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私は丘の上にいました。
空には、ぽかりぽかりと浮かぶ雲。見下ろせばダッカの町と、遠く国境をゆったりと流れる広く大きな河。
時折強く吹き付ける風に帽子を飛ばされないように押さえ、反対の手は握られたまま。
隣に立つのは、城塞を抜け出してきた幼馴染――明日にはまた、ここを離れてゆくひと。
……これは、夢。生まれ育った懐かしいダッカの夢。
そう分かっているのに、聞こえる声はあまりにも本当で。
「学園に戻ったら期限の切れない任務に就く。王宮の関係者以外は誰とも連絡は取れない、家族とでさえ」
「……はい」
「待っていてほしい。必ず戻るから」
私を見つめる真摯な瞳は、初めて見た時から大好きだったオリーブグリーン。
痛いほど強く繋がれた右手は離れない。
……離せない。
「誰にもなにも言わせない、それだけの力をつけてくる。だから泣かないで待っていて……グレイス」
怖いほど真剣な声なのに、私の名だけを優しく呼んでそっと指先に口付ける。
約束だ、と。
ひたむきすぎる想いを渡されて、頷く以外になにができたでしょう。
――ため息と共に、目が覚めました。
「ラルフ……」
懐かしい名前が唇からぽつりとこぼれます。
なんて生々しい夢……夢?
今も手首に、指先に、触れられた感覚も熱も残るのに。
あの丘を渡る風も現実だったはずなのに、それも茫洋としてそれも覚束なくて。
別れも言えず心だけダッカに置いたまま、流されるようにここにいる私は彼との約束を守れているのか。それも、わかりません。
久し振りに夢に現れたあのひとは、今、どこでどうしているでしょう。
隣国への留学を隠れ蓑に、困難な試練に向かった彼――ラルフォード・サイレイス。
ダッカ領サイレイス辺境伯が一子、私の大事な幼馴染。
帰国の話が出るということは、任務は終わったのでしょうか。
……ただ、無事であればいいと願います。
たとえ私を、私にした約束を彼が忘れてしまっていても。
なにを思っても、誰を想っても、出てくるのはため息ばかり。
自分が吐いた息で溺れそう……なんて、夢のせいとはいえ、らしくないですね。
自嘲してゆっくりと寝台の上に身を起こしました。
カーテンの間からはまだ明るい日がさしていて、枕元の低いチェストの上には水差しと、ガラスの覆いをかけた果物が置かれていました。
そっと水差しに手を伸ばすと、まるで見計らったかのようにコツコツと寝室の扉を控えめに叩く音が響きました。
返事をすると、カチャリと開いた扉からは心配そうな顔が覗きます。
「おねえさま、ごびょうきなの?」
「エリザベス様。いいえ、もうよくなりましたよ」
エリザベス様とアニーが来てくれました。
不安そうにベッドに近寄ったエリザベス様は、後手に隠していた花束をパッと差し出します。
「これね、ジョンに結んでもらったの。お花は、私がえらんだの」
「まあ、お見舞いですか? とても綺麗……嬉しい。ありがとうございます。心配をかけてしまいましたね」
色とりどりの小ぶりな薔薇にアイビーをあしらった花束は、薄桃色のリボンで纏められています。受け取ると、手に感じるのはすべすべした茎だけでした。棘も全部取ってくれているようです。
ありがとうの気持ちを込めて金色の柔らかい髪を撫でると、エリザベス様はようやく少し笑顔を見せてくれました。
私は愛らしい花束に顔を近づけます。
「……いい香りですね」
「お花のかおり?」
「ええ。お花と、お外の風と、エリザベス様の優しい香りがします」
にっこり言ったはずなのに、エリザベス様は、ぽふんとベッドの上に上半身を投げ出しました。
そのまま私の腰にぎゅっと抱きつき顔を上げると、じぃっと瞳を覗き込みます。
――あ、ばれてしまったようです。
「グレイスおねえさま、こわい夢みた?」
「……怖い、というのは少し違いますが……」
「お体の具合がよろしくない時には、夢見も悪くなるものですよ。お元気が戻られれば、夢も見なくなります」
アニーの言葉にしぶしぶ納得したような顔で腰から離れると、かわりに手をつないでくれました。
エリザベス様は妙に他人の感情や心の動きに聡いところがおありです。
魔術院の方に相談したところ、魔力が高い方にはままあることだそうで、見て判断しているというより強制的に感じてしまう、ということでした。
他人の感情が伝わってくる能力……それはとても精神的に疲弊するのでは、と心配しましたら、魔力制御のトレーニングを積むことで、ある程度改善されるとのこと。
ですが、制御のうちでもかなり難易度が高いものなので、まだお小さいエリザベス様が習得されるのはもうしばらく先になるだろうとも。
せめて悪意を持つ人物との接触を避けるのが、心穏やかに過ごすために現時点で出来る唯一のことらしいです。
――こんな小さな子に、また重い枷が。
それでも笑顔を見せてくれるエリザベス様を、どうして厭うことなどできるでしょう。
「わたしももっと元気になったら、こわい夢なくなる?」
「エリザベス様……また見ましたか?」
「ううん、このごろは見ない。でも、なくなってないの、分かるの」
私が今も二人のおじいちゃんの夢を見るように、エリザベス様も何度も同じ夢を繰り返し見るそうです。
それも、私のようにほのぼのとした夢ではなく、まさに悪夢……夜に泣いて目を覚ます時は必ずと言っていいほどその夢を見ているようでした。
朝になると、内容は覚えていないと言われるのですが、泣きながら叫んでいる言葉は不穏なものばかり。
『こわい』
『あけちゃだめ』
『黒い人が』
嫌だ行かない、連れていかないで、と必死にしがみついてくる手は、普段からは考えられないほどに強い力で。
目覚めるまで名前を呼び、抱きしめるしかできない自分の非力さが、もどかしくてなりません。
大事な人が苦しんでいるのに、母の時と同様に助けることができない加護持ちなど、何の役に立つというのでしょうか。
わかりません。
私の加護の意味も、なぜエリザベス様ばかりがこんなに苦しまねばならないのかも。
――そんな私に、大神官様はおっしゃいました。
『加護は神が貴女に与えたもの。貴女が人に渡すことはできません。貴女が健やかに過ごすことが、神々の願い。それが叶う時、尚一層の恵みがもたらされるでしょう』
今の私にできるのは、その先に皆の幸せがあると信じて、目の前のことを一つ一つ積み上げていくことだけだ、と。
「そうですね……怖い夢を見ないように、今夜はアニーとメグも一緒に四人で眠りましょうか」
場を取り繕うようにおどけて言うと、エリザベス様とアニーからは両極端の反応が返ってきました。
「お嬢様、それはなりません」
「えー、いっしょにねようよ」
「いけません」
「じゃあレンを呼んで、いっしょにねていい?」
「ええっ、エ、エリザベス様っ!?」
アニーの慌てた表情が見られて、エリザベス様はご満悦な表情になりました。
明るい部屋で花束を持ちながら三人で笑い合うと、今だけは悪夢も不安も消えていきそうな気がするのでした。




