15〈フォーサイス侯爵家令嬢専属侍女の閑話〉
アニー視点です
私はアニー・メイソン。王都から馬車で二日ほど離れたところにごく小さい領地を持つ、メイソン男爵家の長女として生まれた。
凡庸な父母と年子の弟、それに四歳下の妹に囲まれて、贅沢は全くできないが飢え死にするほどではない、という、貴族の底辺あたりをうろうろする生活を送っていた。
家令や執事を雇うまでもない父の仕事の手伝いや、母と台所仕事などをして過ごしていた日々。それに変化が起きたのは、十三歳の終わり。
遠い遠い縁戚関係にある王都の侯爵家で、働き手を探しているという話が、これまた遠い親戚から持ち込まれたのだ。
この国の貴族子息には学園への入学義務がある。
十四歳の入学を二年後に控えた弟にかかる、その高額な学費をどう工面するか。頭を悩ませていた我が家は一も二もなくその話に飛びついた。
私の魔力は女児としては高いが、入学を強制されるほどではない。両親としては、叶うならば私のことも学園に入学させたかったらしい。
確かに、学園へ入学すればその後の進路の選択肢も広がるし、高位貴族の方々との面識もできる。男子と違い女児に入学義務はないが、縁を求めて学園へ通う娘も多い。
そうはいえ、私は貧乏貴族の長女として、社交よりも働くとこばかりが身に染み付いていた。
学園に行ったとしても、払う学費以上の収入をもたらす出会いなど自分にはあり得ないと確信していたし、今でもそうだと思う。
慌ただしく身内ばかりのお披露目を済ませ、向かったフォーサイス侯爵家。
初めて行った王都の街並みにも目を奪われたが、侯爵邸を見たときの衝撃は忘れられない。
庭園どころか木立の林に小川まで流れる広い広い敷地にそびえ立つ白亜の城……おとぎ話に聞くような、これこそ貴族の邸宅。
末端も末端とはいえ、本当に縁戚にあるのかと信じられない思いがした。
仕事は概ね順調だった。つい前年にお嬢様がお生まれになったことから、人手が足りなくなったとのことで、メイドとしては初心者の私のような者でさえ重宝された。
それに、お嬢様のお世話は乳母や専属の侍女が受け持っている。特に気を遣うような相手と過ごすわけでもなく、地味にメイドとして働く日々。
旦那様である侯爵様は外交のお仕事が忙しく留守がち。奥様は茶会や夜会を催すものの規模は大きくなく、ちょっとしたお手伝い程度で手を煩わされることもない。
待遇もお給料も良く、満足して過ごしていた毎日が激変したのはエリザベスお嬢様が二歳になられた頃。
乳母が体調を崩して退職してから、生まれつきとても多いお嬢様の魔力が暴走するようになったのだ。
後任の乳母が、世話をしようとした侍女が、次々とその被害に遭った。
「もう、エリザベス様のお世話係りするの怖いわ。いつ魔力が暴走するか分からないし」
「私なんか、近づくだけで魔力干渉で具合悪くなっちゃって」
「ベリンダが昨日火傷したって。火も出せるのね……まだ二歳なのに」
「ナイショなんだけどね、乳母のトレイシーさんが辞めたのって、実は病気じゃなくて、奥様が無理矢理辞めさせたらしいわよ」
「えー、なにそれ。奥様、おとなしい方かと思ってたら実は違うの?」
お嬢様の魔力で腕に小さな痕が残る火傷をしたベリンダは、大金を手に侯爵家を辞した。とはいえ、彼女は性格に難があり、もとより仲間内でもよく思われてなかったので同情はされなかった。正直、私もいい気味と思ってしまったのは絶対に秘密だ。
それでも、同室だったマリアをはじめ、仲の良かった子たちが何人も辞めていってしまったのはとても残念だった。
次第にお嬢様は世話を嫌がり部屋を抜け出すようになった。
直接の被害は減ったが、広い邸内をほぼ一日中探し廻らなくてはならず、結局使用人達の安寧は遠い。
乳母を雇うのも諦め、邸内の空気が重苦しいのが通常になってしまった頃。
もう一人のお嬢様が侯爵家に引き取られた。
「はじめまして、グレイスです」
辺境の娼館にいらしたというから、どんな方が現れるかと、今以上の混乱を予想して戦々恐々としていた使用人達の予想は物凄い勢いで裏返された。
グレイス様は天使……いえ、小さい女神様だった。
私は平民でしたから、と使用人との距離も近く、親切で、わがままを言うこともなく。
いつも穏やかなそのご気性は、ささくれ立った侯爵邸に清涼剤のように染み入った。
手間一つかけさせず、それどころか度々お茶を共にすることを可愛らしくねだられ、弾かれるリュートの音色は甘やかで心地よい……近くにいると癒されるグレイス様のお世話担当はメイドの中でも取り合いになり、家政婦のマーサさんが特別に「公平なローテーション表」を作成したほどだ。
同じ歳の妹がいることから私が専属侍女を任されたのだが、この時ほど妹がいることに感謝したことはない。
もっとも、わがまま言い放題の我が妹とグレイス様では比べるべくもないが。
グレイス様が侯爵家に来られてひと月程が経ったころ、さらに驚くべきことがあった。
あのエリザベス様が懐かれたのだ。
東屋での邂逅を直接間近で見た私と庭師のジョンは、しばらくの間寄ると触ると他の使用人から同じ話を何度もせがまれたのもいい思い出だ。
