザベス様が、メグとアニーも連れて邸内を案内する運びとなりました。
「グレイスお姉さまはご一緒できないの?」
「この本を片付けてから向かいますわ。先に行っていてくださいね」
「お嬢様、片付けなら私が」
「アニーありがとう。でも、鍵の書庫に戻さなきゃいけないの」
侯爵家の貴重な蔵書の一部は鍵付きで保管されています。その鍵を使えるのは侯爵様が許可した者だけで、基本的に使用人は触れません。
皆を見送って本をしまい、図書室の扉にも鍵をかけていると――背後に人の気配を感じました。
「……奥様」
久しぶりにお顔を見ました。
同じ邸内に住んでいるはずなのに相変わらず会うことはほとんどなく、実は今まで一度も直接お話しをしたことさえありません。
何度かコナーさんを通して、お会いできないかとお願いしてみたのですが、毎回お断りされてしまうのです。ご迷惑なのだろうと思い、最近はそれもしていませんでした。
奥様の侍女やメイドはご実家から一緒に来た方達です。ほかのメイドともあまり話もしないそうなのでアニーたちも関わりが薄いと言っていました。
その奥様が、侍女も付けずお一人で、私をまっすぐに見つめています。
いつもの無表情とは違う、どこか思いつめた表情で。
「……図書室に、御用でしたか? 鍵はここにございますが……」
「貴女は、どうして………」
私の差し出した鍵に視線を落としながら、なにか小さく呟くと、はっと我に返り踵を返して行ってしまわれました。
――後に残されたのは、鍵の乗った右手を出したまま立ち尽くす私と、衣擦れの音だけでした。