あれ以来、エリザベスお嬢様の暴走と逃走は格段になりを潜め、侯爵邸に平穏が戻った。
これまでの状態に誰よりも心を痛めていた執事のコナー氏が、そっと瞼を抑えてお二人を眺めているところを度々発見するが、見て見ぬ振りをしている。
辺境からグレイス様をお連れしたのもコナー氏なので、喜びもひとしおなのだろう。
しかし私には気にかかることがあった。
比べるのもおこがましい我が妹だが、やはり比べてしまうとグレイス様の聞き分けの良さや献身ぶりがどうにも心配になった。
エリザベス様の魔力暴走を抑えるのに一晩中つきっきりになることもあるうえ、日中は日中でずっと面倒を見られている。
それとなく話を振ると、何でもない事のように軽く流された。
「娼館ではいつも誰かと一緒で、一人になることはまず無かったの。それに、子どもの中では年長だったから『みんなのおねえさん』してたのよ、別になにも変わらないわ」
それにエリザベス様とっても可愛いし、とにこにこと言われるとそれ以上何も言えず……。
グレイス様に、せめて自分が頼ってもらうにはどうしたらいいかと自問して、じゃあ私を姉と思ってください、なんて見当違いの提案をしたりもした。
グレイス様がいらして初めての冬。特別に冷え込んだある朝、起きると体に不調を感じた。
なんとなくだるい程度だったのであまり気にもせず、いつも通りグレイス様のお部屋へ行き仕事をしていたのだが、昼前になってお嬢様に自室に下がるように言われた。
「今日はこれから、エリザベス様と内緒の遊びをするの。アニーにもメグにも見られたくないから、二人ともお部屋に帰ってちょうだい? 呼びにいくまで戻って来ては嫌よ。食事も部屋でとってね」
「おへやからでちゃ、だめなのよ」
楽しげに言われて、釈然としないながらも部屋に下がったが、ぽっかりとあいた時間にすることもない。
その頃には一人部屋を貰っていたので、気を遣うルームメイトもいない。
部屋で食べるようにと言われてキッチンで持たされた今日の昼食は、肉料理。普段なら大喜びだが、体調は思いの外よくなかったらしく、食が進まない。
じきに立っているのも辛くなってきたので、仕方なくベッドに横になっていた。
具合が悪く一人でいると、良くない考えばかりが浮かぶ……思い出すのは離れて暮らす家族のこと。
いまいち頼りない父、心配ばかりするが何も行動はしない母。
弟は跡取りだからと別枠で大事にされ、妹は小さく生まれて生死が危ぶまれたことからずっと甘やかされて育って。
……いつも、私ばかりが貧乏くじを引いている気がしていた。
風邪を引いても誰も気付かないから、皆の食事を作るのはやっぱり私。看病はしてもされたことはなかった。
それなりに愛されたとは思う。私が背伸びをしすぎただけだ……認められたくて、役に立ちたくて。
そして今、家族を離れ家族のために働いている。
大好きだった。でも、同じくらい大嫌いだった。そんな家族も自分も。
ふと気がつくと既に日が傾きかけていた。
思いの外深く眠り込んでいたことに慌てて起き上がろうとすると、使用人部屋の薄い木のドアがノックされる。
「アニー、入っていい?」
小さな花束を持ち、ドアを押さえるエリザベス様に続いて部屋へ入ってきたのはグレイス様――両手に湯気の立つトレーを持って。
ベッドから降りようとする私を制すると、低いチェストの上にそれを置かれた。
「そのままでいて。具合はどう?」
「グレイスさま」
「熱はない? お料理は上手ではないのだけど、作ったの。よかったら食べて。味はともかく栄養はあるわ」
「あ、あの、お気づきになって……?」
「だってアニーは私のお姉さんでしょう。妹だもの、具合が悪いのくらい分かるわ」
少し照れくさそうに笑って椅子を引き寄せて座られるグレイス様
と、スプーンでひと匙掬い、ふうふうと軽く冷ましてこちらに向ける……って、あーんですかっ!?
ニコニコとこちらを眺めるエリザベス様にも、いたたまれない。
「ぐ、グレイスさまっ、あのっ」
「野菜スープ嫌い?」
「嫌いじゃないです、嫌いじゃないですけれど、じ、自分で! 大丈夫ですからっ!」
「そう? じゃ、最初の一口だけ」
綺麗に切り揃えられた野菜が柔らかく煮えたスープ。
そっと流し込まれたそれは温かく……味が、しなかった。
「……ご、ごめんなさいね、私どうしても料理は苦手でっ。でも、今日のお昼はお肉だったでしょう? 食べにくかったんじゃないかと思って……お夜食はマックスさんが、もっと美味しいもの作ってくれるから!」
それまでせめてお腹塞ぎにこれ食べて、林檎もあるの、と涙目で仰るグレイス様。
胸からあふれる、温かい想い……ああ、この気持ちをどう言ったらいいのだろう。
「グレイス様。私、こんなに美味しいスープ初めていただきました」
「え」
「ありがとうございます、グレイス様」
染まった頬を押さえて困ったように笑うグレイス様。可愛らしい花束を私に差し出すエリザベス様。
そのスープは確かに味がしなかったけれど、今まで食べたどんなご馳走よりも美味しく心に沁みわたった。
……侯爵家に来て本当によかったと、その時私は心の底から思ったのだった。




